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従者となる日

朝霧が立ち込める初夏の朝、私はヴァランティーヌ侯爵家の館の石畳の前に立っていた。緑のつたが這う灰色の石壁に囲まれた館は、丘の上に威厳をもって聳え立ち、朝日を受けて橙色に輝いている。私の持てる財産のすべてが詰め込まれた一つの鞄が、私の足元に置かれていた。


澄んだ青空の下、風が私の頬を撫でる。長い旅路の終わりを感じながら、私は深く息を吸い込んだ。学院を卒業し、ついに実社会へ踏み出す日がやってきたのだ。


私は今日より、ヴァランティーヌ侯爵家にて奉公を始めることとなった。学院長ルドルフ・ヴァレンシュタイン様の推薦状をもって、この名門貴族の館に足を踏み入れる。門番に名を告げると、彼は私を一瞥しただけで頷き、重そうな門を開けた。


「ラグラン殿、こちらへどうぞ」


白髪の老執事が私を広間へと案内する。館の内部は想像以上に広く、廊下には深緑の絨毯が敷かれ、壁には金縁の額に納められた歴代の当主の肖像画が並んでいた。それらの威厳ある眼差しに押されるようにして、私は背筋を正した。靴の音が大理石の床に反響し、緊張感を一層高める。


陽光が色とりどりのステンドグラスを通して入り込み、床に虹色の模様を描いていた。私の視線はふと、廊下に飾られた一枚の絵画に留まった。青い背景に白い雪の城、その上に輝く金色の星。どこかで見たことがあるような、不思議な既視感を覚える紋章だった。しかし、次の瞬間、その感覚は消え去った。


学院では常に首席を守り続けた自負がある。孤児である私には、学問と技術以外に誇れるものなど何もないのだ。学院での厳しい訓練、夜遅くまで続けた剣術の稽古、古文書の解読、礼儀作法の習得—その全てが今日のためだった。だからこそ、この身に付けた能力を侯爵家のために遺憾なく発揮せねばならない。


広間の奥、高い背もたれの椅子に座す男性が私を見た。アルベール・ド・ヴァランティーヌ侯爵である。五十代半ばであろうか、銀色が混じり始めた褐色の髪と手入れの行き届いた口髭が、厳格さと同時に威厳を感じさせる。彼の目は、まるで私の内面を見透かすように鋭かった。


「おお、来たか。ヴァレンシュタイン学院からの推薦状は読ませてもらった。なかなかの才人のようだな」


侯爵の声は低く響き、その瞳は厳しさを湛えていた。彼の右手には象牙の柄のついた羽ペンがあり、左側には書類の山が整然と積まれていた。彼の背後の壁には家紋が刻まれた盾が掛かり、窓からは広大な庭園が見える。


「恐れ多くも、お目通りを賜り光栄に存じます。微力ながら侯爵家に忠誠を誓い、務めを果たす所存でございます」


私は深く頭を下げた。これまでの人生で身に付けた宮廷作法を思い出しながら、完璧な礼を示す。八秒ほど頭を下げ、ゆっくりと上体を起こす。なぜ孤児である私がそのような作法を知っているのか、不思議に思ったことはない。ただ学院での教育の賜物だと考えていた。


「まずは、我が家の呪術師ギデオンに会ってもらう。屋敷に仕える者は皆、彼の審査を受けることになっている」


侯爵は右手を挙げ、側近に合図を送った。立派な緑色の綴じ紐が巻かれた巻物が、白木の机の上で開かれる音が静かに響く。間もなく、黒衣をまとった痩せた男が現れる。鋭い鷹のような眼差しで私を見つめるそれは、恐らくギデオン・マルロワ氏であろう。彼の長い指には複数の銀の指輪が嵌められ、首からは青い石のペンダントが下がっていた。


「こちらが新たな従者か。心を読ませてもらおう」


ギデオンは私の前に歩み寄り、両手を広げた。その掌から淡い青い光が放たれる。光の粒子が一瞬空中に浮かび、渦を巻くように私の周りを舞った。


「異議ございません」


私はただ静かに身を委ねた。何も隠すものなどない。私はただの平民、孤児であり、学院で学んだ従者である。胸のうちに思うのは、新たな主人への忠誠心と、任務を全うしたいという願いだけだ。


光が私の周りを包み込み、奇妙な感覚が全身を駆け巡る。まるで誰かが私の頭の中を覗き込んでいるかのよう。しかし不快ではない。むしろ心地よい温かさを感じる。光は次第に強さを増し、部屋全体が青白く照らされた。


「確かに、この者はレオン・ラグランという平民の孤児です。推薦状にあるとおり、学院を優秀な成績で卒業した人物であることに間違いありません」


ギデオンは侯爵に向かって報告した。彼の声は乾いていて、どこか虚ろな響きがあった。しかし、その後も彼の呪術の光は消えない。青い光が徐々に色を変え、紫がかった色合いになり始めた。


