吟遊詩人と外の世界に憧れる少女 PASSGE:3
おねえさんがこの村を訪れてから、数日が経った。この数日はわたしにとってとても刺激的だった。
昼下がりになると、わたしは決まっておねえさんのもとへ向かい、お話を聞かせてもらう。そんな日々が続いた。
陽が落ちれば、おねえさんはパブにも毎晩のように顔を出してくれる。
常連さんたちの間でもすっかり人気者で、いつも誰かとお酒を片手に語らい、歌い、楽器を奏でていた。
わたしはというと、パブのお手伝いのためパブでゆっくりとお話することはできなかったけれど、ふと目が合うと、微笑んで小さく手を振ってくれる。
それがなんだか、ふたりだけの小さな秘密を共有しているみたいで、くすぐったくて、でもちょっぴり嬉しかった。
わたしは、おねえさんからたくさんのお話を聞いた。
城下町や都会の街のお話だけじゃない。わたしの村のように、各地に点在している村のこと。
それから街や村でもない、自然に満ちあふれた、たくさんの場所。そしてもちろん、旅そのもののお話も。
海の上を船に乗って旅をした話。波に揺られながら、視界いっぱいに広がる大海原。そして胃の奥から込み上げてくる船酔いによる気持ち悪さ。……この部分だけやけに力が入っていたような気がする。
船酔いって、そんなに辛いものなの? と少し怖くなる反面、それでもわたしも船に乗ってみたいな、と思った。そう思わせてくれるあたり、やっぱりおねえさんはお話がうまい。
海と同じように、この村からはただ眺めることしかできなかった山のお話。
お昼でも陽の光を遮るほど、木々に覆われた真っ暗な森。
太陽に負けないくらい、辺り一面に咲き誇るひまわり畑──。
おねえさんのお話には、そんなさまざまな場所が登場した。
もちろん、船酔いのお話のように楽しいお話ばかりではなかった。旅の途中で狼に襲われたことや、道に迷ってしまい何日もさまようことになってしまった話など、外の世界の怖さについても話してくれた。
ほかにも、各地で耳にした昔の伝承や、語り継がれている物語なども話してくれた。昔の騎士が巨大な巨人と戦った――なんて、なかなかに胸が躍る話も多かった。
おねえさん曰く、そういった伝承や物語を語り継ぐことを専門にしている吟遊詩人もいるらしい。
「まぁ、私は専門外なんだけどね。私の先生もそのへんテキトーだったから。吟遊詩人って言っても、ほんと人それぞれなんだよ」
そう言って、おねえさんは軽く笑っていた。
わたしはその話を聞いて、ますます混乱した。結局『ぎんゆうしじん』とはなんだろう?
おねえさんの話はどれも、わたしを夢中にさせて、すっかり虜にしてしまう。それまでのわたしにとって外の世界を知る手段といえば、本やパブの常連さんのお話、あとは月に一度やってくる行商人さんのお話くらいだった。
小さくて狭かったわたしの世界が、おねえさんのお話を聞くたびに、どんどんと広がっていく。
そして、わたしはあらためて気づく。
自分が、外の世界にどれほど強い好奇心を抱いていたかということに。
おねえさんの話に出てきた景色を、実際にこの目で見てみたい。
自分の足でその場所を歩いてみたい。そんな気持ちで胸がいっぱいになる。
だけど──それが叶わないことも、わたしはわかっている。
優しい思い出、守りたい約束。それらが、まるで足枷のよう感じてしまう。そんなふうになんて思いたくないのに。
それでも、膨らみ続ける「外の世界」への想いが、そんな風に思わせてしまう。頭の中でぐるぐると、その気持ちが渦を巻く。
おねえさんから話を聞くようになってから、わたしの中に膨らみ続けた「外の世界」への憧れは、ほんの少し刺激を与えれば、破裂してしまいそうなほど膨れ上がっていた。
――いや、きっともう、限界寸前だったのだと思う。
そして、それはあっけないほど簡単に、破裂してしまった。
「そろそろ、村を出ようと思うの」
そのひとことが、きっかけだった。
おねえさんのその言葉を聞いた瞬間、頭のてっぺんから足のつま先まで、電気が走ったように全身がこわばった。
毎日のように、おねえさんのもとへ行ってお話を聞く。それがまるで、当たり前の日常のようになっていた。
