セリーヌの決意
朝日が部屋に差し込み、細やかな埃の舞いを金色に染めていた。セリーヌは早くに目覚め、窓辺に立って深く息を吸った。昨夜の夢が鮮明に脳裏に残っている。彼女は夢の中で、修道院の中庭を歩いていた。赤いバラが壁に沿って咲き誇り、そこでレオンと手を繋いでいたのだ。
《あの占い師の言葉が気になる》
彼女は静かに思いを巡らせた。「彼の心は封じられている」という言葉が、彼女の心に引っかかっていた。もしレオンの心に何かの障壁があるなら、それは彼の感情を抑え込んでいるのではないか。だから彼は彼女の気持ちに気づかないのではないか。
セリーヌはクローゼットを開け、朝の支度を始めた。今日はグラディーン家が来る前日。館全体が準備で忙しくなるだろう。彼女は淡い緑色のドレスを選び、鏡の前に立った。
「お嬢様、おはようございます」
ノックの後、リリスが部屋に入ってきた。彼女はいつものように明るい笑顔を浮かべていたが、その目には少し心配の色が見えた。
「おはよう、リリス」セリーヌは微笑んだ。「昨夜はよく眠れた?」
「はい」リリスは頷き、セリーヌの髪を整え始めた。「お嬢様は夢を見られましたか?」
「ええ…」セリーヌは少し赤くなった。「レオンと修道院にいる夢を」
リリスの手が一瞬止まった。「まあ、それはロマンチックですね」彼女は小さく笑った。「彼の夢と同じ場所ですか?」
「そうなの」セリーヌは真剣な表情になった。「リリス、あなたは思う?レオンには何か秘密があると」
リリスはしばらく黙って髪を編み続けた後、静かに言った。「昨晩、レオン様と侯爵様が話しているのを見かけました」
「父上と?」セリーヌは振り返った。「何を話していたの?」
「詳しくは聞けませんでしたが」リリスは言った。「レオン様について、『使命』という言葉が出ていました」
「使命…」セリーヌは考え込んだ。「父上は前から彼に特別な関心を持っていたわ。どうして彼を雇ったのか、不思議だったの」
リリスは言葉を選びながら続けた。「もしかすると、レオン様はただの従者ではないのかもしれません」
「それは私も感じていたわ」セリーヌは窓の外を見た。「彼の中には、何か特別なものがあるの。彼自身も気づいていないような…」
朝食の席で、アルベール侯爵は深刻な表情で書類に目を通していた。セリーヌが入室すると、彼は顔を上げ、微笑んだ。
「おはよう、セリーヌ」
「おはようございます、父上」彼女は隣に座った。「今日はグラディーン家の準備ですね」
「ああ」侯爵は頷いた。「全てが滞りなく進むよう願うばかりだ」
セリーヌは父の表情をじっと見た。「父上、レオンについて話があります」
侯爵は少し驚いた様子だった。「レオン?何かあったのか?」
「彼には何か特別な使命があるのでは?」彼女は思い切って尋ねた。
侯爵の表情が一瞬固まった。「どうしてそう思う?」
「占い師の言葉や、彼の夢の話…そして」セリーヌは少し躊躇った後、続けた。「父上が彼に特別な関心を持っていること」
侯爵はしばらく黙っていた。「鋭いな、セリーヌ」彼はついに言った。「確かに、レオンには普通の従者以上の何かがある」
「それは?」
「今は話せない」侯爵はきっぱりと言った。「時期が来れば、全てがわかる」
セリーヌは失望を隠せなかったが、これ以上追求しても無駄だとわかっていた。「わかりました」
朝食が終わると、館全体が準備のために動き始めた。メイドたちが部屋の掃除をし、料理人たちが晩餐会のメニューを検討し、庭師たちは庭園の手入れに精を出していた。
セリーヌは父からの指示で、貴賓室の準備を確認することになった。彼女はリリスと共に二階の東翼へと向かった。廊下を歩いていると、レオンが向こうから近づいてきた。
「おはようございます、セリーヌ様」彼は丁寧に頭を下げた。
「おはよう、レオン」彼女は微笑んだ。「グラディーン家の準備は順調?」
