罠を承知で
夜明け前、ヴァランティーヌ家の館は静かな緊張に包まれていた。出発の準備はすでに整っており、中庭には集まった兵士たちが厳かに待機していた。東の空がわずかに明るくなり始め、新しい一日の始まりを告げていた。
レオハルトは自室の窓から、集結する兵士たちを見下ろしていた。彼は王家の伝統である深い青と金の装飾が施された正装に身を包み、腰には王族の証である銀の剣を下げていた。胸元にはセリーヌから贈られた星のペンダントが光っている。
「時が来ましたね」
振り返ると、マーカスが敬意を込めて頭を下げていた。彼は完全に回復していないものの、すでに旅装束を身につけていた。
「ああ」レオハルトは頷いた。「王としての旅が始まる」
「不安はありませんか?」マーカスが静かに尋ねた。
「当然ある」レオハルトは正直に答えた。「レオン・ラグランとしての生活は平穏だった。しかし今、私は多くの人々の運命を左右する立場になる」
「あなたは良い王になるでしょう」マーカスは確信を持って言った。「レオンとしての経験は、むしろ強みになるはずです。民の気持ちがわかる王は稀です」
レオハルトは黙って頷いた。確かに、従者として生きた経験は独特の視点を与えてくれた。それは王族として育ったままでは決して得られなかったものだろう。
「準備はできた」彼は決意を込めて言った。「行こう」
二人は部屋を出て、大広間へと向かった。そこには、アルベール侯爵、セリーヌ、リリス、そして主要な指揮官たちが集まっていた。セリーヌは実用的な乗馬用の服装に身を包み、金色の髪を一つに結んでいた。彼女の目には決意と期待が宿っていた。
「おはよう」彼女はレオハルトに微笑みかけた。
「おはよう」彼も微笑み返した。「よく眠れたか?」
「ええ、不思議なくらいに」彼女は静かに言った。「きっと、正しい決断をしたからでしょうね」
アルベール侯爵が前に進み出た。彼も旅装束を身につけ、指揮官としての威厳を漂わせていた。
「すべて整いました」彼は報告した。「五百の兵士と、二百の傭兵が待機しています。食料と装備は十分に用意しました。三日分は自給自足でき、その後は友好的な領地での補給を計画しています」
「先遣隊からの報告は?」レオハルトが尋ねた。
「トーマスからの伝書鳩が昨夜届きました」マーカスが答えた。「南のルートは安全だとのことです。モントゥリエ伯爵の領地までの道中、敵の動きは見られないそうです」
「良し」レオハルトは満足げに頷いた。「では、出発しよう」
全員が広間を出て、中庭へと向かった。朝日が地平線から顔を出し始め、集まった兵士たちの鎧を金色に染めていた。彼らはレオハルトが現れると、一斉に敬礼した。
レオハルトはあらかじめ用意された高台に立ち、兵士たちを見渡した。自分の姿は十分に見えているだろうか、声は届くだろうか—そんな些細な不安が彼の心をよぎった。しかし、王としての責任感が彼を支えた。
「勇敢なる兵士たち」彼は声を張り上げた。「今日、我々は重要な旅を始める。これは単なる進軍ではない。国の未来を決める旅だ」
兵士たちは静かに、しかし熱心に彼の言葉に耳を傾けていた。
「十年前、私の父エドガー王が亡くなり、王家は断絶したと思われていた。しかし、私は生き延び、今こうして皆の前に立っている。私はレオハルト・アウレリアン・オルシニ、正統なる王位継承者だ」
兵士たちの間から小さなざわめきが起こった。多くは知っていただろうが、王子自身の口から宣言されるのは初めてだった。
