4.少女の日常
主人公と別視点になります
私には小さいころの記憶がない。
一番古い記憶は、どこかの路地裏で寒さとひもじさに耐えきれずに残飯を漁っているときに、姐さんに声をかけられたときのものだ。
「チッ、気分が悪くなるね。お前、アタシの前であんまみっともない真似すんじゃないよ」
そう声をかけられた方を見ると、銀髪の間から鋭いアイスブルーの瞳が私を睨みつけている。美人な人だった。その分迫力はすさまじく、私は身が竦んでしまい、ただ謝ることしかできなかった。
「お前、この辺じゃ見ない顔だね。最近流れてきたのかい?」
気が付いたらここにいた事、お腹が空いてどうしようもない事を寒さと恐怖で震える口で何とか伝えると、女の人は大きくため息をつく。
「クソ…そうだね…お前が、野垂れ死なない位まではアタシが面倒を見てやる。ついてきな」
その時の私には、心細い中助けてくれそうな人の誘いを断るという選択肢はなく、必死にその後に付いていった。姐さんがいい人だったから良いものの、ひどく危なっかしいと我ながら思う。
しかし、この出会いがなければ私は今生きてすらいないだろう。私の人生の中の数少ない幸運の一つだった。
「アタシのことは、そうさね、姐さんとでも呼びな。最初に言っとくが、馴れ合うつもりはないよ。できるだけ早く離れられるように仕込んでやる。アンタもそのつもりでいな」
久しぶりに口にできたパンはとてもおいしく感じられ、冷えた体に少しずつ熱が戻ってくるじんわりとした感覚に、ややぼんやりとしながらも姐さんにこくりと頷いて返した。
「いいかい、アタシたちみたいなのには天職がある。娼婦さ。アンタだってうまくやれば外で夜を越す恐怖を忘れて、温かい寝床で朝を迎えることができるかもしれないよ。あとこれ、被っときな。アタシのお古だけどね」
姐さんはそう言って暗い色のローブを投げてよこしてくれた。私は言われるままにフード付きのローブに袖を通す。
「アンタの耳、外であんま見せるんじゃないよ。見せたからすぐどうこうなるってことはないだろうが、面倒事から少しでも遠ざかれるんならそれに越したことはなかろうさ」
そう言われて自分の耳を触ると、姐さんの真ん丸なものよりも尖ったような形をしていることが分かった。その時はなぜ隠さなければいけないのか分からなかったけど、とにかくフードを被っておくことにしたんだっけ。
「まずアタシが客を取るところからやる。当然アンタは隠れて見るんだよ。ここらにも決まりがあってね。仕事の流れと、最低限のルールを覚えてからだ。まずね、他人の客を横取りするのはご法度だ。見分けがつかないなら止めときな。万が一アタシの客を取ったなら、その時は縊り殺してやるよ。死んでも覚えておくんだね」
私は必死に首を縦に振って了解の意を返した。
それから姐さんは生き延びるための術を私に教えてくれたのだ。
「値段交渉は最初にしろ、トラブルの元だ。相場はアタシで最低銀一からだが、アンタの場合は、そうだね…二回で銀一を目指すといい。手でも口でも胸でもアソコでも、とにかく二回絞るようにしな。ああ、ケツだけは止めておくんだね。準備もなしにやったら最悪死ぬよ」
「ふっかけるのは悪手だ。でも極端な値引きには応じるな。安売りしても良いことはないよ。踏み倒されそうになったら食い下がれ、アタシらの商売は舐められたら終わりさ」
ある日は値段交渉を教わり。
「いいかい、誰かを探しているような奴は避けろ。他の娼婦を探しているかもしれないし、お前みたいなガキを攫おうとしているのかもしれない。大抵ロクなもんじゃない。衛兵は論外、冒険者だか何だか知らないが、ああいった手合いも避けておけ。金払いはいいんだが、奴らは人を斬るのに抵抗がない。下を男のモノで塞がれて、上の口でナイフを咥えたくはないだろう?まともそうな客に自分から声をかけな、その方がうまくいくことが多い」
