君に捧げる薔薇姫
いつからだろうか。
エマはもうアトリエに戻っていない。
あそこに置かれた絵の具の中には、彼女が心から求める赤色が存在しないからだ。
完成しない白いままのキャンバスを思い浮かべながら、エマは夕日が映える海辺を歩いていた。
夕日を横目に、あのキャンバスに馴染む赤色を頭の中で照らし合わせてみる。
だが、どれも一致しない。
もっと――色濃く、噎せ返るほどに深く強烈で血のような赤。
エマはその“赤”だけを探し続けていた。
赤を求めて画材屋を巡ったが、どこにも心を震わせる赤はない。
唯一、わずかに胸を揺らしたのは、血のように深い赤を帯びたネイルだけだった。
すぐに購入し、爪に塗ってみたものの、期待は一瞬で崩れ去る。
実際に塗った色はくすんだ朱。時に茶にさえ見え、落とす気力すら湧かなかった。
やっと見つけたと思ったのに。
その絶望は、エマの胸を深く沈ませる。
落とさぬまま爪に残した赤を携え、理想の赤を求めて彼女は再び旅に出た。
ギリギリで席を確保した飛行機に飛び乗り、広い海を越えて――今、異国の地で夕焼けに染まる海を見渡している。
だが、ここでも答えは見つからない。
「そろそろこのネイルも落とさなきゃ。頭の中の赤までくすんじゃう」
エマは、くすんだ朱色の爪を夕日にかざしながら呟いた。
その時、破裂音が響き、くぐもった呻き声と複数の足音が、無造作に置かれたコンテナと倉庫の方から飛び込んできた。
普通ではない。
普段はアトリエにこもるエマにも、それが銃声であることは直感で分かった。
きっと、あのコンテナの向こうには表の世界とは隔絶された“裏”が広がっている。
――逃げなければ。
本能が警鐘を鳴らす。
だが異国にまで赤を探しに来た昂ぶりが、エマの足を縛った。
恐怖と好奇心を同時に抱きしめ、音のする方へと向かってしまう。
足音はすでに消え、静寂だけが残る。
撮影かもしれない――そう考えかけたエマは、そろりと覗き込んだ先で、その光景を見て息を呑んだ。
「ン〜?見られちゃったか。やぁ、素敵なお嬢さん。こんなドブネズミの溜まり場に何の用かな?」
――赤。
頭の中を占めたのは、それだけだった。
探し求めた赤色。色濃く、噎せ返るほどに深い赤。
それを纏った男が、ただ一人そこに立っていた。
周囲には、先ほどまで走り回っていたであろう人間たちの死体が転がり、赤に濡れて倒れ伏している。
「マズイなぁ。見られたし、殺さなきゃかなぁ?」
返り血に染まった男。
周囲に倒れる人間達を染めるその血もまた赤ではある。だが、死体を濡らす血はくすんで見え、エマの心を震わせなかった。
震えたのは――男の肌を鮮烈に彩る、その返り血の赤だった。
刻一刻と死へと傾きながらも、世界が輝いて見える。
気づけば、ナイフを向ける男に一歩も引かず、ただ赤に魅せられたまま口を開いていた。
「その赤い血、私にくださらない?」
それが、真っ赤な薔薇だけを描き続ける『薔薇姫』と呼ばれる天才画家エマと、裏社会で最強だと恐れられる『感情を持たない』殺し屋アギトの出会いだった。
感情を持たず、人を大切に思う気持ちさえ理解できないアギト。彼は殺しを重ねることで、いつか“駄目なこと”の意味を知ろうとしていた。
だが何も得られないまま、ただ手を血に染め続ける日々。
そんな中、突如現れた異常者――エマ。
彼女の存在に、アギトは抗いがたい興味を抱く。
この子となら、もっと広い世界が見えるかもしれない。そう思わずにはいられなかった。
「ンハ、なぁに?こいつらの血が欲しいの?ン?違う?あ、返り血ぃ?」
コクコクと頷きながら、エマは男に近づいた。
アギトが返事をするよりも早く、彼女は男の頬から滴る血を、ポケットから取り出した小瓶へと注ぐ。
「ありがとう、ございます……。では、私はこれで!」
血を入れた小瓶から目を離さず、赤色をキラキラと見つめながら、アトリエへ帰るべくくるりと踵を返した瞬間――。
ガシッ、と腰に手を添えられ、強制的に振り向かされる。
驚いた顔で見上げたエマの顎にも手が添えられ、視線を外すことさえ許されない。
先ほどは返り血に気を取られ、気付けなかった。
その整った顔立ち。
真っ赤な薔薇のような赤い瞳に、エマは思わず息をのむ。
「ほら、どう?」
どう、とは……と困惑した表情を浮かべたことに気付いたのか、男は眩しいほどの笑みを見せる。
「僕の目も赤いよ。この赤、いらない?僕も君のものにしてほしいなぁ」
“いらない”と言おうとしたエマの口から、意図せず言葉がこぼれた。
「いる」
しまった――と思った時にはもう遅い。
男の瞳が、さらに細められる。
どう逃げ出すか考えたところで、もうこの男から逃げられないと悟ったエマ。
どうやらそれは正しかったようだ。
気づけば、エマのアトリエがある自国までの飛行機チケットは手配され、フライトまでの時間で至れり尽くせりのもてなしを受け、いつの間にか彼の好みに沿ったドレスや靴、アクセサリーで頭の先からつま先までコーディネートされ、夜景の見える高級レストランでディナーショーを楽しんでいた。
(……本当に、なぜ……?)
