出発の朝
翌朝の館は、かつてない活気に包まれていた。従者たちが忙しく行き交い、兵士たちが武具の点検をし、食料品や医薬品が倉庫から運び出されていた。出発の準備が本格的に始まったのだ。
レオハルトは早朝から侯爵と共に書斎にこもり、地図を広げて進軍ルートを検討していた。彼は青色の正装に身を包み、腰には銀の装飾が施された剣を下げていた。もはや従者の姿はなく、そこには王としての威厳が漂っていた。
「北の街道は避けるべきでしょう」侯爵が地図の一部を指さした。「グラディーン家の領地に近すぎる」
「では、西回りで」レオハルトは別のルートをたどった。「モントゥリエ伯爵の領地を通れば、彼の兵と合流できる」
「そうだな」侯爵は頷いた。「それから東に向かい、ボーモント侯爵の軍と合流する」
彼らは進軍ルートを決め、地図に印をつけた。全体の計画が形になりつつあった。出発は明日の朝、まずヴァランティーヌ家の騎士団と召集された傭兵たちが先行し、後から支援者たちが続く。首都までの道のりは約五日。途中、各地の支援者と合流しながら進む予定だった。
「軍勢の規模は?」レオハルトが尋ねた。
「我が家からは五百」侯爵は答えた。「それに加え、すでに二百の傭兵が集まっている。途中で合流する支援者たちを含めれば、首都到着時には四千から五千になるだろう」
「敵の兵力は?」
「大司教の直属兵が二千、グラディーン家の兵が三千、他の同盟貴族たちを合わせると一万を超える」侯爵は厳しい表情で言った。「数では不利だ」
「だからこそ、直接の戦闘は避けるべきだ」レオハルトは言った。「我々の目的は内戦ではなく、平和的な王権回復だ」
「その通りだ」侯爵は同意した。「民衆の支持が重要になる」
彼らが話しているところへ、マーカスが入ってきた。彼はまだ完全には回復していなかったが、歩けるようになっていた。
「王子様」彼は敬意を込めて頭を下げた。「学院からの使者が到着しました。ルドルフ学院長からの手紙です」
マーカスが手渡した封書を開くと、いつものように学院長の達筆な文字が踊っていた。
『レオハルト王子殿下へ
マーカスの救出、そしてヴァランティーヌ家への無事到着を聞き、安堵しております。
さて、我々も行動を開始しました。王家に忠実な貴族たちに接触し、支援を取り付けています。また、民衆の間にも王子の帰還の噂を広めています。彼らの反応は上々です。十年間の大司教と貴族連合の統治に不満を持つ者は多いのです。
しかし、敵も動いています。グラディーン家は大司教に報告し、あなたを反逆者として処罰するよう求めています。すでに軍が編成されつつあります。
これは時間との戦いです。首都への道中、ディオン峠で合流しましょう。私からの支援兵も連れていきます。
王の帰還の時が来ました。どうか無事に。
ルドルフ・ヴァレンシュタイン』
レオハルトは手紙を侯爵に渡した。「状況は予想通りのようだ」
「ああ」侯爵は手紙を読んで頷いた。「敵も動き始めた。我々も急がねばならない」
「出発を明日から今日の夕方に早めるべきでしょうか」マーカスが提案した。
レオハルトは少し考えた後、首を振った。「いや、準備が不十分だと途中で問題が生じる。予定通り明朝の出発でいこう」
「しかし、一つ変更が」侯爵が言った。「先遣隊を送るべきだろう。道中の安全を確認し、敵の動きを探るために」
「良い考えだ」レオハルトは同意した。「トーマスに頼もう。彼は森の道に詳しい」
マーカスが頷き、トーマスを呼びに行った。
レオハルトは窓辺に立ち、外の準備の様子を見下ろした。中庭では兵士たちが訓練を行い、騎士たちが装備を点検していた。明日、彼らは王子—いずれの王—のために戦うことになる。
「緊張しているか?」侯爵が彼の横に立った。
「ええ」レオハルトは正直に答えた。「責任の重さを感じます。彼らは私に人生を賭けているのです」
「それが王の宿命だ」侯爵は静かに言った。「しかし、あなたは一人ではない。多くの支援者がいる」
レオハルトは黙って頷いた。侯爵の言葉は心強かったが、それでも不安は消えなかった。これまでの人生のほとんどを、彼はレオン・ラグランとして過ごしてきた。王としての経験は、記憶の中にあるとはいえ、十年以上前のものだ。
「セリーヌはどこに?」彼は尋ねた。
