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セリーヌの葛藤

夕暮れ時、ヴァランティーヌ家の館では晩餐の準備が進められていた。グラディーン家の滞在最終日にあたり、盛大な送別の晩餐会が開かれることになっていた。館内は従者たちが忙しく行き交い、シャンデリアが磨かれ、銀食器がテーブルに並べられていた。


セリーヌは自室で、リリスの手を借りながらドレスに着替えていた。深い青色のドレスは、彼女の金色の髪と青い瞳を一層引き立てた。


「最後の夜ですね」リリスは彼女の髪を整えながら言った。「明日、彼らが去れば一安心です」

「ええ」セリーヌは鏡越しに自分の姿を見た。「でも、これで終わりじゃないわ。むしろ、これからが始まり」

「わかっています」リリスは小声で言った。「王子様の帰還に向けて、準備をしなければ」


彼女が言い終わる前に、扉がノックされた。


「セリーヌ、入っていいか」アルベール侯爵の声だった。

「どうぞ」


侯爵が入室し、娘の姿を見て微笑んだ。「美しいな」

「ありがとう、父上」セリーヌは立ち上がった。「何かあったの?」


侯爵はリリスに目配せし、彼女が会釈して部屋を出た後、声を低めた。


「学院からの使者が戻った」彼は言った。「レオハルトがマーカスの救出作戦を計画しているという」

「マーカス?」セリーヌは驚いた。「彼が捕らえられているとは、聞いてますけれど」

「グラディーン家の狩猟用別荘に捕らわれているそうだ」侯爵は説明した。「レオハルトは今夜、救出部隊を率いる予定だ」


セリーヌの胸が締め付けられるような感覚に襲われた。「でも、それは危険すぎるわ!罠かもしれないのに」

「彼も承知の上だ」侯爵は静かに言った。「だが、仲間を見捨てることはできないと」


セリーヌは窓辺に歩み寄った。北東の方角、レオハルトがいるであろう方向を見つめる。


「どうして彼自身が行くの?」彼女は心配そうに言った。「他の人を送ればいいのに」

「それが彼の性格だ」侯爵は微かに微笑んだ。「責任感が強い。それは、良い王の資質でもある」


セリーヌは黙って頷いた。確かに、それはレオハルトらしい決断だった。彼は従者だった時も、常に責任感を持って任務に当たっていた。その誠実さが、彼女の心を惹きつけた理由の一つでもあった。


「それで、私たちはどうするのです?」彼女は尋ねた。

「グラディーン家を送り出した後」侯爵は言った。「支援者たちを集め始める。レオハルトの帰還に向けて、準備を整えるのだ」

「わかったわ」


「さて」侯爵は話題を変えた。「今夜の晩餐会だが、グラディーン家、特にイオルフには気をつけるように。彼は最後の機会に何かを試みるかもしれない」

「何を?」

「おそらく、おまえとの婚約の話を持ち出すだろう」侯爵は真剣な表情で言った。「彼らの家と我々の同盟を強化するためにね」


セリーヌは顔をしかめた。「断るわ」

「もちろんだ」侯爵は優しく微笑んだ。「私は娘の幸せを第一に考える父親だ。強制はしない」


「ありがとう、父上」


「では、下で待っている」侯爵は部屋を出た。


セリーヌは再び窓の外を見た。夕暮れの空は橙色から紫へと変わりつつあり、最初の星々が輝き始めていた。レオハルトは今、どこにいるのだろう。彼は無事だろうか。


《気をつけて》彼女は心の中で祈った。《約束を忘れないで》


* * *


同じ時刻、ヴァレンシュタイン学院から北東に向かう森の中で、レオハルトと小規模な救出部隊が馬を進めていた。レオハルトは灰色の外套に身を包み、顔を覆うフードを被っていた。彼の他に五人の精鋭兵士と、魔術師のアーサーが同行していた。


