8
保育園のことを思い出したのは、翌朝、将太と共に電車に乗ってホテルに向かっている時だった。
でも、しかたないか、と自分を慰める。何しろ昨日は思いがけず浩司が車で迎えに来た上、告白までされてうろたえてしまったのだから。
浩司とのキスは、今でも記憶の中に鮮明に焼き付いている。胸のふくらみに押しつけられた彼の逞しい胸板や、唇や舌の感触まで、はっきりと。その時と同じように自分の体が反応し始めているのを感じて、蕗子の頬がほんのりと桜色に染まった。
将太をホテルのキッズルームに預けると、蕗子はそこから電車とバスを乗り継いで会社に向かった。
二日目ともなると顔見知りも少し増え、朝の挨拶にも自然に笑顔が出る。蕗子はにこにこしながら倉庫の事務所に入った。
「おはようございます」
と元気よく言うと、奥のデスクについていた津本が目を上げた。彼のいかつい顔にも、蕗子の笑顔につられてか微笑みらしきものが浮かぶ。
「おはよう」
蕗子が出社する時間は、会社では朝礼の時間だ。だが津本は、詳しくは知らないが特別な役職らしい。朝礼にも出ないし、役員会議にも出ない。ただ、忙しい身分ではあるらしく、このデスクに座っているのを見るのは朝のこの時間だけだ。
蕗子がジーンズとシャツといういでたちの上から会社のロゴの入った上っ張りを着ていると、津本が思い出したように口を開いた。
「ああ、青海くん」
「はい?」
「保育園を探しているらしいね」
「えっ……。は、はい」
驚いている蕗子の顔を、津本は可笑しそうに見た。
「浩司さんから聞いたよ」
浩司さん……。
昨日感じた違和感を、蕗子はまたしても感じていた。
浩司は津本彰吾のことを「彰吾」と呼び、反対に彰吾は浩司のことを「浩司さん」と呼ぶ……。
いくら仕事を世話してもらったからとはいえ、二人は親戚のはずだ。しかも、彰吾の方が浩司より年上の。なのに、なぜ彼はこんなにまで浩司に頭が上がらないのだろうか?
「私の知り合いが保育園を経営していてね。聞いてみたら、短期間なら預かると言っているんだ。確か甥ごさんの、そう、将太くんだったかな、年齢は三歳だったね? その年齢なら、月額が……」
津本が金額を言い、蕗子はその金額に驚いた。東京で預けている保育費の半分近い!
「それで良ければ、明日からでも預かれるらしいんだが。どうかな」
蕗子は熱心に頷いて津本の微笑みを誘った。
「それはもう、是非お願いします! 助かります、本当に。ありがとうございます」
「礼なら浩司さんに言うといい。彼に頼まれただけだから」
「はい。そうします」
蕗子はぺこりと頭を下げて津本から保育園の連絡先を書いた紙を受け取り、意気揚々と仕事場に入っていった。
津本はしばらく蕗子が消えたドアを思案深げに眺めていたが、やがて長い手を机の上の電話に伸ばした。空で覚えている番号を素早く押して、受話器を上げる。相手はすぐに出た。
「もしもし」
そのぶっきらぼうな口調に、津本の唇の端が微かに上がる。
「万事順調です」
「……そうか」
「しかし、あまりいい案とは思えませんがね……」
津本が苦言を呈すると、相手はしばらく黙り込んだ。
「じゃあ、どうしろと言うんだ」
そのぶっきらぼうな言いぐさに、津本は苦笑を禁じえなかった。
「いや、差し出がましい口をきいてしまいました。申し訳ありません」
忍び笑いをもらしながら、言う。相手はむっとしたように黙り込んでから、乱暴に電話を切ってしまった。電話が切れた電子音を聞きながら、津本は楽しそうな笑い声を上げた。
◆ ◆ ◆
その日の帰り、蕗子は将太を伴って、紹介された保育園に行ってみた。その保育園はまだ建物が真新しく、園庭も驚くほど広い。ありとあらゆる遊具が園庭に配置され、保育室の中も木のおもちゃや絵本でいっぱいだ。しかもこの保育園は二十四時間営業で、事前に申し入れておけば、延長保育ばかりかお泊まり保育までしてくれるらしい。
短期間とはいえ、こんなに設備の整った保育園に入れるのに文句があろうはずがない。園長との面談も、津本の紹介のおかげでつつがなく終わった。
保育園からの帰り道、将太は新しい保育園のことを目を輝かせて話し続けた。その日たまたま延長保育で残っていた子供と、意気投合したらしいのだ。
場所も問題なかった。蕗子が借りているアパートから歩いて送り迎えできるほど近いのだから。