「彼女なら、野営用の装備を確認している」侯爵は答えた。「彼女も同行するつもりだから」
「それは…」レオハルトは眉をひそめた。
「彼女を止めることはできんよ」侯爵は小さく笑った。「彼女が決めたことだ」
レオハルトはため息をついた。セリーヌを危険な旅に連れていきたくはなかったが、彼女の強い意志も知っていた。彼女は単なる侯爵の娘ではなく、勇気ある女性だった。
「わかりました」彼は頷いた。「彼女の安全は最優先で守ります」
「ありがとう」侯爵は安堵した様子で言った。「彼女は私の宝だからな」
その時、トーマスが書斎に入ってきた。彼は旅装束に身を包み、しっかりとした足取りだった。
「お呼びでしょうか、王子様」
「ああ、トーマス」レオハルトは言った。「先遣隊を率いてほしい。道中の安全を確認し、敵の動きを探ってほしい」
「承知しました」トーマスは深く頭を下げた。「何人ほど連れていくべきでしょう?」
「十人で十分だろう」侯爵が答えた。「目立たないよう、小規模に」
「わかりました」トーマスは頷いた。「いつ出発しますか?」
「今すぐに」レオハルトは言った。「時間がない」
「すぐに準備します」トーマスは再び頭を下げ、部屋を後にした。
「彼は信頼できる男だ」侯爵は言った。「オルシニ城の猟師頭を務めていた人物だからな」
「ええ、覚えています」レオハルトは懐かしそうに言った。「子供の頃、森での狩りを教えてくれました」
しばらくして、書斎の窓から、トーマス率いる先遣隊が館を出ていくのが見えた。十人の精鋭騎士たちは、目立たない装いで、静かに西の道へと消えていった。
* * *
一方、セリーヌは館の倉庫で、リリスと共に野営用の装備を確認していた。テント、毛布、調理道具、医薬品—長い旅には多くの準備が必要だった。
「これで十分でしょうか」リリスが心配そうに尋ねた。
「ええ」セリーヌは頷いた。「父上の軍には野営の専門家もいるし、途中の町や村で補給もできるわ」
「お嬢様」リリスは少し躊躇いながら言った。「本当に行くおつもりですか?危険な旅になりますよ」
「もちろん」セリーヌはきっぱりと答えた。「レオハルトの側にいると決めたの。王妃になるつもりなら、最初から共に歩むべきだわ」
リリスは彼女の決意に満ちた表情を見て、もう反対できないと悟ったようだった。
「わかりました」彼女は頷いた。「私もお供します。どんな危険があっても」
「ありがとう、リリス」セリーヌは感謝の笑みを浮かべた。「あなたがいてくれて心強いわ」
二人が装備の確認を続けていると、レオハルトが倉庫に姿を現した。彼は少し緊張した様子で近づいてきた。
「セリーヌ」
「レオハルト」彼女は振り返った。「準備は順調よ。これだけあれば十分だわ」
「君は…本当に来るつもりなのか?」彼は心配そうに尋ねた。
「当然よ」彼女は自信を持って答えた。「私たちは一緒に行くと決めたでしょう」
「でも、危険だ」レオハルトは真剣な表情で言った。「道中で戦闘になる可能性もある」
「わかってるわ」セリーヌは毅然として言った。「でも、あなたが危険を冒すなら、私も同じ危険を共有するわ。それが私の選択」
レオハルトは彼女の決意に満ちた青い瞳を見つめ、それ以上反対することができなかった。
「わかった」彼は諦めのため息をついた。「だが、常に私の近くにいてくれ。君の安全は最優先だ」
「約束する」彼女は微笑んだ。
レオハルトは彼女の手を取り、優しく握った。
「君がいてくれることを、心から嬉しく思う」彼は静かに言った。「君の勇気と決意は、私に力を与えてくれる」
「私たちは一緒に強くなれるわ」セリーヌは言った。「二人なら、どんな困難も乗り越えられる」
リリスはその光景を見て、静かに微笑んでいた。二人の間には特別な絆があり、それは単なる恋愛感情以上のものだった。運命によって結ばれた魂同士のような繋がりだった。
「それで」セリーヌは話題を変えた。「先遣隊は出発したの?」
「ああ」レオハルトは頷いた。「トーマスが率いて、すでに出発した。道中の安全を確認してくれるだろう」
「父上はどこ?」
「まだ書斎にいる」レオハルトは答えた。「支援者たちへの最後の手紙を書いているようだ」
セリーヌは頷き、最後の装備を箱に詰めた。
