封印の謎
朝陽が学院の塔に降り注ぐ中、レオハルトは広い円形の部屋で目を覚ました。天井の高い空間には、王国の歴史を描いた壁画が飾られていた。ベッドから起き上がり、窓辺に立つと、学院の広大な敷地が見渡せた。
記憶が戻って初めての朝。彼の心には、レオン・ラグランとしての記憶と、レオハルト王子としての記憶が混在していた。どちらも確かに彼自身のものであり、どちらも彼を形作る大切な記憶だった。
扉をノックする音がして、入室を許可すると、ルドルフ学院長が朝食の盆を持って入ってきた。
「おはよう、レオハルト」彼は穏やかに微笑んだ。「よく眠れたか?」
「はい」レオハルトは頷いた。「記憶は一晩かけて整理されたようです」
「良かった」ルドルフは盆をテーブルに置いた。「朝食を取りながら、今後の計画を話し合おう」
二人はテーブルに向かい合って座った。温かいパンと紅茶、果物が用意されていた。
「まず」ルドルフは話し始めた。「あなたの記憶封印の詳細を説明しよう」
レオハルトは注意深く耳を傾けた。
「十年前、あなたの兄フェルディナンドが暗殺され、父王も毒殺された後、国は混乱に陥った」ルドルフは静かに語り始めた。「あなたと弟のアルフレッド、そして母親のエレノア王妃は秘密の通路で城を脱出した」
レオハルトは頷いた。その記憶は断片的ながらも蘇っていた。
「あなたたちは聖アンジェリカ修道院に一時的に隠れ住んだ。そこで、エレノア王妃は決断を下した。あなたを学院に送り、記憶を封印して平民として育てるという決断を」
「母は強い呪術の力を持っていたのですね」レオハルトは言った。
「そうだ」ルドルフは頷いた。「彼女はオルブリア王国の王女だった。その国では呪術が発達しており、彼女も幼い頃から訓練を受けていた」
「そして、その呪術が」レオハルトは続けた。「21歳の誕生日に解けるよう設計されていた」
「その通り」ルドルフは言った。「しかし、ヴァランティーヌ家でかけられた恋愛封じの呪術と干渉し、予定通りには解けなかった」
「その恋愛封じの呪術は」レオハルトは眉をひそめた。「なぜかけられたのですか?」
「それは典型的な予防措置だ」ルドルフは説明した。「貴族家庭では、若い従者が主人に不適切な感情を抱くことを防ぐために、しばしば用いられる」
「特にセリーヌのために」レオハルトは思い出した。「彼女が美しいからこそ」
「ああ」ルドルフは微かに微笑んだ。「だが、その呪術にも関わらず、あなたは彼女に惹かれ始めていた。それが頭痛や混乱の原因だったのだろう」
レオハルトは黙って頷いた。恋愛封じの呪術があってさえも、彼の心は少しずつセリーヌに向かっていた。それは彼らの特別な繋がりの証かもしれない。
「さて」ルドルフは話題を変えた。「今後の計画だが、まずは一週間ほど、ここで王としての教育を再開する」
「一週間で足りますか?」レオハルトは疑問に思った。
「すべてを学び直す必要はない」ルドルフは説明した。「記憶が戻れば、王子としての教育も思い出すはずだ。我々はただ、現在の政治状況と十年間の変化について学ぶ必要があるだけだ」
「そして、その後は?」
「支持者たちを集め」ルドルフは言った。「首都ロザリアへ向かう。大司教の前で、あなたの権利を主張するのだ」
「武力衝突は避けたい」レオハルトは真剣に言った。
「もちろん」ルドルフは頷いた。「できる限り平和的に進めたい。しかし、グラディーン家のような勢力は簡単に権力を手放さないだろう」
「立憲君主制を提案するつもりです」レオハルトは自分の考えを述べた。「絶対王政ではなく、貴族評議会との協力統治」
「賢明な判断だ」ルドルフは感心したように言った。「それなら、多くの貴族たちも支持するかもしれない。特に、現在の大司教と対立している派閥は」
「それから」レオハルトは慎重に言った。「マーカスの救出も考えねばなりません」
ルドルフの表情が曇った。「そうだな。彼はグラディーン家に捕らえられたままだ」
「彼の居場所はわかりますか?」
「恐らく、グラディーン家の城だろう」ルドルフは言った。「北の国境近くにある」
「救出作戦を立てる必要があります」
「そうだな」ルドルフは頷いた。「しかし、慎重に計画せねばならない。彼らはあなたを罠に誘い込もうとしているかもしれない」