そんなわけで、帰ってすぐ浩司から電話があった時、蕗子は一も二もなくお礼を言った。
「いや。僕はただ彰吾に頼んだだけだ。そんなにいい保育園だったのなら、彼のお手柄だよ」
「でも、浩司さんが頼んで下さらなかったら、わざわざアルバイトの私のためになんて紹介して下さるはずがないわ。だから、ありがとう」
その勢い込んだ言い方が可笑しかったのか、浩司はなんともいえないセクシーな含み笑いを響かせた。
「お役に立てて光栄だ」
低い、深みのある声で彼が言う。蕗子は下腹の奥に熱いものが芽生えるのを感じて、真っ赤になった。
「今から、出かけられる?」
「ええ。でも……毎日ごちそうになりっぱなしだし、外食ばかりというのもあまり将太に良くないと思うの」
ためらいがちに言うと、浩司の声がやさしくなった。
「だが、仕事から帰ってすぐに夕食の支度では、疲れるだろう」
「うーん、まあ、そうね。以前は仕事で遅くなるのは週に二、三度だったし」
「いい家庭料理の店を見つけたんだ。僕はもともと外食が多いから、そういう店を見つけるのは得意なんだよ。三十分位したら迎えに行く」
「家庭料理ね……。うん、わかった。あ、でも、ワリカンにしましょうよ。だって……」
携帯電話の向こうから、蕗子の声を遮る可笑しそうな笑い声が響いてきた。
「そんな心配はしなくていいよ。きみ達を養えるくらいの稼ぎはあるから」
養える。
浩司が何気なく発した言葉に、蕗子は頬を緩めた。深い意味はないのだろうが、なんとなく、蕗子とのことを真剣に考えてくれている証拠のような気がする。ほのぼのとした喜びが、蕗子の心を温かく満たした。
「じゃ、三十分後に」
そう言って浩司が電話を切ってからも、蕗子はしばらく携帯電話から耳を離すことができなかった。
◆ ◆ ◆
浩司が連れていってくれた店は、蕗子の祖母ともいえるくらいの年齢の女性が一人で切り盛りしている、小さな店だった。カウンター席には単身赴任らしいスーツ姿の男性達が陣取り、こじんまりとしたテーブル席にも、サラリーマン達があふれかえっている。
かといって、女性が入って気詰まりになるような雰囲気でもなかった。家族連れも時々来るらしく、子供用のメニューもちゃんとある。
窮屈な席に座りながら、蕗子は楽しそうに壁に書かれたメニューを眺めた。
「ほんとに、これぞ家庭料理の店っていう品揃えね。私、なすの煮びたしと鯵の塩焼き、それから日変わり味噌汁とごはんにする」
それから、将太が食べられそうで、なおかつ野菜をふんだんに使ったメニューを吟味する。
その様子は、傍で見ていても微笑ましいものだった。将太の世話を焼く蕗子の姿は、母親と言っても通るだろうと浩司に思わせた。
食事は美味しかった。蕗子はカウンターの向こうにいる女性に素直な賛辞の言葉をかけて、将太にも同じ事をするように促した。
おかみは皺だらけの顔を嬉しそうにくしゃくしゃにし、三人が店を出て行く時には、また来ておくれよ、と声を張り上げた。
「あー、おいしかった。ごちそうさまでした」
「ごちちょーちゃま」
二人に礼儀正しくお礼を言われて、浩司はおどけたお辞儀をした。
「どういたしまして。おやすいご用でございます」
店は蕗子のアパートから近く、また敷地が狭くて駐車場もなかったので、車はアパートの前に停めてきている。三人は満天の星が見守る中、親子のように手をつないで夜道を歩いた。
将太は両親が生きていた頃のように両側から手を繋がれて、至極ご満悦だ。二人にせがんで腕を高く掲げてもらい、何度もぶらさがってははしゃいだ笑い声を上げた。
ふと、浩司がやけに静かなことに気付いた蕗子は、問いかけるように彼を見た。彼は、何事か考え込むように蕗子と将太を眺めていた。
「どうかした?」
蕗子が訊くと、浩司はぼんやりと微笑んだ。
「いや。……きみ達は幸せな家庭で育ったんだなと思っていたんだ」
それを聞いて、蕗子は吹き出した。
「ごくごく普通の家庭なのに」
すると、浩司はどこか悲しそうな瞳を蕗子に向けた。
「それが一番幸せだと思わないか?」
蕗子は戸惑ったように浩司を見た。
彼は幸せではなかったのだろうか。
浩司の目に宿る悲しみが、蕗子にはわからなかった。彼の上品な物腰や自信に裏打ちされた態度は、裕福な、そして幸せな家庭で培われたものだとばかり思っていた。だがそれは、悩みや苦しみを隠すために築き上げた、はりぼてに過ぎなかったのだろうか……?