「我々の目的は明確だ」レオハルトは続けた。「首都へ向かい、私の権利を主張する。しかし、覚えておいてほしい。我々の敵は同じ国の民ではない。我々は内戦を望んでいない。できる限り平和的に事を進めたい」
彼は一呼吸置いた。
「長く厳しい旅になるだろう。危険も伴うだろう。しかし、我々は正しい道を歩んでいる。国を再び統一し、平和をもたらすために」
最後に、彼は銀の剣を抜き、朝日に向かって掲げた。剣の刃が太陽の光を受けて輝いた。
「王家の名において、出発だ!」
兵士たちから歓声が上がり、全員が準備を整えた。レオハルトは高台から降り、用意された白馬に乗った。セリーヌも彼の隣に立ち、淡い茶色の馬に優雅に跨った。
「見事なスピーチだったわ」彼女は小声で言った。「兵士たちに希望を与えていた」
「ありがとう」レオハルトは少し照れたように微笑んだ。「自然と言葉が出てきた」
アルベール侯爵も馬に乗り、隊列の先頭に立った。「後に残る従者たちに最後の指示をしてきた」彼は言った。「館は最小限の人員で守られる」
レオハルトは頷き、最後に館を振り返った。ヴァランティーヌ家の館は朝日に照らされ、威厳を持って彼らを見送っているようだった。この館で過ごした日々—レオン・ラグランとしての平穏な時代—が彼の脳裏をよぎった。
「さあ、行きましょう」セリーヌが静かに言った。
「ああ」レオハルトは前を向いた。「新しい未来へ」
アルベール侯爵が合図を出し、隊列が動き始めた。最初に斥候が進み、次に騎士隊、その後に主力部隊と荷馬車が続いた。レオハルト、セリーヌ、マーカス、そして侯爵は前方の護衛に囲まれた中央部分を進んだ。最後尾には後衛部隊が続いた。
彼らは館の正門を通り、街道へと出た。道の両側には館の従者たちや、村の人々が集まっていた。彼らは王子の噂を聞きつけ、一目見ようと駆けつけたのだろう。レオハルトが通り過ぎると、民衆は敬意を込めて頭を下げ、中には花を投げる者もいた。
「彼らは既にあなたを王として受け入れているわ」セリーヌは感動したように言った。
「まだ始まりに過ぎない」レオハルトは穏やかに言った。「これから証明していかなければならない」
隊列は村を抜け、森へと続く道を進んだ。朝の太陽が木々の間から差し込み、道を黄金色に染めていた。鳥のさえずりと、馬のいななき、そして兵士たちの足音が心地よいリズムを奏でていた。
レオハルトは深く息を吸った。新鮮な朝の空気が肺を満たす。今日から、彼は新しい人生を歩み始めるのだ。レオン・ラグランとしての従者の生活から、レオハルト王子として、そして将来の王としての人生へ。
一方、グラディーン家の城では、イオルフが父と激しい口論を繰り広げていた。広い会議室には、彼ら二人と数人の軍の指揮官、そしてアザゼルが立っていた。
「なぜ私を先頭に立たせないのだ!」イオルフは怒りを露わにした。「私こそがヴァランティーヌ家を攻撃すべきだ!」
「落ち着け」グラディーン伯爵は冷静に言った。「お前は他に重要な役割がある。大司教のもとへ行き、軍の増強を要請するのだ」
「それは使者でもできる仕事だ!」イオルフは反論した。「私は戦場で名を上げたい。特にあの傲慢な侯爵の娘の前で」
アザゼルが静かに口を開いた。「若様、あなたの気持ちはわかります。しかし、大司教を説得できるのはあなただけです。彼はあなたを信頼しています」
イオルフはまだ納得できないようだったが、それ以上の反論はしなかった。
「わかった」彼は渋々と言った。「だが、セリーヌは私のものだ。彼女を傷つけるなと伝えておけ」
「もちろんだ」伯爵は頷いた。「彼女は価値ある人質になる」
伯爵はアザゼルに向き直った。「王子の居場所は確かなのか?」
