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イオルフの最期

評議会から一週間が経過した。首都ロザリアは徐々に平穏を取り戻しつつあった。グラディーン家の兵士たちの多くは、レオハルトに忠誠を誓い、残りは故郷へと帰っていった。グラディーン伯爵自身は、表向きは新体制を受け入れ、協力する姿勢を示していたが、その本心は誰にもわからなかった。

王宮では、レオハルトの執務室となる部屋の準備が進められていた。十年間使われていなかった王家の居室が清掃され、必要な修繕が行われていた。かつてのオルシニ王朝の家具や調度品も再び配置された。


「懐かしい感覚だ」

レオハルトは広い執務室に立ち、窓から首都の景色を眺めていた。この部屋からは街全体が見渡せ、遠くには広がる田園風景も見えた。

「記憶が戻っているのですね」側にいたルドルフ学院長が言った。

「断片的にね」レオハルトは答えた。「子供の頃、父がこの部屋で執務するのを見ていた記憶がある。でも、私にとってはまだ新しい場所でもある」

「二つの人生の記憶を持つことは、大変なことでしょう」


「いや」レオハルトは微かに微笑んだ。「それは私の強みだ。レオン・ラグランとしての経験があるからこそ、民の気持ちがわかる」

執務室のドアが開き、セリーヌが入ってきた。彼女は淡い緑のドレスを着て、美しく微笑んでいた。

「新しい執務室、気に入った?」彼女が尋ねた。

「うん」レオハルトは彼女に向き直った。「少し大き過ぎる気もするけど」

「王にふさわしいわ」彼女は部屋を見回した。「でも、確かにレオン・ラグランの質素な部屋とは大違いね」


レオハルトは笑った。「あの部屋も懐かしいよ。小さくても、心地よかった」

「それでは」ルドルフが話題を変えた。「今日の会議の準備をしましょう。新政府の形成について、重要な決断をいくつか下す必要があります」

レオハルトは頷き、大きな円卓に向かった。そこには既に多くの文書が並べられていた。新たな統治体制の草案、主要閣僚の候補者リスト、そして即位式の準備に関する書類。

「おっとその前に」セリーヌが言った。「父上からの伝言があるわ。彼は領地に戻る準備をしています。出発前にあなたに会いたいそうよ」


「アルベール侯爵が帰るのか」レオハルトは少し驚いた。「まだ多くの課題が残っているというのに」

「彼は言ってたわ。『王は自分の力で立たねばならない。私がずっと側にいては、それができない』って」

レオハルトは深く頷いた。アルベール侯爵らしい考えだった。彼は娘と共にレオハルトを支え、王位への道を切り開く手助けをしてくれた。しかし、実際の統治は王自身が行うべきものだという信念を持っていた。

「彼に会おう」レオハルトは決めた。


アルベール侯爵は王宮の客室で荷物をまとめていた。そこにレオハルトが一人で訪れた。

「侯爵」レオハルトが部屋に入ると、侯爵は振り返った。

「王子よ」侯爵は深く頭を下げた。「いや、もうすぐ王と呼ぶべきかな」

「まだ戴冠式は先です」レオハルトは微笑んだ。「それまでは王子のままです」

「形式はどうでもいい」侯爵は手を振った。「あなたは既に国民の心の中では王だ」

二人は窓際に立ち、しばらく街の風景を眺めていた。


「領地にお帰りになると聞きました」レオハルトが沈黙を破った。「まだ多くの課題が残っているのに、もう少し滞在していただけないでしょうか」

「いや」侯爵はきっぱりと言った。「新しい時代の幕開けだ。あなたは自分の力で歩み始める必要がある」

「あなたの知恵と経験が必要です」

「必要な時には、いつでも呼んでくれればいい」侯爵は優しく言った。「しかし、若い王には自分の道を切り開く自由が必要だ。私がずっと側にいては、周囲はあなたではなく私の顔色をうかがうようになる」

レオハルトはその言葉の賢明さを理解し、黙って頷いた。


「しかし、一つだけ頼みがある」侯爵は真剣な表情になった。

「何でしょう?」

「セリーヌのことだ」侯爵の目に父親としての愛情が宿った。「彼女はあなたの側にいることを望んでいる。王妃としての資質は十分だと思うが、それはあなた自身が決めることだ」