「さらに、侯爵家の秘密を守るため、特別な処置を施します」


ギデオンはそう言うと、光の色が青から紫へと変わった。私の意識がぼんやりとしてくる。周囲の景色が揺らぎ、ギデオンの姿が複数に分かれて見える。侯爵の姿も曖昧になり、天井の装飾も渦を巻くように歪んだ。


「レオン・ラグラン、お前は今日よりヴァランティーヌ侯爵家に仕える従者となる。お前の主はセリーヌ・ド・ヴァランティーヌ様であり、彼女を守ることがお前の最大の使命である。しかし—」


ギデオンの声が遠くなり、近くなる。それは私の頭の中で直接響いているかのようだった。部屋の端に置かれた時計の振り子の音が異常に大きく聞こえ、窓から差し込む光が一瞬眩しすぎて目を閉じざるを得なかった。


「—お前が主人との間に恋愛感情を持つことを禁じる。主従の道を外れることなく、純粋な忠誠を持って仕えよ」


紫の光が渦巻き、私の胸に沁み込んでいく。まるで胸の中心に温かい液体が流れ込むような感覚だった。奇妙なことに、その言葉を聞いても特に動揺はなかった。恋愛感情など持つつもりはなかった。従者として完璧を期すのみである。


光が消え、私の意識が戻る。瞬きをすると、世界が再び鮮明に見えるようになった。ギデオンは一歩下がり、その細い顔に満足そうな表情を浮かべている。


「処置は完了しました」ギデオンは侯爵に深く頭を下げた。彼の黒い衣装が床に広がり、一瞬影のように部屋の一部を暗くした。


「よろしい。では、セリーヌに会わせよう」


侯爵が立ち上がり、奥の扉へと歩み出す。彼の歩調は堂々としており、長年の権威が自然な威厳となって現れていた。私はその後に続いた。


私の胸には奇妙な感覚が残っていた。何か変わったことが起きたようでいて、同時に何も変わっていないような。自分の心に手を加えられたという感覚はなく、ただ新たな主人への忠誠を誓ったという満足感だけがあった。


廊下を進みながら、私は窓の外に広がる侯爵家の領地を眺めた。整えられた庭園には色とりどりの花々が咲き、噴水の水が陽光に輝いている。その向こうには馬小屋と訓練場が見え、さらにその先には森が広がっていた。この美しい場所で奉公できることへの喜びが、私の心を満たした。


* * *


「お父様、どのような方なのですか?」


明るい声が廊下に響く。セリーヌ・ド・ヴァランティーヌ嬢であろう。侯爵は扉を開け、私に入るよう促した。


私が部屋に足を踏み入れると、そこには日の光に包まれた少女がいた。東側の大きな窓から差し込む朝日が、部屋全体を明るく照らしていた。金色の髪が陽光を受けて輝き、碧眼は好奇心に満ちている。十六歳ほどだろうか。淡い青のドレスを身にまとい、白い肌に生き生きとした表情を浮かべていた。彼女の傍らには、茶色の髪をした侍女が立っている。


「セリーヌ、これが今日からお前に仕える従者だ。レオン・ラグラン」


侯爵が私を紹介する。私は深く頭を下げる。


「セリーヌ・ド・ヴァランティーヌ様、レオン・ラグランと申します。今日よりあなた様の忠実な従者として、お仕えすることをお誓い申し上げます」


私が頭を上げると、セリーヌ嬢は微笑んでいた。その笑顔には純粋な好奇心と温かさがあった。なぜだろう、その笑顔を見て、胸の奥に何か引っかかるような感覚がある。しかし、それは一瞬で消え去った。

部屋にはセリーヌ嬢の趣味が表れていた。本棚には分厚い書物が並び、机の上には手書きの楽譜が広げられている。壁には風景画が掛けられ、窓辺には小さな鉢植えの薔薇が置かれていた。彼女の世界が垣間見える空間だった。


「よろしくお願いします、レオン」


彼女はそう言うと、私に近づいてきた。そして思いがけず、私の手を取った。彼女の指は温かく、柔らかかった。

「父上からは、あなたは剣術も優れていると聞いています。これからは私の護衛も務めてくださいね」


その距離の近さに、私は少し戸惑った。貴族の娘がこれほど気さくに従者に接するものだろうか。しかし、それはただ主従関係の礼儀についての戸惑いに過ぎない。

「承知いたしました。命に代えてもお守りいたします」


私はそう答えた。セリーヌ嬢の頬が僅かに赤くなったように見えた。体調が悪いのかも知れないと少し心配になった。


「セリーヌ様、お体の具合はいかがですか?顔色が赤いようにお見受けします」


私の言葉に、彼女の隣に控えていた侍女が小さく吹き出した。セリーヌ嬢は顔をさらに赤くし、侍女を軽く睨んだ。


「リリス!」


「申し訳ありません、お嬢様」侍女は笑いを堪えながら頭を下げた。「しかし、レオン様のご心配は、まことに…的確でございますね」

また、彼女は口元を押さえて笑いを堪えている。私には理解できない。何か可笑しいことでもあったのだろうか。


「私は至って健康です。ありがとう、レオン」セリーヌ嬢は私の手を離し、一歩下がった。彼女は侍女のリリスに小さな視線を送り、それから侯爵に向き直った。「父上、レオンの部屋は準備できていますか?」


