異変の兆候
朝霧が立ち込める早朝、ヴァランティーヌ家の裏門では、少数の人々が静かに集まっていた。まだ星が残る暗い空の下、馬の息が白い煙となって立ち上る。
レオハルト — かつてレオン・ラグランと呼ばれていた男 — は旅装束に身を包み、馬の手綱を握っていた。彼の隣には学院の使者マーカスが立ち、アルベール侯爵が二人に最後の指示を与えていた。
「北の街道は避けるように」侯爵は低い声で言った。「グラディーン家の目が届かない森の小道を通りなさい」
「承知しています」マーカスは頷いた。「三日でヴァレンシュタイン学院に到着できるでしょう」
侯爵はレオハルトに視線を向けた。彼の目には、これまでとは違う光があった。昨夜の出来事以来、彼の立ち振る舞いは微妙に変化していた。背筋はより一層伸び、眼差しには確固たる意志が宿っていた。それでも、彼の記憶は断片的で、完全な王子としての自覚はまだ戻っていなかった。
「レオハルト王子」侯爵は厳かに言った。「あなたの旅の無事を祈ります。そして記憶が完全に戻ったとき、我が家のことを思い出してください」
「もちろんです、侯爵様」レオハルトは深く頭を下げた。「ご恩は忘れません」
静かな足音が聞こえ、振り返るとセリーヌが立っていた。彼女は薄い青色のドレスに白いショールを羽織り、その青い瞳は涙で輝いていた。リリスが少し離れた場所で見守っている。
「行くの?」セリーヌの声は小さく震えていた。
「ああ」レオハルトは彼女に近づいた。「グラディーン家が来る前に発たねばならない」
彼女は静かに頷き、白い手袋をした手から小さな包みを取り出した。「これを持っていって」
レオハルトは包みを受け取ると、中に銀の小さなペンダントが入っていた。星の形をした美しい飾りで、中央には青い石が嵌め込まれていた。
「母の形見」セリーヌは説明した。「あなたを守るよう、祈りを込めたわ」
「大切にする」レオハルトはペンダントを首にかけた。「そして必ず返しに来る」
「約束ね」
「星に誓って」
二人の言葉に、侯爵とマーカスは意味深に顔を見合わせた。
「時間です」マーカスが静かに告げた。
レオハルトは一瞬躊躇した後、セリーヌの手を取り、軽く唇を押し当てた。「さようなら、セリーヌ。また会う日まで」
彼女は涙を堪えながら頷いた。「気をつけて」
レオハルトは馬に跨った。朝日が地平線を染め始め、彼の姿を黄金色に輝かせている。彼はセリーヌに最後の視線を送り、マーカスと共に門を出て行った。二人の姿は、やがて森の道に消えていった。
セリーヌは父の腕に支えられ、レオハルトの姿が見えなくなるまで立ち尽くしていた。
「彼は無事に戻る」侯爵は娘を慰めた。「彼には使命があるのだから」
「わかっているわ」セリーヌは涙を拭った。「だからこそ、待つわ」
館に戻る道すがら、リリスがセリーヌに寄り添った。「お嬢様、大丈夫ですか?」
「ええ」セリーヌは微かに微笑んだ。「悲しいけれど、これが正しいことよ。彼は王子なのだから、ただの従者として我が家にいるべきではないわ」
「賢明なお考えです」リリスは優しく言った。「そして、彼は約束しました。戻ってくると」
「うん」セリーヌは空を見上げた。朝日が雲を赤く染めていた。「私を待っててと言ったの。だから、待つわ」
* * *
その日の正午頃、ヴァランティーヌ家の館に黒塗りの馬車が到着した。グラディーン家の紋章—赤い獅子と黒い鷲—が描かれた紋章旗を掲げた騎士たちが先導していた。
館の前庭には、アルベール侯爵とセリーヌが正装をして待っていた。侯爵家の従者たちが整列し、厳かな雰囲気が漂っていた。
馬車から最初に降りたのは、グラディーン伯爵オスカーだった。五十代半ばの威厳ある男性で、銀色の髪に整えられた髭を蓄えていた。彼の冷たい目は周囲を素早く観察し、わずかに微笑んだ。
「アルベール、久しぶりだな」彼は侯爵に歩み寄り、握手を交わした。
「ようこそ、オスカー」アルベール侯爵は礼儀正しく返した。「旅の疲れはなかったか?」
「いや、道中は快適だった」オスカーは答え、セリーヌに視線を向けた。「これがセリーヌか。前に会ったときは、まだ小さな女の子だったが、すっかり美しい淑女になったな」
「お会いできて光栄です、グラディーン伯爵」セリーヌは優雅にカーテシーをした。
次に馬車から降りたのは、イオルフ・グラディーンだった。伯爵の息子で、二十代半ばの若者。彼は父親譲りの鋭い顔立ちをしていたが、その目には父にはない冷酷さが宿っていた。黒い正装に身を包み、剣を腰に差している。