「これで準備は完了ね」彼女は満足げに言った。「あとは個人的な荷物だけ」
「では、昼食にしよう」レオハルトは提案した。「午後はまだ多くの準備がある」
彼らは倉庫を出て、館の中央へと向かった。廊下では従者たちが忙しく行き交い、兵士たちが装備を運んでいた。館全体が明日の出発に向けて動いていた。
* * *
昼食後、レオハルトは館の訓練場で兵士たちの様子を見ていた。彼らは明日から始まる長い旅と、可能性のある戦闘に備えて、最後の訓練を行っていた。剣の打ち合いの音と、指揮官の号令が響いていた。
「見事な兵士たちだ」
振り返ると、アルベール侯爵が近づいてきた。彼は軽い鎧を身につけていた。
「ええ」レオハルトは同意した。「よく訓練されています」
「彼らはあなたのために喜んで戦うだろう」侯爵は言った。「王家に忠実な者たちだ」
レオハルトは黙って頷いた。兵士たちの忠誠は心強かったが、同時に大きな責任も感じた。彼らの命を預かることになるのだ。
「侯爵様」彼は静かに尋ねた。「私は良い王になれるでしょうか」
侯爵は少し驚いたようだったが、すぐに優しい表情になった。
「その問いをすること自体が、良い王の資質だ」彼は言った。「自分の能力を疑い、常に向上を目指す謙虚さ。それこそが賢明な統治者に必要なものだ」
「しかし、経験がない」レオハルトは懸念を示した。「レオン・ラグランとしての記憶は二十一年分ありますが、王子としての記憶は幼少期のものだけです」
「経験は日々積み重ねていくものだ」侯爵は励ました。「あなたには良き助言者がいる。一人で全てを背負う必要はない」
「ありがとうございます」レオハルトは心から言った。「あなたの支援がなければ、ここまで来れなかったでしょう」
「私はただ、正しいことをしているだけだ」侯爵は静かに言った。「王家への忠誠は、私の家の誇りでもある」
二人は訓練場を離れ、館の中へと戻った。廊下では、マーカスが急いで近づいてきた。
「王子様」彼は少し息を切らせていた。「緊急の知らせです」
「どうした?」レオハルトが尋ねた。
「北からの偵察兵が戻りました」マーカスは言った。「グラディーン家の軍が動き始めたそうです。彼らは首都ではなく、こちらに向かっているようです」
レオハルトと侯爵は驚いた顔を見合わせた。
「こちらに?」侯爵が確認した。「我々を直接攻撃するつもりか」
「そのようです」マーカスは頷いた。「約千の兵力で、二日後にはここに到着するでしょう」
「これは予想外だ」レオハルトは眉をひそめた。「彼らは大司教の許可を得て動いているのか」
「それはわかりません」マーカスは言った。「しかし、これは我々の計画に影響します。明日出発するとしても、進軍中に彼らと遭遇する可能性が高い」
「出発を今夜に早めるべきか」侯爵が提案した。
レオハルトは思案した。確かに、グラディーン家の軍と正面からぶつかるのは避けたい。しかし、夜間の出発は別の危険を伴う。
「いや」彼は決断した。「予定通り明朝に出発しよう。ただし、ルートを変更する。北東へではなく、まず南に向かい、それから迂回して西から首都を目指そう」
「それなら、グラディーン家の軍とは遭遇しない可能性が高い」侯爵は同意した。
「マーカス」レオハルトは言った。「先遣隊に連絡を取れるか?」
「はい」マーカスは頷いた。「伝書鳩がいます」
「トーマスに新しいルートを伝えてくれ。南回りのルートを探索するよう」
「承知しました」マーカスは頭を下げ、急いで去っていった。
「状況は複雑になってきた」侯爵は静かに言った。「グラディーン家は我々の計画を察知している」
「アザゼルの情報網か」レオハルトは思案した。「彼らは我々を阻止するために全力を尽くすだろう」
「しかし、我々にも準備がある」侯爵は言った。「そして何より、正統な王位継承者がいる。民衆はあなたの側につくだろう」
レオハルトは頷いた。彼の正当性は最大の武器だった。しかし、それを証明するためには、まず首都に到達しなければならない。
「セリーヌに知らせよう」彼は言った。「彼女にも状況を理解しておいてもらう必要がある」
二人はセリーヌを探しに行った。彼女は自室で、リリスと共に旅支度をしていた。二人は簡素な旅行用のドレスを選び、必要最低限の持ち物を旅行鞄に詰めていた。
