表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽りの恋人  作者: 水月
9/26

9

 それからも、浩司は毎日蕗子の仕事が終わる時間を見計らって電話をかけてきてくれた。一緒に食事して、蕗子達をアパートまで送り、将太がお風呂から上がったらしばらく遊んでくれる。週末は一日中一緒にいて、二人をあちこちに連れ出してくれた。

 だが、それだけだった。浩司は決して長居しようとはせず、将太が布団に入ったらすぐに帰ってしまうのだ。

 キスすらしてくれなくなった。帰り際におざなりに蕗子を抱き寄せ、軽く唇を当ててはくれるが、それだけだ。男の情熱がほとばしるようなキスを経験した蕗子にとっては、それではもう物足りなかった。

 もしかして、お子様な私に愛想が尽きたのだろうか?

 ある日、ふと蕗子はそう思った。

 色恋沙汰には無縁だった私の幼い反応が、彼の情熱を冷ましてしまったのだろうか……。

 そう思って見てみると、浩司は蕗子に触れることを避けているようだった。最初はぎこちなかった将太とのスキンシップも、今では乱暴とも言えるくらいのじゃれ合いにまで発展している。なのに、蕗子がその仲間に入ると、途端に彼は将太を蕗子に譲り渡して、一歩引いてしまうのだ。

 じれったい思いと、嫌われてしまったのではないかという不安が、蕗子を苛立たせていた。そしてその苛立ちは、二度目の週末を翌日に控えた金曜日、アパートで風呂上りの将太と遊んでいる時に、浩司がこう切り出したことでついに爆発した。

「明日はみんなで遊園地に行かないか」

「行く! わーい、やったー!」

 浩司のさりげない提案に、将太が大喜びで叫んで飛び跳ねる。そんな将太の反応を横目に見ながら、蕗子はむっつりと黙り込んでいた。

「どうした?」

 浩司がちょっと眉をひそめて訊く。蕗子は作り笑いを浮かべてかぶりを振り、とびきりやさしい声で提案した。

「私はいいから、二人で行ってきたら?」

 浩司の眉間の皺が深まった。彼は、はしゃぎすぎて蕗子の声など聞こえていないらしい将太の様子を確認してから、蕗子の方にぐっと身を乗り出した。

「何を言ってるんだ。きみが来なくちゃ意味がないだろう」

「そうかしら。将太ももうあなたになついたし、別に私がいなくてもどうってことないんじゃない?」

 蕗子の皮肉な言葉を聞いて、浩司が弾かれたように頭を上げる。

 好奇心に負けて蕗子が震えるまつげを上げると、浩司の心なしか青ざめた顔が目に飛び込んできた。

「ねえねえ蕗ちゃん、おべんとちゅくってね! ぼくのと、蕗ちゃんのと、おいたんのも!」

 突然、そう叫びながら将太が蕗子の膝に飛びついてきたので、蕗子は浩司から目をそらした。お弁当を作る約束をしてからもう一度目を上げると、浩司はすでに表情を消していた。

「どういう意味だ」

「どういうって、そのままの意味よ。別に、無理して私を誘ってくれなくてもいいって言ってるの」

 駄々っ子のように拗ねて、筋の通らないことを言っていることは自覚している。だが、自分でもどうしようもなかった。浩司の煮え切らない態度をどうにかしたい、この中途半端な関係をはっきりさせたい、そればかりが頭の中に渦巻いているこんな状態では。

「無理して誘う? 僕が?」

 そう言うと、浩司はくくっと喉の奥で笑った。その笑いの中に微かな安堵感が響いていたことに、蕗子は気付かなかった。

「参ったな。何を拗ねてるんだ。確かに、将太といるのは楽しいさ。だが、きみと二人きりになるチャンスが目の前にぶらさがっていたら、将太よりきみを取る」

 言いながら、そっと蕗子を抱きしめる。蕗子は抵抗せず、彼の温かい胸の中にすっぽりと収まった。

「どうした。何かあったのか?」

 蕗子が苛立ちをぶつけたのに、浩司はいささかも動じていない。反対に、蕗子の不機嫌な理由を探り出そうとなだめてくれている。どうすれば蕗子に安心感を与えることができるのか、よく心得ているとしか思えなかった。