朝食を終えると、レオハルトは学院の図書館へと案内された。そこには、王国の歴史や法律、統治に関する膨大な資料が保管されていた。
「今日はここで学ぶがいい」ルドルフは言った。「特に最近十年間の政治的変化について」
レオハルトは頷き、本の山に向かった。レオンとしての彼は、学院で優秀な成績を収めた学生だった。その学習能力は今も健在だ。
* * *
ヴァランティーヌ家の館では、グラディーン一行の滞在三日目が始まっていた。昨日の森での迷走後、彼らの態度はより攻撃的になっていた。
朝食の席で、グラディーン伯爵はアルベール侯爵に向かって不満をぶつけていた。
「あなたの猟師は無能だ」彼は怒りを抑えつつも言った。「我々を一日中、森の中を引き回した」
「森は広く、道に迷うのは珍しいことではない」侯爵は冷静に答えた。「トーマスは経験豊かな猟師だが、すべての道を知っているわけではない」
「彼は故意に我々を迷わせたのではないか」イオルフが疑いの目を向けた。
「何の理由で?」侯爵は穏やかに反論した。「我々の客人を不快にさせる理由はない」
グラディーン伯爵は不満げに唇を引き結んだが、それ以上追及はしなかった。
「ところで」彼は話題を変えた。「あなたの従者はどこにいる?レオンという若者だ」
セリーヌの心臓が早鐘を打った。彼らは確かにレオハルトのことを疑っていた。
「彼は」侯爵は平静を装って答えた。「任務で離れている。学院への伝言を託したのだ」
「学院へ?」アザゼルの目が光った。「ヴァレンシュタイン学院ですか?」
「そうだ」侯爵は動じなかった。「うちの書庫のための古書を注文するためだ」
「そうですか」アザゼルは意味ありげに言った。「いつ戻るのでしょう?」
「数日後だろう」侯爵は肩をすくめた。「何か用があるのか?」
「いいえ」アザゼルは微笑んだが、その目は冷たかった。「ただの好奇心です」
食事の間、イオルフはセリーヌに特別な注意を払っていた。彼は彼女の隣に座り、しきりに会話を試みた。
「セリーヌ嬢」彼は丁寧に言った。「今日は館内を案内していただけませんか?あなたの家の歴史に興味があります」
断る理由はなかった。「もちろんです」彼女は礼儀正しく答えた。
食後、セリーヌはイオルフを館内の主要な部屋や廊下に案内した。祖先の肖像画が飾られた大広間、音楽室、図書室などを巡った。
「素晴らしい館ですね」イオルフは感心したように言った。「特に歴史を感じます」
「ありがとうございます」セリーヌは微笑んだ。「私たちの家は六代にわたってこの地に根付いています」
彼らが西翼の廊下を歩いていると、イオルフが突然立ち止まった。彼は窓の外を見て、「あれは何ですか?」と尋ねた。
セリーヌが窓の外を見ると、庭園の奥に小さな建物が見えた。
「あれは古い礼拝堂です」彼女は説明した。「母がよく行っていた場所です」
「行ってみましょうか」イオルフは提案した。
セリーヌは少し躊躇した。礼拝堂は母の思い出が詰まった私的な場所だった。しかし、断る理由も見つからなかった。
「構いませんわ」彼女は言った。「ただ、長い間使われていないので」
彼らは館を出て、庭園を横切った。礼拝堂は石造りの小さな建物で、ブドウの蔓が壁を這っていた。扉は少し錆びていたが、セリーヌが押すと軋む音を立てて開いた。
内部は思ったより清潔で、小さな祭壇と数脚の木製の椅子、そして壁にはステンドグラスの窓があった。陽光がガラスを通して、床に色とりどりの模様を描いていた。
「美しい」イオルフは静かに言った。
「母はここで祈りを捧げていました」セリーヌは懐かしそうに言った。「私も幼い頃、よく一緒に来ました」
イオルフは祭壇に近づき、そこに置かれた小さな像を見た。それは星を持つ聖人の像だった。
「聖アンジェリカですね」彼は言った。
「はい」セリーヌは少し驚いた。「よくご存知で」
「彼女は王家の守護聖人でもある」イオルフは振り返った。「あなたの母は王家と関係があったのですか?」
セリーヌの心臓が跳ねた。「母は宮廷で育ちました」彼女は慎重に答えた。「王妃の侍女だったと聞いています」
「そうですか」イオルフの目が鋭くなった。「それは興味深い」
彼は祭壇の周りをゆっくりと歩き、何かを探すように細部を観察していた。