彼は今も、まるでお姫様を見つめるかのようにうっとりとエマを見つめている。
「貴方、こんなにお金、大丈夫なのですか……?」
まだ殺されるかもしれないという思いが完全には消えず、居心地の悪さからポツリと漏れた言葉。
丸く見開かれた瞳は星のように輝き、彼の興奮を伝えてきた。
「やっと喋ってくれたぁ!!お金ぇ?お金なら心配しなくて大丈夫だよぉ~。殺しって稼げるからさ!」
「ちょっ……!?貴方、声が……!!」
慌てて周囲を見渡すエマ。
だが、流れる音楽や人々の声に紛れ、先ほどの彼の発言は誰にも聞かれていないようだった。
胸をなでおろしつつ、まだ見つめられる居心地の悪さから、テーブルの下で両手を握る。
「ね、君の名前はぁ?」
居心地の悪さなどお構いなしに、男は身を乗り出してそう尋ねる。
少し一緒にいれば、この男は自分が答えるまで諦めないだろう――それはエマにも分かっていた。
諦めて口を開く。
「私はエマ。貴方の名前は?」
特に意味はなく流れで聞いた質問に、男は目を輝かせてにぱっと笑った。
エマはその無邪気な笑顔に、心なしか疲れを感じる。
「僕のこと知りたくなってくれたぁ?嬉しいなぁ~、僕はねぇ~」
男が話を続けようとしたその時、ワインソムリエが食後のワインを運んできた。
キラキラと輝く赤いワイン。以前のエマなら目を奪われたかもしれない。
だが、目の前の男の赤い瞳と、肌を際立たせる返り血の赤を知った今、そんなワインの赤では心は揺れない。
「こちらは、今夜だけのショーに華を添える特製のワインでございます」
白い手袋をはめたソムリエは軽やかに一礼し、赤い液体の満たされたボトルを掲げ、ほのかに微笑んだ。
その所作一つ一つが、舞台上の演者のように計算され尽くしている。
「本日のディナーショーにあわせ、セラーで長く眠っていた一本を目覚めさせました。深いルビーを思わせる色合いと、熟したベリーとカカオの芳香が、今宵の余韻を一層鮮やかに彩ってくれることでしょう」
テイスティングを勧められ、極度の緊張といたたまれなさで喉の渇いたエマは頷き、ワインが注がれたグラスを受け取る。
しかしエマがそれを口にすることはなかった。
目の前の男の手が、エマの手からグラスを払い除ける。
落ちたグラスは大きな音を立てて割れ、真っ赤なワインがカーペットを染め上げる。
「ごめんねぇ、ちょっと目閉じててぇ~」
そう言われても、何が起きているのか理解できず、目を閉じることすらできずに呆然としていると、赤い液体が目の前を走り、頬を濡らした。
いつの間にか、男はワインセラーの首にナイフを突き立てていた。
セラーの首から溢れ出た血が、エマの頬を濡らしていく。
「……えっ??」
目の前で、ワインセラーは血を垂れ流しながら床に叩きつけられ、既に息はなかった。
「そのワイン。毒入りだよ」
慌てて椅子から飛び上がるエマ。
あのグラスに口をつけていたら――なんて考えたくもない。
「僕の名前はアギト。君も知っての通り、『殺し屋』だよ」
返り血に染まるアギトの姿は、まさに“毒”そのもの。
どんな赤色とも違う――色濃く、噎せ返るほどに鮮烈な赤。