 彼の大きな胸の中にすっぽりと包み込まれ、規則正しい心臓の音を聞いていると、ささくれ立った心が徐々に穏やかになっていくのがわかった。

「ん? 何でも言ってごらん」

 こんな時の浩司は、やはり大人だなあ、と蕗子に感じさせた。蕗子の八つ当たりには取り合わず、その包容力で蕗子をなだめようとしてくれているのだから。

「キス……」

 蕗子は心の鎧を解いて、ぼそっとつぶやいた。無性に、浩司に甘えたい気分になっていた。

「うん?」

「だって、最近、キスしてくれないんだもの」

 蕗子が小声で言うと、浩司は驚いたように黙り込んだ。ばつが悪い思いで彼の胸の中に顔をすりつけている蕗子をのぞきこむように、頭を下げる。

「して欲しかったのか?」

 耳元に、囁くような浩司の声。ぶるっと震えてから、蕗子は頷いた。自分の腕の中で安心しきって、全身を委ねている蕗子を、浩司は渾身の力をこめて抱きしめた。

「……怯えさせてしまったと思っていた」

 彼の腕が震えていることに気付いて、蕗子はうっとりとした顔を上げた。そこには、激しい欲望に瞳を燃え立たせた男がいた。

「僕が……自分の気持ちを露わにしすぎているから、圧倒されてしまっているんだろうと思っていた。だから、抑えなければと……」

 蕗子は罪悪感に頬を染めた。

「ご、ごめんなさい。あの……最初は……確かに圧倒されてたの。でも、今はもう……」

「きみも同じ気持ちだと思っていいのか?」

 かすれた声で浩司が問いかける。蕗子は真っ赤になった顔を背けまいと、必死の面持ちを浩司に当てた。

「今は……怖くないの」

 その答えでは不充分だったのだろう、浩司の顔が苦しげに歪んだ。だが、彼はすぐに思いなおしたように蕗子の首筋に顔を埋めた。

「今はそれで充分だ。それだけで、充分だ……」

「わーい、しょうたもー」

 突然、将太が抱き合っている二人に飛びついてきた。二人は驚いて顔を上げ、将太がにこにこしながら二人の間に割り込もうとしているのを見て笑い声を上げた。

「そうだな。将太も仲間だもんな」

「うん、なかま」

 浩司は楽しそうな笑い声を響かせながら、蕗子と将太をしっかりと抱きしめた。

「きみが甘えてくれたのは、初めてだ」

 蕗子の耳元で、浩司が囁いた。蕗子はぽっと頬を赤らめ、こっくりと頷いて浩司を喜びの繭で包み込んだ。

「今日は……急いで帰らなくてもいい?」

「ああ」

「話したいことがあるの」

「いいとも。何時間でも聞くよ」

 蕗子は信頼しきった瞳を浩司に向けた。

「ありがとう」


◆ ◆ ◆


 将太を寝かしつけ、いつものように少し隙間を空けて襖を閉めたあと、蕗子はコーヒーをいれにキッチンに立った。

 浩司のために、何かお酒を買っておけばよかった。せめて、コーヒーメーカーとか。

 緊張しているせいか、くだらないことばかりが頭に浮かぶ。蕗子は気を取りなおして、インスタントコーヒーをつくることに神経を集中させた。

 マグカップを乗せたお盆を持って部屋に戻ると、浩司がお盆を受け取りに立ちあがった。すぐそこがテーブルなのに、と可笑しくなったが、これはもう浩司の習性とも言うべきものだろう。蕗子は素直にお盆を彼に渡した。