「あと一時間で別荘に到着します」先導役の兵士が言った。

「全員、準備はいいか」レオハルトは確認した。

「はい」アーサーが応じた。「幻惑の術の準備は整いました。彼らの警戒の目から私たちを隠せるでしょう」

「マーカスの状態は?」

「弱っていると思われます」アーサーは心配そうに言った。「捕らえられてから四日が経ちました。読心術から身を守り続けているはずです」


レオハルトは眉をひそめた。マーカスは彼のために捕らえられた。もし彼に何かあれば、自分の責任だ。


「救出後は、すぐにヴァランティーヌ家へ向かいましょう」彼は言った。「学院には戻らない。敵が追ってくるだろうから」


全員が頷いた。計画は明確だった。アーサーの幻惑の術で敵の目を欺き、マーカスを捜索する。彼を見つけたら速やかに救出し、脱出する。


「この別荘は狩猟用です」先導役が説明した。「通常、多くの警備はありません。しかし、今回は例外かもしれません」

「十分に警戒しよう」レオハルトは言った。「そして、可能な限り血を流さないように」


馬を降りた一行は、徒歩で森の中を進んだ。暗闇の中、彼らは慎重に足を進める。やがて、木々の間から別荘の灯りが見えてきた。


それは石造りの二階建ての建物で、周囲には低い塀があり、数人の警備兵が立っていた。遠くから見る限り、大規模な防衛態勢は取られていないようだった。


「思ったより警備は少ないようだ」レオハルトは呟いた。

「罠かもしれません」アーサーは警告した。「注意が必要です」


彼らは森の縁に潜み、別荘の様子を観察した。アーサーは小さな水晶を取り出し、呪文を唱え始めた。水晶が青く光り、周囲に霧のようなものが広がる。


「幻惑の術です」彼は説明した。「これで私たちの姿は見えにくくなります。しかし、完全に姿を消すわけではありません。警戒は怠らないでください」

レオハルトは頷き、剣の柄に手を置いた。「行くぞ」


彼らは霧に包まれながら、塀に向かって忍び寄った。警備兵たちは彼らに気づかず、通常の巡回を続けていた。


塀を越えると、彼らは建物の裏手に回った。奉公人用の入り口があり、そこから侵入することにした。扉は鍵がかかっていたが、アーサーの魔術で容易に開いた。


「二手に分かれましょう」レオハルトは小声で言った。「アーサーと私、そして二人の兵士は建物内を捜索します。残りの三人は外で見張りを続けてください」

彼らは頷き、計画通りに行動した。レオハルトたちは建物内に入り、薄暗い廊下を進んだ。時折、奉公人や警備兵とすれ違ったが、幻惑の術のおかげで気づかれずに済んだ。

「マーカスはどこだろう」レオハルトは小声で言った。

「おそらく地下か二階でしょう」アーサーは推測した。「捕虜を保管するなら、人目につかない場所が良い」


彼らは慎重に建物内を探索し、ついに地下への階段を見つけた。階段を降りると、そこには複数の扉がある廊下があった。


「牢獄のようだな」レオハルトは呟いた。


静かに各部屋を覗いていくと、三つ目の部屋で彼らはマーカスを見つけた。彼は壁に鎖でつながれ、意識はあるものの、疲れ切った様子だった。


「マーカス」レオハルトは小声で呼びかけた。


マーカスは顔を上げ、目を見開いた。「王子様…?」


「静かに」レオハルトは扉に近づき、アーサーに鍵を開けるよう合図した。


アーサーが魔術で扉を開け、彼らは部屋に入った。レオハルトはすぐにマーカスの鎖に向かった。


「大丈夫か?」彼は心配そうに尋ねた。


「はい…」マーカスの声は弱かった。「しかし、これは…」


「罠だ」


突然、部屋の隅から声がした。暗がりから、アザゼル・クロフォードが姿を現した。彼の目は青く光り、不気味な微笑みを浮かべていた。


「よく来たな、レオハルト王子」彼は言った。「待っていたぞ」


レオハルトは剣を構えた。「アザゼル」


「防御魔術は見事だ」アザゼルは言った。「あなたの心を読むことはできない。しかし、行動は予測できた。仲間を見捨てられないのがあなたの弱点だ」


数人の兵士が部屋に入ってきた。彼らは武装しており、レオハルトたちを取り囲んだ。


「降伏しろ」アザゼルは命じた。「抵抗は無駄だ」


「その自信はどこから来る?」レオハルトは冷静に言った。


「我々は勝てない戦いに挑んでいるとでも?」アーサーも魔術の準備を整えていた。