「はい、警備の配置も決まりました」彼は報告した。「特に貴賓室周辺と、あなた様の部屋の周りは厳重に」
彼の真剣な表情に、セリーヌの胸が温かくなった。彼はいつも彼女の安全を第一に考えてくれている。
「ありがとう」彼女は静かに言った。「あなたがいると安心するわ」
レオンは礼儀正しく頭を下げた。「それが私の務めです」
いつもの返答。セリーヌは小さくため息をついた。《いつになったら、単なる務め以上の気持ちを持ってくれるのかしら》
「レオン」彼女は思い切って尋ねた。「昨晩、何か特別な夢は見た?」
彼は少し驚いたように見えた。「はい、実は…」
「どんな夢?」彼女は思わず身を乗り出した。
「また修道院の中庭でした」彼は静かに答えた。「赤いバラが咲いていて…」
「それだけ?」セリーヌは期待を込めて尋ねた。
レオンは少し躊躇した。「いいえ、今回は…少女と手を繋いでいました」
セリーヌの心臓が高鳴った。「どんな少女だった?」
「金色の髪を持つ少女で…」彼は言葉を選びながら続けた。「どこか、セリーヌ様に似ていました」
彼女の頬が熱くなった。「私に?」
「はい」彼は少し恥ずかしそうに頷いた。「単なる夢なのですが…」
「夢は時に、心の奥底を映すものよ」セリーヌは静かに言った。「占い師も言っていたでしょう。あなたの心には壁があると」
レオンは黙っていた。彼の目には混乱の色が見えた。
「侯爵様がお呼びです」突然、執事のヘンリーが現れた。「書斎にて」
「わかりました」レオンは答え、セリーヌに一礼して去っていった。
彼が去った後、セリーヌはリリスの方を向いた。「リリス、私、決めたわ」
「何をですか?」リリスは不思議そうに尋ねた。
「彼の心の壁を壊すの」セリーヌはきっぱりと言った。「彼が自分自身を見つけられるよう、手伝うわ」
リリスは心配そうに眉をひそめた。「でも、どうやって?」
「まだわからない」セリーヌは認めた。「でも、きっと方法があるはず」
貴賓室の準備を確認した後、セリーヌは図書室へと向かった。彼女は何か手がかりを見つけたいと思っていた。占いや魔術、心理に関する本—何かがヒントになるかもしれない。
図書室は静かで、陽光が大きな窓から差し込んでいた。膨大な数の本が並ぶ本棚の前で、セリーヌは迷っていた。どこから探せばいいのか。
「何をお探しですか?」
振り返ると、守衛のリドレンが立っていた。彼は館の運営に長く携わり、図書室の管理も担当していた。
「心の封印について」セリーヌは正直に答えた。「魔術や呪いで、人の心や記憶を封じる方法があるのかしら」
彼は驚いたような顔をした後、静かに頷いた。「西の棚、上から三段目です。『魔術と精神』のセクションがあります」
「ありがとう」
セリーヌは指示された棚へと向かった。古い革表紙の本が並んでいた。彼女は一冊ずつタイトルを確認していき、ようやく『心と記憶の魔術』という本を見つけた。
彼女は窓際のテーブルに座り、本を開いた。淡い黄色に変色したページには、様々な呪術や魔法の説明が書かれていた。心を操る魔術、記憶を封じる呪い、感情を抑える術…
「これは…」
セリーヌは一つの項目に目が留まった。『恋愛封じの呪術』と題された章だった。
恋愛封じの呪術は、主に貴族や王族が、従者や護衛が主人に不適切な感情を抱くことを防ぐために用いられる。対象者は恋愛感情を認識できなくなり、それに関連する行動や思考が抑制される。この呪術は対象者の意思に関わらず施すことができ、強力な呪術師によって行われる場合は、対象者自身が呪術にかけられていることにすら気づかない。
セリーヌの手が震えた。これはレオンの状態そのものではないか。彼は彼女の気持ちに気づかないだけでなく、自分自身の感情にすら気づいていないのかもしれない。
この呪術を解く方法は主従関係の完全な解消である。つまり、主人が従者を解雇するか、従者が主人から離れるかしなければならない。それ以外の方法では、呪術を解くことはできない。
