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イヴのうた  作者: 花邑ゆう
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吟遊詩人と幸せのかたち PASSGE:4

 

「お母さん、ただいまー!」


 マリアさんの声が、アパートの扉を開けた瞬間に弾けた。

 勢いよく木扉を開けたマリアさんにゆらゆらと揺れる安楽椅子に腰掛けた初老の女性が笑顔を向ける。


「お帰り。あらあら、なんだか、かわいいお客さんがいるわね」


 編み物をしていた手を止め、にこやかに私に笑みを向けるその女性。

黒髪には白髪がいく筋も混じっていて、その穏やかな表情はどこかマリアさんに似ていた。


「うん。昨日話した、吟遊詩人さんだよ」

「こ、こんばんは」

「はい、こんばんは。ようこそいらっしゃい」


 部屋の中に案内されると、マリアさんは真っ先に子どもの横になっているベッドへ向かい、赤ちゃんを抱き抱える。


「ふふっ、お母さんですよ〜」


 マリアさんは赤ちゃんをやさしく抱きかかえたまま、穏やかな表情で赤ちゃんの顔を眺める。


 その子は、マリアさんの腕の中から、ゆっくりとした動作でそっと手を動かす。

 そして、とても小さな手で彼女の頬を撫でる。


「ふふっ」


 マリアさんは唇をほころばせ、本当に、本当に嬉しそうに笑う。

 そして赤ちゃんをさらにきゅっと抱きしめる。

 とても暖かく幸せな光景。


 酒場で聞いた、不幸な母親の話。

 とてもじゃないけれど、この光景はそれには当てはまらない。

 何も言わなくても、その光景がすべてを物語っていた。


 マリアさんが私に笑顔で視線を向ける。


「ねぇ、イヴちゃん。ううん、吟遊詩人さん。昨日の歌。歌っててくれないかな。 この子に、あなたの歌を聴かせてあげたいの」


「……はい。喜んで」


 誰かに歌を求められる。それは吟遊詩人として、とっても嬉しいこと。だけど、今歌いたいと願うのは、きっと別の感情だ。


 瞳を閉じて。

 歌を歌う。

 この優しい光景にそっと想いを寄せて。


 まだあなたには、理解するのはむずかしいかもしれない。けれど、あなたのお母さんはこんなにも、あなたのことを愛しているんだよ。


 ずっと笑顔で笑えるように──。

 この光景がずっと続くように──。


 歌に想いと願いを込める。

 楽器も使わず、私の歌声のみで、歌を紡ぐ。


「ありがとう……吟遊詩人さん」

「……いい歌だね。ありがとうね」


 マリアさんとそのお母さんがお礼を言ってくれる。


「……ありがとうございます」


 マリアさんが大事に抱いていた子が、きゃっきゃと笑い出す。


「ふふ……この子も喜んでるみたいね。よかったらこの子を抱っこしてくれないかしら」


「えっ、いいんですか?」

「ええ、もちろんよ」


 マリアさんから、優しく大事に受け止める。

 私は恐る恐る、赤ちゃんをを抱きかかえる。

 赤ちゃんを抱っこするのは、初めてでちょっぴりどきどきする。


 赤ちゃんってこんなに小さいのにしっかりと重たいんだ。

 それでいて、とてもあたたかい。


 私のぎこちない腕に抱かれた赤ちゃんは、私の顔を見て、りんごのような赤い顔で笑う。そして私の頬に小さな手を伸ばし、そっと頬を優しく撫でる。


 胸がきゅっとした。

 うまく言葉にできない感情が湧いて来る。


 

「あらあら、気に入られちゃったみたいね。ちょっと妬けちゃうわね」


 ちっちゃくて、かわいくて、温かい手が、私の頬を何度も何度も優しく撫でる。

 その頬にふいに透明な雫が流れる。


「あら? どうしたの……」


 雫は頬を伝って、床に落ちる。

 なぜ泣いているのか、自分でもよくわからない。


「……あったかくて、優しくて……それなのに、それだから……涙が……止まらなくて……」


 マリアさんが赤ちゃんを抱きかかえる私を、ぎゅっと抱きしめる。


「あらあら、泣き虫な吟遊詩人さん。ふふっ、子供が2人できたみたい」


 私は思う。

 彼女は、幸せだ、と。


 どれほど周りが「不幸」と言おうと、彼女の笑顔とぬくもりが、それを否定していた。



 数日後、私はこの街を旅立つ。

 旅たちの朝でも相変わらずこの街は霧に包まれてる。

 マリアさんが、旅立つ私の見送りに来てくれた。


 「またいつでも寄ってね。イヴちゃん」


 彼女はにっこり笑って私の頭を撫でた。子どもを送り出す母のように、私の頭を優しく撫でてくれた。


「はい。いってきます、マリアさん」

「ふふ、いってらっしゃい」


 朝の静寂の中、霧に包まれた歩き出す。

 コツ、コツ、コツ……と、靴音が軽快に石畳を叩く。


 たとえ深い霧に包まれていても、心が晴れていれば、それは晴れの日と同じ。

 周りにどう映っていようと、自分の中に光があるのなら、それは「晴れ」だと呼べるのだろう。


 街を抜けると、空は晴れ渡っていた。

 果てしない青が、どこまでも広がっている。


 ――どこまでも。ずっと先の、どこまでも。




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