エマはもう戻れないことを悟る。
目の前の男が殺し屋だとしても、鼓動は止まらず、心はアギトの毒に染まっていた。
初めて感じる高揚で、視界の奥に星が散るようにチカチカと光が瞬く。
その視界の奥――アギトの背後。
先ほどまで静まり返っていた人間たちが、一斉に立ち上がった。全員、殺気立った顔をしている。
「ン~、やっぱりそうだったんだねぇ。ほら、大丈夫だったでしょ?ここにいる人は全員どうせ殺すことになるから、会話の内容なんて気にしなくていいんだよ~」
「ぜ、全員殺す!?そんなこと……無茶すぎるわ……!」
「ンハ、君、やっぱりイかれてるよねぇ~。駄目、とかじゃないんだぁ」
レストランの空気は一瞬で殺気に満ちた檻と化す。
椅子が引かれる音。フォークやナイフが床に転がる金属音。
誰かが笑い、柔らかな音楽はもはや、血の宴を彩る狂気の伴奏にしか聞こえない。
「感情の無い殺戮の天才が、こんなところで呑気にデートだなんて。これは良い機会だってんで、二人仲良く殺しちまおうってな」
奥のテーブルから男が立ち上がり、燕尾服の内ポケットから黒光りする拳銃を取り出す。
同時に他の客たちも次々に刃物や銃器を抜き、音もなく配置につく。
厨房のドアが音を立てて開き、シェフたちが包丁を逆手に握って現れた。
エマは息を飲む。
見渡せば、どの瞳も常軌を逸した光を宿している。
この場にいる全員――殺し屋。
「ンハッ、やっぱりそうだと思ったぁ」
アギトは一歩前に出ながら、指で耳をくすぐるように軽く掻いた。
「あんな誰でも分かるような毒入りワインで満足気に出てきちゃうくらいだから、やっぱり弱そうだねぇ」
挑発する声とともに、空気が裂けた。
銃声。ナイフが飛ぶ。
しかし、アギトの姿はそこにはもうない。
目にも止まらぬ速さで床を滑るように踏み込み、
最初の銃を持つ男の腕を掴み、肘を逆方向にへし折る。返す刃で喉を掻き切ると、血飛沫がシャンデリアの光を受けて瞬き、白いテーブルクロスに鮮やかな赤を散らす。
「ひ、ッ――!」
そのすぐ側で悲鳴を上げた銃を持つ女の口に、アギトのナイフが吸い込まれる。
細い首が一閃で裂け、赤い噴水がワインのように床へ降り注ぐ。
銃弾がアギトの背を追うが、彼は軽やかに卓上へ跳び移り、テーブルの脚を蹴り倒して遮蔽物に。
飛び越えてきた男の額へスプーンを突き立て、背後から迫ったシェフの頸動脈をワインボトルで叩き割る。
「な、何なのこれ……!」
エマは声にならない声で呟く。
恐怖と――それ以上の興奮が、身体を痺れさせていた。まるで映画のワンシーンを見ているようだ。
撃鉄の音。
アギトは振り返りもせず、ナイフを投げ放つ。
空気を裂いた刃は、エマの方に銃を構えた男の瞳へ寸分の狂いもなく突き刺さり、同時にその身体が硬直して崩れ落ちる。
床はすでに血の海。
赤、赤、赤――。
テーブルクロスもカーペットも壁も、あらゆるものが絵の具のように赤く染まっていく。
エマの胸は狂おしいほど高鳴った。
目の前で繰り広げられる殺戮の光景は、彼女が求めてやまなかった理想の赤そのものだった。
(美しい。わたしは、これが欲しい……!)