「侯爵閣下」イオルフは軽く頭を下げた。「お招きありがとうございます」
「イオルフ」侯爵は頷いた。「成長したな」
イオルフはセリーヌに視線を移し、彼女の手を取って唇を押し当てた。「セリーヌ嬢、お美しくなられた」
セリーヌは微笑みを浮かべようとしたが、その目は冷たいままだった。「ありがとう、イオルフ」
最後に馬車から降りてきたのは、痩せた中年の男性だった。黒い外套に身を包み、その細い指には複数の指輪がはめられていた。彼の目は鋭く、館の隅々まで観察しているようだった。
「こちらは我が家の呪術師、アザゼル・クロフォード」伯爵が紹介した。
アザゼルは深々と頭を下げた。「お目にかかれて光栄です」
セリーヌは思わず身震いした。この男は、町の星占い師に姿を変えていた魔道士に違いない。彼の目が一瞬青く光ったように見えた。
「さあ、館へ」アルベール侯爵は手招きした。「休息のために部屋を用意してある
一行が館に入ると、アザゼルが一瞬立ち止まり、空気を嗅ぐようにして周囲を見回した。彼の目が狭まり、何かを感じたように顔をしかめた。
「何か問題でも?」侯爵が尋ねた。
「いいえ」アザゼルは微笑もうとしたが、その表情は不自然だった。「ただ、美しい館だと思いまして」
セリーヌは彼が何かを感じ取ったのではないかと心配になった。彼はレオハルトの痕跡を探しているのだろうか。幸い、レオハルトは早朝に出発したため、彼の気配はほとんど残っていないはずだった。
「貴賓室へご案内します」侯爵が言った。「夕方までお休みください。夕食では晩餐会を用意しています」
イオルフがセリーヌの側に近づいてきた。「セリーヌ嬢、もしよろしければ、後ほど庭園をご案内いただけませんか?」
断る理由はなかった。「もちろん」彼女は微笑んだ。「喜んで」
* * *
一方、森の小道を進むレオハルトとマーカスは、すでにヴァランティーヌ家の館から十マイル以上離れていた。彼らは人目につかないよう、大きな街道を避け、木々の間の細い獣道を選んでいた。
「ヴァレンシュタイン学院について教えてください」レオハルトはマーカスに尋ねた。「私の記憶では、私はそこで育った孤児ですが、実際には違うのですね」
「はい」マーカスは頷いた。「学院は表向き、貴族の子弟や優秀な平民の子供たちを教育する場所ですが、実は王家に仕える者たちの秘密の拠点でもあります。学院長のルドルフ・ヴァレンシュタインは、先王の側近であり、あなたの後見人でもありました」
「私の記憶によれば、彼は厳格だが公正な人物でした」
「その通りです」マーカスは微笑んだ。「彼はあなたを本当の息子のように愛し、守ってきました。十年前、王位継承争いで兄弟が暗殺されたとき、彼はあなたを守るため、記憶を封印し、平民として育てる決断をしました」
レオハルトは深く考え込んだ。「私の記憶はまだ断片的です。雪の城、金の冠…そして修道院の中庭の赤いバラ。これらは本当の記憶なのでしょうか」
「はい」マーカスは答えた。「雪の城はオルシニ城、あなたが育った王城です。冬になると白い雪に覆われ、まさに『雪の城』となります。金の冠はオルシニ家の王冠で、代々の王が戴冠式で身につけるものです」
「では、修道院の中庭は?」
マーカスは不思議そうな表情をした。「聖アンジェリカ修道院のことでしょう。王家との関わりが深い場所です。あなたは幼い頃、そこでよく遊んでいました」
「そこで…誰かと約束をした記憶があります」レオハルトは言った。「金髪の少女と」
「それは…」マーカスは言いかけて止まった。「学院に着けば、全ての記憶が戻るでしょう。ルドルフ学院長が待っています」
彼らは黙って進み続けた。レオハルトの頭の中では、記憶の断片が少しずつ形を取り始めていた。彼が王子であること、オルシニ城で育ったこと、そして十年前の恐ろしい夜—兄が暗殺され、彼自身も命を狙われた夜。
しかし、セリーヌとの繋がりについての記憶はまだ霧の中だった。彼女と過去に会ったことがあるのか、それとも単なる偶然なのか。それでも、彼女に対する強い思いは確かだった。恋愛封じの呪術が解けた今、その感情は明確だった。彼は彼女を愛している。
「セリーヌは安全なのでしょうか」レオハルトは突然尋ねた。「グラディーン家が彼女を利用するのではないかと心配です」
