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侯爵令嬢の秘めた思い

朝日が窓から差し込み、部屋を黄金色に染めていた。セリーヌ・ド・ヴァランティーヌは目を覚ますと、ゆっくりと起き上がり、窓辺に立った。彼女の寝室からは、ヴァランティーヌ家の広大な庭園と、その向こうに広がる森が見渡せる。鳥のさえずりが朝の静けさを心地よく破っていた。


《もう二週間が過ぎたのね》


彼女は窓ガラスに映る自分の姿を見つめながら、心の中で呟いた。レオン・ラグランが侯爵家にやってきてから二週間。彼の誠実な眼差し、礼儀正しい物腰、そして何より、その純粋な忠誠心に、彼女はすっかり心を奪われていた。


《でも、彼は何も気づいていない》


セリーヌはため息をついた。自分の感情を隠すべきだとわかっていた。貴族の娘と平民の従者—それは許されない関係のはずだった。しかし、心は理性に従わない。レオンの姿を見るたび、彼の声を聞くたび、彼女の胸は高鳴り、頬は熱くなった。


「お嬢様、おはようございます」

ノックの音とともに、リリスの声が聞こえた。セリーヌは自分の感情を隠すように表情を整え、扉を開けた。

「おはよう、リリス」


侍女のリリスは既に完璧に身支度を整え、朝の活気に満ちていた。彼女の手には朝の衣装が掛けられていた。淡い緑のドレスで、胸元には白い刺繍が施されている。


「今日は素敵な天気ですね」リリスは窓の外を見ながら言った。「レオン様も既に起きて、訓練場で剣の稽古をされていましたよ」

セリーヌの心が躍った。「本当?もう起きているの?」

リリスは意味ありげに微笑んだ。「ええ。毎朝、日の出と共に起きて稽古されているそうです。私が朝の水を汲みに行ったとき、偶然見かけました」


彼女は言葉を切り、セリーヌの髪を整え始めた。「とても真面目な方ですね。お嬢様の護衛として申し分ない」

「ええ、そうね」セリーヌは鏡越しに自分の表情を確かめた。頬が少し赤くなっているのがわかる。

「お嬢様」リリスは突然声を落とした。「私に隠し事をなさるのですか?」


セリーヌは驚いて振り返った。「何のこと?」

「レオン様のことです」リリスは直接的に言った。「お嬢様が彼に特別な感情を抱いていることは、私には明らかです」

セリーヌは一瞬言葉を失った。そんなに分かりやすかったのだろうか。彼女は深く息を吸い、ベッドの端に腰掛けた。


「そんなに明らかなの?」彼女はようやく認めた。

リリスは優しく微笑んだ。「私にとってはね。お嬢様の側に十年以上いますもの。あなたの心の動きは手に取るようにわかります」

セリーヌは両手で顔を覆った。「恥ずかしい…父上に気づかれたらどうしよう」

「ご安心を」リリスは彼女の隣に座った。「侯爵様は政務に忙しく、そういった細かな感情の機微には気づきにくいお方です」


「でも、レオンは…」セリーヌは言葉を切った。

「ええ、彼も気づいていませんね」リリスは小さく笑った。「彼の鈍感さには驚くばかりです」

セリーヌも思わず笑みを浮かべた。確かに、彼女がどれだけ明らかなサインを送っても、レオンは全く気づかない。彼女の頬の赤みを見ても「体調が悪いのでは」と心配し、彼女が意図的に二人きりの時間を作ろうとしても、単なる主従の時間だと受け取る。


「どうすればいいのかしら」セリーヌは窓の外を見つめた。「私の気持ちを伝えるべき?でも、身分違いだし…」

「お嬢様」リリスは真剣な面持ちになった。「あなたの幸せが何よりも大切です。でも、慎重に考えるべきです。貴族と平民の恋愛は…」


「わかっているわ」セリーヌは立ち上がった。「でも、心は既に決めているの。この感情を大切にしたい」

リリスは深く頷いた。「それなら、私はお嬢様の味方です。どんな選択をされても」

「ありがとう、リリス」セリーヌは心からの感謝を込めて言った。彼女には友人が少なく、リリスの存在は何よりも心強かった。


朝食の準備を終え、二人は食堂へと向かった。廊下を歩きながら、セリーヌは自分の感情を整理しようとしていた。

《私はレオンを愛している》彼女は自分自身に正直に向き合った。《これは一時的な感情ではない。彼の誠実さ、強さ、純粋さ—全てが私の心を捉えて離さない》


しかし同時に、彼女は現実も理解していた。侯爵の娘が平民の従者を愛するなど、社会的には許されないことだった。父は彼女の幸せを願っているが、それでも身分相応の相手と結婚することを期待しているはずだ。