「解雇…」セリーヌは小声で繰り返した。もし彼を解雇すれば、呪術は解けるかもしれない。しかし、そうすれば彼は館を去ることになる。彼女は彼と離れ離れになってしまう。
彼女はさらに読み進めた。
注意: 恋愛封じの呪術は他の心理操作の魔術と干渉することがある。特に記憶操作の呪術と併用すると、互いに作用し合い、予期せぬ結果を招くことがある。
記憶操作の呪術?セリーヌは息を呑んだ。もしレオンが記憶封じの呪術も受けているとしたら?彼の夢、雪の城、金の冠を持つ少年—それらは封じられた記憶の断片なのかもしれない。
彼女は急いでページをめくった。記憶封じの呪術についての章を探す。やがて、それを見つけた。
記憶封じの呪術は、しばしば保護のために用いられる。危険な状況から対象者を守るため、あるいは重要な秘密を守るために施される。この呪術は一時的なものとして設計されることが多く、特定の条件(時間の経過、特定の言葉の暗示、特定の場所への訪問など)が満たされると自然に解除される。
セリーヌは深く考え込んだ。もしレオンが記憶封じの呪術を受けているとしたら、それは何のためだろう。そして、彼を守るために誰がそれを施したのか。
「学院長…」彼女は突然思いついた。レオンはヴァレンシュタイン学院で育った。学院長の手紙の言葉—「いずれなすべきことがある。今はその時ではないが、時期が来ればわかるだろう」。それは記憶が戻る時のことを指しているのかもしれない。
彼女は次のページを読んだ。
もし複数の呪術が同時に施されている場合、それらは互いに干渉する可能性がある。特に、恋愛封じと記憶封じが同時に存在する場合、どちらも完全には機能せず、かといって完全には解けもしないという状態になりうる。この場合、一方の呪術を解かない限り、もう一方も完全には解除されない。
セリーヌは本を閉じ、窓の外を見つめた。もしレオンが恋愛封じと記憶封じの両方の呪術を受けているとしたら、彼の奇妙な振る舞いも説明がつく。彼が時折頭痛を起こすのは、封じられた記憶が表面に浮かび上がろうとしているからかもしれない。
《でも、なぜ彼が記憶封じを受ける必要があったの?》
セリーヌは父の言葉を思い出した。「レオンには使命がある」。彼は単なる従者ではないのかもしれない。では、彼は何者なのか。
彼女は本を元の場所に戻し、図書室を出た。頭の中は疑問でいっぱいだったが、一つだけ確かなことがあった。もしレオンが恋愛封じの呪術を受けているなら、彼が自分の本当の感情に気づくためには、彼を解雇する必要がある。
《でも、そうすれば彼は去ってしまう…》
廊下を歩きながら、セリーヌは葛藤していた。レオンを解放するために彼を手放すのか、それとも自分の側に留めるために彼の真の感情を抑え続けるのか。
彼女は庭園に出た。夏の陽光が花々を照らし、蝶が舞っていた。彼女はベンチに座り、深く息を吸った。
《何が彼のために最善なのだろう》
そのとき、父が庭園を横切っているのが見えた。彼はレオンと話しており、真剣な表情をしていた。二人は彼女に気づかず、館の裏手へと消えていった。
セリーヌは立ち上がり、二人を追いかけた。何か重要な話をしているようだった。彼女は物陰に隠れ、耳を澄ました。
「…グラディーン家が来たら、特に警戒するように」侯爵の声が聞こえた。「彼らは君のような人物を探している」
「私のような?」レオンが尋ねる声。
「そう」侯爵は言った。「特別な人物を」
「侯爵様、私には理解できません」レオンの声には混乱が滲んでいた。「私はただの従者です」
「今はそう思っていていい」侯爵の声は低く、確信に満ちていた。「だが、時が来れば全てがわかる」
セリーヌは身を隠しながら、耳を澄ました。父の言葉から、レオンは確かに特別な人物のようだ。でも、どういう意味で特別なのか。
