危険な恋文
セリーヌは自室の机に向かい、小さなため息をついた。窓から差し込む朝の光が、彼女の前に置かれた淡いピンク色の便箋を照らしている。彼女はペンを持ち、しばらく考え込んだ後、流麗な文字で書き始めた。
「あなたを初めて見た日から、私の心はあなたのものになりました」
セリーヌは言葉を選びながら、ゆっくりと便箋を埋めていった。時折、頬が熱くなるのを感じる。
「どうかしているかも。自分宛てのラブレターを書いているなんて...」彼女は小さく笑いながら呟いた。
そこに、ノックの音が響いた。
「お嬢様、朝の準備ができました」リリスの声がドアの向こうから聞こえた。
セリーヌは慌てて便箋を引き出しに隠した。「今行くわ!」
ドアを開けると、リリスが疑わしげな表情で立っていた。彼女の鋭い目は、セリーヌの少し上気した頬を見逃さなかった。
「お嬢様、何か秘密のことでも?」
「ちょっとした...作戦よ」セリーヌは意味ありげに微笑んだ。
リリスはすぐに察したようで、眉を上げた。「まさか、レオン様に関することでは?」
「後で教えるわ」セリーヌは小声で言った。「誰にも聞かれない場所で」
廊下を歩きながら、リリスは館の様子を報告した。「グラディーン家の訪問まであと数日となり、館は準備で大忙しです。侯爵様も朝から政務室で書類を確認されています」
セリーヌは頷いた。グラディーン家の訪問は政治的に重要な出来事だった。特に若きイオルフ・グラディーンは野心家として知られており、父はその対応に神経を尖らせていた。
朝食の席で、セリーヌは時折レオンの方を見やった。彼はいつものように部屋の隅に立ち、完璧な姿勢で警戒を怠らない。彼の真摯な表情と凛とした佇まいが、彼女の心をさらに引き締めた。
「セリーヌ」侯爵が声をかけた。「グラディーン家の訪問に備えて、特に気をつけるよう心がけてほしい。イオルフは君に特別な関心を持っているようだ」
「わかっています、父上」セリーヌは丁寧に答えた。彼女は内心、イオルフの存在を気にかけていた。子供の頃から彼の冷酷な目と傲慢な態度が苦手だった。
朝食後、セリーヌは自室に戻り、机の引き出しから便箋を取り出した。彼女はさらに文章を書き足し、最後に「あなたを遠くから見つめる者より」と締めくくった。文字は普段とは違う筆跡で、誰が書いたものかわからないように細心の注意を払った。
「これで完成...」
セリーヌは便箋を淡い青色の封筒に入れ、封をした。表面には「セリーヌ・ド・ヴァランティーヌ様」と丁寧に宛名を書いた。彼女はリリスを呼び、こっそりと計画を打ち明けた。
「これを明日の朝、私の朝食の席に届けてほしいの。普通に使用人が外から届いた手紙を持ってきたように」
リリスは封筒を見て、小さく笑った。「わかりました。でも、本当にこれでレオン様が嫉妬すると思いますか?」
「嫉妬するかどうかはわからないけど、何か反応があるはずよ」セリーヌは自信なさげに言った。「彼が私のことをどう思っているか、少しでも知りたいの」
「お嬢様」リリスは真剣な表情になった。「もし侯爵様が詮索なさったら?グラディーン家の訪問を前に、館は緊張していますよ」
「大丈夫よ」セリーヌは軽く手を振った。「単なるラブレターだとわかれば、父上も気にしないわ」
リリスは不安そうに眉をひそめたが、それ以上は何も言わなかった。
翌朝、計画通りにリリスが朝食の席にラブレターを届けた。彼女はそれを銀の小さな盆に載せ、従者らしい完璧な姿勢で運んできた。
「お嬢様、お手紙が届いております」リリスは演技とも思えないほど自然な口調で言った。
セリーヌは演技で驚いた様子を見せ、「まあ、誰からかしら?」と言いながら封筒を受け取った。彼女の目は一瞬、部屋の隅に立つレオンを捉えた。彼はいつもの無表情だが、わずかに眉を寄せている。
セリーヌは封筒を開け、中の便箋を取り出した。本人が書いたものだとわかっていても、なぜか緊張する。彼女は手紙を読み進め、時折頬を赤らめる演技をした。
「セリーヌ、何かあったのかな?」侯爵が朝食を中断して尋ねた。彼の声には珍しく緊張が滲んでいた。