「アルベール侯爵は賢明な人物です」マーカスは言った。「彼は娘を守るでしょう。それに、グラディーン家は今のところ、あなたがそこにいたことを知らないはずです」
「アザゼルという魔道士がいる」レオハルトは眉をひそめた。「私の記憶によれば、彼は町で星占い師に変装して、私の心を読もうとしていました」
「心を読む能力を持つ危険な魔道士です」マーカスは警戒心を露わにした。「しかし、あなたの記憶が封印されていたため、彼はあなたが単なる平民だと判断したのでしょう」
「そう願いたい」レオハルトは手を胸元に当て、セリーヌから贈られたペンダントを握った。「それでも、早く記憶を取り戻し、国に戻る必要があります。グラディーン家は何かを企んでいるはずです」
彼らは森の奥へと進んでいった。道は険しくなり、馬もゆっくりと慎重に足を進めていた。
「昔、私にはどんな家族がいたのですか」レオハルトは静かに尋ねた。「両親、兄弟のことを教えてください」
マーカスの表情が優しくなった。「あなたの父、エドガー王は賢明で公正な王でした。国民から深く愛されていました。母、エレノア王妃は美しく知的な女性で、芸術と音楽を愛していました」
「私には兄と弟がいたそうですね」
「はい」マーカスは悲しげに頷いた。「長男のフェルディナンド王子は勇敢で正義感の強い人物でした。彼はあなたのことをとても可愛がっていました。弟のアルフレッド王子は聡明で、学問を好みました」
「二人とも暗殺された…」レオハルトの声は低く沈んだ。
「はい」マーカスは重々しく言った。「フェルディナンド王子は父王の死から一週間後に宮殿で、アルフレッド王子はあなたが学院に避難した後、四年目に隠れ家で発見され…」
レオハルトの胸に痛みが走った。彼のせいで家族が失われたわけではないことは理解していても、生き残った自分に罪悪感を感じずにはいられなかった。
「彼らの死を無駄にはしません」彼は決意を込めて言った。「私は国に戻り、正統な王として統治します」
マーカスは頷いた。「それがあなたの使命です」
二人が小川を渡ろうとしたとき、不意に馬が立ち止まり、不安げに鼻を鳴らした。
「なにか近づいている」マーカスは警戒し、剣の柄に手を置いた。
レオハルトも剣を抜き、周囲を見回した。森の静けさが不自然に感じられた。鳥のさえずりも、虫の音も聞こえない。
突然、木々の間から黒装束の男たちが現れた。六人ほどの武装した集団で、彼らの胸には赤い獅子と黒い鷲の紋章—グラディーン家の紋章—が描かれていた。
「ヴァレンシュタイン学院から来た者たちを捕らえよ!」彼らのリーダーが叫んだ。「生かして連れ帰れ!」
「王子様、逃げてください!」マーカスは叫び、剣を構えた。「学院まで急いでください!」
レオハルトは躊躇した。一緒に戦うべきか、それとも逃げるべきか。彼の中の従者レオンは戦いを望んだが、王子レオハルトは使命を全うするべきだと考えた。
「私は行かない」彼は剣を構え、マーカスの横に立った。「共に戦おう」
二人は馬から飛び降り、背中合わせに立った。敵は円を描くように彼らを取り囲み、徐々に接近してきた。
最初の攻撃が来た。一人の黒装束の男が大剣を振りかざして突進してきた。レオハルトは冷静に受け止め、流れるような動きで反撃した。学院での訓練と、記憶の奥底から蘇る王子としての剣術の記憶が融合し、彼の動きは正確で力強かった。
マーカスも熟練の剣士だった。彼は軽快に敵の攻撃をかわし、次々と反撃を繰り出した。
「王子様、この先は危険です!」マーカスが叫んだ。「森の奥へ!」
レオハルトは一人の敵を倒し、振り返った。マーカスは三人の敵と戦っていたが、彼の腕から血が流れていた。
「マーカス!」
「行ってください!」マーカスは叫んだ。「使命を果たすのです!」
レオハルトは内心で激しく葛藤した。仲間を置いて逃げるのは卑怯だが、彼には国を救う使命がある。マーカスの犠牲を無駄にはできない。
「必ず助けに戻る」彼は約束し、馬に飛び乗った。
「王子だ!捕らえろ!」敵のリーダーが叫んだ。
レオハルトは馬に鞭を入れ、森の奥へと駆け出した。後ろから追手の声と馬の蹄の音が聞こえる。心の奥では、マーカスを置いていくことに罪悪感を覚えたが、今は使命を全うするしかなかった。
森の中を疾走する中、彼の脳裏にはセリーヌの顔が浮かんだ。彼女は無事だろうか。グラディーン家は彼女にも危害を加えるのではないか。