「セリーヌには、もう求婚の意思を伝えています」レオハルトは静かに言った。「戴冠式の後、正式に婚約を発表したいと思っています」

侯爵の表情が和らいだ。「それを聞いて安心した」彼は言った。「彼女は強い女性だ。きっとあなたを支える良きパートナーになるだろう」

「私も同じ考えです」レオハルトは微かに微笑んだ。「彼女がいなければ、ここまで来られなかった」

侯爵は満足げに頷いた。


「ただ一つ忠告がある」彼は真剣な表情に戻った。「イオルフのことだ。彼は国境を越えてグラーツ公国に逃げ込んだらしい」

「偵察隊が報告してきました」

「彼は諦めない」侯爵は言った。「必ず復讐を企ててくるだろう。特にセリーヌを狙う可能性がある。彼女への執着は異常だった」

「彼女は常に警護します」レオハルトは断固とした口調で言った。「イオルフが近づくことはできない」

「良いことだ」侯爵は満足げに頷いた。「それでは、私の役目は終わったようだな」

彼は窓から遠くを見つめた。「領地に戻り、静かな日々を過ごすとしよう。十年来の重荷から解放されたようだ」

レオハルトは突然、侯爵に深く頭を下げた。「アルベール侯爵」彼は感謝を込めて言った。「あなたの助けがなければ、私は王位を取り戻すことはできませんでした。心から感謝します」


「頭を上げなさい、王子よ」侯爵は優しく言った。「これは私の義務だった。エドガー王への忠誠を果たしただけだ」

彼はレオハルトの肩に手を置いた。「これからが本当の挑戦の始まりだ。良い王になりなさい。民のために」

「はい」レオハルトは力強く答えた。「必ず」


その日の午後、大広間で新政府の形成に関する最初の会議が開かれた。レオハルトの側近となる主要閣僚の候補者たちが集まり、新たな統治体制について熱心に議論していた。

「立憲君主制の具体的な形が重要です」ルドルフ学院長が言った。「王の権限と評議会の権限のバランスをどうするか」

「また、地方の自治権をどの程度認めるかも課題です」マーカスが付け加えた。「中央集権か、地方分権か」

議論は白熱し、様々な意見が交わされた。レオハルトは一人一人の発言に耳を傾け、時折質問を投げかけた。彼はレオン・ラグランとしての経験と、王子としての教育の両方を活かし、バランスの取れた判断を心がけていた。


会議が一段落すると、彼は窓辺に立ち、少し息をついた。街は平穏を取り戻しつつあったが、まだ多くの課題が残されていた。十年の空位期間で生じた矛盾や不公平を解消し、新たな統治体制を築くには時間がかかるだろう。

「疲れた?」セリーヌが彼の隣に立った。

「少しね」レオハルトは微かに微笑んだ。「でも、これが王の務めだ」

「あなたならできるわ」彼女は彼の腕に手を置いた。「みんなが協力するわ」

「ありがとう」彼は彼女の手を握った。「君がいてくれて本当に良かった」

夕暮れ時、レオハルトは一人、王宮の塔に登った。そこからは首都全体が見渡せ、遠くには地平線まで広がる王国の風景が見えた。彼の国、守るべき民がいる場所。

《父上》彼は心の中で語りかけた。《私は王としての道を歩み始めました。あなたの教えを胸に、良い王となれるよう努めます》

星々が瞬き始める中、彼は静かに決意を新たにした。レオン・ラグランとしての日々も、レオハルト王子としての記憶も、全てが彼を今の場所に導いたのだ。


* * *


戴冠式まであと一ヶ月となった頃、首都ロザリアは華やかな装いに包まれ始めていた。街路には色とりどりの旗が飾られ、広場には祝祭のための屋台や舞台が準備されていた。十年ぶりの王の戴冠は、国民にとって一大イベントだった。