「まだだ……!」
最後に残った大柄のシェフがチェーンナイフを唸らせて突進してきた。
アギトはひらりと身体を反らし、その勢いを利用してシェフの腕を掴む。
床に叩きつけながら、喉元にブーツを沈めた。
骨が砕ける音とともに、抵抗の息は途絶える。
――沈黙。
レストランを包んでいた音楽が、ようやく終わりを告げる。
聞こえるのは、天井から滴る血の雫が床に落ちる音だけ。
「さ、行こっか」
アギトが振り向き、口元に無邪気な笑みを浮かべる。
返り血に濡れた顔は、月明かりに照らされ、悪夢のように美しい。
エマは我に返るより先に、差し伸べられた手を握った。その手は温かく、濡れた血がぬるりと指先を滑る。
アギトはそのままエマを引き寄せ、赤に染まった床をまるで何事もないかのように駆け抜ける。
割れたグラスを蹴り、死体を踏み越え、夜の街へ飛び出した。
湿った海風が頬を打つ。
遠くに見える空港のライトが、星のように瞬いていた。
「僕は、君のものだ」
耳元で囁かれた声は、甘く毒を含んでいる。
その毒に、エマの心はもう抗えなかった。
アギトの掌のぬくもりと、街灯に照らされてなお鮮烈に輝く赤だけが、彼女の世界を満たしていた。
✻✻✻
海辺の街から飛行機を乗り継ぎ、長い旅路を経て帰ってきたエマのアトリエは、出発したあの日のまま静かに眠っていた。
ドアを開けた瞬間、わずかに舞い上がる埃と、油絵の具とキャンバスが混じった独特の匂いが鼻をくすぐる。
「……ただいま」
誰に向けるでもない小さな声。
その後ろで、アギトが靴の踵を軽く鳴らした。
「ここが君の世界なんだねぇ」
彼は血に濡れたコートを脱ぎ、興味深げに室内を見渡す。
大きな窓から差し込む月明かりが、白いキャンバスの列を淡く照らす。
静寂の中、二人の足音だけがやわらかく響いた。
エマは棚から真新しいキャンバスを取り出し、壁際のイーゼルに立てかける。
その指先には、まだ乾ききらない血の温もりが残っていた。
だが不思議と、恐怖も嫌悪も湧いてこない。ただ、あの夜の“赤”が忘れられない。
アギトは部屋を一周し、窓際に腰を預ける。
目を細め、赤い瞳が月を映した。
「絵を描くって、君にとって何なんだろうねぇ」
「……生きること。私の中の色を、証明すること」
エマはパレットを用意しながら淡々と答える。
その声には、これまでにない確かな熱があった。
「じゃあ、僕を描いてよ」
アギトが、いつもの無邪気な笑みを浮かべて言った。
「君が欲しかった“赤”でさ。君の世界を、僕で塗りつぶしてよ。そしたら、僕も君の世界で生きられる」
心臓がひとつ強く跳ねる。
エマは思わず筆を握る手を止め、振り返った。
「……アギト。あなたは、絵の中でしか生きられないわけじゃない」
「うん。でもねぇ、君が僕を見てくれるなら、どんな世界でもいいんだよ」
その声は柔らかいが、底に鋭さを孕んでいる。
殺し屋という現実が、言葉の端々に滲む。
エマは息を吐き、再びパレットへ向き直る。
絵の具を混ぜる――赤、深紅、カーマイン。
けれどどの赤も、あの夜の返り血には届かない。
彼の瞳に宿る、毒を含んだ薔薇の赤にも。
そこに、震える手で小瓶に入れた血を流していく。
その背後で、アギトがゆっくりと近づく。
気配だけで、彼の存在が部屋を満たしていく。
「君、震えてる」
耳元で囁かれた低い声に、背筋が粟立った。
「違う……描きたいの。あなたを」
「じゃあ、僕をもっとよく見て」
アギトの指がそっとエマの顎を持ち上げる。
顔を上げれば、赤い瞳がすぐそこにある。
その瞳に映る自分を、エマは逃げずに見返した。
呼吸が混ざる距離。
次の瞬間、アギトが静かに笑った。
「君の中の“赤”が、やっと僕に触れてくれた」
エマは筆を取る。
絵の具を塗るたびに、アギトが生きていた夜の赤が甦る。
床に滴った血の色、温もりを帯びた返り血。
それらがすべて混ざりあい、キャンバスの上で一つの薔薇へと姿を変えていく。
アギトは背後からそっとエマの手に自分の手を重ねた。血に濡れた指先が、筆を導く。
二人の呼吸が、夜のアトリエにゆっくりと重なった。
「ねぇ、エマ」