 浩司はそれをテーブルに置き、自分も座ると、蕗子の手を掴んで強引に自分の膝の上に座らせた。有無を言わさぬその仕草に、蕗子はかえって安心した。

「それで、話って?」

 浩司はすっぽりと自分の腕の中に収まった蕗子を心地よさそうに抱え込みながら、そっと促した。

 蕗子はゆったりと浩司の胸にもたれかかり、話の接ぎ穂を探そうと、しばらく黙り込んだ。

「あの……将太のことなの」

 そんなことだろうと思った、というように浩司は頷いた。蕗子は少し躊躇してから、おずおずと切り出した。

「話は長くなるんだけど……」

「何時間でも聞くと言っただろう」

 蕗子の頭のてっぺんに軽くキスをしながら、安心させるように言う。蕗子はにっこり微笑んだ。

 浩司の腕の中では、何ものも蕗子を不安に陥れることはできないと思われた。それほどに、その安堵感は大きかった。

「最初から説明しないと、わかってもらえないと思うの」

「ああ。できるだけ詳しく話して欲しい」

 きみを理解したい、と浩司が囁く。そのことに、蕗子は震えるほどの幸せを感じた。

「私が十四歳の時、父がリストラにあって、会社を首になったの。バブルがはじけて不況に突入した頃だったから、再就職もままならなかった。母と姉と一家四人、路頭に迷うかどうかの瀬戸際だったわ」

 蕗子は当時を思い出すように、遠い目を泳がせた。

「姉は大学生で、私はまだ中学生。母は専業主婦で、大黒柱があけた穴を埋めることなんて、到底できないと思ってた。でも、母の考えは違ったの。誰にも内緒で、突然喫茶店を開店しちゃったのよ。父のリストラから一年後に」

 そう言って、蕗子は笑った。

「それまでの母は、父の影のような存在だった。いつもにこにこと笑っている、そんな人だったの。それが、一年中、関係各所を駆けずり回り、パートに出て資金を貯めてやり遂げたわ。母が若い頃レストランの厨房で下働きをしていたということも、調理師と栄養士の免許を持っているということも、その時初めて知らされた。私達、本当にびっくりしたのよ」

 浩司は言葉を挟まず、自分の世界に入っている蕗子の顔を注意深く眺めていた。

「母は、新しいお店を始めるにあたって、借金はしたくないって、それだけは頑として譲らなかったの。だから、住み慣れた家を売り払ってローンを完済し、残ったお金を、借りた店の近くの中古マンションの購入と、軌道に乗るまでの店の仕入れ代に当てたわ。そうして、新しい生活が始まったの……」

 蕗子は説明を続けた。

 店をはじめて数ヶ月は細々と続けていた喫茶店業も、母の穏やかな性格と美味しい料理、父の会計能力もあいまって、じわじわとではあるが売上を伸ばしていった。

 サラリーマンをしていた頃の父は、いわゆる縦のものを横にもしない性格だったのが、リストラという人生の荒波を乗り越えてから変わり始めた。母の思いがけない行動力に、目を開かされたということもあっただろう。慣れないながらも進んで厨房に入り、洗い物やテーブルの後片付け、掃除までをも黙々とこなした。

 一年後には、父のサラリーマン時代の給料には及ばないものの、人並みの生活ができるぐらいの収入を得ることができるようになっていた。両親の努力が実ったのだ。

 順風満帆とまではいかないが、そのことは青海家の生活に落ち着きを取り戻した。いや、父が不在がちだったサラリーマン時代よりも幸せだったと言ってもいいぐらいだ。古びた、手狭なマンション暮らしではあったが、その生活は絶えず笑いにあふれていた。何より、互いに対する思いやりに包み込まれていた。

 喫茶店開店二周年と、両親の銀婚式を記念して、姉妹はアルバイトして貯めたお金で、両親に旅行をプレゼントした。すぐ近くの旅館にたった一泊という質素なプランだったが、その時の二人にはそれが精一杯だったのだ。