「これは...」セリーヌは少し恥ずかしそうに父親を見た。「誰かからのラブレターみたいです」
「ラブレター?」侯爵は眉をひそめた。「今この時期に?差出人は?」
「名前はありません」セリーヌは手紙を折りたたんだ。「『あなたを遠くから見つめる者より』とだけ」
「見せなさい」侯爵の声が急に厳しくなった。セリーヌは驚いて、父親に手紙を渡した。
侯爵は手紙を細かく読み、その表情はますます暗くなっていった。「これは普通のラブレターではない」
「どういうことですか、父上?」セリーヌは演技を続けるのが難しくなってきた。
「グラディーン家の訪問を前に、匿名の手紙が届くというのは偶然とは思えん」侯爵は立ち上がり、脇に控えていた警備長のサムエルを呼んだ。「館の警備を強化しろ。特に東翼と西翼の巡回を増やせ」
「父上、そこまでする必要が...」セリーヌは言いかけたが、侯爵の表情の厳しさに言葉を飲み込んだ。
「レオン」侯爵が呼びかけた。「これを調査してほしい。差出人の素性を」
「承知しました」レオンは深く頭を下げた。
「そして、セリーヌから離れるな」侯爵は厳しく命じた。「セリーヌの安全を最優先に考えよ」
「かしこまりました」レオンはさらに深く頭を下げた。
朝食後、館は一気に緊張感に包まれた。警備の兵士たちが増員され、館の周囲を巡回し始めた。庭園に出るときも従者が付き添い、窓は全て確認され、いくつかは頑丈に閉められた。
レオンはセリーヌのすぐ後ろにつき、彼女が移動するたびに警戒の目を光らせた。セリーヌは少しずつ不安になってきた。彼女の無邪気な恋の策略が、館全体の騒動に発展していた。
「お嬢様」レオンは静かに声をかけた。「その手紙を詳しく拝見してもよろしいでしょうか」
セリーヌは少し動揺した。これは彼女が期待した反応だったが、レオンの表情には嫉妬の色は全くなく、ただ真剣な警戒心だけが見て取れた。
「どうぞ」彼女は手紙を差し出した。
レオンは手紙を丁寧に読み、眉をさらに寄せた。「これは懸念すべき事態です」
「懸念?」セリーヌは予想外の反応に驚いた。「どういう意味?」
「このような匿名の手紙は、単なる恋愛感情の表現とは限りません」レオンは厳格な調子で言った。「グラディーン家の訪問を前に、何者かがお嬢様に接近しようとしている可能性があります。政治的な目的、あるいはもっと危険な意図かもしれません」
セリーヌは言葉を失った。彼女の無邪気な恋の策略が、まったく予想外の方向に進んでいた。
「しばらくの間、私はお嬢様のそばを離れないようにします」レオンはきっぱりと言った。「この手紙の差出人が再び接触を試みる可能性があります」
「そ、そんな...」セリーヌは言葉を詰まらせた。「単なるラブレターかもしれないのに」
「いかなる可能性も排除できません」レオンは真剣な眼差しでセリーヌを見つめた。「お嬢様の安全が最優先です」
その日の午後、警備長のサムエルは館の全従者を集め、緊急会議を開いた。大広間に集まった従者たちの表情は緊張に満ちていた。
「グラディーン家の訪問まであと四日」サムエルの声は低く厳しかった。「この時期に侯爵令嬢宛ての匿名の手紙が届いたということは、何者かが館に接近しようとしている可能性がある。全員が通常以上に警戒を怠らないように」
集まった従者たちがざわめいた。レオンは静かにセリーヌの傍に立ち、周囲を注意深く観察していた。
「今後、館への出入りはより厳しく管理する」サムエルは続けた。「不審な人物や物を見かけた場合は、即座に報告するように」
セリーヌは申し訳なさと驚きで胸がいっぱいだった。彼女の単純な計画がこれほどまでに大きな騒ぎになるとは思ってもみなかった。しかし、今さら真実を告白するには状況が手遅れのように思えた。
「リリス」彼女は侍女に小声で言った。「どうしたらいいの?」
「真実を伝えるべきです」リリスも小声で答えた。「このまま館の警備が強化され続ければ、グラディーン家が到着したときに不必要な緊張を生むでしょう」
セリーヌは悩んだ末、父親に真実を打ち明けることを決意した。夕食後、彼女は父の書斎を訪ねた。
「入りなさい」侯爵の声が扉の向こうから聞こえた。