「はい」アザゼルは自信を持って答えた。「彼らは今朝、ヴァランティーヌ家の館を出発しました。南へ向かっています」
「南?」伯爵は眉をひそめた。「予想外だな」
「我々の動きを察知したのでしょう」アザゼルは説明した。「彼らは北の直接ルートを避け、迂回して首都を目指しています」
「それなら」伯爵は地図を指さした。「こちらから切り込めば、モントゥリエ伯爵の領地に到達する前に迎撃できる」
「そのようです」アザゼルは同意した。「彼らは二日以内にこの渓谷を通過するでしょう。そこが攻撃に最適な場所です」
「よし」伯爵は決断した。「グラーツ将軍、直ちに出発せよ。千の兵を率いて、王子の一行を阻止するのだ」
「承知しました」年配の将軍が頭を下げた。「捕虜は?」
「王子は生け捕りにせよ」伯爵は命じた。「大司教の前で裁かれるべきだ。侯爵家の者たちも可能な限り生かして捕らえよ。特に娘のセリーヌはな」
イオルフが満足げに微笑んだ。
「あとは好きにしろ」伯爵は冷たく言った。「反逆者には容赦は必要ない」
「では、私はいつ首都へ?」イオルフが尋ねた。
「今すぐだ」伯爵は答えた。「時間との勝負だ。大司教を説得し、王位継承の噂を完全に否定せよ。そして、反逆者打倒のために軍の増強を要請するのだ」
イオルフは頷き、部屋を後にした。彼の心には野心と、セリーヌへの執着が渦巻いていた。
アザゼルは窓辺に立ち、遠くを見つめた。彼の青い目が不気味に光っていた。
「王子はまだ未熟です」彼は静かに言った。「記憶は戻ったものの、王としての自覚はまだ完全ではない。今が討つべき時です」
「お前の読心術は役に立った」伯爵は認めた。「これからもその力を我々のために使え」
「もちろんです」アザゼルは微笑んだ。「私の忠誠は揺るぎません」
しかし、彼の目には別の光が宿っていた。自分だけの計画、誰にも明かさない野望を秘めた光が。
レオハルトたちの一行は、予定通り南へと進んでいた。彼らは午前中に森を抜け、広大な平原地帯に入った。遠くには丘陵地帯が見え、その向こうにモントゥリエ伯爵の領地があるはずだった。
「ここまでは順調ですね」マーカスが言った。「斥候からの報告でも、敵の動きは見られません」
「油断はしないように」レオハルトは応じた。「グラディーン家は必ず動きを察知している」
「そのとおりだ」アルベール侯爵も頷いた。「奴らのスパイ網は広い。今頃、我々の進路を探っているだろう」
彼らは昼過ぎに小さな川のほとりで休憩をとった。兵士たちは交代で食事を取り、馬に水を飲ませた。セリーヌはレオハルトと共に小高い丘に登り、周囲の景色を眺めていた。
「美しい景色ね」彼女は遠くを見ながら言った。「平和そのもの」
「ああ」レオハルトも同意した。「こんな平和な国を二分するような争いは避けたい」
「あなたなら大丈夫よ」セリーヌは励ますように言った。「血を流さずに王位を取り戻せるわ」
レオハルトは彼女の言葉に勇気づけられた。セリーヌの存在は、彼に力と希望を与えてくれた。かつての主人と従者の関係は、今や対等なパートナーシップへと変わっていた。
「あなたと出会えて本当に良かった」彼は静かに言った。「二度も」
「二度?」セリーヌは微笑んだ。
「修道院での子供の頃と、従者として」レオハルトは説明した。「どちらも運命だったのかもしれない」
彼らが言葉を交わしていると、マーカスが急いで丘を登ってきた。
「王子様」彼は少し息を切らしていた。「トーマスが戻りました」
二人は急いで主陣営に戻った。トーマスは疲れた様子で、アルベール侯爵と話をしていた。彼の服は埃で汚れ、長時間の騎乗による疲労が見て取れた。
