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渓谷の戦い

夜明け前、レオハルトの小部隊はフェニックス渓谷の入り口に到着した。彼らは馬から降り、静かに前進した。渓谷は切り立った赤い岩壁に囲まれ、床は砂利と低い茂みで覆われていた。幅は狭く、場所によっては十人が横に並ぶのがやっとという狭さだった。


「完璧な罠だな」レオハルトは小声で言った。「だが、ここを抜けなければならないとなれば、選択肢はない」

「彼らはどこにいるのでしょう」マーカスが周囲を警戒しながら言った。彼は王子の懇願を退け、囮部隊に加わることを選んでいた。

「おそらく渓谷の奥」レオハルトは答えた。「より狭くなった場所で待ち構えているだろう」

彼らは慎重に前進した。兵士たちは緊張した面持ちで、手に武器を握りしめていた。しかし、彼らの目には恐怖より決意の色が強かった。レオハルトが共に戦うと決断したことで、士気は高まっていた。


渓谷の壁には点々と洞窟があり、それが陰影を作り出していた。薄明かりの中では、それらは黒い穴のように見える。完璧な狙撃地点だ。

「動きがありました」先頭の斥候が報告した。「渓谷の曲がり角の先、何かが動いています」

レオハルトは手を上げ、部隊を停止させた。「罠が待っているのは明らかだ」彼は言った。「しかし我々はそれを知っている。主力部隊が位置につくまで時間を稼がねばならない」


彼は兵士たちを集め、最後の指示を出した。「我々の役目は敵の注意を引くことだ。全力での突破は試みない。適度に抵抗し、敵を引きつけておく。そして、合図があったら撤退する」

兵士たちは頷いた。彼らは命令の意味を理解していた。これは勝利を目指した戦いではなく、時間稼ぎだった。

「今日は血を流したくない」レオハルトは付け加えた。「可能な限り非致命的に。彼らも我が国の民だ」

レオハルトが剣を抜くと、他の兵士たちも武器を構えた。


「前進」

彼らは再び動き始めた。渓谷の曲がり角を回ると、予想通りの光景が広がっていた。三十ほどの兵士が渓谷を塞ぐように陣取り、その後ろには更に多くの兵士が控えていた。グラディーン家の紋章—赤い獅子と黒い鷲—が旗に描かれている。

「止まれ!」敵の指揮官が叫んだ。「これより先へは進ません!」

レオハルトは前に進み出た。彼の姿は堂々としており、朝日が彼の青い正装を輝かせていた。

「我はレオハルト・アウレリアン・オルシニ」彼は声高に宣言した。「エドガー王の息子にして、正統なる王位継承者だ。我々は首都へ向かい、権利を主張するところだ」


「偽物だ!」指揮官は叫んだ。「エドガー王の息子たちは全て死んだ。あなたは詐欺師だ。投降せよ!」

「私の正体は明らかだ」レオハルトは剣をかざした。「血は流したくない。退くがいい」

「攻撃だ!」指揮官は命令を下した。

敵兵が一斉に動き出した。同時に、渓谷の壁にあった洞窟から弓兵たちが姿を現した。彼らは矢を放ち、レオハルトの部隊を狙った。

「盾を上げろ!」レオハルトは叫び、自らも盾を構えた。矢が雨のように降り注ぎ、いくつかは盾に当たって跳ね返った。しかし、数人の兵士が矢に当たり、倒れた。


「前進!」レオハルトは剣を掲げ、先頭に立って突進した。

両軍が衝突し、剣と盾がぶつかる音が渓谷に響き渡った。レオハルトは敵兵と交戦し、その剣捌きは流れるように美しかった。彼は致命傷を避け、敵を無力化することに専念していた。彼の剣は精密に動き、敵の武器を弾き飛ばし、防御を崩した。

「王子様!上です!」マーカスの警告が聞こえた。

レオハルトは上を見上げ、崖から大きな岩が転がり落ちてくるのを見た。彼は素早く横に飛び、危うく難を逃れた。岩は地面に激突し、砕け散った。

「罠だ!撤退!」敵の指揮官が叫んだ。


敵兵たちが後退し始める。彼らは渓谷の奥へと引いていった。レオハルトはこれが第二の罠であることを察した。彼らは意図的に退いているのだ。おそらく、より強力な伏兵が待ち構えているのだろう。