セリーヌは緊張しながら書斎に入った。父は大きな机に向かって座り、目の前には地図と書類が広げられていた。窓の外は既に暗く、書斎の中は暖かい灯りで照らされていた。
「父上、お話があります」セリーヌは勇気を出して言った。
「何かあったのか?」侯爵は娘の表情を見て、ペンを置いた。
「あのラブレターについてです」セリーヌは深呼吸をした。「実は...あれは私が書いたものなんです」
侯爵の表情が驚きに変わった。「自分で自分宛てに?なぜそんなことを?」
「レオンに...反応を見せてほしかったのです」セリーヌは恥ずかしさのあまり目を伏せた。「彼が嫉妬するかどうか知りたくて」
侯爵は一瞬呆然としていたが、やがて大きなため息をついた。「セリーヌ...今この時期に館を騒がせるなんて」
「申し訳ありません」セリーヌは心から謝った。「こんなに大事になるとは思いませんでした」
侯爵は額に手を当て、しばらく黙っていた。そして、意外にも小さな笑みを浮かべた。「まったく、若い恋とはそういうものなのかもしれないな」
「怒っていませんか?」セリーヌは恐る恐る尋ねた。
「怒っているよ」侯爵はきっぱりと言ったが、その目には優しさがあった。「しかし、正直に打ち明けてくれたことには感謝する」
侯爵は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。月明かりが庭園を銀色に染めている。
「レオンに嫉妬してほしかったというのは、つまり...」
「はい」セリーヌは小さく答えた。「私は彼のことを...特別に思っています」
侯爵は窓から庭園を見下ろし、沈黙した。「難しいだろうな」
「何がですか?」
「レオンは非常に職務に忠実な男だ」侯爵は振り返った。「彼の目にはセリーヌは『守るべき主人』であって、それ以上の感情を抱くことは難しいかもしれない」
セリーヌの心に小さな痛みが走った。「それは...」
「彼は誠実で優秀な従者だ」侯爵は続けた。「しかし、時に彼の忠誠心は他の感情を圧倒してしまうのかもしれん。彼の心を射止めるのは容易ではないだろう」
セリーヌは窓の外を見た。月明かりの下、レオンが庭園を巡回している姿が見えた。彼の姿勢は堂々としており、まるで彼女を守るためだけに存在しているかのようだった。
「それでも...諦めません」セリーヌは静かに決意を述べた。
侯爵は娘の強い意志を感じ、小さく微笑んだ。「とにかく、今回の件は館の警備を解くよう指示しよう。グラディーン家の訪問を前に、不必要な緊張は避けたい」
「ありがとうございます、父上」
侯爵は書斎を出て、警備長のサムエルを呼んだ。セリーヌは書斎の中で待ち、父親がサムエルとレオンに状況を説明する声が聞こえてきた。彼女は恥ずかしさと安堵感が入り混じる中、窓辺に立ち続けた。
しばらくして、ノックの音がし、レオンが書斎に入ってきた。
「セリーヌ様」彼は厳格な表情で言った。「侯爵様から状況を伺いました」
「レオン...」セリーヌは振り返ったが、彼の目を見ることができなかった。「ごめんなさい、こんな騒ぎになって」
レオンは黙って頭を下げた。「警戒態勢は解除されましたが、グラディーン家の訪問を前に、通常の警備は続けます」
「わかったわ」セリーヌはレオンの無表情さに少し失望した。彼が怒ったり、困惑したり、あるいは少しでも動揺する様子を見せてくれたらと思ったが、彼はあくまで従者として完璧な態度を保っていた。
「それでは」レオンは丁重に一礼した。「失礼いたします」
彼が去った後、セリーヌは一人書斎に残された。父の言葉が彼女の心に響いた。「彼の心を射止めるのは容易ではない」 — 確かにその通りだった。レオンの心には何か強固な壁があるようだった。それは単なる職務への忠誠心なのか、それとも別の何かなのか。
翌朝、館は通常の静けさを取り戻していた。増員された警備は元の状態に戻り、締め切られていた窓も再び開けられた。従者たちの間では、昨日の騒ぎを笑い話にする声も聞こえてきた。
「お嬢様」朝食の時間に、リリスが小声で言った。「レオン様の様子は変わりませんか?」
「変わらないわ」セリーヌは少し落胆した様子で答えた。「相変わらず完璧な従者よ」
