3.トラウマ
重い足取りで自宅に向かう。正直どこをどう歩いてきたのかも定かではなかった。町外れまで歩いたところで頼みもしないのに強化された感覚がある音を拾い、ふと我に返る。
湿った音だ。肌同士を合わせる特有の音の他に、押し殺したような女の吐息と男の荒い吐息の二つ。
音の響きからして、一本裏の道からであろうと頭の冷静な部分が告げてくる。だれかがよろしくやっているのだろう。夜とはいえ外でお盛んなことだ。
こういった人通りの少ない場所にはどこの娼館にも所属せずに花を売る、所謂立ちんぼの女が集まる。それを生業にする奴らに見つかれば処罰は免れないが、時間や場所を変え不思議とこの街からいなくなることはなかった。
その音が、雰囲気が、今の精神状態が不意に俺のトラウマを呼び起こす。もう十年以上昔の、俺が初めてダンジョンに挑む前日の記憶だ。
§
「ダンジョンに挑むからにはな、やっぱ男の体になるべきだと思うわけよ!」
鼻息荒く友人がそう宣う。
「もう男だろ。しごかれまくって痣だらけだ、クッソ…痕残んねーだろうなコレ」
「何言ってんだよ!女だよ!お・ん・な!童貞で死にたくねーだろ!」
「死にたくないからボロボロになるまで訓練してたんだろうが…それに登録料も払わなきゃならないし、余裕ねーんだ。高いんだろ、娼館って」
その頃の俺は両親が他界し、そのわずかな遺産とガキでもできる仕事の報酬で細々と食いつないでいた。少しずつ、だが確実に目減りしていく金。なにか手を打たないとこの先行き詰まるのは明らかであった。
学も無く、コネもない。このまま泥に塗れその日暮らしをするのも、尻を掘られるのも、ましてや犯罪に手を染めるのもその時の俺には受け入れがたかった。
そこで俺は本当に金がなくなる前に装備を購入し、ダンジョンに突入することにしたのだ。今思えば無謀を通り越してただの自殺行為である。
ダンジョンに挑むことを友人に打ち明けると、なんと自分も一緒に行きたいという。聞けば彼の親はかつてダンジョンに挑んでいた経験者だというではないか。さっそくオヤジさんに二人で頭を下げて師事を乞うと二人そろって殴られた。その後、日を改めて何度か殴られた後に苦々しい顔でようやく頷いてもらえたのだ。
オヤジさんの教えは厳しかった。毎日怒鳴られ、殴られた。訓練の後、体が痛くて眠れない日々を過ごしたものだ。
しばらくしてオヤジさんから待ちに待ったダンジョンに挑む許可が下りる。お古の装備を譲ってもらい、習ったままに整備を行いつつ準備を整えた。そしていよいよダンジョンに挑む直前になって、友人は俺に女遊びを提案してきたのであった。
「立ちんぼって知ってるか?あれならオレらでも払えるレベルらしいぜ!北の街はずれに取り壊された教会があるだろ、今あそこら辺がアツいって評判でさ、レベルが高い女がわんさか!娼館じゃ銀貨何枚からがザラらしいが、こっちなら一枚あれば交渉次第でお釣りがくるんだとさ!」
「銀貨一枚か…払えなくもない、な」
どこから仕入れてきた情報なのかも定かではない友人の熱いセールストークに若干引いたものの、その金額でいい女を抱けるとはまさに望外だ。
その抗いがたい誘惑に、気づけば俺は首を縦に振っていた。友人と肩を組み、脱童貞を掲げて意気揚々と夜の街はずれへと向かったのだ。
「お兄さん、一枚でどう?私とあっちに行きましょう」
俺に声をかけてきた女はどこか疲れたような雰囲気の女だった。フードから覗かせた顔は幸薄そうな美人系で、年齢は自分よりも十は上に感じる。胸は普通くらいだろうか。金髪で優しそうな瞳、修道服でも着せればシスターに見えたかもしれない。
返答に困って友人に助けを求めるべく振り返ると、そちらは黒髪の女に腕を組まれて鼻の下を伸ばしている。服の上からでも分かる程に胸のでかい女であった。
「オレはこの娘にする!終わったらうちの店に集合な!」
俺の返答も待たず、友人は女の胸をまさぐりながら歩いて行ってしまう。
勝手がわからない俺は一人残され、女に流されるまま銀貨を一枚手渡す。そういえば値段交渉はいつするのだろうとマヌケなことを考えていた。
女に手を引かれて暗がりを歩く。後ろを歩いていると女の甘い体臭が鼻孔をくすぐる。繋いだ手が熱くなり、鼓動がうるさい。下半身はもう痛いくらいになっていた。
程なくして女が足を止める、どうやら目的地に着いたようだ。部屋というにはあまりに狭く、ドア代わりの布地のカーテンで仕切られただけの空間。女がそのカーテンを閉める、すえたような匂いと埃、そして女の体臭をより一層強く感じた。
女は手慣れた様子で寝床に仰向けになって俺を誘う。
普段からこの女はここで多くの男を咥え込んでいるであろう事実が俺をひどく興奮させた。たまらず覆いかぶさり、下の衣服を脱ぎ捨てようとするが、あと一枚が焦りすぎてなかなか脱げずにもどかしい。
ようやく脱げたはいいが、どうしていいかわからずに難儀していると「焦らないで」と女が耳元で囁き、手で支えて導いてくれる。ひんやりした手が触れた瞬間、俺は盛大に果てた。
必死で止めようと力を入れると半身は女の手から抜け出して跳ね上がる。手も触れていないのに二度三度と大きく首を振り、女の腹から胸、さらに顔までを白く染める。俺は頭の中が真っ白になった。恥と、情けなさと、自分への憤りで体が熱い。
女は少し驚いたように目を見開き、優し気に問いかけてくる。
「もう一回しましょう?えっと…追加で一回、銅貨一枚でいいわ」
今思えば女なりの精一杯の厚意だったのだろう。いくら何でも銅貨一枚は破格に過ぎる。
その時の俺は追加で料金を取られるといった事実に驚き、そんなルールも知らない無知を恥じた。銅貨一枚という金額も俺ほど早いのであればそんなものと見くびられたような気がして、俺の安く、青いプライドをひどく傷つける。
とにかくここから消えてしまいたくて、女に謝り、服を急いで身に着けて逃げるように立ち去る。あれだけ盛大に吐き出したというのに、下半身はそれを忘れたかのように熱を持ち続けていた。
友人の店に向かう途中、早く帰りすぎるのも体裁が悪いと考え、適当な店の裏で時間をつぶす。急いで帰ろうとする俺を引き留めようとする女の扇情的な姿が脳裏に焼き付いていた。
下半身の滾りは一向に収まらず、暗がりの中で一人股間をいきりたたせている俺は世界で一番の馬鹿だと自分をなじる。
あまりにも思い通りにならない半身をねじ切ってやろうかと思い始めたころ、ようやく収まりがついて友人の店に向かうことができた。
俺の初めての女遊びは、童貞卒業を果たすどころか、キスも尻も胸も触らずに終わった。
それ以来、俺は不能だ。