「追わない」彼は部隊に命じた。「この位置を保て」

渓谷の両側から、更なる敵兵が現れた。彼らは高い位置から渓谷を見下ろし、弓を構えていた。


「包囲されましたな」マーカスが剣を構えながら言った。

「予想通りだ」レオハルトは冷静に答えた。「彼らの計画通りに動いている」

「時間はどれくらい稼げばよいのですか?」

「太陽が頭上に来るまでだ」レオハルトは空を見上げた。「あと二時間ほど」

彼らは円陣を組み、四方からの攻撃に備えた。敵兵たちが再び攻撃を仕掛けてきた。今度は三方向からの同時攻撃だった。

レオハルトは冷静に防御と反撃を続けた。彼の剣さばきは正確で無駄がなく、敵兵たちを次々と倒していく。しかし、彼は命を奪わないよう配慮していた。可能な限り、剣の平らな部分や柄を使って敵を気絶させる。


「王子様!」一人の兵士が叫んだ。「敵の第二陣が来ています!」

渓谷の奥から、新たな敵兵の集団が現れた。彼らの前には、黒い鎧を身につけた大柄な男がいた。グラーツ将軍だ。彼はグラディーン家の軍の主力指揮官として知られる残忍な人物だった。

「レオハルト・オルシニ」将軍が大声で叫んだ。「降伏せよ!抵抗は無駄だ!」


「私は正統な王位継承者だ」レオハルトは毅然と応じた。「祖国を二分するような戦いは望まない。引き下がるがいい」

「詐欺師め」将軍は唾を吐いた。「エドガー王の息子たちは全て死んだ。お前は偽物だ」

将軍は重い斧を振りかざし、前進してきた。彼の背後には精鋭兵たちが控えていた。

「我々は数で勝っている」将軍は言った。「降伏すれば命は助ける」


「それは拒否させてもらう」レオハルトは剣を構えた。「我々は正義の側にいる」

「では死ね!」将軍が叫び、攻撃の合図を出した。

両軍がぶつかり合い、渓谷に金属のぶつかる音が響き渡った。レオハルトとマーカスは背中合わせで戦い、敵の攻撃を防いでいた。しかし、敵の数は圧倒的だった。

「もう少し持ちこたえるんだ」レオハルトは仲間たちに呼びかけた。「援軍が来る」

「王子様」マーカスが小声で言った。「主力部隊が位置についたら、どう合図を受けるのですか?」

「これだ」レオハルトは胸元のペンダントを示した。セリーヌが彼に贈ったもので、中央に青い石が嵌め込まれていた。「石が光ればそれが合図だ。アーサーが魔法で知らせる」


彼らは必死で戦い続けた。時間が過ぎるにつれ、兵士たちの疲労は増していった。何人かは負傷し、戦線から退いていた。

グラーツ将軍が部隊を前進させ、レオハルトに近づいてきた。彼の斧は既に何人かの兵士を倒していた。

「お前が死ねば、この戦いは終わる」将軍が言った。「私が一対一で相手をしよう」

「望むところだ」レオハルトは前に出た。

二人は互いに向かい合った。将軍は巨漢で、レオハルトよりも頭一つ分背が高かった。彼の斧は大きく、一撃で盾を砕くほどの破壊力を持っていた。

「王家の血筋は今日で途絶える」将軍は嘲笑した。

「それは見せてもらおう」レオハルトは冷静に答えた。


将軍が斧を振りかざして攻撃を仕掛けた。レオハルトは素早く身をかわし、剣で反撃する。しかし、斧の重さが盾に伝わり、彼は後ろによろめいた。

「逃げられんぞ」将軍は執拗に攻撃を続けた。

レオハルトは冷静に将軍の動きを観察した。彼は力では敵わないことを知っていた。しかし、機敏さと技術で勝負ができるはずだ。

将軍が再び大きく斧を振り下ろした。レオハルトは直前で横に飛び、将軍の懐に潜り込んだ。剣が将軍の脇腹を掠め、黒い鎧に傷をつけた。

「くっ」将軍は痛みに顔をゆがめた。「やるな」


二人の戦いを周囲の兵士たちが見守っていた。敵味方問わず、彼らは戦いを止め、一騎打ちに注目していた。