廊下の角を曲がると、レオンの姿が見えた。彼は窓辺に立ち、外の景色を眺めていた。朝日が彼の横顔を照らし、その凛々しい姿はまるで絵画の中の騎士のようだった。

セリーヌの心臓が高鳴った。《落ち着いて》彼女は自分に言い聞かせた。《普通に振る舞うの》

「おはよう、レオン」彼女はできるだけ自然に声をかけた。

レオンは振り返り、深く頭を下げた。「おはようございます、セリーヌ様」


「今日は良い天気ね」セリーヌは窓の外を指さした。「昨日の雨もすっかり上がって」

「はい、庭園の花々も生き生きとしています」レオンは微笑んだ。その笑顔に、セリーヌの心はさらに乱れた。

「そうね」彼女は視線をそらした。「今日の予定は?」

「午前中は音楽の先生が来られ、午後は父上から歴史の書物について教わる予定だと伺っています」

「ああ、そうだったわ」セリーヌは頷いた。「それから、夕方には…」

「庭園での散歩です」レオンが続けた。「毎日の習慣ですね」

「ええ」彼女は嬉しそうに微笑んだ。「あなたの記憶力には感心するわ」


彼は謙虚に頭を下げた。「主人の予定を把握することは、従者の基本的な務めです」

《従者としての務め》その言葉に、セリーヌの心に小さな痛みが走った。彼にとって、私はただの主人なのね。


朝食の間、アルベール侯爵は黙々と食事をしながら書類に目を通していた。セリーヌは時折、レオンに視線を送った。彼は部屋の隅に立ち、完璧な姿勢で待機している。彼の存在が、この部屋に安心感をもたらしていた。


「セリーヌ」突然、侯爵が声をかけた。「来週、グラディーン伯爵家が訪問する。彼らの息子イオルフも同行する」

セリーヌの表情が曇った。「イオルフ…」

「ああ」侯爵は頷いた。「彼もすっかり大人になった。政治的にも力をつけている。良い関係を築くべき相手だ」


セリーヌは黙って頷いた。グラディーン家は北方貴族の中でも特に力を持つ家系であり、イオルフ・グラディーンは父の跡を継ぐ後継者だった。幼い頃に何度か会ったことがあるが、彼の傲慢さと冷酷さは、セリーヌに不快な印象を残していた。


「適切な歓迎の準備をするように」侯爵は執事のヘンリーに指示した。「晩餐会を開くとしよう」

「かしこまりました」ヘンリーは深く頭を下げた。


朝食後、セリーヌは音楽室へと向かった。窓から差し込む光の中、彼女はピアノの前に座り、鍵盤に指を置いた。レオンは部屋の外で待機していたが、扉は開けられていて、彼の姿が見えた。

《彼に聴かせたい》セリーヌは思った。彼女は心を込めて演奏を始めた。オルシニ王国時代の古い宮廷音楽、「月の下の誓い」という曲だ。哀愁を帯びた美しい旋律が部屋中に響き渡る。

