吟遊詩人と死を恐れる少女
夕闇が村に迫っていた。
小雨の降り続くなか、とある場所へ向かって、長い長い人の列ができている。
みんな体を冷やしながら、少しずつ前へ進んでいた。
「シオン、そろそろよ。準備できてる?」
「うん、できてるよ、お姉ちゃん」
わたしは列の前のほうに並んでいた。
手の中には花束。雨に濡れないように、ぎゅっと抱えている。
やがて、わたしとお姉ちゃんの番が来た。
目の前には棺桶があり、その中には目を閉じた年配の女性が横たわっていた。
もう、その人が目を開くことはない。
それが分かっているはずなのに、実感はなかった。
わたしは黙って花束を棺の中に入れた。
自分の顔がどんな表情をしているのか、分からない。
ただ、何も感じていないような気がしていた。
隣で、お姉ちゃんも花束を入れる。
そのとき、わたしは初めて、お姉ちゃんの目に涙が浮かんでいるのに気づいた。
泣いている。
そう思ったけれど、どう声をかけていいか分からなかった。
わたしはただ、その横顔を見ていた。
「お姉ちゃん、そろそろ」
わたしがそう言うと、お姉ちゃんは小さくうなずいたけれど、なかなか動こうとしない。
「……わたしたちで、いつまでも時間を取るわけにはいかないよ」
少しだけ強引に、お姉ちゃんの手を引く。
そうして、わたしたちは列の外へと離れていった。
*
このとき、わたしは初めて、
死というものを、意識した。
それまでは、死は遠いものだった。
家族はみんな元気で、身近な誰かが、いなくなるなんて想像もできなかった。
そんな私に『死』というものが突然現れた。
隣に住んでいた近所のおばあさんが、亡くなった。
小さい頃から、よくしてもらっていた。
一緒に遊んでくれたり、お菓子を作ってくれたり
――思い出せば、優しいことばかり浮かぶ。
亡くなったその日も、わたしは普通におばあさんと話をしていた。
いつもと変わらない一日だった。
それが、ある日を境に、唐突に終わりが訪れた。
おばあさんの庭には、たくさんの花が咲き誇っていた。
とても綺麗で今まではその花たちを見れば明るい、気持ちになることができた。
でも今は違う。
なぜか花を見るのが怖い。
花が視界に入ると、心臓が嫌な音を立てる。
理由は分からない。
どうしてこんなに苦しいのかは、分からなかった。
*
そんな日が、何日か続いた頃のことだ。
夕食のとき、お父さんが村に来ている旅人の話をした。
「旅人さん?」
「ああ。えっと……吟遊詩人だったかな」
「吟遊詩人?」
聞き慣れない言葉に、わたしは首をかしげる。
「楽器を弾いたり、歌を歌ったりする人だよ」
お父さんは酒をひと口飲んでから、続けた。
「昨日パブで会ってな。すごくきれいな歌声だった。
つい酒が進んだよ」
そう言って、またお酒を飲む。
その後ろに、お母さんが立っていた。
にこにこ笑いながら、ゆっくり口を開く。
「あら?
あなた、昨日は仕事で遅くなるって言っていませんでしたか?」
「あ……えっと……」
言葉に詰まるお父さん。
このあと、だいたいどうなるかは分かっている。
「シオン……いくよ」
お姉ちゃんが、そっと席を立って、わたしの手を引いて二階に上がる。
二階にあるわたしたちの部屋へ向かう途中、お母さんがお父さんを叱る声が聞こえてくる。
その声を聞きながら、わたしは密かに誓った。
――将来は、絶対にお酒を飲まない人と結婚しよう。
二階の部屋の窓からは、隣のおばあさんの小さな花園が見える。
前までは、いつも窓辺に立って、その花たちを眺めていた。
けれど今は、必死にそちらを向かないようにしていた。
*
そんな日々が続いた、とある朝のことだった。
「……ちょっと、はやく起きちゃった」
まだ日の昇りきっていないのに、なぜか目が覚めてしまった。
隣では、まだお姉ちゃんが穏やかに寝息を立てている。
見ないように心がけていたのに、
いつもの癖で、つい窓のほうを見てしまう。
まだ霧の残る、朝だった。
……え?