将軍は怒りに任せて再び攻撃した。今度は横薙ぎの一撃だ。レオハルトは身を低くして斧をかわし、将軍の足元を狙った。

剣が将軍の膝の裏を捉え、彼は膝をつかざるを得なかった。レオハルトは素早く立ち上がり、剣を将軍の喉元に突きつけた。

「降伏せよ」彼は静かに言った。


将軍の目に憎悪が燃えていた。「殺せ。名誉ある死を与えろ」

「ならぬ」レオハルトは剣を下げた。「私は民を殺したくない。たとえ敵であってもだ」

その瞬間、レオハルトの胸元のペンダントが青く光り始めた。合図だ。主力部隊が位置についたのだ。


「撤退だ!」レオハルトは兵士たちに叫んだ。

彼の部隊は素早く後退し始めた。敵兵たちは混乱し、一部は追撃しようとした。

「追うな!罠だ!」将軍が叫んだが、時既に遅し。

渓谷の上方から、ラッパの音が響き渡った。アルベール侯爵率いる主力部隊が、渓谷の両側から姿を現したのだ。彼らは敵を見下ろす位置を取り、完全に包囲していた。


「グラーツ将軍」アルベール侯爵の声が崖の上から響いた。「あなたは包囲された。抵抗は無益だ。武器を捨てなさい」

将軍は怒りに震えながらも、状況を理解した。彼らは完全に罠にはまったのだ。

「降伏する」彼は歯を食いしばって言った。「我が兵に危害を加えぬよう願う」

「約束しよう」レオハルトは言った。「彼らに危害は加えない。我々は同胞同士の血を流すことを望まない」


アルベール侯爵の部隊が渓谷に下りてきて、敵兵たちの武装を解除していった。レオハルトはマーカスと共に、崖の上へと登っていった。

頂上に到着すると、そこにはセリーヌが待っていた。彼女は心配そうな表情で彼を見つめていたが、彼の姿を見ると、喜びに顔を輝かせた。

「無事で良かった」彼女は駆け寄り、彼を抱きしめた。

「約束したはずだ」レオハルトは優しく微笑んだ。「星に誓って」

アルベール侯爵が近づいてきた。「見事な作戦でした」彼は賞賛した。「敵を完全に欺きました」


「犠牲者は?」レオハルトが尋ねた。

「我々の側は軽傷者が数名、重傷者も二名いますが、死者はいません」マーカスが報告した。「敵側も同様です」

「良かった」レオハルトは安堵の表情を見せた。「無用な血は流したくなかった」

「これでグラディーン家の第一波は撃退できました」侯爵は言った。「しかし、彼らはまだあきらめないでしょう」

「急いで前進しよう」レオハルトは決断した。「モントゥリエ伯爵の領地に到達すれば、一時的な安全は確保できる。そこで次の行動を考えよう」

彼らは捕虜となったグラーツ将軍と敵兵たちを丁重に扱い、武器だけを没収した。レオハルトは将軍と短い会話を交わした。


「なぜ命を奪わなかった」将軍は不思議そうに尋ねた。「チャンスはあったはずだ」

「私は王になるつもりだ」レオハルトは静かに答えた。「殺し合いで始まる統治を望まない。我々は同じ国の民だ」

「そのような甘さでは」将軍は言いかけたが、レオハルトの目に宿る決意を見て言葉を切った。

「それが甘さなら」レオハルトは言った。「私はその甘さを誇りに思う。力だけが全てではない」

将軍は黙ってレオハルトを見つめた。彼の目には、わずかながら尊敬の色が宿っているようだった。

「お前が本当にエドガー王の息子なら」彼はようやく口を開いた。「王国に平和をもたらすかもしれないな」


夕暮れ時、一行はモントゥリエ伯爵の領地の境界に到達していた。広大な麦畑が夕日に照らされ、黄金色に輝いている。遠くには伯爵の城が見え、その旗が風になびいていた。

「歓迎します、レオハルト王子」

道の先に立っていたのは、モントゥリエ伯爵本人だった。五十代の温厚な表情の男性で、銀色の髪と手入れの行き届いた髭が印象的だった。彼の後ろには百人ほどの兵士が整列していた。