目を閉じて弾いていると、セリーヌは扉の方から視線を感じた。目を開けると、レオンが部屋の中を見ていた。彼の目には純粋な感動の色が宿っていた。

「素晴らしい演奏です」彼は静かに言った。

セリーヌの心が温かくなった。「ありがとう。この曲は特別なの。母が好きだった曲なの」


「お母様は…」レオンは言いかけて止まった。

「十年前に亡くなったの」セリーヌは鍵盤に視線を落とした。「私が六歳の時」

「申し訳ありません」レオンは深く頭を下げた。「失礼しました」

「いいえ」セリーヌは微笑んだ。「母の話をするのは嫌じゃないわ。母は音楽を愛していて、私にもたくさんの曲を教えてくれたの」


セリーヌはレオンを招き入れるように手招きした。彼は少し躊躇したが、部屋に入り、ピアノの横に立った。

「この曲には歌詞があるの」セリーヌは言った。「知ってる?」

「いいえ」レオンは首を振った。


「月の光の下で誓いを交わそう、永遠の愛を」セリーヌは小さく歌った。「星の瞬きが証人となる、私たちの約束の」

彼女の声は透明感があり、部屋中に響いた。レオンは静かに聴き入っていた。

「美しい歌ですね」彼は感嘆の声を上げた。


「ありがとう」セリーヌは嬉しそうに微笑んだ。「あなたは音楽はお好き?」

「はい」レオンは頷いた。「学院では音楽の授業もありましたが、私は聴くことの方が好きでした」


セリーヌは好奇心に駆られた。「何か楽器は弾けるの?」

「少しだけ、バイオリンを」彼は謙虚に答えた。「ただ、上手ではありません」

「本当?いつか聴かせてほしいわ」


レオンは少し戸惑ったようだった。「私のような腕前では、お嬢様の耳には…」

「そんなことないわ」セリーヌは真摯に言った。「私はあなたの演奏を聴きたいの」

彼は黙って頷いた。その目には決意の色が宿っていた。「いつか、機会があれば」


音楽の先生が到着し、レッスンが始まった。セリーヌは集中しようとしたが、時折、扉の外に立つレオンの姿に目が行ってしまう。先生の指摘で我に返り、慌てて楽譜に視線を戻した。


レッスン後、セリーヌは自室に戻り、窓辺に立った。庭園ではレオンが剣の稽古をしていた。無駄のない動き、研ぎ澄まされた集中力、彼の姿は美しかった。

《なぜ、彼は私の気持ちに気づかないの?》セリーヌは思った。《それとも、気づいていても無視しているの?》

考えれば考えるほど、彼女の心は混乱した。身分違いの恋、それは実るのだろうか。もし父に反対されたら?そもそも、レオンは私に対して何も感じていないのかもしれない。


リリスが部屋に入ってきた。「お嬢様、お昼の準備ができました」

「ありがとう」セリーヌは窓から離れた。「リリス、あなたは思う?レオンは私のことを…」


「何も感じていないのか、ですか?」リリスは微笑んだ。「いいえ、そうは思いません。彼の目には、確かにあなたへの特別な光があります」

「本当?」セリーヌの目が輝いた。

「ええ」リリスは頷いた。「ただ、彼自身が気づいていないだけかもしれません。彼は非常に真面目な人ですから、自分の感情よりも、従者としての務めを優先させているのでしょう」

セリーヌは少し希望を持った。「なら、私がもっと明確に…」

「焦らないで」リリスは諭すように言った。「時間をかけて、彼の心を開いていくことです」


セリーヌは頷いた。「ありがとう、リリス。あなたがいてくれて本当に良かった」


午後、セリーヌは父からの歴史の講義を受けた。アルベール侯爵は歴史に造詣が深く、特にオルシニ王国の歴史については詳しかった。彼が語る王国の盛衰、歴代の王の治世、そして十年前の国の混乱について、セリーヌは熱心に耳を傾けた。


「現在の国を実質的に治めているのは大司教ウルバンだが」侯爵は言った。「彼の後ろには貴族連合がある。グラディーン家もその一員だ」

「父上は」セリーヌは慎重に尋ねた。「その連合に加わっていないのですか?」

「我が家は中立を保ってきた」侯爵は窓の外を見た。「先代から続く立場だ」


「でも、イオルフ・グラディーンがここを訪れるのは…」

「政治的な駆け引きの一環だ」侯爵は静かに言った。「彼らは我が家を味方につけたいと考えている」

セリーヌは黙って頷いた。政治の複雑さは、まだ彼女には完全には理解できなかった。しかし、父の言葉の裏には何か別の意味があるように感じた。


講義の後、夕方の散歩の時間となった。セリーヌは薄手のショールを羽織り、レオンと共に庭園へと出た。夕暮れの空は橙色から紫へと変わりつつあり、庭園の花々はより一層鮮やかに見えた。