「セリーヌ」レオハルトが声をかけた。「話がある」
彼らは状況を説明した。グラディーン家の軍が動き始めたこと、ルートを変更する必要があることを。
「危険が増しているのね」セリーヌは冷静に受け止めた。
「ああ」レオハルトは頷いた。「だからこそ、もう一度考え直してほしい。君はここに残るべきかもしれない」
「答えは変わらないわ」セリーヌはきっぱりと言った。「私はあなたと共に行く」
レオハルトはため息をついた。彼女の決意は固かった。
「わかった」彼は諦めた。「だが、常に私の側にいて、指示に従ってくれ」
「約束するわ」彼女は微笑んだ。
侯爵は娘の決意に満ちた表情を見て、誇らしげな表情を浮かべた。
「我が家の血を引く娘だ」彼は静かに言った。「勇気ある選択をする」
セリーヌは父に感謝の微笑みを向けた。
「さて」レオハルトは言った。「明朝の出発に向けて、最終確認をしよう」
彼らは館の大広間に集まり、各担当者からの報告を受けた。食料の準備、医薬品の確認、武器と装備の点検、馬の準備—全てが整いつつあった。出発の準備は順調に進んでいた。
* * *
夕食後、セリーヌは城壁の上から、夕暮れの風景を眺めていた。明日から始まる旅への期待と不安が入り混じっていた。危険が待ち受けていることは明らかだが、それでも彼女の決意は揺るがなかった。レオハルトと共に歩む—それが彼女の選んだ道だった。
「考え事?」
振り返ると、レオハルトが近づいてきた。彼は正装を脱ぎ、シンプルな貴族の服装に着替えていた。夕暮れの光が彼の横顔を照らし、彼の姿は一層凛々しく見えた。
「ええ」セリーヌは微笑んだ。「明日からの旅のことを」
「不安?」彼は彼女の隣に立った。
「少し」彼女は正直に答えた。「でも、それ以上に期待もあるわ。あなたと共に新しい未来へ向かうことを」
「君の勇気には感心する」レオハルトは優しく言った。「多くの女性なら、安全な城に留まることを選ぶだろう」
「私は普通の女性じゃないもの」セリーヌは誇らしげに言った。
「確かに」レオハルトは笑った。「だからこそ、君を愛している」
彼の素直な告白に、セリーヌの頬が赤くなった。彼らは既に気持ちを確かめ合っていたが、それでも「愛している」という言葉を聞くと、彼女の心は高鳴った。
「私もあなたを愛してる」彼女は柔らかく答えた。
夕日が地平線に沈んでいく。赤とオレンジの光が空を染め、雲を金色に輝かせていた。明日から、彼らは新たな旅に出る。王都を目指し、レオハルトの王位を取り戻すための旅に。
「思えば奇妙な運命ね」セリーヌは静かに言った。「あなたが従者として我が家に来たとき、私は何も知らなかった。あなたが王子だということも、私たちが子供の頃に会っていたことも」
「運命の糸は不思議に絡み合うものだな」レオハルトは同意した。「私たちは再会するよう定められていたのかもしれない」
「あの占い師も言っていたわね」セリーヌは思い出した。「星の力が失われた者を導き戻すと」
「彼はアザゼルだったが」レオハルトは少し苦笑した。「皮肉なことに、彼の言葉には真実があったようだ」
彼らは城壁の上から、館の庭園や、その向こうに広がる森や丘を見渡した。明日の今頃、彼らはこの景色から遠く離れているだろう。
「明日からは、もうあなたを従者として呼ぶことはないのね」セリーヌは少し寂しそうに言った。
「そうだな」レオハルトは優しく微笑んだ。「私はもうレオン・ラグランではない。しかし、レオンとしての経験は私の一部だ。特に、君に仕えた日々は大切な思い出だ」
「私も大切にしているわ」セリーヌは彼の手を握った。「あなたが私の従者だった日々を」
彼らは夕闇が深まる中、しばらく城壁の上に立っていた。明日から始まる旅は困難に満ちているだろうが、二人の心は決意と希望で満ちていた。
最後の夕日が地平線に沈み、最初の星々が空に瞬き始めた。北極星が特に明るく輝いている。王の星、旅人を導く星。明日から、その星が彼らの道標となるだろう。
「さあ、休もう」レオハルトが言った。「明日は長い一日になる」
セリーヌは頷き、彼と共に城壁を降りた。彼らの前には未知の道のりが広がっていたが、二人の心は固く結ばれていた。どんな困難が待ち受けていようとも、共に乗り越えていく決意を胸に。