「なに?」
「僕、君といると……“感情”ってやつが、少しわかる気がする」
エマは筆を止め、振り返る。
アギトの笑みはいつも通り無邪気で、それでいてほんの少しだけ脆い。
「『感情の無い殺戮の天才』だったかしら。感情を知ったら、あなたは殺せなくなるの?」
「ン〜。さぁ……どうだろうねぇ。でも、君の赤を見てると――殺しよりも、もっと強い何かを知りたくなる。君と一緒に絵を描くのも良いかもしれないね」
二人は再びキャンバスに向かう。
夜が更けるごとに、赤は深みを増し、薔薇は命を帯びて咲き誇った。
その薔薇は、血にも、愛にも、毒にも似た色――
二人だけの世界を証明する、決して褪せない“赤”だった。
✻✻✻
そんな日々が一年ほど続いたある日。
すっかりエマのアトリエ兼自宅に住み着いているアギトは、今日もお土産に小瓶いっぱいの血を持って仕事から帰宅した。
「あら、おかえりなさい。今日は早かったのね」
玄関で出迎えたエマに抱き着こうとするアギトを、エマはするりと躱し、素早く手から血液入りの小瓶を抜き取る。
「今日はいつもより気分が良いからね〜!なんていっても、僕と君の一年記念日だよ」
「付き合ってる恋人みたいなことを言わないで?」
「なら付き合ってよ」
「嫌よ。それにしても、貴方がここに来てから、もう一年も経つのね」
エマは、長いようであっという間にも感じる一年を、頭の中で振り返る。
あれから、もう一年が経った。
いつもはアギトの定位置である窓辺に腰かけ、キャンバスに映る淡い月明かりをぼんやりと眺めながら、エマは過ぎ去った日々を思い返していた。
あの夜、血に濡れたアギトの手を握ってから、世界は想像以上に騒がしく、そしておかしな色で塗り替えられていった。
最初の数日は、とにかく落ち着かない日々だった。
アトリエに棲みつくようになったアギトは、生活能力が壊滅的で、絵具のチューブをノコギリで切ろうとしたり、ごうごうと燃える松明でキャンバスを乾かそうとして火災報知器を鳴らしたり――まるで幼児と暮らしているようだった。
「ねぇエマぁ、何か君の選曲、趣味悪くない〜?」
「ちょっと!これは曲じゃなくて火災報知器よ!キャンバスが燃えてる!!」
そんな騒動を繰り返すうちに、エマは気づいた。
彼は人を殺すことには長けていても、誰かと“生きる”ことには、とんでもなく不器用なのだと。
ある朝、アギトが得意げに運んできた「朝ごはん」を見て、エマは絶句した。
トーストの上には、絵具そっくりの赤いベリーソースがぐちゃっと塗られ、ナイフが突き立てられた“作品”になっていたのだ。
殺し屋の感性はやはりどこか狂っている。
だが、その不器用さがどこか可愛くて、エマは思わず笑ってしまった。
「君の色が足りないから、赤を足してみたんだよぉ」
「これは別に赤じゃなくてもいいんだけど……」
笑いながら指摘するエマに、アギトは子供のように肩をすくめる。
その仕草には、出会った頃の殺し屋の面影はどこにもなかった。
それでも、彼は時折、殺し屋らしい一面を覗かせた。
アトリエ近くをうろつく怪しい男を見つけた夜、アギトは音もなく背後に立ち、氷のような声で囁く。
「僕の居場所に何の用?」
その男が二度と現れなかったことは、言うまでもない。
「ねぇエマぁ、怖がらないでよ。僕、君のためにしか刃を使わないからさぁ」
「……それ、全然安心できない言葉なんだけど」
恐ろしくも、どこか甘いその言葉が、不思議と胸を温める。
恐怖と安心が、ひとつの色に混ざり合っていく――そんな感覚だった。
やがて、二人の暮らしは奇妙な安定を見せ始めた。
エマが絵を描く横で、アギトは静かにナイフを研ぎながらリンゴを剥く。
外で買い物をするときは、「君の安全のため」と言って必ず手を握った。
最初はその熱が鬱陶しく思えたが、やがてその温もりが、エマの心をしっかり繋ぎ止めるものになっていった。
一緒に暮らして一年。
アトリエの壁には、かつて白かったキャンバスが、無数の赤に染められた作品で埋め尽くされている。
その全てが、アギトなしでは描くことの出来なかった、かつてエマが探してやまなかった“赤”だ。
