表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/51

15.溺れる者

 朝の鐘で目が覚める。


 こちらに抱き着くように眠るニアに声をかけると、彼女の手が俺の頭を掻き抱き、唇が重なった。



§



 また朝の鐘が鳴った。


 ニアの魅力にはますます磨きがかかり、俺を捉えて離さない。俺はどうしようもなくニアに溺れていた。



 自覚はあった。しかしどうすればよいのだろうか。泳げないものが自分は「溺れている」と認識したところで状況は変わらない。それだけで泳げるようになるわけがないのだ。苦しいわけではない、厄介なことにこの水はひどく心地が良かった。



 溺れる者は藁をもつかむという。ゲンジに聞いた諺だ。何という意味だっただろう、溺れていたものが藁を掴んで億万長者に?だめだ、思い出せない。



 朝食を並んで食べる。さすがに携行食の残りが少なくなってきた。これ以上はロマ謹製の行動食二号改を食すことになる。これはロマ曰く保存性抜群の完全食であり、これを食べているだけで理論上全く問題がない有難いものなのだそうだ。二号の問題はひたすらにまずい味であった。改良されたコレは味の改良を目指したものだったが、どうしてもおいしくならず、逆転の発想で味を抜いたものである。まずくはない、味がないのだから。



 …さすがにあれを食わせるわけにもいくまい。今日こそは外に行こうとニアを見つめると、妖艶にほほ笑み返してくれる。だめだ、今日も無理だ。



 ふと、俺以外の世の中の男はすごい奴らだったのだなと思う。少数ではあったが、女に現を抜かして身を崩すものは確かにいた。その時俺は思ったものだ、馬鹿な奴と。童貞のひがみでもあったが、命と天秤にかけるものではなかったはずだ。



 しかし現状はどうだ。俺が駆け出しの十代の頃にこんなことを知ってしまったら何も手に付かなかっただろう。今ですら何も手についていない。皆はどうやって折り合いをつけているのだろうか…ああ、ニアの唇が迫る。



 その時だった、溺れる俺を救い上げる声がノックと共に玄関から聞こえた。



「旦那様、ご在宅でしょうか。開けてもよろしいですか?」



 助かった。反射的に「ちっ」と俺の口から音が出たが、本心ではない…と思いたい。自分とニアの姿を見て、まだ人前に出ても問題ない格好なのを確認し、入ってくれと返す。



 姿を見せたのは腰まで届く琥珀色の髪をホワイトブリムで押さえた、我が家のハウスキーパーであった。そうか、今日だったかと思い出すと同時に、俺はこんなことを何日やっていたのだと愕然とする。



 家に入ってくるなり、彼女にしては珍しく、その端正な顔を一瞬しかめた。


「…旦那様、換気をいたします。少々お待ちください。お嬢様、お初にお目にかかります。私は旦那様と契約を結んでおります、サーシャです。よろしくお願いいたします。旦那様、お嬢様ご両名にはそれぞれお話があります。旦那様、よろしいですね」



「…よろしくおねがいします」



 なかなかの剣幕である。いつもはおっとりとした女性なのだが、何か怒らせてしまったようだ。洗い物を外に出していないことだろうか、確かにまずかったかもしれない。しかしこの調子ではニアも気圧されてしまう。まあまあと取り成すとサーシャにキッと目で制されてしまった。うん、黙っておこう。



 サーシャはテキパキと家の掃除を進めていく。俺はニアに朝食を食べてしまおうと促すと、彼女は何故かサーシャを少し険しい顔で見つめていた。



 食事時はご機嫌な姿以外を見ていなかったのでひどく居心地が悪い。味が分からないが詰め込むように食べる。時間が経てばきっとこの空気も変わるだろう。開け放たれた窓からはこんなにも清涼な空気が流れ込んできているのだから。



 サーシャが寝室から出てきたとき、彼女の顔にも険しさが浮かんでいた。怖い、まだ換気が足りていないのだろうか。



「旦那様、いろいろと、そう、いろいろとお聞きしたいことがありますが、それはひとまず置いておきます。協会からの伝言がありますのでお伝えします。近いうちに一度顔を出すようにとのことです。登録の継続についてと、資産管理継続の可否についてです。最後に私からもひとつ、パーティの目標達成おめでとうございます」