でも──それが当たり前じゃないことくらい、少し考えればわかることだった。だって、おねえさんはこの村の人じゃない。旅をしている人なんだから。
「居心地がいいから、ついのんびりしちゃったけど……そろそろ、ね」
「そう……ですか……」
「ごめんね」
おねえさんがどこか申し訳なさそうに眉を下げた。
「いえ、おねえさん。旅しているんですもんね。まだ数日はいてくれるんですよね?村を立つまで、またお話聞かせてくださいね。……えっと、今日はこれで失礼しますね。また後で、パブでお待ちしてます」
わたしは笑顔をつくり、無理に明るい声を出す。
内心の動揺が隠そうとするあまり、言葉が早口で次々とこぼれてしまう。それでも笑顔のまま、なんとかその場を立ち去ることができた。そう、自分では思っている。
わたしは自分の家へ向かって歩きながら、不安で不安でたまらなかった。おねえさんがいなくなってしまう。そのことが、なぜだが分からないけど、どうしようもなく怖かった。
家に着くなり、わたしはベッドに潜り込み、毛布を頭からかぶった。
なんとか気持ちを落ち着けようと目を閉じるけれど、胸の奥がざわざわして、嫌な汗が止まらない。
どうして、こんなに不安で押し潰されてしまいそうになるのだろう。
おねえさんと、別れるのが寂しいから?
もちろん、それもある。
けれど、それだけじゃない。
きっと、お姉さんとお話をするようになって広がっていた、わたしの世界が、また元の小さく閉じた世界に戻ってしまうのがイヤなんだ。
そして、また見慣れた景色に、ただ、ため息をついているだけの日々に戻ってしまうのが。
こん、こん──
扉をノックする音に、わたしはビクッと体を強張らせた。
「イリア。どうした? 具合でもわるいのか?」
扉越しに、お父さんの心配そうな声が聞こえる。
わたしは鉛のように重くなった体を引きずるようにして、扉を開ける。
「顔色が悪いぞ。大丈夫か?」
「…………わたし、村から出てみたい………ずっと、パブのお手伝い、嫌……」
ずっと胸の奥に押し込めて我慢していた言葉が、あっけなく唇からこぼれ落ちた。
お父さんは、わたしの言葉に驚いたように口を開いて固まっていた。けれど、すぐにいつもの穏やかな表情に戻り、優しい声で言った。
「……ごめんな、イリア。お父さんはパブを休むわけにはいかないんだ。それは、お母さんとの約束でもあるから。でもイリアまで父さんと同じように一生ここにいる必要なんてないよ。
だけど……イリアはまだ子どもだ。大人になるまでもう少し我慢してくれないか。
……パブの手伝いなら、もう無理に手伝わなくてもいいから」
お父さんは眉を下げながら、申し訳なさそうに告げる。
違う、そうじゃない、そうじゃないの。パブのお手伝いが嫌なわけじゃない。
わたしは、ただ……外の世界を見てみたいだけ。
「……少しだけ! 少しだけでもいいのっ! 一緒に村の外に行こうよっ! 今まで通りお手伝いだってするよっ、だから、だから……一日くらいパブを休んじゃったっていいじゃん……っ」
「…………すまん」
わたしのささやかな願いに返ってきた言葉は、たったそれだけの短い言葉。
「今日は休んでなさい。後でごはんを持ってくるから」
そう言って背を向け、部屋を出ようとするお父さんに、わたしは思わず声を張り上げた。
「いやっ! わたしは今行きたいのっ! 大人になるまで我慢なんていやっ!!」
感情にまかせて放ったわたしの叫びに、振り返ったお父さんの瞳が大きく見開かれる。
けれど、もう止まらなかった。いったん堰が切れて溢れ出してしまった気持は、もうどうしようもできなかった。
「お父さんにとっては、死んじゃったお母さんとの約束のほうが大事なんでしょっ……! 今そばにいるわたしのことなんて、どうでもいいんだっ……!」
わたしの言葉を聞いたお父さんは困ったような表情のまま、何も言わず立ち尽くしていた。否定も肯定の言葉もなかった。
やがて、お父さんはもう一度小さく「……すまん」とつぶやき、そっと背を向けて、静かに扉を閉めていってしまった。
わたしはベッドに倒れ込み、声をあげて泣いた。
わがままな子どものように、ただただ涙を流しながら、泣きじゃくった。