王宮でも準備が急ピッチで進められていた。古い儀式の書物が調査され、伝統的な作法が再確認された。王冠や儀式用の装飾品も、宝物庫から取り出され、磨き上げられていた。

しかし、その日の夕方、レオハルトの執務室に思いがけない訪問者があった。北方の国境を警備する騎士団の伝令だった。

「王子様」伝令は息を切らせながら報告した。「北の国境で異変が起きています。グラーツ公国の軍が大規模な動きを見せているのです」

「グラーツ公国?」レオハルトは眉をひそめた。「詳細を話してくれ」

「はい。約二千の兵が国境近くに集結しています。偵察によれば、彼らは最新の武器で武装し、攻撃の準備をしているようです」

「指揮官は?」

「それが...」伝令は躊躇した。「イオルフ・グラディーンの姿が確認されました。彼はグラーツ公国の軍の一部を率いているようです」

レオハルトの表情が厳しくなった。イオルフが国外に逃亡してから一ヶ月が経っていた。彼が単に逃げただけでなく、復讐を計画していたことが明らかになった。

「マーカスを呼んでくれ」レオハルトは命じた。「そして北方防衛の責任者も」

すぐに緊急会議が開かれた。マーカス、ルドルフ学院長、そして数人の軍事顧問たちが集まり、状況を分析した。

「イオルフがグラーツ公国と手を組み、我が国に侵攻しようとしていることは明らかです」マーカスが言った。「問題は、彼らの本当の目的は何かということです」

「王都を襲撃し、戴冠式を妨害する可能性が高い」軍事顧問の一人が分析した。「特にイオルフは王子への個人的な恨みがありますから」

「しかし、彼らの兵力は二千程度」別の顧問が指摘した。「我々の軍に正面から挑むには不十分です」

レオハルトは静かに地図を見つめていた。国境から首都までは相当な距離があり、通常の進軍では一週間はかかる。しかし、イオルフは当然それを承知しているはずだ。

「彼らは何か策を持っている」レオハルトはゆっくりと言った。「正面からの攻撃ではなく、別の方法で首都を襲おうとしているのではないか」

「内通者がいる可能性もあります」マーカスが懸念を示した。「グラディーン家の関係者の中には、まだイオルフに忠誠を誓う者もいるかもしれません」

「警戒を強化しよう」レオハルトは決断した。「北方防衛の兵を増強し、首都の警備も厳重にする。そして...」

彼は少し考えてから続けた。

「セリーヌの警護も強化せよ」

「なぜセリーヌ様を?」マーカスが尋ねた。

「イオルフは彼女に執着していた」レオハルトは厳しい表情で言った。「彼は私を苦しめるために、彼女を標的にする可能性がある」

会議が終わった後、レオハルトは自室でセリーヌに状況を説明した。彼女は冷静に彼の言葉を聞いていたが、その青い瞳には心配の色が見えた。

「イオルフが戻ってくるの?」彼女は静かに尋ねた。

「ああ」レオハルトは重々しく答えた。「グラーツ公国の軍を率いてね」

「彼は諦めないわ」セリーヌは窓の外を見た。「特にあなたが私と...」

彼女の言葉が途切れた。レオハルトと彼女の関係は、イオルフにとって許しがたいものだろう。

「心配しないで」レオハルトは彼女の手を取った。「君の安全は必ず守る。それに、彼らが首都にたどり着く前に、北方の防衛線で食い止めるはずだ」

「でも、イオルフは狡猾よ」セリーヌの声には不安が混じっていた。「彼は何か計画を持っているはず」

レオハルトも同じ不安を感じていた。イオルフは単純な人間ではない。彼は何か特別な策を持っているはずだった。


三日後、レオハルトの不安は的中した。国境警備隊からの緊急報告によると、グラーツ公国の兵の一部が山岳地帯の隠された小道を通って進軍し、メインルートを迂回しようとしていたのだ。

