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イヴのうた  作者: 花邑ゆう
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吟遊詩人と外の世界に憧れる少女 PASSGE:6


 置き時計の針が、静かに夜の十時を指していた。

 いつもなら、まだパブの中は、陽気な笑い声と音楽に包まれている時間帯。けれど今夜は、そのどれもが消え、ただ静けさだけが広がっていた。


 常連たちも、何かを察したのか。それとも、この小さな村のことだ、俺とイリアの喧嘩をもう知ってしまったのか。どちらかはわからないが、店内に客の姿は、すでになかった。


 ……いや、正確には、まだひとりだけ残っている。

 吟遊詩人の、あの女の子が。


  二階にいるイリアの様子を見に行ってくれている。

 そんな役目すら自分で果たさず、最近この村に来たばかりの女の子に任せている。

 それがまた、みっともなくて、一人になったパブで、ビールを仰ぐ。


 イリアの気持ちに、俺は気づいていた。

 村の外に出てみたい。外の世界を見てみたい――

 そんな想いを、あいつがずっと胸の内に抱えていたことに。


 本当は、こんなふうにひとりヤケ酒なんかあおってる場合じゃない。

 そんなことは、わかってる。


 すぐに、イリアのところへ行くべきなんだろう。

 でも、行ってどうする? なんて言えばいい? どんな顔をすればいい?


 イリアと真正面から向き合うのが怖くて、情けないことに、どうしても動けなかった。だから、パブに来た吟遊詩人の女の子が「イリアちゃんの様子を見に行ってもいいですか?」と聞いてきたとき、その申し出に、俺は甘えてしまった。


 あれから数時間が経ったが、吟遊詩人の女の子は、いまだにイリアの部屋から戻ってこない。


 うまくいっていてくれればいい。

 そう願う一方で、すべてを人任せにしている自分にまた嫌気が差して、さらに酒をあおった。

 

 こんな情けない姿を、あいつが見たら……きっと、こっぴどく叱られるんだろうな。

「なにイリアを泣かせてるのよ!」って。


 お前ならどうしたんだろう? あの子の気持ちに気づいた時点で、外に連れていくべきだったのか。


 イリアの言う通り、一日二日くらいパブを休んだってよかったはずだ。

それなのに、どうしても、それができなかった。



(ねえ、私、この村にパブを作りたいの)

(パブ? どうしてまた?)


(だって、ここって、ほんとになーんにもないんだもの。パブもない村なんて、きっとここくらいじゃないかしら?


 夜になると真っ暗で、本当に退屈なの……だからね、パブを作りたいの。

 夜になっても、そこだけは明るく灯りがともってて、みんなでお酒を飲んだり、楽器を演奏したりして、ドンチャン騒ぎするの! 楽しそうでしょ?


 あなた、料理が上手いじゃない? だから、あなたがパブでごはんを作ってね)


(パブがない小さな村なんて、いくらでもあるだろ。てかそれが目的で俺と結婚したわけじゃないよな?)


(うふふ〜、さて、どうかしらね?)