「モントゥリエ伯爵」レオハルトは馬から降り、敬意を示した。「お迎えいただき感謝します」

「王子の帰還は我々の希望です」伯爵は深く頭を下げた。「我が城をお使いください」

彼らは伯爵の城へと向かった。日没までに全ての部隊が到着し、城と周辺の野営地に配置された。捕虜となったグラディーン家の兵士たちも、厳重な監視下ではあるが、人道的に扱われていた。

城の大広間では、歓迎の宴が準備されていた。レオハルト、セリーヌ、アルベール侯爵、そしてモントゥリエ伯爵が主席に座り、各部隊の指揮官たちも招かれていた。


「今日の勝利をお祝いします」モントゥリエ伯爵が杯を上げた。「そして、真の王の帰還を」

「ありがとう、伯爵」レオハルトは応じた。「しかし、これはまだ始まりに過ぎません。首都までの道のりは険しい」

「私の兵も王子に従います」伯爵は宣言した。「三百の騎士と五百の歩兵が、明日から王子の軍に加わるでしょう」

「感謝します」レオハルトは頭を下げた。「しかし、私の目的は戦争ではありません。できる限り平和的に事を進めたい」

「賢明なお考えです」伯爵は微笑んだ。「エドガー王もそのような方でした。常に平和を愛し、民を第一に考える方でした」


宴の後、レオハルト、セリーヌ、アルベール侯爵、マーカス、そしてモントゥリエ伯爵は城の会議室に集まった。大きな円卓を囲み、次の行動について話し合った。

「グラディーン家の第一波は撃退しましたが」マーカスが状況を説明した。「彼らはすでに次の手を打っているはずです」

「イオルフが首都に向かっているという情報があります」モントゥリエ伯爵が言った。「大司教に働きかけ、王子を反逆者として断罪するよう求めているようです」

「予想通りだな」アルベール侯爵が言った。「大司教を説得するのは難しいだろう。彼は現状維持を望んでいる」

「時間との戦いです」マーカスが強調した。「我々が首都に到着する前に、大司教が公式に王子を否定すれば、状況は不利になります」

「では、いっそう急ぐべきだな」レオハルトは決断した。「明日、最小限の部隊で先行しよう。主力は後からついてくる」

「危険です」セリーヌが心配そうに言った。「少人数では護衛が不十分では?」

「少人数の方が速く動ける」レオハルトは説明した。「そして目立たない。我々の目的は戦うことではなく、首都に到達し、民衆と直接話すことだ」


議論は深夜まで続いた。最終的に、レオハルト、セリーヌ、マーカス、そして選りすぐりの護衛二十人が先行して出発することが決まった。アルベール侯爵とモントゥリエ伯爵は主力部隊を率いて後に続く。

会議が終わると、レオハルトとセリーヌは城の高台に上がり、夜空を見上げた。明日から再び危険な旅が始まる。しかし、今夜は安全な城の中で休むことができる。


「今日の戦いは素晴らしかったわ」セリーヌは静かに言った。「あなたは命を奪わずに勝った。それこそが真の王の資質よ」

「私はただ、正しいことをしようとしているだけだ」レオハルトは謙虚に答えた。「民を殺し合わせることが、どうして国のためになるだろう」

「父上も感心していたわ」セリーヌは微笑んだ。「彼はあなたを本当に認めている」

レオハルトは彼女の手を取った。「君がいてくれて本当に感謝している。君の存在が私に力を与えてくれる」

「私もあなたと一緒にいられて幸せよ」セリーヌは彼の肩に頭を寄せた。「子供の頃からの約束を守れているのね」

彼らは静かに夜空を見上げた。星々が美しく瞬き、新しい未来への希望を示しているようだった。

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