またある日はお客さんの見分け方を教わり。
「客の顔をよく覚えときな、結構見る顔が多いのに気づくはずさ。常連ってやつだね。他の娼婦とのトラブルを避けるためでもあるし、新しい客を取るチャンスでもある。一番気をつけなきゃならないのはね、知らない顔が増えてきた時だ。時間と場所が広まっているのさ。客は増えるが潮時ってやつだ。衛兵にしょっ引かれたくなかったら程ほどにしておくんだね」
また別の日は衛兵さんの目を盗む術を教わり。
「食える時に食っておくんだ。食うのを切り詰めて貯め込むのもいるけどね、アタシから言わせれば馬鹿ってもんだ。この仕事は体が資本さ。食ってないと力が出ないし、病気にだってかかりやすい。それに骨と皮だけの女を誰が好き好んで抱きたいと思うかって話さ。おっと、炊き出しの時間だ。さっさと行くよ。今日はあっちの教会だ。あそこのは温かいのはありがたいんだが、もうちょい肉を入れてくれるとさらにありがたいんだがね」
その他にも体調管理についてや、無料でご飯にありつく手段を教わり。
「どうにもならない時は走って逃げろ。立ち向かったって泣きを見るのはこっちさ。なあに、相手だってよっぽどのことがなけりゃ全力で走る相手を追いかけるのは面倒かろう」
そして、どうしようもない時の対処法を教わった。
本当に、本当にいろいろなことを教えてもらった。感謝でしかない。
姐さんの気分のいい時は物語を聞かせてくれることもあって、私の一番好きな時間だった。
そのお話の中でも私が一番好きな物語は、私みたいな路地裏で生活している女の子を見初めた騎士様が白銀の鎧を着て迎えに来てくれるというものだ。
このお話が一番好きだと姐さんに伝えると、姐さんは私の頭を軽く叩いた後に噴き出して、お腹を抱えて笑ったものだった。
「最後だ、よく聞けおチビちゃん。アタシらは物乞いじゃないんだ。胸張って生きるんだよ…もし、もしもの話だ。本当にのっぴきならなくなったら、もう一度仕込んでやる。その時は覚悟しな、後悔するほど厳しくするからね。それが嫌ならしっかりやりな」
そして姐さんの元を去り、また一人で生きていく日々が来た。
良い日もあれば悪い日もあった。姐さんのおかげで何とかやってこれたのだと確信している。
それから少し経った日のことだ。場が変わったばかりの時期でもあり、お客さんを取れない日が続いた。手持ちも底をつきつつあり、ローブに縫い込んだ金貨に手を付けることも考えていた時だ。
少しばかり焦っていたのだと思う。姐さんの教えに反し、私は値段交渉をせずにお客さんを取ってしまったのだった。
「くそ!ダメだ!」
男がそう呻く。
私がお客さんを取ると、皆すぐに終わってくれる。私としては楽でよかった。今日みたいに路上でする羽目になるのは初めてではないが、短い時間とはいえ目立つのは避けたいものだ。私はその時になって値段交渉していなかったことを思い出し、男にもう一回で銀一はどうかと持ち掛けた。
「お前みたいなガキに銀が出せるかよ!それよりもう一回だ、こっちに尻を向けろ!」
男はそう言ってこちらに詰め寄るが、舐められたらダメだと私も毅然と支払いを求める。
「…そうだな、わかった。生憎と持ち合わせがなくてな。半銀貨分を払うから一緒についてこい。気分が乗ったらまたかわいがってやるからよ」
最初から踏み倒すつもりだったのだ、この男は。付いて行ったとしてもくたびれ損だろう。最悪監禁されるかもしれない。顔は覚えた、もう近づかないようにしようと諦め身を翻すと手首を掴まれてしまう。
「おい、どこに行くんだ?金を払うって言ってるだろう、いいからこっちに来い」
私は全力で男の手を振り払い、今度は姐さんの教え通り、一目散に駆け出した。