吟遊詩人とおいしいご飯を
海辺の小さな漁村。
そこで俺はパブを営んでいる。
普段の客は決まっている。
仕事終わりの地元の男たちが、黒ビールを飲みながら
蒸したじゃがいもをつまむ。
それがこの村の日常だった。
夕暮れどき、扉を開けて入ってきたのは、一人の女性だった。
女性客自体は珍しくない。
だが、その人は、否応なく目を引いた。
神秘的な銀色の髪。
雪のように白い肌。
確実に美人の部類で、普段この村ではまず見かけない存在だ。
情けない話だが、パブの主である俺まで、
つい視線を向けてしまったくらいだ。
彼女はカウンター席に腰を下ろすと、迷いなく注文した。
「まずは、一杯お願いします」
この地方の伝統である黒ビールを注ぐ。
グラスの縁に、きれいな泡の冠をつくる。
それは、パブのマスターとしてのささやかな誇りでもある。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます!」
彼女は嬉しそうに受け取り、一口飲む。
「おいしい!」
最初の一杯の、幸せそうな表情。
この表情を見るために、
この仕事を続けているようなものかもしれない。
彼女はもう一口、黒ビールを口に含む。
最初に感じた神秘的な雰囲気は消え、
まるで昔からの馴染み客のようだった。
「はは、そんなにおいしそうに飲んでもらえると嬉しいよ。
初めて見る顔だけど……旅の人かな?」
「はい。吟遊詩人です」
吟遊詩人か。
旅をしながら歌を歌う人、というくらいの認識はある。
旅人なら——と、自然と口が動いた。
「なあ、腹は空いてないかい。
よかったらシチューがあるんだが、どうだ?
その黒ビールにも合うと思うぞ」
急な誘いに、彼女は一瞬きょとんとした顔をしたが、
すぐに笑った。
「そうですね。じゃあ、いただきます」
心の中で「よし!」と叫びたい気持ちを、ぐっと抑える。
シチューと、黒ビールのおかわりをカウンターに置く。
地元で獲れた海産物をたっぷり使ったクリームシチューだ。
大きなエビ、イカ、ホタテがごろごろ入っている。
「わぁ……」
嬉しそうな声。
「いただきますね」
匙ですくい、口に運ぶ。
「……んー! おいしいです!」
この反応だ。
これが見たかった。
「さすが旅をしてる人は違うね」
「へ?」
彼女は匙を止め、首を傾げる。
「なあ、お前らも食べてみないか?」
俺は、他の客たちに声をかけた。
「たまには蒸したじゃがいもだけじゃなくて、
こういう飯もいいだろ?」
だが、心地よい返事は返ってこない。
いつもの光景だ。
「あはは……蒸したじゃがいも、私も好きですよ」
彼女が、少し気を遣うように笑った。
「三食じゃがいもでも?」
つい、聞いてしまう。
「うーん……できれば、違うものが食べたいかな。
旅をしてると、仕方なく同じものを食べることはありますけど……」
その答えに、俺は思わず笑ってしまった。
「うん。それが普通だよな。やっぱり外の人は話がわかる。
だけど、ここだとそれが普通じゃないんだ。
あまりおもしろくないけれど、
よかったら酒の肴に聞いてくれないかい」
なぜだろう。
彼女には、自然と話したくなった。
この村の歴史を──。
昔、この地域は大きな飢饉に襲われた。
多くの人が村を捨て、
残ったのは逃げられなかった者たちだけだった。
生きるために、食べられるものは何でも食べた。
そうやって生き延びた人たちの感覚が、今も残っている。
「この村じゃ、食事は楽しむものじゃない。
生きるための栄養補給なんだ。
酒を楽しむくせに、な」
だから食に気を遣わない。
栄養があって、すぐ口にできるじゃがいもを、
みんな疑問も持たず、毎食食べる。
食を楽しむ、という概念そのものがない。
「まぁ、俺も昔は同じだったからな」
「なにか、きっかけがあったんですか?」
「ああ。仕事で王都に行ったことがあるんだ。
そのときに初めて知ったんだ。
食べることが、楽しいことだって」
だから、いつかこの村を変えたいと思った。
「いつか食の楽しさを知ってもらって、
この村をグルメの村にしてみせる」
「ふふ、素敵な夢ですね」
彼女は、そう言って微笑んだ。
急に、恥ずかしくなる。
「ごめんな。
いきなりこんな話しちまって。
酒の肴にしては、つまらなかったよな」
俺はお礼に黒ビールを注ぎ直し、彼女の前に置く。
礼を言いながら、喉を鳴らして飲む。
この吟遊詩人さんは、見た目とは違って、
だいぶ酒の進みが早いみたいだ。
「ご馳走さまでした」
吟遊詩人さんが、
綺麗にシチューを食べ終えて、笑顔を向けてくれる。
「こちらこそ、ありがとう」
「あの……お腹も膨れましたし、
一曲歌ってもいいですか?」
「ああ、吟遊詩人さんだもんな。
ぜひお願いしようかな。
話も聞いてくれたし、報酬も奮発するよ」
吟遊詩人は、ゆっくりと首を振った。
「いえ。お金はいりません。
私が、ただ歌いたいだけなので」
そう言って、ケースからギターを取り出し、
太ももの上で支える。
一弦一弦、丁寧にチューニングする。
「よし」
小さく呟き、
指を大きく振り下ろす。
澄んだ音が、パブに響いた。
客たちの視線が、一斉に吟遊詩人へ向く。
彼女は綺麗な唇を開き、歌い出した。
穏やかな旋律。
ギターの優しい音色と絡み合う歌声。
力強いわけじゃない。
けれど繊細で、
目も耳も心も奪われ、離せなくなる。
「ありがとうございました!」
その一言で、ようやく拍手が起こる。
一人、二人と広がり、
やがてパブ全体を包んだ。
吟遊詩人さんは、再びカウンター席に腰掛け、
ふぅ、と息を吐く。
「いやぁ……よかったよ。
お嬢ちゃんの歌……」
俺はまだ余韻から戻れず、
半ば呆然としたまま、そう伝えた。
吟遊詩人は、満面の笑みを返す。
「ありがとうございます。
歌ったら、またお腹空いちゃいました。
シチューのおかわりと、
ビール、もう一杯お願いしてもいいですか?」
「あはは、そうか。もちろん!
大盛りで持ってきてあげるから、
ちょっと待ってな」
俺も、満面の笑顔で返す。
「やった!」
また嬉しそうに、シチューを頬張る吟遊詩人。
その姿を、俺は眺めていた。
自分の作ったものを、
誰かが幸せそうに食べてくれる。
これほど幸せなことはない。
そのときだった。
「……俺も、食べてみようかな」
パブの片隅で、
一人の青年が、ぽつりと呟いたのだった。