「今夜、使者が学院から来る」侯爵が続けた。「学院長からの重要な知らせがあるそうだ」
「わかりました」レオンは答えた。「私は何をすべきですか?」
「今は、セリーヌを守ることだけを考えてくれ」侯爵は言った。「彼女はこの件に巻き込まれるべきではない」
セリーヌは息をひそめた。彼女を守るため?巻き込まれるべきではない?どういうことだろう。
「承知しました」レオンの声には固い決意が聞こえた。
二人の足音が遠ざかり、セリーヌは隠れ場所から出た。彼女の心は混乱と決意で満ちていた。何かが起ころうとしていることは明らかだ。そして、それはレオンと深く関わっている。
《私も知る権利があるわ》彼女は思った。《特に、レオンのことなら》
夕食の席で、セリーヌは父とレオンを観察していた。二人とも普段通りに振る舞っていたが、彼女には何か緊張感が漂っているように感じられた。
「明日の準備は全て整った」侯爵は会話を始めた。「グラディーン家は昼頃に到着する予定だ」
「イオルフ・グラディーンも?」セリーヌは確認した。
「ああ」侯爵は頷いた。「彼には特に気をつけるように。彼は父親よりも直接的で、時に無礼だ」
セリーヌは黙って頷いた。イオルフとは子供の頃に何度か会ったことがあり、彼の傲慢さと冷酷さを覚えていた。彼女は彼が嫌いだったが、政治的な理由から礼儀正しく接する必要があることは理解していた。
夕食後、セリーヌは自室に戻り、窓から学院の方角を眺めた。使者が来るとしたら、この道を通るはずだ。
「お嬢様」リリスが入ってきた。「準備はいかがですか?」
「ええ」セリーヌは振り返らずに答えた。「リリス、今日図書室で興味深いことを見つけたの」
「それは?」
「恋愛封じの呪術について」セリーヌは言った。「主に貴族が従者に施す魔術よ」
リリスは息を呑んだ。「まさか、レオン様が…」
「可能性はあるわ」セリーヌは振り返った。「そして、それが記憶封じの呪術と干渉しているかもしれない」
「記憶封じ?」リリスの目が丸くなった。「彼は自分の記憶も封じられているというの?」
「そう思うの」セリーヌは窓辺を離れ、ベッドの端に座った。「彼の夢、頭痛、そして父上の態度…全てがそれを示唆しているわ」
「でも、なぜ?」
「それはまだわからない」セリーヌは正直に答えた。「でも、明日から変化が始まるような気がする」
リリスは彼女の隣に座った。「そして、恋愛封じを解くには…」
「解雇するしかないの」セリーヌは静かに言った。「彼を自由にしなければ、彼は本当の自分を取り戻せない」
「お嬢様…」リリスは心配そうに彼女を見た。
「でも、そうすれば彼は去ってしまう」セリーヌの声が震えた。「私は彼と離れ離れになってしまう」
リリスは優しく彼女の手を握った。「お嬢様が本当に彼を愛しているなら、彼の幸せを第一に考えるべきではありませんか?」
セリーヌは涙が目に溢れるのを感じた。「わかっているわ。でも、辛いの」
「真実の愛は時に犠牲を伴います」リリスは優しく言った。「彼を本当に自由にするなら、彼を手放す勇気も必要です」
セリーヌは黙って頷いた。リリスの言うことは正しい。自分の感情だけを考えるのは利己的だ。レオンが本当の自分を取り戻せるよう、彼を解放すべきなのだろう。
「まずは、今夜の使者を待ってみましょう」リリスは言った。「学院長からの知らせで、状況が変わるかもしれません」
「そうね」セリーヌは同意した。「待ってみましょう」
その夜遅く、セリーヌは眠れずにいた。窓辺に立ち、星空を見上げながら、明日の訪問と今夜の使者について考えていた。
突然、遠くに松明の灯りが見えた。馬に乗った人影が館に近づいている。使者だろうか。
セリーヌは急いでショールを羽織り、部屋を出た。廊下は静まり返っており、彼女の足音だけが響いていた。階段を下り、玄関ホールの陰に隠れる。まもなく、玄関の扉が開き、侯爵と執事のヘンリーが外に出ていった。