「これが彼らの策か」レオハルトは地図を見ながら言った。「メインルートの兵は囮で、精鋭部隊が山岳ルートを使って急襲しようとしているのだ」

「その山岳ルートは厳しく、大部隊の通過は困難です」マーカスが説明した。「しかし、少数の精鋭部隊なら可能でしょう」

「イオルフは間違いなくその精鋭部隊を率いているはずだ」レオハルトは言った。「彼の目的は王都襲撃、そして...」

彼は言葉を切った。イオルフの真の目的は何だろう。王都を襲撃し、混乱に乗じて彼を暗殺しようとしているのか。それとも別の目的があるのか。

「防衛策を講じましょう」マーカスが提案した。「山岳ルートに部隊を配置し、彼らの進軍を阻止します」

「そうだな」レオハルトは同意した。「だが、彼らは既に出発しているはずだ。間に合うだろうか」

「最も近い部隊を急行させれば、峠で迎撃できるでしょう」

レオハルトは決断した。「マーカス、君自身が山岳ルートの防衛を指揮してくれ。最精鋭の騎士たちを連れて行き、イオルフたちを阻止するのだ」

「しかし、王子様」マーカスは心配そうに言った。「あなたの警護は?」

「私には他の護衛もいる」レオハルトは微かに微笑んだ。「それに、首都は厳重に守られている。今はイオルフたちを阻止することが最優先だ」

マーカスは深く頭を下げた。「必ず阻止してみせます」

彼が準備のために退出した後、レオハルトは一人で考え込んだ。イオルフの真の目的が何であれ、許すわけにはいかない。戴冠式を目前に控え、新たな時代の幕開けが脅かされることは避けねばならなかった。


マーカスが精鋭部隊を率いて出発した翌日、王宮に更なる不穏な報告が届いた。

「王子様」情報将校が報告した。「イオルフ・グラディーンと思われる人物が、既に首都近郊で目撃されています」

「何だと?」レオハルトは驚いた。「それはあり得ない。彼らがそんなに早く到達するはずがない」

「目撃情報によれば、イオルフとその側近数人だけが、非常な速さで移動しているようです。メインの部隊は確かに山岳ルートにいますが、彼だけが先行しています」

レオハルトの表情が曇った。「彼は単身で首都に潜入しようとしている。おそらく暗殺か...」

彼は突然立ち上がった。「セリーヌはどこだ?」

「侯爵令嬢は、午前中に王宮の庭園におられました」情報将校が答えた。「その後の行動は把握していません」

「すぐに彼女を探せ!」レオハルトは命じた。「そして警護を強化せよ」

彼自身も急いで庭園へ向かった。広大な王宮の庭園は、様々な木々や花が美しく配置され、小川や池も点在していた。通常なら心安らぐ場所だが、今のレオハルトには危険に満ちた迷路に見えた。

「セリーヌ!」彼は庭園を巡りながら呼びかけた。「セリーヌ、どこだ?」

応答はなかった。レオハルトは不安を募らせながら、庭園の奥へと進んでいった。やがて、古い石造りのパビリオンが見えてきた。かつてエドガー王とエレノア王妃が好んだ場所だと、彼の記憶が告げていた。

パビリオンに近づくと、中から物音が聞こえた。レオハルトは剣を抜き、慎重に前進した。

「セリーヌ?」

「レオハルト、来ないで!」セリーヌの声が聞こえた。恐怖と警告が混じった声だった。

レオハルトは一気にパビリオンの入り口まで駆け寄った。そこで目にした光景に、彼は凍りついた。

セリーヌが椅子に縛り付けられ、その傍らにイオルフ・グラディーンが立っていた。彼の手にはナイフがあり、セリーヌの首元に突きつけられていた。

「やっと来たな、偽王子」イオルフは冷たく微笑んだ。「待っていたぞ」

「イオルフ」レオハルトは剣を構えたまま、静かに言った。「彼女を解放しろ。お前の恨みは私にあるはずだ」

「恨み?」イオルフは嘲笑した。「これは恨みではない。正義だ。お前のような詐欺師が王座に就くことは許されない」

「詐欺師?」レオハルトは眉をひそめた。「大司教も貴族評議会も、私の正統性を認めたはずだ」

「彼らは欺かれているだけだ」イオルフは言った。「お前は巧妙な詐欺師だ。そして彼女は」彼はセリーヌの方を見た。「お前に誑かされた哀れな女だ」

「イオルフ」セリーヌは怒りを込めて言った。「彼は本物の王子よ。あなたこそ真実から目を背けている」

「黙れ!」イオルフは彼女に叫んだ。「お前が私のものになれば、いずれ真実がわかるだろう」

レオハルトはイオルフの狂気じみた表情を見て、交渉は無意味だと悟った。しかし、セリーヌが危険な状態である以上、直接攻撃するわけにもいかなかった。

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