「あなたのお母様は」彼は突然言った。「アメリア・ド・ヴァランティーヌ、旧姓アメリア・ド・ブレッサン。エレノア王妃の親友だったと聞いています」
セリーヌは緊張した。彼は何を知っているのだろう。
「はい」彼女は認めた。「母は王妃と親しかったと聞いています」
「そして」イオルフは祭壇の下の石を見つめた。「あなたは子供の頃、王子たちと遊んだことはありませんか?」
セリーヌの息が止まりそうになった。レオハルトとの幼少期の思い出。それは彼女自身、昨日まで覚えていなかったことだ。
「私はまだ幼すぎました」彼女は平静を装った。「王子たちとの記憶はありません」
イオルフは彼女をじっと見つめた。その目には疑いの色が宿っていた。
「本当に?」彼は一歩近づいた。「聖アンジェリカ修道院での夏の日々を覚えていませんか?赤いバラの咲く中庭で」
セリーヌの心臓が早鐘を打った。なぜ彼がそのことを知っているのか。彼女自身、その記憶は夢のようにぼんやりとしていた。
「申し訳ありませんが」彼女は冷静に答えた。「そのような記憶はありません」
イオルフは微笑んだが、その目は笑っていなかった。
「興味深い」彼は言った。「私の父は、あなたとレオハルト王子が親しかったと聞いていたのですが」
彼の言葉は明らかな罠だった。セリーヌは慎重に答えた。
「レオハルト王子?」彼女は無邪気な疑問の表情を作った。「十年前に亡くなったはずでは?」
「そうあってほしいものですね」イオルフは意味ありげに言った。「しかし、最近興味深い噂を耳にしました。王子が生きているという噂を」
「それは単なる噂でしょう」セリーヌは平静を保った。「十年も経てば、様々な噂が生まれるものです」
イオルフは黙って彼女を見つめた後、急に態度を変えた。
「さて、他の場所も見せてもらえますか?」彼は穏やかに言った。
「ご希望を仰ってください」セリーヌは安堵しながらも、警戒を解かなかった。
彼らが礼拝堂を出ると、アザゼルが庭園を横切って近づいてきた。
「イオルフ様」彼は低い声で言った。「伯爵様がお呼びです」
「今行く」イオルフは頷き、セリーヌに向き直った。「失礼します。素晴らしい案内をありがとう」
彼が去った後、セリーヌは深いため息をついた。彼らは明らかに何かを知っていた。そして、彼女とレオハルトの過去の繋がりについても。
館に戻ると、リリスが心配そうな顔で彼女を待っていた。
「大丈夫ですか、お嬢様?」彼女は小声で尋ねた。
「今のところは」セリーヌは答えた。「でも、彼らは私とレオハルトの過去について知っているわ。聖アンジェリカ修道院での夏のことまで」
「それは驚きです」リリスは眉をひそめた。「でも、なぜそれを知っているのでしょう?」
「わからないわ」セリーヌは首を振った。「でも、彼らは確かに何かを探っている」
二人は父の書斎へと向かった。侯爵は窓辺に立ち、庭園を見下ろしていた。
「父上」セリーヌは静かに言った。「グラディーン家は私とレオハルトの過去について知っています」
侯爵は振り返った。彼の表情は厳しく、考え込んでいた。
「そうか」彼はため息をついた。「彼らの情報網は広いようだ」
「でも、どうして?」セリーヌは疑問に思った。「私自身、その記憶はほとんどなかったのに」
「エレノア王妃と君の母は親友だった」侯爵は説明した。「そして、毎年夏になると、二人は子供たちを連れて聖アンジェリカ修道院で過ごした。君とレオハルトは幼い頃から知り合いだったのだ」
セリーヌは驚いて父を見た。「なぜ今まで言わなかったのです?」
「時が来るまで、知らせるべきではないと思っていた」侯爵は言った。「王家の記憶は危険なものだ。特に十年前の混乱の後では」
「それで」セリーヌは理解し始めた。「レオハルトが我が家に来たのは偶然ではなかった」
「そうだ」侯爵は認めた。「ルドルフ学院長と私は計画していた。彼を護衛として送り込むことで、君との再会を果たし、そして時期が来れば記憶を取り戻させる計画を」
「でも、恋愛封じの呪術は?」
「それは予定外だった」侯爵は眉をひそめた。「ギデオンが独断で施したものだ。それが記憶封印と干渉するとは思わなかった」
セリーヌは窓辺に立ち、庭園を見た。遠くに、グラディーン家の人々が集まっているのが見える。彼らは何かを話し合っているようだった。