しばらくして、彼らは一人の男を連れて戻ってきた。男は旅の埃を被り、疲れた様子だったが、その目は鋭く光っていた。
「すぐに書斎へ」侯爵が言った。「レオンも呼べ」
ヘンリーが急いで去り、侯爵と使者は書斎へと向かった。セリーヌは陰から出て、彼らを追いかけた。しかし、彼らが書斎に入ると、扉はしっかりと閉められた。
セリーヌは迷った。盗み聞きをするべきではないことはわかっていた。しかし、レオンのことが関わっているなら、彼女も知る権利があるはずだ。
彼女は静かに書斎の扉に近づき、耳を当てた。中からは低い声が聞こえたが、言葉を区別することはできなかった。ただ、時折「危険」「時期」「準備」といった単語だけが聞き取れた。
やがて、廊下の向こうからレオンの足音が聞こえてきた。セリーヌは慌てて物陰に隠れた。レオンは書斎の扉をノックし、中に入っていった。
セリーヌは心臓が早鐘を打つのを感じながら、再び扉に耳を当てた。
「…王子の帰還の時が来た」使者の声がはっきりと聞こえた。
王子?どういうことだろう。
「準備はできているのか?」侯爵の声。
「はい、全て整っています」使者が答えた。「しかし、グラディーン家が動き始めています。彼らの魔道士アザゼルが各地を回っています」
「彼らは何を探しているのですか?」これはレオンの声だった。
「あなたです、王子殿下」
セリーヌは息を呑んだ。王子殿下?レオンが王子?
もはや隠れていることはできなかった。セリーヌは扉を開け、書斎に入った。
「父上、何が起きているの?」
三人の男性は驚いて振り返った。
「セリーヌ!」侯爵は怒ったように言った。「ここで何をしている?」
「レオンについての真実を知りたいの」彼女はきっぱりと言った。「彼は王子なの?」
部屋は一瞬静まり返った。レオンは混乱した表情で彼女を見ていた。
「セリーヌ様…」彼は言葉を失っているようだった。
「彼はまだ真実を知らない」侯爵が静かに説明した。「彼の記憶は封印されている」
使者が一歩前に出た。「私はヴァレンシュタイン学院の使者、マーカスと申します」彼は丁寧に頭を下げた。「そして、あなたの前に立っているのは、レオハルト・アウレリアン・オルシニ王子です。エドガー王の第二王子にして、現在では唯一の王位継承者です」
セリーヌの目が大きく見開かれた。レオン—いや、レオハルトが第二王子? 十年前に暗殺されたと思われていた王子?
「私が…王子?」レオンの声は震えていた。「それは不可能です。私は孤児で、平民です」
「それは記憶封じの呪術のためです」マーカスは言った。「あなたを守るため、ルドルフ学院長があなたの記憶を封印し、平民として育てたのです」
レオンは頭を抱えた。彼の顔には痛みの色が浮かんでいた。「私の夢…雪の城と金の冠…」
「オルシニ城です」マーカスは頷いた。「あなたが育った城。そして金の冠はオルシニ家の王冠です」
セリーヌは父を見た。「父上、あなたは知っていたの?」
「ああ」侯爵は静かに認めた。「ルドルフから真実を聞いていた。レオンが来たのは偶然ではない。彼を保護するために、我が家に迎えたのだ」
「そして、彼に恋愛封じの呪術をかけたの?」セリーヌは怒りをあらわにした。
侯爵は驚いたように見えた。「何を…」
「図書室で読んだわ」セリーヌは言った。「恋愛封じと記憶封じの呪術が干渉して、どちらも完全には解けない状態になっているの」
マーカスは驚いた様子で侯爵を見た。「恋愛封じの呪術ですか?」
侯爵は深くため息をついた。「ギデオン呪術師が、レオンが従者として来た時に施したものだ。彼の本来の記憶が封印されていることを知らずに…」
「それが原因でしたか」マーカスは言った。「二重の呪術が互いに干渉しています。だから記憶封じの呪術が時期が来ても解けなかったのです」
レオンは混乱のあまり、椅子に腰を下ろした。「私には理解できません…全てが…」
セリーヌは彼に近づき、優しく肩に手を置いた。「大丈夫よ、レオン」