 酒のせいだろうか、妻との記憶がふいに蘇る。

 ──そのとき、二階から降りてくる足音に、ハッと我に返った。階段を降りてきたのは、吟遊詩人のあの女の子だった。


「吟遊詩人さん……イリアはどうでした」

「大丈夫ですよ。今は、落ち着いて眠っています」


「よかった……。こんな親子ゲンカに巻き込んでしまって、すみません。本当なら、俺が行くべきだったのに……」


 すると、吟遊詩人さんは、そっと首を横に振り、やわらかく微笑んだ。


「……あ、すみません。私も、お酒いただいてもいいですか?」


 そう言って吟遊詩人さんは、懐から財布を取り出し、硬貨を出そうとした。

その手を、俺はそっと制した。


 「ああ、お金は大丈夫ですよ。……ビールでいいですか?」

 「はい。ありがとうございます」

 「娘のことをあなたに任せて酒を飲んでるなんて最低な父親ですよね。あの……イリアはどうでしたか。 何か言っていましたか?」


「ああ、お金は結構ですよ。……ビールでいいですか?」

「はい。ありがとうございます」


 木製のジョッキになみなみと注ぎ、吟遊詩人さんの前にそっと差し出す。


「……娘のことをあなたに任せて、自分は酒なんか飲んでるなんて……最低な父親ですよね。……あの、イリアは……何か言っていましたか?」


 吟遊詩人さんはビールに口をつけてからゆっくりと言葉を紡ぐ。


「……お父さんを傷つけてしまったって。それから……お母さんとの約束を破ってしまった、と」


「……約束、ですか」 

「すみません」

 ふいに吟遊詩人さんが頭を下げる。


「なぜ、吟遊詩人さんが謝るんですか?」

「……おそらく、原因は私にもあるから。実は、私そろそろこの村を立つんです。そのことをイリアちゃんに伝えたから……それが、きっかけになってしまったのではないかなって」


 吟遊詩人さんが、申し訳なさそうにそう告げる。

 ──なるほど、と思った。


 イリアが吟遊詩人さんになついていたのは、もちろん知っていた。毎日、パブを開ける前の時間に会いに行っていたことも。


 そうか。彼女がいなくなってしまうことに、イリアはショックを受けたんだろう。でも、やっぱり吟遊詩人さんは、何ひとつ悪くない。


「そうだったんですね……。いえ、それはあなたが気にすることじゃありません。

むしろ、ここ数日、娘の相手をしてくれて感謝しています。


 喧嘩してしまったのは、私たち親子の問題ですから。

 ところで、イリアは毎日あなたのところへ通って……何をしてたんですか?」


「毎日、お話をお願いされました」

 吟遊詩人さんは、ふふっと肩を揺らして笑った。


「やっぱり……外の世界のお話ですか」

「はい。最初は城下町や都会のこと、そのあとは旅のお話などでしたね」

 そう言って言葉を区切ると、吟遊詩人さんは澄んだ紫の瞳をこちらに向けた。


「やっぱり、お父さんも気づいていたんですね。イリアちゃんの気持ちに」

 心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。


 娘の気持ちに気づいていながら、それでもパブを優先した。そんな自分を、ひどい父親だと思われただろうか。


 ……でも、実際、間違ってはいないのかもしれない。


「ええ、家族ですから。……だいぶ前から、ね」

 乾いた笑いを漏らしながら、俺はまるで言い訳するように言葉を続けた。


「……はは、やっぱり、吟遊詩人さんから見ても、俺は“駄目な父親”に見えますよね?」


 ジョッキの縁を指でなぞりながら、俺は視線を落とした。


「傍から見れば、娘より店を優先しているように思えるでしょう? ……イリアの口から、もう聞いているかもしれませんが、このパブは亡くなった妻と一緒に始めた店なんです。妻との“約束”でもある、大切な場所なんです。


 でも、だからといってイリアより大切だなんてことは、絶対にありません。――なのに、うまくできない。イリアはあまりわがままを言わない子だから、つい甘えてしまって……気がつけば、ずるずると今に至ってしまった。……そんな自分が、情けなくて」