「彼らは彼を探している」彼女は静かに言った。「そして、私たちの関与も疑っている」
「そうだ」侯爵は頷いた。「だが、証拠はない。我々は慎重に振る舞わねばならない」
「彼らはあと何日滞在するの?」
「明日まで」侯爵は言った。「そして、彼らが去った後、我々も動き出す」
「どういうことですか?」
「学院からの使者が昨夜、秘密裏に来た」侯爵は低い声で言った。「レオハルトは無事に到着し、記憶を取り戻したそうだ。一週間後、彼は行動を起こす」
セリーヌの目が輝いた。「彼は無事なのね」
「ああ」侯爵は頷いた。「そして、彼は我々の助けを求めている。首都へ向かう前に、我々の家で支援者たちを集めるつもりだ」
「私たちも行動するのですね」セリーヌは決意を固めた。
「そうだ」侯爵は真剣な表情になった。「危険は増すが、もはや後戻りはできない。我々は王家に忠誠を誓っている。今こそ、その忠誠を示す時だ」
セリーヌは静かに頷いた。彼女の心は決意と希望で満ちていた。一週間後、レオハルトは戻ってくる。そして、彼らは共に新たな未来へと向かうのだ。
「準備をします」彼女は言った。「どんな危険があっても」
* * *
学院での三日目、レオハルトは図書館で王国の現状について学んでいた。十年間の政治的変化、貴族たちの権力争い、そして国民の不満—全てを理解する必要があった。
「お食事でございます」
マダム・エリーザが食事を持ってきた。レオハルトは感謝して受け取った。
「勉強は進んでいますか?」彼女が尋ねた。
「はい」レオハルトは頷いた。「多くのことを学んでいます」
「良かったですわ」彼女は微笑んだ。「国民はあなたの帰還を待っています」
彼女が去った後、レオハルトは窓辺に立ち、遠くを見つめた。南西の方角には、ヴァランティーヌ家の館がある。そして、セリーヌがいる。
彼は胸元のペンダントを握った。彼女からの贈り物。共に過ごした夏の日々、修道院の中庭での約束—それらの記憶は今や鮮明だった。
「あなたに会いたい」彼は呟いた。「すべてが終わったら」
ルドルフが図書館に入ってきた。彼の表情は厳しく、何か重要な報告があるようだった。
「レオハルト」彼は言った。「マーカスの居場所がわかった」
「どこだ?」レオハルトは素早く振り返った。
「グラディーン家の城ではなく」ルドルフは言った。「彼らの狩猟用の別荘だ。ここから北東に半日の距離にある」
「救出作戦を立てましょう」レオハルトは決意を示した。
「待て」ルドルフは手を上げた。「これは罠かもしれない。彼らは我々が救出に向かうことを予測している可能性がある」
「それでも、マーカスを見捨てるわけにはいきません」
「もちろんだ」ルドルフは同意した。「しかし、慎重に計画せねばならない。我々の少数の兵士で、彼らの別荘を攻めるのは無謀だ」
「では、どうすれば?」
「策略だ」ルドルフは答えた。「我々には魔術師もいる。彼らの注意をそらし、少数の精鋭でマーカスを救出する」
レオハルトは頷いた。「私も行きます」
「それは危険すぎる」ルドルフは眉をひそめた。「あなたは王子だ。捕らえられれば」
「だからこそ行かねばならない」レオハルトは言い切った。「マーカスは私のために捕らえられたのだ。私に救出する責任がある」
ルドルフはしばらく黙ったまま彼を見つめ、ようやく頷いた。
「わかった」彼は言った。「だが、変装と魔術的防御は必須だ。アザゼルの読心術から身を守らねばならない」
「了解しました」レオハルトは感謝の意を示した。
彼らは地図を広げ、別荘の位置と周辺の地形を確認した。救出作戦の計画が立てられた。明日の夜、小規模な精鋭部隊が出発する予定だ。
「作戦が成功すれば」ルドルフは言った。「我々はすぐにヴァランティーヌ家に向かう。そこで支援者たちを集め、次の行動を決める」
レオハルトは頷いた。「侯爵とセリーヌには知らせましたか?」
「昨夜、使者を送った」ルドルフは答えた。「彼らは準備をしているはずだ」
レオハルトは再び窓の外を見た。遠くには山々が連なり、雲が流れていく。もうすぐ彼も動き出す。王としての使命を果たすために。そして、セリーヌとの約束を守るために。
「準備をしましょう」彼は決意を込めて言った。「時は来た」




