吟遊詩人と幸せのかたち PASSGE:3
その夜、私はもう一度、昨日の酒場を訪れた。
けれどカウンターに、マリアさんの姿はなく、そこにいたのは、店のマスターさんだけだった。
私に気づいた彼は、にっこりと笑みを浮かべてくれる。
「ああ、昨日のお嬢ちゃんか。いらっしゃい」
まだ夕暮れの名残が空に残る時間。
そのため店内にはまだ客の姿は少なく、カウンター席に数人いるだけだった。
私もカウンター席に腰をおろす。
「もしよかったら、今日も歌ってもらえないだろうか。なかなか評判がよくてね。それに、私もまたお嬢ちゃんの歌を聴きたくてね」
そう言って、マスターはグラスにビールを注ぎ、私の前にそっと置いた。
「昨日のお礼も兼ねて。よかったら、どうぞ」
「ありがとうございます。はい、もちろん歌わせてもらいますね」
そう答えて、私は一口、ビールに口をつける。
「あの……マリアさんは?」
ふと気になって尋ねる。
「やっぱり、彼女がいないと男ばかりで不安かな」
マスターは、笑いながら肩をすくめる。
「あと1時間くらいで来ると思うよ。いまは雑貨屋で働いてるんだ。終わり次第こっちに来てくれるはずだから、安心してくれ」
「雑貨屋……?」
思わず聞き返してしまう。
昼はパン屋、夜は酒場、そしてその間に雑貨屋……?
「お昼はパン屋で働いてたんですよ。それに加えて、雑貨屋でも……?」
驚く私に、隣のカウンター席の客たちもちらりとこちらを見る。
「彼女は、いろいろ大変なんだよ」
「……かわいそうだけどな」
彼らの瞳には、宿屋の主人と同じ同情の色がにじんでいた。
本当は、本人から聞くべきことだ。
勝手に詮索するのは、よくないとわかっている。
でも、私はどうしても気になってしまって、つい訊いてしまった。
「すみません。マリアさんのこと……私に教えてもらえませんか?」
お酒の席ということもあったからだろうか、宿屋の店主のように、酒場にいる人たちの口は堅くなかった。
マスターも、隣にいた客たちも、少しずつ口を開いてくれた。皆、瞳に宿った同情の色を濃くしながら語る。
この街で暮らす、一人の女性の話。
難病を抱えて生まれた子どもを育てるため、女手ひとつで朝も昼も夜も、懸命に働く母親。
それが、マリアさんだった。
「……あの、旦那さんは?」
「逃げたんだとよ」
「えっ!? どうして……」
「さあな。たしか出稼ぎでこの街に来たやつだったよな?」
「ああ。子どもができて逃げたのか、仕事がきつくて逃げたのか……
どっちにしても、クソ野郎には変わりねぇけどな」
「……そう、ですか……」
話を聞けば聞くほど、マリアさんの大変さが伝わってきた。
逃げた男の人に対して怒りも湧いたし、胸が締めつけられるようだった。
――それでも、私はどこか腑に落ちない気持ちを抱いていた。
酒場ではじめて会ったとき。
宿まで一緒に歩いたとき。
パン屋で笑顔を見せてくれたとき。
そのどれもが、明るくて、楽しそうで、優しかった。
いま語られた「不幸な女性」と、私の知っているマリアさん。
どうしても、そのふたつが結びつかない。
私の中のマリアさんは、明るくて、笑顔がまぶしくて、
ちょっぴりお節介で、でもとてもあたたかい。
――そんな人だった。
そのとき、
「マスター、ちょっと遅れちゃってごめんね」
酒場に、マリアさんの凛とした声が響いた。
私はびくっと肩をすくめてしまう。
マスターも、他の客たちも、どこか気まずそうな表情を浮かべた。気がつけば、もうマリアさんの来る時間になっていた。
「ありゃ? なに、この空気?」
カウンター周辺の微妙な空気を敏感に感じていたマリアさんだったが、私に気づくと表情をほころばせる。
「あ、イヴちゃんもまた来てくれたんだね。今着替えるから」
そう言って、軽やかに裏手へと消えていった。
少しして、艶やかな黒髪を後ろにひとつにまとめたマリアさんが、カウンターに戻ってきた。
浮かない顔でビールを飲んでいた私を見て、彼女は不思議そうに小首を傾げる。
「ん? どうしたの? 昨日はあんなに幸せそうに飲んでたのに。なんだか今日は元気ないね」
心配そうな眼差しで、やわらかく問いかけてくれる。
胸の奥から、罪悪感がこみ上げる。
私は俯きながら口を開いた。
「……マリアさん、ごめんなさい」
突然の謝罪に、マリアさんはきょとんと目を瞬かせる。
「酒場の人たちから、マリアさんのこと……勝手に聞いてしまいました」
「ああ、そんなこと」
マリアさんは、けろりと言い放って。
あっけらかんと笑って肩をすくめた。
「急に謝るから何事かと思っちゃった。……まったく、みんな口が軽いんだから~」
そう言って、マスターや客たちにいたずらっぽい目を向ける。
目が合った彼らは気まずそうに視線を逸らした。
「で、あいつらは何て言ってた? “男に逃げられ、病気の子どもを抱えた、かわいそうで不幸な女”とか言ってたのかな?」
「い、いえ、そんな言い方は……」
「ふふっ、まぁ事実だしねー。そう、不幸な女なのよ、よよよ……。だからマスター、給料もうちょっと上げてほしいんだけどな~?」
そうマスターに視線を向けておどけてみせる。
マスターは先ほどよりも目を合わせないように、もっと視線を逸らす。
マリアさんはそんな様子を見て肩を揺らして笑うと、ふと私のほうに向き直る。
そして、やさしい笑顔で言った。
「ねぇ、よかったらこのあと、私の家に来ない?」