 両親は大喜びしてくれた。特に母親は、涙を流して喜んだ。その時蕗子は、いつもにこにこ笑顔でいてくれた母が影でどれほど苦労していたのか、初めて実感したのだ。

 だが、皮肉なことに、その旅行が両親の命を奪うことになってしまった。旅先で乗ったタクシーがトラックに追突され、無惨に潰されてしまったのだ。

 二人が駆けつけた時には、両親はこの世を去っていた。遺体とは名ばかりの肉塊に対面した時、蕗子は失神してしまった。

 その時のことを思い出して声を震わせた蕗子を、浩司はたまりかねたように抱きしめた。

「辛かったな」

 ああ、この人はわかってくれる。私の苦しみを、自分のものとして考えてくれている。

 蕗子は彼に対する愛情が、心の奥からあふれだしてくるのを感じた。目を潤ませながら微笑んで、熱い想いに身を委ねる。

「うん。辛かった。すごく、辛かったの」

 浩司に慰めるように頭を撫でられながら、蕗子は先を続けた。

 失神してからのことはあまり良く覚えていない。姉がすべて取り仕切って、万事滞りなく行なってくれたことをおぼろげに覚えているだけだ。

 旅行会社ではなく個人手配の旅行だったせいで、二人は旅行保険に入っていなかった。そこまで気が回らなかったのだ。喫茶店を開店する時に長年掛けていた父親の生命保険も解約してしまっていたため、両親の死に際しての保険金はほとんど入ってこなかった。

 追突したトラックのドライバーも、トラックだけが財産の個人営業で、経済的に頼れるような相手ではなかった。殺意のない殺人、つまり過失致死の中でも、交通事故はとかく軽く扱われがちだ。裁判にも何度か足を運んだが、結局、相手は執行猶予付きの刑になった。

 幸いなことに、借金だけはなかった。喫茶店はすぐにたたんだので賃貸料を滞納することもなく、生活費の他に毎月必要なのは、マンションの管理費と蕗子の学費だけだ。大学を卒業した後、大手の商社に就職していた真澄の給料と、蕗子のアルバイト代とで、生活はやっていけた。

 そのことで、姉妹はどれほど亡き母に感謝したか。母が借金はしないと決めていたおかげで、二人きりになってもやっていけるのだから。

 一年後、高校卒業を目前に、蕗子はさっさと就職して姉を驚かせた。何とかして大学にいかせてやりたいと必死で働いている姉を見かねて、決意したことだ。最初はなだめたりすかしたりしていた姉も、やがては蕗子の考えをわかってくれた。

 蕗子は働きながら学費を稼ぎ、その合間を見て受験勉強に精を出した。

 二年後、姉から結婚すると聞かされた。相手の誠はいいところのお坊ちゃんで、家族全員が姉との結婚に反対しているという。姉も二人の境遇の違いの大きさに悩み、プロポーズを断り続けてきたのだが、誠の熱意についに負けたのだった。

 二人はどこから見ても愛し合うカップルで、蕗子は迷うことなく祝福した。

 だが、誠の家族、特に父親からの圧力は凄まじいものがあったらしい。それでも誠は誰の説得にも耳を傾けず、最後には親子の縁を切ってまでも、真澄との結婚を断行した。

 誠は次男で、会社を継ぐのはエリートの兄だ、といつも笑いながら言っていた。兄は僕とは違って冷静沈着で、間違いなど起こしそうもない。兄のせいで、僕はいつもみそっかすだった、と。

 だが、二人の結婚生活は幸せだった。狭いマンションなのに蕗子を同居させることを躊躇せず、蕗子がそこにいることが当然であるかのように振る舞ってくれた。

 蕗子はその後、念願かなって大学に合格し、アルバイトをしながら大学に通い始めた。

 その頃、二人の間に息子が生まれた。それが将太だ。

 その頃には誠も新しい仕事に慣れ、収入も人並み程度に上がっていた。真澄は勤めを辞め、しばらく育児に専念することにした。

 新しい生活もまた、楽しかった。両親がいないことは淋しいが、新しい家族、誠と将太がその淋しさを補ってくれたからだ。

 しかしその幸せすら、たった三年で砕け散ってしまった。姉夫婦もまた、交通事故で亡くなってしまったのだ。

 蕗子は、両親の死を理解できない甥を抱えて、葬式の段取りやマンションの名義変更、その他もろもろの手続きを一人でしなければならなかった。

 夜ともなれば、両親を恋しがって泣く将太を抱きかかえて慰め、自らも涙を流して姉夫婦を偲んだ。

 一緒に暮らしているとはいえ、長時間にわたって甥と二人きりになるのは初めてで、蕗子は三歳児の扱いの難しさを改めて思い知らされていた。保育園は満杯で、申し込みから三ヶ月たっても連絡は来ない。仕方なく、無認可保育園に将太を預け入れて、やっと大学に通うことができているというありさまだった。