 吟遊詩人さんは、何も言わず、ただ黙って俺の話に耳を傾けてくれていた。

その姿に甘えるように、俺はつい、自分の胸に溜まっていた想いを吐き出してしまう。


「……あっ、すみません。急に、こんな話を……」


 ふと冷静になって、自分が今、数日前に会ったばかりの、しかも、明らかに自分より若い女の子にこんな話をしていることに、戸惑いを覚えた。


 なぜか、彼女と話していると、自然と心の奥がほどけて、言葉があふれ出してしまう気がする。……不思議な子だ、とあらためて思った。


 今まで黙って話を聞いてくれていた吟遊詩人さんが、ふっとやさしく微笑んだ。


「ふふ……父親って、本当に不器用な生き物なんですね」

「え? 不器用?」

「はい。とっても」


 吟遊詩人さんは、にこっと無邪気な笑顔を浮かべた。

 そして、やさしい声で語り始めた。


「私も、子どもの頃に母を亡くしました。

大好きだった母がいなくなって、私はすっかり塞ぎ込んでしまったんです。

……その点では、私なんかよりイリアちゃんの方が、ずっと立派ですね。


 父はそんな私のために、あれこれ手を尽くしてくれました。まあ、その行動はかなり的外れだったんですけどね。ふふっ。


 でも、不器用ながら、父が私のことを大切に思ってくれていたこと――今なら、ちゃんとわかるんです。


 イリアちゃんは、私が子どもだった頃より、ずっと賢い子です。

だからきっと、お父さんが自分のことをどれだけ大切に思っているか、気づいていますよ。


 だから、大丈夫。

 ただ、今はまだ自分の気持ちの整理がつかなくて、ちょっとだけパンクしちゃってるだけなんです」


 吟遊詩人さんはそう語り終えると、ビールをゆっくりと口に含んだ。


 俺も、ゆっくりと息を吸い込む。

 彼女の言葉が、静かに胸の奥へと染み込んでいく。

 どうして、この少女は、こんなにも人の心に染み渡るように、優しく語れるのだろうか。


「……吟遊詩人さん、ありがとうございます。なんだか、少しスッキリしました。

 明日、娘と――イリアと真正面から向き合ってみます」


 迷いのない、その言葉を自分でも少し不思議に思うほど、すっと口にできた。


「はい。ぜひ、そうしてあげてください──あっ」


 笑顔で頷いていた吟遊詩人さんが、突然、小さく声をあげた。

 そして次の瞬間、先ほどまでの穏やかな表情が一変し、紫色の瞳がいたずらっぽくきらりと輝く。


「すみません、ちょっとだけ、お時間いただけますか?」


「……時間?」


 何を言っているんだろう。

 話の展開が急すぎて、状況がよく飲み込めない


「はい。数日ほど──ふふっ、イリアちゃん、ちょっとお借りしてもいいですか?」


「……は? 借りる……?」


 「お酒、ごちそうさまでした。とても美味しかったです」


 そう告げると、吟遊詩人さんは再び二階へ上がり、眠っているイリアをおぶって降りてきた。


「それでは、失礼しますね」


 そう言い残し、吟遊詩人の少女はそのままパブを後にした。


 彼女の勢いに呆気にとられていたが、ふと笑いがこみ上げる。

 吟遊詩人……か。なかなかおもしろい人だ。


 たった少し言葉を交わしただけなのに、さっきまで胸に渦巻いていた鬱々とした気持ちが、すっと晴れている。


 ――これも、吟遊詩人さんの“力”なのだろうか。なるほど、イリアが懐くわけだ。


 目の前で娘を連れ去られても、なぜか笑っていられる。

 何を考えているのかはわからないけれど、きっと悪い方には転ばないだろう。そんな気がした。


 そう思いながら、残っていたビールを一気にあおる。

 さっきまでとは違って、その一杯はとてもおいしく感じられた。




(ねぇ、ごめんね。パブを作りたいなんて、私のわがままに付き合わせちゃって)


(そんなことないさ。俺だって、好きでやってるんだ。……それにお前の思い描いたとおり、素晴らしい場所になったじゃないか)


(そうね……あなたとイリアのおかげよ。ありがとう。でも最近、ちょっとサボり気味なんじゃない?)


(そりゃあ、おまえがこんな状態なんだ……)


(私が寝込んでいるあいだも、パブを開いてほしいの……みんなのにぎやかな声や音楽を、ずっと聴いていたいの……)


(……)


(ねえ、パブの“あかり”、消さないでね)

(ああ)


(私がいなくなったら……イリアのこと、お願いね)

(あたりまえだろ)


(たくさん、愛してあげて)

(ああ、だから、あたりまえだろ)


(わたしの分も……たくさん、たくさん)

(ああ、約束だ)



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