《セリーヌ、気をつけて》彼は心の中で祈った。《必ず戻るから》
* * *
ヴァランティーヌ家の館では、セリーヌが庭園でイオルフ・グラディーンを案内していた。夏の陽光が花々を照らし、蝶が舞い、噴水の水が静かに音を立てている。
「美しい庭ですね」イオルフは賞賛した。「特にこのバラは見事だ」
「母が特に愛していた花です」セリーヌは静かに答えた。
イオルフは彼女の側に近づいた。彼の視線には、あからさまな欲望が見えた。「あなたも美しい。子供の頃から、ずっと気になっていました」
セリーヌは適度な距離を保ちながら微笑んだ。「ありがとう」
「父も言っています」イオルフは続けた。「我々の家同士の同盟は、互いに利益をもたらすだろうと」
「政治的な同盟は重要ですね」セリーヌは慎重に言葉を選んだ。
「それだけではなく」イオルフは彼女の腕を取った。「個人的な繋がりもね」
彼の接近にセリーヌは少し身を引いたが、礼儀正しく振る舞った。「庭園の奥には、美しい池があります。ご案内しましょうか」
「ぜひ」
彼らが池に向かって歩いていると、突然アザゼルが現れた。彼の目は不自然に光り、周囲を警戒しているようだった。
「イオルフ様」彼は低い声で言った。「少しお話があります」
イオルフは不機嫌そうに眉をひそめたが、セリーヌに軽く頭を下げた。「失礼。すぐに戻ります」
彼がアザゼルと離れたところで話し始めると、リリスが木陰から現れた。
「お嬢様」彼女は小声で言った。「大丈夫ですか?」
「ええ」セリーヌも小声で答えた。「でも、あの魔道士、何か感じているみたい」
「彼はレオン様…いえ、レオハルト様の痕跡を探しているのでしょうか」
「恐らくは」セリーヌは池の水面を見つめた。「でも、彼は既に遠くへ行っているはず。きっと大丈夫よ」
リリスが心配そうに視線を向けたイオルフとアザゼルの方を見ると、二人は激しく言い合っているようだった。
「何を話しているのかしら」セリーヌは眉を寄せた。
その時、イオルフが急いで彼女のもとに戻ってきた。彼の表情は硬く、怒りを抑えているようだった。
「申し訳ない」彼は言った。「急用ができた。後で改めて」
そう言うと、彼は踵を返し、アザゼルと共に館へと向かっていった。
「何があったのかしら」セリーヌはリリスに向かって呟いた。
「わかりません」リリスも不安そうな表情だった。「でも、良くないことに違いありません」
二人が館に戻ると、執事のヘンリーが急いで近づいてきた。
「お嬢様」彼は小声で言った。「侯爵様が書斎であなたを待っています。急ぎだそうです」
セリーヌは不安を感じながら父の書斎へと向かった。扉をノックすると、中から「入れ」という声がした。
書斎に入ると、アルベール侯爵は窓辺に立ち、外を見つめていた。彼の表情は深刻だった。
「父上、何かあったの?」
侯爵は振り返り、娘の目をまっすぐ見た。「グラディーン家が動いた。彼らの兵が、レオハルトを追っている」
セリーヌの顔から血の気が引いた。「どうして?彼らは知っていたの?」
「アザゼルが感じ取ったようだ」侯爵は静かに説明した。「彼は痕跡を感じ、それが王子のものだと気づいた。早速、追っ手を送ったらしい」
「レオハルトは大丈夫?」セリーヌの声は震えていた。
「わからない」侯爵は正直に答えた。「だが、彼は有能だ。きっと逃げ切るだろう」
「でも…」
「セリーヌ」侯爵は厳しい声で言った。「今、我々にできることは限られている。グラディーン家に疑いをかけられないよう、平静を装わねばならない」
セリーヌは唇を噛んだ。「レオハルトを見捨てるというの?」
「見捨てるのではない」侯爵は説明した。「彼のために時間を稼ぐのだ。彼が学院に到着するまでの」
セリーヌは窓の外を見た。遠くの森の方角を見つめ、レオハルトの無事を祈った。
《気をつけて》彼女は心の中で祈った。《必ず無事で》
彼女の胸には、レオハルトと別れる前に交わした約束の言葉が響いていた。星に誓って—彼は必ず戻ってくると約束したのだ。その約束を信じるしかなかった。
「今夜の晩餐会」侯爵が言った。「何も知らないふりをして、グラディーン家をもてなすように」
「わかったわ」セリーヌは深く息を吸った。「演じるわ」
夕暮れが近づき、館には緊張感が漂っていた。表面上は友好的な訪問だが、裏では命がけの駆け引きが始まっていた。レオハルトの運命、そして国の未来が、今まさに危機に瀕していたのだ。