「トーマス」レオハルトが声をかけた。「状況は?」
「王子様」トーマスは深く頭を下げた。「危険です。グラディーン家の軍が動いています。彼らは我々の進路を察知し、フェニックス渓谷で待ち伏せる準備をしています」
「フェニックス渓谷?」セリーヌが尋ねた。「それはここからどれくらい?」
「明日の昼頃に到達する場所です」トーマスは答えた。「渓谷は狭く、両側は切り立った崖になっています。そこを通らなければ、モントゥリエ伯爵の領地には辿り着けません」
「完璧な罠だな」アルベール侯爵が眉をひそめた。「他のルートは?」
「北に戻るか、さらに南に大きく迂回するしかありません」トーマスは言った。「しかし、どちらも数日の遅れを意味します」
レオハルトは地図を広げ、状況を検討した。北回りは論外だった。グラディーン家の本隊と遭遇する危険が高すぎる。南に大きく迂回すれば安全だが、時間がかかる。そして時間こそが、今の彼らに最も足りないものだった。
「渓谷を突破するしかないようだな」彼は決断した。
「罠と知りながら飛び込むのですか?」マーカスが心配そうに尋ねた。
「奇襲はもう不可能だ」レオハルトは冷静に分析した。「彼らは我々の存在を知っている。しかし、我々も彼らの罠を知っている。これで対等だ」
「どうするつもりだ?」侯爵が尋ねた。
「分散して進む」レオハルトは地図を指さした。「主力は渓谷の南側の小道を通る。小規模な部隊が渓谷に入り、敵の注意を引く。彼らが渓谷に集中している間に、主力は回り込んで背後を取る」
「危険な作戦だな」侯爵が言った。「囮となる部隊は大きな危険を冒すことになる」
「私が率いる」レオハルトはきっぱりと言った。
「駄目よ!」セリーヌが驚いて叫んだ。「あなたは最も守られるべき人物よ」
「だからこそだ」レオハルトは静かに言った。「私は部下に危険な任務を押し付けるような王にはなりたくない。自ら先頭に立つ王になる」
部隊の指揮官たちが集まり、議論が続いた。多くは王子の決断に反対したが、レオハルトの決意は固かった。
「わかりました」アルベール侯爵はついに折れた。「しかし、最低限の護衛は必要です。そして...」
彼はセリーヌを見た。
「娘は主力に付ける。彼女を危険に晒すわけにはいかない」
「父上!」セリーヌが抗議した。「私も行くわ。レオハルトと共に」
「それだけは駄目だ」レオハルトが真剣に言った。「君の安全は何よりも重要だ」
「いいえ」セリーヌは強く反論した。「私たちは一緒に行くと決めたのよ。危険も共有すると」
レオハルトとセリーヌの間に緊張が走った。彼らは互いを見つめ、どちらも譲る気配がなかった。
「セリーヌ」レオハルトは優しく、しかし毅然とした態度で言った。「私が失われれば、全てが終わる。しかし、君も失えば、私の心は砕ける。だから、お願いだ。今回だけは安全な方を選んでくれ」
セリーヌの目に涙が浮かんだ。彼女はレオハルトの真剣な表情を見つめ、ついに頷いた。
「わかったわ」彼女は静かに言った。「でも、約束して。無事に戻ってくると」
「約束する」レオハルトは彼女の手を握った。「星に誓って」
作戦の詳細が決定され、各部隊に指示が下された。夕暮れまでに、彼らは再び出発した。予定を前倒しし、夜間行軍をすることで、敵の待ち伏せに対する準備を整えるつもりだった。
夜の闇の中、二つの部隊に分かれた軍は静かに進んでいった。レオハルトは五十人の精鋭と共に渓谷へと向かい、主力はアルベール侯爵の指揮下で、南の迂回路を進んだ。セリーヌは父と共に主力部隊にいたが、彼女の心はレオハルトと共にあった。