「ああ、西翼の従者用の部屋だ」侯爵は答えた。「城の配置に慣れるまでは、リリスに案内させよう」


リリスは頷き、私に微笑みかけた。彼女は十六歳ほどで、茶色の髪を後ろで束ね、黒と白の侍女服を着ていた。その目には知性と少しの茶目っ気が宿っているようだった。


「かしこまりました」


私は再び頭を下げた。奉公初日から主人の好意を得られたことは幸運である。私は全身全霊で主人に忠誠を誓い、その期待に応えようと決意した。


しかし、なぜだろう。胸の奥に、何か忘れているような、抑えつけられているような感覚が残っている。それは恐らく、新しい環境への緊張のせいだろう。


「では、荷物を」


私が言いかけると、扉の外から声がした。

「セリーヌ、学院長からの手紙が届いている。レオンに渡すようにとのことだ」

侯爵が再び姿を現し、封のされた手紙を差し出した。私は丁重に受け取る。

「ありがとうございます、侯爵様」


手紙を開くと、学院長ルドルフの達筆な文字が踊っていた。厚手の羊皮紙に、藍色のインクで書かれた文字は、彼特有の流麗な筆跡だった。


『レオン・ラグラン殿へ

新たな出発を心よりお祝い申し上げる。汝の才能は、必ずやヴァランティーヌ家で花開くだろう。

しかし覚えておくが良い。汝にはいずれなすべきことがある。今はその時ではないが、時期が来ればわかるだろう。

その日が来るまで、忠実に務めを果たし、準備をしておくことだ。


ルドルフ・ヴァレンシュタイン』


どこか奇妙な手紙である。なすべきこととは何だろう。学院長はいつも謎めいた言い回しを好んだが、今回は特に意味深だった。しかし、疑問は心の片隅に追いやり、私は手紙を丁寧にしまった。


「何か重要なことでも?」セリーヌ嬢が尋ねる。


「学院長からの励ましの言葉です」私は答えた。全てを話す必要はないだろう。


セリーヌ嬢は満足げに頷き、リリスと共に私を案内しようと歩き出した。私はその後に続く。

「レオン、あなたはヴァレンシュタイン学院でずっと首席だったそうね」セリーヌ嬢が廊下を歩きながら言った。

「はい、幸運にも」

「謙遜しなくていいのよ」彼女は肩越しに振り返って微笑んだ。「父上もあなたの評判を高く聞いていたわ。剣術もダンスも古典学も、全てにおいて優れていると」


「ありがとうございます」私は丁寧に答えた。確かに学院では努力を重ね、あらゆる分野で成果を上げてきた。しかし、それは孤児である私が社会で生きていくための唯一の道だったからだ。


リリスが小さく咳払いをした。「お嬢様は新しい従者を試したがっていらっしゃるのですよ」彼女は意味ありげに言った。「特に、ダンスの腕前を」

「リリス!」セリーヌ嬢は再び侍女を諫めた。「そんなことないわ。ただ…レオンの能力を知っておきたいだけよ」

私には二人のやり取りの真意がわからなかった。しかし、それは私の役目ではない。主人の望むことを完璧にこなすこと、それが私の使命だ。

「いつでもご命令を」私は頭を下げた。


リリスは目を輝かせ、セリーヌ嬢は少し恥ずかしそうにしながらも嬉しそうに微笑んだ。

西翼に到着すると、リリスが小さな部屋へと私を案内した。部屋は質素ながら清潔で、必要な家具は全て揃っていた。窓からは庭園の一部が見え、午後の陽光が室内を柔らかく照らしていた。


「こちらがレオン様のお部屋です」リリスが言った。「何か必要なものがあれば、いつでも仰ってください」

「ありがとう」


彼女は去り際に振り返り、小さな声で付け加えた。「お嬢様はとても楽しみにしていました。あなたが来ることを」

私は頷いただけだった。リリスは不思議そうな表情を一瞬浮かべたが、すぐに笑顔に戻り、一礼して立ち去った。


部屋に一人残され、私は窓辺に立った。ヴァランティーヌ家の広大な庭園が一望でき、その向こうには森と丘が広がっている。新しい生活の始まりに、期待と決意が胸を満たした。


これが私の新しい人生の始まり—ヴァランティーヌ家の従者としての日々の始まりである。この瞬間、私が実は全く別の人生を持つ者だったとは、知る由もなかった。


そして、私の主であるセリーヌ嬢が、やがて私に特別な感情を抱くことになるとも。

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