しかし今では――
「ねぇエマぁ、僕の瞳の赤、やっぱり一番好き?」
「……悔しいけど、一番好きかも」
「ンハッ、やったぁ!」
子供のように嬉しそうに跳ねるアギトを見て、エマは苦笑した。
一年経っても、この男はやっぱり危うく、そして可笑しい。
でも――あの夜、初めて出会った時よりも、今の方がずっと、彼の赤は美しく見える。
エマは筆を置き、アギトの隣に腰を下ろした。
血の匂いも、絵具の匂いも、今はただ、二人を結ぶ甘い空気に変わっていく。
「ねぇアギト」
「ん~?」
「これからも……私の為の貴方になってくれる?」
アギトは一瞬、瞳を細め――次の瞬間、満面の笑みを浮かべた。
「もちろん。だって僕は、君のものだもんねぇ」
アトリエの窓から差し込む夕陽が、二人の影を赤く染める。
一年の時を経ても、エマの世界は今もなお、鮮烈な赤で塗り続けられていた。
アトリエに戻ってからの一年――
あの夜の血の色を知ってしまったエマは、まるで取り憑かれたようにキャンバスに向かい続けた。
アギトはその側にいつもいた。
殺し屋としての仕事に出かけては、何事もなかったように戻り、エマの絵を見て「ンハ」と笑う。
感情を持たないはずのその瞳は、夜の深紅を映すだけの空洞――そう、出会った当初は確かにそうだった。
けれど。
「……ねぇ、アギト。今日の赤、ちょっとくすんでる」
エマが筆を止め、キャンバスを見つめながらぽつりと呟く。
「ン?くすんでる?僕が持ってきたやつ、ちゃんとすぐに瓶に入れたんだけどなぁ」
軽口を叩く声はいつも通りなのに、返ってくる表情がどこか違った。
赤い瞳の奥に、ほんのわずか――焦りのような揺らぎ。
またある日。
エマが描いた絵を壁に掛けようとした際、バランスを崩して絵具瓶を床に落とした。
ガシャン、と派手な音を立てて瓶が割れ、血のような絵具が床に広がる。
その瞬間、アギトの身体が反射的にエマを抱き寄せた。
「ッ、怪我してない……?」
息を切らし、エマの腕や指先を確かめるその仕草。
自分でも戸惑っているのか、確認し終えたアギトは一拍置いてから、わざと大げさに肩をすくめてみせた。
「反射だよ反射。……君が割れたガラスで怪我したら、絵が描けなくなるでしょ?」
その笑いは、いつもの無邪気さの裏で、どこかぎこちない。
さらに別の日。
エマが夜通し絵を描き続け、朝になっても食事を取らないでいると、アギトはふと眉を寄せて椅子の背にもたれかかった。
「ねぇエマ、絵もいいけどさ……ご飯、食べよ。僕、腹減った」
その声色には、空腹だけではない柔らかな気配があった。
殺しを感情を測るための道具のように扱ってきた彼が、初めて“共に”という形を選んだ瞬間。
エマは筆を置き、アギトを見つめる。
赤い瞳は相変わらず毒のように鮮やかだ。
だがそこに、わずかに溶け込む色――心という名の淡い赤を、エマは確かに見つけてしまった。
「アギト……あなた、変わったわね。感情に、少しずつ色づいてる」
その言葉に、アギトは一瞬だけ目を瞬かせ、そして不器用に口角を上げた。
「……ン?だったら君のせいだねぇ。君が僕の世界を塗ったからさ」
エマの胸の奥で、求めていた“赤”が静かに震えた。
それは血の色でも、絵具の色でもない。
殺し屋の心に芽生えた、初めての感情の赤だった。
エマは、なぜかそれに胸が痛くて仕方なかった。
アギトは、無自覚ながら少しずつ、世界に対して感情の動きを見せるようになっていた。
ぎこちなく、不器用で、時に本人も理解できないものだったが、それは確かに存在していた。
エマはその変化を見て、胸の奥にざわつく感情を抱えた。
(このままじゃ、アギトがわたしの色ではなくなってしまう)
喪失感が押し寄せ、自分の心を呪うように思った。
まさか、この一年共に過ごしてきた日々のうちに、アギトをこんなにも好きになってしまうとは。
自分がこんなにも彼を失いたくないと思うなんて、とエマは嫌悪した。
アギトが感情を持つことは喜ばしいことのはずだ。
彼が普通の人間としての喜びや悲しみを知ることは、彼を殺しの世界から解放する。