 両親のことがあったので、真澄は多くはないが自分と夫に生命保険を掛けていた。それと、今回の事故の相手が中年のサラリーマンということもあって、慰謝料が毎月一定額振り込まれている。

 そんなわけで、すぐに生活に支障が出るということではないのだが、それでも蕗子は疲れきっていた。

 慰謝料だけで生活ができるわけではないのでアルバイトを辞めるわけにもいかず、生命保険は将太の将来の学費のために取っておかなければならない。しばらく休んでいた大学に戻る前は、なんとかなると高をくくっていたが、いざこの生活を始めると、自分の考えがいかに甘かったかを思い知らされることになった。

 家にいるときは、反抗期真っ盛りの三歳の男の子と二人きり。課題が多い時には徹夜ということも珍しくないハードな学部な上に、家事までこなさなければならない。育児ノイローゼになる人の気持ちが少しばかりわかるというものだ……。

 そこまで説明して、蕗子は口をつぐんだ。

 あの最悪の頃を思い出して、身震いする。

 あの時、隣に亮が住んでいてくれなかったら。困っている蕗子を見かねて手伝いを申し出てくれなかったら。考えただけでも、ぞっとする。亮とその恋人の工藤のおかげで、蕗子はやっと一息つけたのだ。

 不意に黙り込んでしまった蕗子の代わりに、浩司が口を開いた。

「その、お姉さんのご主人の実家に助けを求めようとは思わなかったのか?」

 静かに問いかける浩司を、蕗子は気でも違ったのかという表情で見つめた。

「だって、お姉ちゃんを財産目当てのハイエナ呼ばわりしたのよ? 実の息子を、気に入らない相手と結婚したというだけで勘当したのよ? そんな人達が、助けてくれるわけないじゃないの」

「それはそうかもしれない。だが、仮にも彼らの息子が亡くなったのなら、知らせる義務があったはずだ」

 蕗子は浩司の腕を振りほどこうとしたが、強い力で押さえつけられていてはどうしようもなかった。仕方なく、反抗的に浩司を睨みつける。

「あなたは私の味方だと思ってたのに」

 吐き捨てるように言う。全身を包み込んでいた安心感は、今は跡形もなく消えていた。

 浩司の手に力がこもり、蕗子の目を覚ますように揺さぶった。

「僕はいつでもきみの味方だとも! ただ、客観的な意見を言っているだけだ。きみは、自分に都合がいいだけの味方が欲しいのか? きみと一緒になって一方的に相手をこき下ろすだけの? それで問題は解決するのか?」

 しばらく蕗子は反抗的に浩司を睨んでいたが、やがて諦めたように力を抜いた。

「……お葬式に、誠義兄さんの家族を呼ぶことなんて、思いつきもしなかったわ。勘当された身である息子のことを気にかけるような人達だとは、到底思えなかったもの。それに、義兄は実家のことは何一つ言わなかったから、どこに連絡すればいいのかすらわからなかった。だから、連絡しようと思えば、まず連絡先を探し出さなければならなかったの。毎日毎日、しなければならないことが山積みで、とにかく目の前の問題を何とかする方が先決だった。そんなことをしている余裕はなかったわ」

「知らなかった? まったく、何も聞かされていなかったのかい?」

 蕗子が頷くと、浩司は顎を引き締めた。

「では、将太はどうだったんだ。将太にとっては祖父母だろう」

「将太にも、何も言ってなかったみたいだったわ」

「何も……」

「青海の両親についてはいろいろと話してたみたいだったけど、脇坂の両親については……。どうやら、いないと言っていたみたい。亡くなったとかじゃなく、ただ、いない、と」