「彼の記憶を戻すには」マーカスは続けた。「まず恋愛封じの呪術を解く必要があります」
「どうすれば?」セリーヌが尋ねた。
「主従関係を解消する必要があります」マーカスは言った。「つまり、あなたが彼を解雇するか、彼があなたの元を去るかしなければなりません」
セリーヌの心に怯えにも似た痛みが走った。「彼を…解雇しなければならないの?」
「それが最善の道です」マーカスは優しく言った。「彼本来の記憶が戻れば、彼は自分が王子であることを思い出し、国を取り戻す使命を果たすことができます」
セリーヌは黙って頷いた。彼女の目には涙が光っていた。
「セリーヌ」侯爵が娘に近づいた。「つらいだろうが、これが彼のためなのだ」
「わかってるわ」彼女は静かに言った。「だからこそ、彼を解放する…」
レオンは混乱しながらも、少しずつ状況を理解し始めていた。「私が王子だとして、なぜ記憶を封印する必要があったのですか?」
「十年前」マーカスが説明した。「王位継承をめぐる争いが起き、あなたの兄弟は暗殺されました。あなたを守るため、学院長は記憶を封印し、平民として育てることにしたのです」
「そして、時期が来たら…」
「はい、王として国に戻る時が来たのです」マーカスは厳かに言った。「グラディーン家が動き始めたのは、その兆候です。彼らは真の王の帰還を恐れているのです」
セリーヌは窓の外を見た。明日、グラディーン家が来る。彼らはレオンを探しているのかもしれない。
「今夜、決断しなければなりません」マーカスは言った。「恋愛封じの呪術を解き、王子の記憶を取り戻させるか、このままの状態を続けるか」
部屋は静まり返った。全ての目がセリーヌに向けられていた。彼女は深く息を吸い、覚悟を決めた。
「レオン…いいえ、レオハルト王子」彼女は声を震わせながらも、堂々と言った。「私はあなたを解雇します。あなたは今日をもって、私の従者ではありません」
レオンの目が見開かれた。「セリーヌ様…」
「これはあなたの本当の自分を取り戻すため」彼女は微笑もうとしたが、涙が頬を伝った。「あなたには使命があるのよ」
突然、レオンの体が光に包まれた。彼は苦痛の表情を浮かべ、頭を抱えた。
「始まった」マーカスが呟いた。「恋愛封じの呪術が解け、記憶も戻り始めています」
レオンは床に膝をつき、うめき声を上げた。セリーヌは駆け寄ろうとしたが、侯爵に止められた。
「触れてはいけない」侯爵は言った。「呪術が解ける過程だ」
光はさらに強くなり、部屋全体を照らした。レオンの周りに、金色の霧のようなものが渦巻いている。
「覚えています…」レオンの声は変わり始めていた。より深く、威厳のある声に。「私は…レオハルト・アウレリアン・オルシニ…第二王子…」
光が徐々に弱まり、レオンは立ち上がった。彼の姿勢は以前と違っていた。より堂々として、威厳に満ちていた。彼の目はセリーヌを見つめていた。
「セリーヌ」彼は彼女の名前を呼んだ。もはや「様」はついていない。
「レオン…いいえ、レオハルト」彼女は涙を拭った。
「ありがとう」彼は静かに言った。「あなたは私を解放してくれた。恋愛封じの呪術から、そして偽りの自分から」
「あなたの記憶は戻った?」彼女は尋ねた。
「まだ完全ではない」彼は答えた。「断片的だ。しかし、私が誰であるかは覚えている。そして…」
彼は一歩近づいた。
「あなたへの感情も」
セリーヌの心臓が激しく鼓動した。「私への…」
「恋愛封じの呪術があっても、どこかであなたを大切に思っていた」彼は静かに言った。「それは芽生え始めていた感情だった。だから、時折頭痛がしたのだろう」
セリーヌは言葉を失った。彼の目には、これまで見たことのない光があった。そこには愛情が宿っていた。
「しかし」レオハルトは表情を引き締めた。「私には使命がある。王国に戻り、私の権利を主張しなければならない」
