吟遊詩人と幸せのかたち PASSGE:2
夜霧のなか街灯にぼんやりと照らされた石畳の道を歩く。
酒場を後にした私は、宿まで案内してくれるという酒場の女性に連れられて、街灯の下をゆっくりと進む。
「さっきの歌よかったよ」
女性が私に振り返りながら言う。
「あいつら、あなたが歌うまで馬鹿騒ぎしてたのに、あなたが歌を歌い始めた瞬間のぽかーんとした顔ときたら……ふふ」
いたずらっぽく肩を揺らして笑う女性に、私もつられて笑う。
ふいにいたずらっぽく笑っていた女性の表情が穏やかな顔になり、
「うちの子にも聞かせてあげたかったな」
とぽつりと呟いた。
「お子さんがいらっしゃるんですね」
「そ、私の宝物だよ」
そう言って、ニカッと笑顔を見せる。
その後、宿に到着する。彼女の計らいで少し安く泊まらせてもらえることになった。
「あ、そうだ。名前聞いてなかったね。わたしはマリアっていうの。あなたは?」
別れ際に名前を訊かれる。
「はい。イヴっていいます」
「イヴ、ね。ふふ、いい名前。それじゃあ、おやすみなさい。イヴちゃん」
そう笑顔で言って、踵を返して夜道を軽快に歩いてゆく。
軽やかな足音が、霧に包まれた石畳に溶けていく。
不安でいっぱいだった夜霧に包まれた街で、私はあたたかい気持ちのまま眠ることができた。
きっと、それはマリアさんのおかげだった。
翌日。
ガラス窓の隙間から差し込む、かすかな光に目で覚ました。
窓を開けると、外は相変わらず霧に包まれている。
けれど、遠くから聞こえてくる人々の声や荷車の音が、この街の一日がもう始まっていることを教えてくれる。
もう昼近くかもしれない。思ったよりもぐっすり眠ってしまっていたようだ。
旅をはじめて気づいたことがある。
私は起こしてくれる人がいないと、いつまでも眠り続けるダメ人間かもしれないということだ。
「おはようございます」
宿の階段を降り、カウンターにいる主人に声をかける。
新聞を読んでいた主人は、昼過ぎにのこのこ降りてきた私を見て、くすっと笑った。
「おはよう。よく眠れたみたいだね」
「はい。ちょっと寝過ぎちゃったみたいです……あ、近くでおすすめの朝ごはん──いや、お昼ごはん買えるところはありますか」
「近くにおすすめのパン屋があるよ。焼きたてが人気でね。あ、そうそう、マリアもそこで働いてるよ。行ってあげたら?」
「マリアさん……? 昨日の方ですか?」
「ああ」
「酒場で働いてたのに、パン屋からも働いてるんですか?」
「そうだね。……まぁ、あいつは、いろいろと大変だからな」
その瞳には同情の色が滲んでいるように思えた。
「大変?」
「ああ。本人から聞いてないの? う〜ん、俺の口から言うのもなぁ……」
そう言って宿の主人は、それ以上語らなかった。
店主の様子が少し気になりながらも、私はパン屋へ向かった。
酒場で遅くまで働いていたのに、朝からまた別の仕事。
真っ先に思い浮かんだのは、「お金に困っているのかな」ということだった。
「いらっしゃいませー!」
パン屋のガラス戸を開くと、迎えてくれたのは昨日と同じ明るく凜とした声が響いた。
「あ、イヴちゃん。昼食?」
入ってきたのが、私だと気づくとマリアさんはさらに相好を崩す。
「あ、朝食、です」
私は恥ずかしがりながら答える。
マリアさんは、「お寝坊さん」と肩を小さく揺らしてくすくすと笑った。
店内を見渡すと、朝のピークは過ぎたようで、お客さんはまばらだった。
けれど、棚には焼きたてのパンがずらりと並んでいて、香ばしく甘い匂いがふわっと鼻をくすぐる。
どれも美味しそうで、う~ん……と、私は迷ってしまう。
こういうときの私は、優柔不断だ。
これも旅をはじめて気づいた、私のダメなところのひとつ。
「ここのおすすめはね、クルミとイチジクをたっぷり使ったライ麦パンだよ」
パンの棚を見つめて悩んでいた、私の肩越しに、マリアさんの声が聞こえる。
「クルミとイチジク……あ、これですか? わぁ、おいしそう!」
「香ばしいクルミに、イチジクのほんのりした甘みがクセになる一品でございます。ぜひご賞味ください。ふふっ」
「じゃあ、二ついただきます!」
と、私たちはふざけたやりとりを楽しむのだった。
「ん、おいしー!」
広場のベンチに腰をおろして、パンにかぶりつく。
香ばしくて、ふわふわで、ほのかな甘みが口いっぱいに広がる。
思わず声が漏れてしまうほど、美味しかった。
広場では子どもたちが、楽しそうに走り回っている。
霧に包まれている広場でのそんな光景に、おだやかな気持ちになる。
あたたかで、ぬくもりのある風景だった。
この街は、武器の製造で栄えている。
そのことに、私は最初、どこか嫌悪感のようなものを抱いていた。
でも、こうして広場に座ってみると、少し考えが変わっていく。
霧に包まれているこの街にも、確かに人々の暮らしがあって、笑顔があって、日常がある。それを忘れていたのは、きっと私のほうだ。
パンをもう一口頬張りながら、私は宿の主人の言葉を思い出す。
「あいつは、いろいろと大変だからな」
結局、何が大変なのかは聞けなかった。
やっぱりお金に困っているのかな。
でも、パン屋でのマリアさんはあまりに明るくて、そんな話を切り出す空気ではなかった。
――本当は気になっている。
だけど、興味本位でそれは聞いていいものなのだろうか。