「なるほど……」

「だから、急に弁護士だとか言う人が訪ねて来た時にも、最初は話が見えなくて苦労したの」

「弁護士?」

 浩司が鋭い声で訊く。蕗子は頷いて、ワキサカコーポレーションの専属弁護士、大谷が訪ねて来た時のことを説明した。その間中ずっと彼は難しい顔をして黙り込んでいたが、蕗子が話を終えるとすかさず質問を始めた。

「その小切手は返したのか?」

「次の日、弁護士が来てすぐにね」

「それで、彼はなんて?」

「どんな策を弄しても、これ以上は出せないとかなんとか、ぐずぐず言ってたわ。だから、将太をお金で取り戻せると思ったら大間違いだって親玉に報告しなさいって言ってやったの」

「裁判の話はどうなった?」

「裁判がどうとかって言ってたのは、最初の時だけよ。小切手を返してからはドアを開けないようにしたし、待ち伏せされても相手にしなかったから。そうしてるうちに、保育園に見た事もない男の人が将太を迎えに来たり、アルバイトを首になったりしたの。それで怖くなって……」

「逃げ出した。そういうことか」

「ええ、そう」

「東京のマンションは、今どうなってる?」

「毎月、管理費を振り込んでるの。そうしておけば、当面は大丈夫だから」

 浩司は眉間に深い皺を寄せて、しばらく考え込んでいるようだった。頭痛がするのか、それとも考え事をしているときの癖なのか、指先でこめかみを揉んでいる。蕗子はそっと手を伸ばして、彼のこめかみを撫でた。

 はっとしたように浩司の手が止まる。

「あの……ごめんなさい。面倒な事情を持ちこんで」

「いや。きみのせいじゃない。確かにきみの手には余る難題だ」

 険しくつりあがっていた浩司の目が、不意に和んだ。不安そうな蕗子を包み込むように抱きしめ、安心させるように囁きかける。

「かわいそうに。まだ若いのに、苦労の連続だったんだね」

 蕗子は強張っていた体から力を抜いて、再び浩司に身を委ねた。

「今まで、一人でよく頑張ってきたね」

 一人じゃなかった、と言いかけた蕗子の喉の奥が熱くなり、思いがけず涙があふれた。そのことにうろたえて、言葉を飲み込む。

 必死で涙をこぼすまいと歯を食いしばる蕗子の目元に、浩司は温かいキスを落とした。

「もう我慢しなくていいんだ」

 我慢しなくていい?

 その言葉に驚いた拍子に、目の端から涙がぽろりとこぼれた。

「それでいい。泣きたい時は、泣けばいいんだよ」

「でも……泣きたくなんか、ないのに」

 意地でも泣くまいとする蕗子を見て、浩司は困ったように微笑んだ。

「じゃあ、こうやって静かに抱かれていなさい」

 そう言い、蕗子の頭を自分の肩の辺りにもたせかける。蕗子は鼻をすすりながらも、浩司のいいつけに従った。

 浩司の大きな手が、ゆっくりと蕗子の背中を往復する。その穏やかなリズムが生み出す温かさが、蕗子の心の奥を覆っていた氷を溶かしだした。

 本当は、誰かに話したくて仕方がなかった。ずっと、ずっと。今までに味わってきた悲しみや苦しみをすべて打ち明けて、心の澱を流し出してしまいたかった。両親の死後、そして姉夫婦の死後、蕗子の心のどこかに凍り付いてしまっていた冷たい澱を。

 一旦はおさまるかに見えた涙が、再び溢れだした。それは蕗子の頬にいくつもの筋をつくり、浩司のシャツや蕗子のブラウスを濡らした。

「ごめ……」

 慌てて涙を拭い、離れようとした蕗子の頭を、浩司はしっかりと押さえつけた。

「謝るな」

 ぶっきらぼうな浩司の声。その声に触発されたように、蕗子は顔をくしゃくしゃにして泣き出した。浩司の胸に取りすがり、今まで自分でも気付かないままに抑えつけ続けていた涙を思いきり流す。浩司は何も言わず、ただ静かに蕗子を抱きしめていた。

事故後の補償については、前回と同じくお目こぼしください。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