「でも」リリスは意味深げに付け加えた。「彼、今朝早くからお嬢様の窓の下で剣の稽古をしていましたよ。普段より長く」
「本当?」セリーヌの目が輝いた。
朝食後、セリーヌは庭園で読書をすることにした。レオンは彼女から適度な距離を保ちながら、静かに見守っていた。
「レオン」セリーヌは本から目を上げて呼びかけた。「昨日のことは本当に申し訳なかったわ」
「気にしないでください」彼は丁寧に答えた。「私の役目はお嬢様の安全を守ることです。どのような状況でも」
「それだけ?」セリーヌは思わず尋ねた。「私はただの『守るべき対象』なの?」
レオンは僅かに眉を上げ、困惑した様子を見せた。「お嬢様は私の主人です。あなたに忠誠を誓うことが私の使命です」
セリーヌはため息をついた。父の言葉は正しかった。レオンの心を動かすのは、想像以上に難しそうだった。
「わかったわ」彼女は微笑みを取り戻そうとした。「あなたはいつも誠実ね」
その日の午後、セリーヌは父から呼び出された。
「グラディーン家の到着は明後日に変更になった」侯爵は言った。「準備を急がせる必要がある」
「わかりました」セリーヌは頷いた。「私にできることがあれば」
「晩餐会の座席配置だ」侯爵は言った。「イオルフをどこに座らせるか、考えてほしい」
「はい、父上」
政治的な座席配置を考えながら、セリーヌの心はレオンのことで一杯だった。彼の心の壁を崩すには、もっと違うアプローチが必要かもしれない。
「お嬢様」リリスが書斎に入ってきた。「レオン様から伝言です。グラディーン家の到着に備えて、警備の最終確認をするので、明日の朝、お時間をいただけないかとのことです」
「もちろん」セリーヌは頷いた。「伝えておいて」
リリスは去る前に、小さく微笑んだ。「諦めないでくださいね」
「ええ、もちろんよ」セリーヌは力強く答えた。「私はまだ始まったばかりなの」
夕暮れ時、セリーヌは館の塔から夕日を眺めていた。遠くの山々が赤く染まり、美しい光景が広がっていた。彼女の心は少し落ち着いていた。
「レオンの心はきっと、この夕日のように美しいはず」彼女は独り言を呟いた。「いつか必ず、その光を見せてくれる日が来るわ」
彼女がそう思っていると、階段を登ってくる足音が聞こえた。振り返ると、レオンがそこに立っていた。
「お嬢様、日が暮れてきました。中へお戻りください」
「あなたはこの夕日をどう思う?」セリーヌは突然尋ねた。
「夕日ですか?」レオンは少し戸惑った様子だったが、視線を夕日に向けた。「美しいですね」
「それだけ?他に何も感じない?」
レオンは夕日をじっと見つめた。そして、セリーヌが今まで見たことのない、少し遠い目をした。「時々...何か忘れているような気がすることがあります。特に夕日を見ると」
セリーヌの心臓が高鳴った。「忘れていること?どんなこと?」
「わかりません」レオンは首を振った。「ただの気のせいでしょう」
彼の表情はすぐに従者らしい厳格さを取り戻した。「お嬢様、そろそろ館にお戻りください。晩餐の時間です」
セリーヌは小さく微笑んだ。レオンの心の壁には小さな亀裂があるようだった。それを広げるのは容易ではないだろうが、決して不可能ではない。
「ええ、戻りましょう」彼女は立ち上がり、レオンと共に塔を降りていった。
館の窓からは、最後の夕日の光が差し込んでいた。それはまるで、これから始まる新たな物語の前兆のようだった。
その夜、セリーヌはベッドに横になりながら、今日の出来事を振り返った。
「次は何をしようかしら」彼女は小さく笑った。「もう少し賢い方法を考えないと」
窓の外には満月が輝き、庭園を銀色に染めていた。その光の中で、誰かが剣を振るう影が見えた。レオンだった。彼はこんな夜更けにも、剣の稽古をしていた。
セリーヌは窓辺に立ち、彼の姿を見つめた。彼の動きは流れるように美しく、月明かりに照らされた剣が銀の光を放っていた。
「レオン...」彼女は小さく呟いた。「あなたの心は誰のもの?」
質問の答えを知るには、まだ時間がかかるだろう。しかし、セリーヌには忍耐があった。彼女は月明かりの下、静かに微笑んだ。