思わず、目を見開いた。
おばあさんの家の花壇に、知らない女性が座っていた。
不安な気持ちはあった。
でも、なぜか家の中にいられなくて、
気づけば、わたしは家を飛び出していた。
おばあさんの花壇の前まで来ると、
その女性は、花壇に腰掛け、小さな音で音楽を奏でていた。
少し古びた木製のフルート。
霧に包まれた朝の空気のなかで、やさしい音色が流れている。
「あ、あの……」
声をかけると、女性は演奏を止めて、こちらを見た。
こちらを振り返った女性は、とても綺麗だった。
朝霧のなかでも、輝く銀色の髪に、宝石のような紫色の瞳を
していた。
「おねえさんは、ここで何をしているんですか」
「想いをね、届けにきたの」
そう言って、女性は少しだけ困ったように笑った。
「もう少し早く来れていれば、直接、届けられたのかなって」
亡くなってしまったおばあさんに、
音楽を届けに来たのだという。
昔、おばあさんと恋仲だった人がいて、
その人の想いを預かって、おばあさんを探していたらしい。
「下手だったかな? 普段は、フルートは吹かないから」
そう言って、また微笑む。
「これも、音楽を預けてくれた人のものなの」
そのフルートは、
おねえさんに音楽と想いを託した人の持ち物だった。
亡くなる間際に、
おねえさんへと託されたものだという。
直接届けられなかったことを、きっと残念に思っているはずなのに、
おねえさんの表情は、不思議と清々しかった。
花壇に植えられた花たちを見ながら、おねえさんは話してくれる。
この花は、その人も大切にしていた花だったこと。
そして、おばあさんも、この花を大事に育てていたこと。
「最後まで、想い合っていたんじゃないかなって思うとね。
それが、とてもうれしくて」
そう言って、おねえさんはやさしく微笑んだ。
長い間、ずっと、
お互いのことを想っていた。
でも、結ばれることはなかった。
戦争だったのかもしれない。
詳しい事情は、わたしには分からない。
でも、素敵だなって思った。
それから、おねえさんは、わたしにおばあさんのことを聞いてきた。
その声はとても穏やかで、
気づけば、わたしはおばあさんのことを話し始めていた。
よくしてくれたこと。
大好きだったこと。
そして――
今、おばあさんがいなくなってしまったことが、すごく怖いこと。
思い出すと、怖くて、つらくて、
だから必死に忘れようとしていたこと。
葬式のときも、何も感じていなかったわけじゃない。
気づかないうちに、気持ちを心の奥に押し込めていただけだった。
話し終えると、おねえさんは何も言わず、またフルートを奏で始めた。
やさしい旋律。
霧に包まれていた心の中に、すっと光が差し込むように、
その音は染み込んでいった。
おねえさんは、わたしの頭をやさしく撫でてくれる。
「亡くなった人を思い出すのは、勇気がいるよね。
でも、がんばって向き合ってみて。
きっと、あたたかい気持ちにもなれるから」
その言葉が、鍵になった。
わたしは必死に、ううん。無意識に、
無理やりおばあさんの思い出に鍵をかけていた。
その錠が、ゆっくりと外れていく。
怖くて、
でもあたたかくて、
不安で、
それなのにやさしい。
いろんな気持ちが絡み合ったものが、押し寄せてくる。
気づけば、涙が流れていた。
ううん、涙だけじゃない。
嗚咽も止まらなかった。
わたしは、あられもなく泣いていた。
おねえさんが、何も言わずに、わたしをぎゅっと抱きしめてくれた。
*
おねえさんは、フルートをおばあさんのお墓に供えていった。
それは、もともとおばあさんと恋仲だった人の、大切な持ち物だから、と。
それから、わたしは、おばあさんの庭の花を育て始めた。
世話をする人がいなくなって、枯れてしまった花もあったけれど、
まだ生きている花を、大事に育てていく。
おねえさんのおかげで、
この花壇を見るのが、怖いだけじゃなくなった。
今でも、胸が痛くなることはある。
でも同時に、あたたかい気持ちにもなれることに気づいた。
これから、わたしが成長して大人になっていくたびに
また「死」が目の前に来ることもあると思う。
そう考えると、やっぱりまだ怖い。
それでも、
目をそらさないで、がんばって、向き合っていけたらいいなと思う。