「お前たちは既に包囲されている」アザゼルは言った。「外にいた仲間たちも捕らえられた。この別荘には五十人の兵士がいる。逃げ場はない」


レオハルトは状況を素早く分析した。確かに不利だが、まだ諦めるつもりはなかった。


「アーサー」彼は小声で言った。「光の術を」


アーサーは理解し、水晶を高く掲げた。彼が呪文を唱えると、突然部屋中が眩い光に包まれた。敵兵たちが目を覆う瞬間、レオハルトはマーカスの鎖を剣で断ち切った。


「逃げるぞ!」


彼はマーカスを支え、アーサーと共に部屋を飛び出した。廊下には兵士たちがいたが、彼らも光に目がくらんでおり、反応が遅れた。


「地上へ!」レオハルトは指示した。


彼らは階段を駆け上がった。しかし、上に待っていたのは更に多くの兵士たちだった。


「包囲されているぞ」アーサーが言った。


「別の方法で」レオハルトは素早く判断した。「窓から出る」


彼らは最も近い窓を目指した。外には夜の闇が広がっていた。窓の外には庭があり、その向こうに森が見える。


「飛び降りるぞ」レオハルトはマーカスを支えながら言った。


「待て!」アザゼルの声が背後から聞こえた。「逃げても無駄だ」


振り返ると、彼は両手を広げ、青い炎のようなものを生み出していた。


「これが読心魔道士の真の力だ」彼は言った。「心を読むだけでなく、心を操ることもできる」


青い炎が彼らに向かって飛んできた。アーサーが防御魔術を展開したが、力負けして倒れた。


「アーサー!」レオハルトが叫んだ。


「私は…大丈夫です」アーサーは弱々しく言った。「逃げてください」


レオハルトはマーカスを窓際まで運び、外を見た。一階なので、落下の危険は少ない。


「行くぞ」彼はマーカスに言った。


「王子様…」マーカスは弱々しく言った。「あなたは逃げてください。私は足手まといに」


「仲間は見捨てない」レオハルトはきっぱりと言った。「共に行こう」


彼はマーカスを抱えるようにして、窓から飛び降りた。地面に着地すると、彼らは森に向かって走り始めた。しかし、庭には既に兵士たちが待ち構えていた。


「包囲されたか」レオハルトは状況を見渡した。「だが、諦めるつもりはない」


彼は剣を構え、マーカスを後ろに庇うように立った。兵士たちが近づいてくる。


その時、遠くから馬のいななきが聞こえた。森の中から騎馬隊が現れ、別荘に向かって疾走してきた。


「援軍だ!」マーカスが驚いて言った。


騎馬隊は緑と銀の旗を掲げていた。ヴァランティーヌ家の紋章だ。


「アルベール侯爵の兵だ」レオハルトは驚きと喜びで言った。


騎馬隊は敵兵たちを蹴散らしながら、レオハルトたちのもとへ駆けつけた。先頭には見覚えのある顔があった。


「トーマス!」


老猟師は馬を降り、深く頭を下げた。「王子様、お迎えに参りました」

「なぜここに?」

「侯爵様の命令です」トーマスは説明した。「レオハルト様がマーカス様の救出に向かわれると聞き、急いで援軍を連れてきました」


彼は予備の馬を指さした。「さあ、急ぎましょう。敵はすぐに態勢を立て直します」


レオハルトはマーカスを馬に乗せ、自分も馬に飛び乗った。アーサーも窓から脱出し、彼らに合流した。


「アーサー、大丈夫か?」

「はい」彼は少し疲れた様子だったが、頷いた。「しかし、仲間たちは」

「すでに救出しました」トーマスが言った。「彼らも別の経路で脱出しています」

「では、行こう」レオハルトは言った。「ヴァランティーヌ家へ」


彼らは馬を走らせ、森の中へと消えていった。背後では、アザゼルが怒りの叫びを上げていた。


* * *


ヴァランティーヌ家の館では、送別の晩餐会が進行中だった。大広間には豪華な料理が並び、音楽が流れ、貴族たちが会話を楽しんでいた。


セリーヌはイオルフの隣に座り、礼儀正しく会話をしていた。しかし、彼女の心は別の場所にあった。レオハルトの救出作戦は成功したのだろうか。彼は無事なのだろうか。


「セリーヌ嬢」イオルフが言った。「あなたは今夜、特に美しい」


「ありがとうございます」彼女は微笑んだ。


「私はずっと考えていたんだ」彼は声を低めた。「我々の家が同盟を結ぶのは、互いに利益があることだ」


ここに来たか、とセリーヌは思った。父が予想した通り、イオルフは婚約の話を持ち出そうとしていた。