 協会にはすぐ行くつもりではあった、了解の意を返す。何かを押し殺したような声であり、祝福された気はしなかったが、ありがとうとも。



 「旦那様はここでお寛ぎください。先にお茶をお出ししましょうか、この後お嬢様とお話で奥の一室をお借りしますので」



 ニアの方を伺うと今から戦いに赴く闘士のような雰囲気を醸し出している。顔が可愛いので威圧感は少なめだ。俺はお茶を断って大人しく座って待つことにした。



 二人が奥の部屋に移動するのを見送り、ソファに座ってすぐにニアの声が響いた。



「そんなわけないじゃないですか!大体あなたは何なんです!わ、私のご主人様を旦那様!?契約!?」



 思わず腰を浮かして奥の部屋に駆け込むと、ヒートアップして立ち上がるニアと椅子に座ったままのサーシャがテーブルを挟んで向かい合っていた。



「お嬢様、申し訳ありません。勘違いがあったようなので詳しくご説明いたします。どうかご冷静に。旦那様もお騒がせして申し訳ありません」



 どうやら刃傷沙汰にまでは発展していなかったようで胸を撫で下ろす。空気は最悪だが、二人に暴力はいけないと進言するもサーシャからは「旦那様に言われるまでもありません」と一蹴されてしまった。



 リビングのソファでじっと待つ。あれきり声が響くこともなく時間が過ぎていく。気まずい時間というのは何故なかなか過ぎないのだろうか。楽しい事を思い浮かべようとしたが即座に振り払う。おかげで相棒の出力は半分で止まってくれた。



しばらくしてサーシャだけが疲れた様子で戻ってきたのでニアはどうしたと問いかける。



「お嬢様といろいろとお話しいたしました。もう少しおひとりで整理する時間が必要でしょう。その間に旦那様にも確認しなければならない事があります。よろしいでしょうか」



 何の話をしたのか見当もつかないが、ここ数年我が家を一手にまとめてくれていたサーシャだ。悪いことは言わないだろうという信頼があったので、そちらには触れずに彼女の確認したいことを促す。



「まず、お嬢様のことですが…訳ありなのでしょう?本人から大まかに生い立ちをお聞きしましたが、カバーストーリーとしては三流です。あれは誰が考えたのですか?余程世間知らずでもない限り、街角で花売りをしていた娘などと言っても誰も信じないでしょう。服装を除けば容姿、肌や髪の状態、手足の様子。どこをとってもどこかのご令嬢にしか見えません」



 ニアが可愛いと褒められて、そうだろう、そうだろうと気をよくする。良かった。俺の目がおかしいわけではなかったのだ。とても安心した。



「…旦那様が考えられたのですか…はあ、まあ言いふらすような内容でもないでしょうが、別の設定を考えておくべきでしょう。それはそれとして、確認したいのはお嬢様の身元です。まさかとは思いますが、どこかのお屋敷から攫ってきたりはしていないでしょうね」



 心外である。俺がそんな阿呆に見えるのだろうか。あれ、身元不明の女性を家に連れ込むのはもしかして攫ったうちに入ってしまうのか。心配になってきたぞ…



「冗談ですよ、なぜ少し不安そうなんですか。まあ旦那様との付き合いも長いですし、首に縄がかかるようなことはしていないと信じます。ただ、念のため協会には報告させていただきます」



 それは俺がニアと、その、付き合ってる?みたいな話をするということだろうか。協会に顔をだしたら噂とかされてしまうのか?それは恥ずかしいからやめて欲しいのだが…それはある種のハラスメントだろう。



「誰がそんな話をしますか。私も協会から派遣されている身ですので、報告義務があります。万が一協会宛に人探しの照会があった時用です、それに、一般の方にはそんな報告はいたしません。一度でも聞いたことがありますか?誰と誰が交際しているなんて下世話な話を…それで、お嬢様をこれからどうなさるおつもりですか」



 痛くもない腹を探られるわけではなさそうだ。それなら面倒もあるまい。ニアについてはこれから一緒に暮らしていくつもりだ。サーシャには家事全般を指南してやって欲しいので来る日を増やしてくれないかとお願いする。



「それを聞いて安心いたしました。お嬢様に家事、ですか。使用人を増やすわけではなく。ご依頼であれば承りましょう。短期間であれば週初から隔日で通えるようにスケジュールを調整いたします。長期にわたる場合や、住み込みでというのであれば後ほどご相談させてください、庭の方はどうされますか?」



 庭の整備は据え置きでいいだろう。ただ、ニア用に風呂を沸かしてやりたいので薪の調達を増やすようにお願いする。 



「了解いたしました。最後になりますが、旦那様に良いお相手が見つかり私も喜ばしい限りです。また、差し出がましいようですが、破瓜の後に無茶をさせすぎです。もう少しお嬢様を大切に扱って差し上げてください。服装も整える必要があります。さすがに男物のシャツで来客対応はまずいでしょう。それから…」



 こんこんとお説教をした後に「それでは失礼します」と綺麗なお辞儀をしてサーシャは去っていく。


 えっ、奥で一体何を話していたのだろうか。所謂女同士の恋バナというやつだろうか、内容は非常に気になるがちょっと聞ける感じではなくなってしまった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