しかし、それでも彼は、自分のために殺しを続ける。不器用な一途さを、エマにだけ向ける。
その全てを独占したい気持ちが、胸を押し潰した。
ある日、仕事でアギトが不在の間、エマはアトリエで無心に薔薇の絵を描いていた。
けれど、筆は思うように動かず、赤はキャンバスに溶けない。
途方に暮れ、紅茶で一息つこうとした瞬間、カップが滑り、破片が散る。指先を切り、赤い血がぽたぽたと床に落ちる。
その赤を見た瞬間、衝動に駆られた――
アギトが離れてしまう前に、アギトの瞳と同じ赤で、自分の世界を塗りつぶしたい、と。
エマはためらわず、自分の腕を切り、血をキャンバスに垂らした。
痛みと失血で手は覚束ないが、筆を動かす手を止められない。
床は血で染まり、薔薇は狂気と執着で深紅に色づいていった。
そのとき、仕事を終えたアギトがアトリエに戻ってきた。ガシャンッと大きな音を立て、持ち帰った小瓶を落とす。
血で染まったキャンバスと床、血まみれのエマ。
その光景に、アギトは初めて声を荒げた。
「エマ……!!やめろ!」
普段は冷静な彼が、感情のままに怒る姿。
その表情を見て、エマは薄く笑う。
怒りに震えるアギトの目に、自分を映すのが、どこか心地よくもあった。
「……他の人を死なせるのも、私が死ぬのも……違わないじゃない」
血まみれの腕に包帯を巻きながら、彼女は静かに告げる。
アギトは言葉を失い、必死に手を伸ばす。
「な、んで?ちがう、違うよ……。お願いだ、自分を傷つけないで!」
しかし、エマはその手を振りほどき、寝室へ向かう。
血と絵具の匂い、薔薇の深紅――部屋には彼女の意思と狂気が渦巻いていた。
アギトはただ、震える手でその後ろ姿を見送り、怒りと悲しみの中で押し潰されそうになる。
(これが、感情?わからない。なんで、こんなに苦しいんだ?)
しばらく、エマとアギトの間には沈黙があった。
アギトは何度も口を開こうとした。声をかけようとした。しかし、どこか様子のおかしい彼女の前では、その一歩が踏み出せない。
胸の奥で、いつもなら平然としたはずの心臓が、知らぬ間に早鐘を打っていた。
ただ、アギトは分かっていた。
エマが自分の血で絵を描くことをやめるためには、ただ彼女が望むままに血を与えることしかできないのだと。
だから彼は毎日、大量の小瓶に血を満たし、アトリエに持ち帰り、絵の具棚にそっと置いていった。
それは言葉では伝えられない、静かな愛の証だった。
✻✻✻
その夜、エマはいつもより遅くまでアトリエに残り、白いキャンバスに向かって筆を動かしていた。
やがて腰を伸ばし、眠気を感じて寝室へ移動しようとした瞬間、珍しくソファで眠るアギトの姿を目にする。
久しぶりにまじまじと見るその顔。
眠っているため、あの深紅の瞳は閉じられている。
しかし、胸に込み上げる想いは、まるで燃え盛る炎のように抑えられなかった。
だが、床に目を落とした瞬間、何かが視界に入り込む。赤い光が、ゆらりと揺れていた。アギトの血だった。
アギトは負傷していた。
応急処置はされていたが、雑な包帯では血は止まらず、眉間には微かな苦痛の皺が寄っている。
滅多に怪我などしない彼が、もし傷を負うなら──以前ならなら必ず、真っ先にエマのもとへ駆け込み、大袈裟に痛がる彼に手を差し出していたはずだ。
「馬鹿ね……貴方。……でも、一番の馬鹿は、私だけれど」
エマは静かに呟き、アギトの肩に包帯を巻き、手当を施す。
その手は震えていたが、迷いはなかった。
「起きたら、ちゃんと話をしましょう」
そう言ってブランケットをかけると、エマは夜風を求めるように、そっと外へ出た。
海の香りが混じる冷たい空気が頬を撫でる。
何かの気配を感じ取った時、心臓の奥で、何かが軋むように鳴った。
✻✻✻
しばらくして、傷の違和感で目を覚ましたアギトは、ブランケットがかけられ、丁寧な手当がされていることに気づく。すぐに理解した。これは、間違いなくエマの優しさだと。
彼は飛び起き、声を殺しながら家中を探す。寝室にも、アトリエにも、リビングにも、エマの姿はない。
「エマ……?」