「確かに、政治的同盟は重要です」彼女は中立的に答えた。

「政治だけではない」イオルフは彼女の手に触れようとした。「個人的な繋がりもね」

セリーヌは自然な動きで手を引き、ワインを取った。「イオルフ様のご厚意に感謝します」

「考えてみてくれないか?」彼は少し強引に言った。「我々の結婚は、両家にとって大きな意味を持つだろう」

「申し訳ありませんが」セリーヌはきっぱりと言った。「私はまだ結婚について考える準備ができていません」

「時間はある」イオルフは引き下がらなかった。「今すぐの返事は求めない。ただ、検討してほしい」


「わかりました」セリーヌは曖昧に応じた。「考えておきます」


イオルフは満足げに頷いた。彼は完全な拒絶ではないと解釈したようだった。


晩餐会の終わり頃、グラディーン伯爵が立ち上がり、乾杯の音頭を取った。


「アルベール侯爵、セリーヌ嬢」彼は杯を掲げた。「素晴らしいもてなしに感謝する。我々の友好が長く続くことを願おう」


全員が杯を掲げた。伯爵の目は冷たく計算高かったが、表面上は礼儀正しかった。

「我々は明朝、出発する」伯爵は続けた。「しかし、すぐにまた会うことになるだろう」


その言葉に、何か不穏な意味を感じたセリーヌは、父を見た。アルベール侯爵は平静を装っていたが、彼もまた同じことを感じたようだった。


晩餐会が終わり、客人たちが各自の部屋に戻った後、セリーヌは父の書斎に呼ばれた。


「イオルフは婚約の話を持ち出したわ」彼女は報告した。

「予想通りだな」侯爵は頷いた。「どう応じた?」

「検討すると言ったけど、拒絶したも同然よ」セリーヌは言った。「でも、彼は諦めてないわ」

「当然だ」侯爵は窓の外を見た。「彼らにとって、我々との同盟は重要だからな」


「父上」セリーヌは心配そうに尋ねた。「伯爵の最後の言葉、『すぐにまた会うことになる』というのは…」


「ああ」侯爵の表情が厳しくなった。「それは明らかな脅しだ。彼らは何かを企んでいる」


「レオハルトの件で?」


「恐らくは」侯爵は頷いた。「彼らの別荘でレオハルトが救出作戦を実行したことを、知っているのかもしれない」


セリーヌの心臓が早鐘を打った。「レオハルトは無事?」

「まだ知らせはない」侯爵は言った。「しかし、私はトーマスと騎兵隊を送った。援軍として」

「良かった…」セリーヌは安堵のため息をついた。「彼らはいつ戻るの?」

「うまくいけば、明日の夜か明後日の朝には」侯爵は答えた。「グラディーン家が去った後にね」


突然、扉がノックされ、執事のヘンリーが慌てた様子で入ってきた。


「侯爵様」彼は息を切らせて言った。「伝令が来ました。北の入り口で」


「レオハルトから?」


「はい」ヘンリーは頷いた。「救出作戦は成功したとのことです。しかし、アザゼルたちの追跡を受けているそうです」

セリーヌと侯爵は顔を見合わせた。

「彼らはいつここに着く?」侯爵が尋ねた。

「夜明け前には、と」

「グラディーン家が出発する前だな」侯爵は思案した。「難しい状況だ」


「どうするの?」セリーヌは心配そうに尋ねた。

「彼らを裏門から迎え入れる」侯爵は決断した。「そして、グラディーン家には気づかれないよう、西翼の隠し部屋に匿おう」


「わかりました」ヘンリーは頷いた。「準備をします」


彼が去った後、セリーヌは窓辺に立ち、北の方角を見つめた。レオハルトが帰ってくる。しかし、状況は危険だった。

「彼は無事なの?」彼女は父に尋ねた。

「マーカスを救出し、全員無事とのことだ」侯爵は答えた。「だが、アザゼルの追跡を受けている。油断はできない」


セリーヌは決意を固めた。「私も手伝うわ。彼らを守るために」


「ありがとう、助かる」侯爵は微笑んだ。「それでは準備をしよう。長い夜になりそうだ」


彼らは書斎を出て、それぞれの任務に向かった。セリーヌは西翼の隠し部屋の準備を手伝うことにした。その部屋は、昔の戦乱の時代に、危険から身を隠すために作られたものだった。


《レオハルト》彼女は心の中で呼びかけた。《無事で。そして、ついに会える》


夜が更け、館は静寂に包まれた。しかし、その静けさの中にも、明日の嵐を予感させる緊張が漂っていた。

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