「そうね」セリーヌは理解を示した。「あなたは王子なのだから」
「その前に」マーカスが言った。「グラディーン家の訪問があります。彼らはすでにレオハルト王子を探していると思われます」
「彼らはここに来る」侯爵が言った。「そして、彼らが去るまで、レオンの正体は隠し通さなければならない」
「でも、彼はもう私の従者ではないわ」セリーヌが指摘した。「彼の立場は?」
「私は明日、旅立つことにする」レオハルトは言った。「学院に戻り、残りの記憶を取り戻す。そして、王としての準備をする」
セリーヌの心が沈んだ。彼は去っていくのだ。もう彼に会えないかもしれない。
「グラディーン家に会わせるのは危険です」マーカスは同意した。「特に魔道士アザゼルが同行しているなら」
「明朝早く、出発します」レオハルトは決めた。「彼らが到着する前に」
侯爵は頷いた。「それが賢明だろう」
セリーヌは窓際に歩み寄った。明日、レオンは去る。そして、彼は二度と戻ってこないかもしれない。彼は王子となり、国を治める立場になるのだ。一介の侯爵の娘などは忘れてしまうかもしれない。
「セリーヌ」レオハルトが彼女に近づいた。「今夜、話をしたい」
彼女は振り返った。「ええ、私も」
侯爵とマーカスは顔を見合わせ、静かに部屋を出た。扉が閉まり、二人は一人きりになった。
「私は明日、去らなければならない」レオハルトは言った。「しかし、あなたに約束したい」
「約束?」
「必ず戻ってくる」彼は真剣な表情で言った。「記憶は断片的だが、私たちには過去があるような気がする。修道院の中庭で、赤いバラの下で…」
セリーヌは息を呑んだ。「あなたの夢と同じ…」
「それは単なる夢ではなかったのかもしれない」彼は静かに言った。「実際の記憶の断片かもしれない」
「でも、どうして私が?」セリーヌは首を傾げた。「私たちはそれほど昔から知り合いだったの?」
「わからない」レオハルトは正直に答えた。「しかし、あなたを見たとき、最初から何か特別なものを感じていた。それが恋愛封じの呪術によって抑えられていただけなのだ」
セリーヌの心は希望と不安で揺れた。彼は自分の感情を認めてくれたが、明日には去ってしまう。そして彼は王子なのだ。
「レオハルト」彼女は思い切って彼の本当の名前を呼んだ。「あなたが去っても、私はあなたを待つわ」
「だが、それは難しいことかも知れない」彼は悲しげに言った。「私が国に戻れば、危険な闘いが待っている。グラディーン家のような敵もいる。あなたを危険に巻き込むわけにはいかない」
「でも、私は…」彼女は言いかけたが、彼が指を彼女の唇に当てた。
「聞いて欲しい」彼は真剣な表情で言った。「私は王としての義務を果たさなければならない。しかし、それが終わったら…」
彼は彼女の手を取った。
「私はあなたのもとに戻る。そして、正式にあなたに求婚する」
セリーヌの目に涙が溢れた。「本当に?」
「約束する」彼は静かに言った。「星に誓って」
その言葉に、セリーヌは思わず微笑んだ。「それは夢の中の言葉…」
「そう」彼も微笑んだ。「私たちはどこかで約束を交わしたのかもしれない。その約束を守るつもりだ」
セリーヌは彼に近づき、抱きしめた。もう主従関係はない。彼女は単にセリーヌであり、彼は単にレオハルトだった。
「気をつけて」彼女は彼の胸に顔を埋めながら言った。「必ず無事で戻ってきて」
「約束する」彼は彼女の髪に軽くキスをした。「そして、その時には全ての記憶を取り戻している」
二人は窓辺に立ち、星空を見上げた。明日から彼らの運命は大きく変わる。レオハルトは王位を取り戻すための旅に出て、セリーヌは彼の帰りを待つ。それは困難な道程になるだろうが、二人の心には希望の灯が灯っていた。
「星に誓って」セリーヌは静かに繰り返した。「私もあなたを待つと誓うわ」
彼らの上には、北極星が静かに輝いていた。二人の誓いの証人として。