玄関口に差し込む風の音が耳に入り、わずかに開いた扉の先──そこで、アギトは目を疑った。
男が立っていた。名前も顔も知らぬ男が、エマに覆いかぶさり、ナイフを突き立てている。
彼女は口から、腹部から、胸部から血を流し、か細い息──まるで風が漏れる音のような吐息を漏らしていた。
アギトは瞬時にその男を撃ち殺し、エマを抱き起こす。だが、手の中で震えるその体は、もう助からないことを告げていた。
「……っ、エマ!」
言葉が出ない。名前だけを呼び続けるアギトの頬を涙が伝う。
そのとき、震える手がアギトの頬に触れた。
「アギト……わたしを……貴方の赤にして……」
血に染まった唇がかすかに微笑む。手に握られたナイフを、彼女はそっとアギトの手に重ねた。
「そして……貴方の全部を、わたしの赤に……して……」
アギトは一瞬、動けずに固まる。
世界でたった一人、愛を教えてくれた愛する人に──その手でナイフを握らされるとは思わなかった。
「エマ……そんなこと、できるわけない……!」
しかし、彼女は弱々しく首を横に振り、笑みを残して言う。
「貴方の全部、わたしがいい……」
握らされたナイフは、エマにより導かれ静かに深紅を貫いた。
その瞬間、アギトの全世界が静止した。
血に濡れた髪、微かに笑う唇、そして最後まで自らの意思を貫いたその瞳――全てが、永遠に彼の心に刻まれた。
アギトは、まだ温もりの残るエマの体を抱き上げたまま、言葉にならない嗚咽を漏らした。
「エマ……お願いだ……死なないでくれ……!」
しかし、手の中の温もりは冷たく、深紅の瞳は永遠に閉じられたままだった。
初めて自分の内から感情が一気に溢れ出す。
怒り、悲しみ、後悔、孤独、そして愛情。
それらが渦を巻き、体の芯まで染み渡る。震える足で立ち上がると、アギトは泣きながらも一歩一歩、アトリエへ向かって歩き出した。
血の匂い、破片の感触、彼女の体温の記憶――すべてが足元を引っ張るようだった。
それでもアギトは進む。胸の奥で叫ぶ声に、耳が震える。
「ずっと、最初から。僕の……赤は、君だけのものだ……」
廊下を進むたび、涙が頬を伝い、床に落ちる。
手に抱えた体の重みと、床にこぼれた血の熱さが、彼の胸を締め付ける。
涙が止まらず、嗚咽混じりの息が荒くなる。
冷静で無感情だった殺し屋の体には、初めて自らの“想い”が全力で流れ込んでいた。
アトリエの扉に手をかける瞬間、アギトは深呼吸する。
目に映る赤、散乱する絵具、未完成のキャンバス――すべてが、彼女の遺した色そのものだった。
震える手で筆を掴むと、涙が頬を伝い、滴はキャンバスに落ちる。
嗚咽混じりに描き始める。手は震えても、筆は確かに動く。
描くのは、ただエマの色の薔薇だけ。彼女の赤、彼女の命、彼女のすべて。
そして、アギト自身のすべてでもある。
「君の赤は……全部、僕のものだ……」
泣きながら、筆を止めることはできない。
思考はほとんど言葉にならず、ただ赤に感情をぶつける。
その赤には、怒りも悲しみも愛も、すべて溶け込む。
胸の奥で張り裂けそうな思いを、手と筆先に託す。
夜が明けるまでアギトはただ薔薇を描き続けた。
孤独な世界に残された最後の赤、それが彼の全てであり、愛の証だった。
窓から差し込む朝の光に、薔薇たちは微かに揺れる。
そこには、永遠に色褪せることのない、愛の赤が咲き誇っていた。
アギトの涙はキャンバスに混ざり、赤に溶け込む。
没するまでの日々、アギトはただ薔薇を描き続けた。その数、千と一本。
『エマ。僕は、永遠に君を愛すよ』
街の人々は、その絵の美しさに息を呑む。
「やはり薔薇姫は天才だ……」
そう人々は言う。
誰も知らない。――この薔薇は、ただ一人の天才画家、『薔薇姫』に捧げられたものだということを。
風が窓を揺らすたび、アギトはキャンバスに向かって小さく呟く。
「君は、最高で、最悪なひとだ」
そして、アトリエに咲く無数の薔薇は、静かに輝き続けた。
彼女の名前を知らぬ世界に、ただ一人アギトだけが、その赤を生かし、守り続ける。
君に捧げる薔薇姫──永遠に色褪せることのない、愛の証として。