「レオン」彼女は静かに呼びかけた。「あなたの子供時代について聞かせて」


彼は少し驚いたようだったが、丁寧に答えた。「私は孤児でした。記憶の最初から、ヴァレンシュタイン学院で育ちました」

「両親のことは?」


「全く覚えていません」彼は言った。「学院長によると、私は幼い頃に学院の門前に置き去りにされていたそうです」

「それは…辛かったでしょう」セリーヌは同情の眼差しを向けた。

「いいえ」レオンは穏やかに微笑んだ。「学院では十分な教育を受け、多くを学ぶことができました。感謝しています」


《彼はいつも前向きなのね》セリーヌは思った。どんな逆境も、彼の誠実さを曇らせることはできないようだった。

「でも、寂しくはなかった?」彼女はさらに尋ねた。「家族がいないことを」

レオンは少し考えた後、答えた。「時々、夢を見るんです。雪の城と、金の冠を持つ少年の夢。何か、忘れているものがあるような…」

そして、彼の声が途切れた。そして突然、彼は顔をしかめ、頭を抱えた。


「レオン?」セリーヌは心配そうに彼に近づいた。「大丈夫?」

「はい…」彼はすぐに姿勢を正した。「少し頭痛が。申し訳ありません」


「無理しないで」彼女は言った。「部屋に戻りましょうか?」

「いいえ、大丈夫です」彼は微笑もうとした。「続けましょう」


彼らは池の周りを歩き、夕暮れの美しさを静かに楽しんだ。セリーヌの心は彼の言葉で満たされていた。雪の城と金の冠—それは何を意味するのだろう。そして、彼が頭痛を起こした瞬間、何かがあったのは確かだった。


館に戻る頃には、空は完全に暗くなり、星々が輝き始めていた。セリーヌは上を見上げ、美しい星空に見とれた。

「きれいね」彼女は呟いた。


「はい」レオンも同意した。「学院では、夜に天文学の授業もありました。星座の名前や物語を学びました」

「教えて」セリーヌは興味を示した。「あの明るい星は?」

「北極星です」レオンは指さした。「常に北を指し、迷った旅人の道標となります」


「素敵な比喩ね」セリーヌは微笑んだ。「私にとって、あなたはそんな存在かもしれない」

レオンは戸惑ったように彼女を見た。「私が?」


「ええ」彼女は言った。「いつでも私を導いてくれる、頼りになる存在」

彼は深く頭を下げた。「お言葉、恐縮です。私はただの従者に過ぎません」

《ただの従者ではないのに》セリーヌは心の中で叫んだ。《あなたは私にとって、もっと特別な存在なのに》


夕食後、セリーヌは自室に戻った。リリスが彼女の髪をとかしながら、一日の出来事を聞いてくれた。セリーヌはレオンとの会話、特に彼の夢の話を伝えた。


「雪の城と金の冠…」リリスは首をかしげた。「何か意味があるのかしら」


「わからないわ」セリーヌは鏡越しに自分の表情を見た。「でも、彼がその話をしたとき、急に頭痛を起こしたの。まるで、何か思い出してはいけないことを思い出しそうになったみたい」


リリスは意味深げに頷いた。「不思議ですね。レオン様には何か秘密があるのかもしれません」


「あの星占い師も、記憶の扉について言っていたわ」セリーヌは思い出した。「あれは単なる占いではなかったのかもしれない」

「でも」リリスは言った。「それがどうであれ、お嬢様の気持ちは変わりませんよね?」


「ええ」セリーヌはきっぱりと言った。「彼は私にとって特別な存在。それだけは確かよ」

「では、どうされますか?」

「もっと彼に近づくわ」セリーヌは決意を固めた。「彼の心を開かせるの」

リリスは微笑んだ。「応援しています」


就寝前、セリーヌは日記を取り出した。彼女は自分の思いのすべてをその中に綴った。レオンへの想い、二人の会話、そして彼の謎めいた夢について。

《明日も、彼に少しでも近づけますように》


彼女はそう願いながら、日記を閉じた。窓の外には満天の星が瞬いていた。北極星の輝きが特に明るく見える。それはまるで、彼女の願いを聞いているかのようだった。


セリーヌは窓辺に立ち、夜空を見上げた。《レオン、いつか私の気持ちが届くかしら》

彼女の心に、小さな希望の灯が燃え続けていた。

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