だが、浩司の真実の姿を知る瞬間は、あまりにも早く遠ざかってしまっていた。蕗子が何か言おうとした時には彼はもういつもの表情に戻り、将太に話しかけていたのだ。蕗子は内心ため息をつき、浩司のつかみどころのない性格に苦笑をもらした。
アパートに着いて部屋の前に来ると、いつも通り浩司が鍵を受け取って、中を確認した。そのまま帰ろうとする彼をひきとめたのは、将太だった。
「帰ったらダメ」
と言いながら、浩司のスーツの上着の裾を引っ張る。浩司は困ったように振り返って、蕗子を見た。
この場の決定権は私に委ねられているのだ、と気付くと、蕗子はにっこり微笑んだ。
「まだ時間も早いし、良かったらコーヒーでも。インスタントしかありませんけど」
浩司はびっくりしたように目を軽く見開いてから、将太と蕗子の顔を何度も見比べた。二人の心からの歓迎の表情に納得した彼の顔が、ゆっくりとほころんでいく。
彼がこんなに開けっぴろげに、しかも嬉しそうに微笑んだのを見たのは初めてだった。何かを面白がって大笑いしているのでもなく、シニカルな笑いに唇を歪めているのでもなく、深く、静かな喜びを弾けさせている微笑みを見るのは。
中に入ると、蕗子は彼と将太を居間にしている部屋に追いやって、狭いキッチンでコーヒーを入れた。将太のためには小さなグラスに牛乳を入れる。それらをお盆に載せて、ちゃぶ台に運んだ。
「ありがとう」
にっこりと微笑んで浩司がコーヒーを受け取る。その笑顔には、やはり邪気がなかった。ゆったりとくつろいでコーヒーを飲んでいるさまは、蕗子を安心させた。
こうしてくつろいだ浩司を見ていると、今までの彼はいつも、どこか緊張していたように思う。蕗子の様子を注意深く観察し、二人から常に一歩引いていた。
浩司も、不安だったのだろうか? 自分を受け入れてくれるかどうか悩んだり、嫌われるのが怖くて踏み込むのをためらったり、そういうことがあるんだろうか……。もしかすると、普段の彼は自信に満ちた態度を装っているだけなのかもしれない。考えにくいことだが。
「風呂に入れなくていいのか?」
浩司の声に物思いを破られて、蕗子は顔を上げた。
浩司が将太をぎこちなく抱きかかえながら、情けなさそうに微笑んでいる。
「ほら、もう寝そうだ」
言われて将太に目を転じると、確かにうとうとしかかっている。はしゃぎすぎて、疲れたのだろう。
さりとて浩司にはまだ帰って欲しくない。そう思ってぐずぐずしていると、彼の目が和んだ。
「ここで待ってるから。先に入れてあげなさい」
自分の考えがお見通しだったと知って、蕗子は真っ赤になった。慌てて立ち上がり、将太を浩司から引き離そうとする。将太は眠そうにぐずって、浩司にしがみついた。
「よし、将太、僕がお風呂まで連れてってやろう」
浩司が将太の両脇に手を差し入れてぐっと持ち上げる。将太はわーいと歓声を上げて、足をばたばたさせた。
浩司の協力のおかげで、将太は機嫌よく浴室に入ってきてくれた。しかも、浩司と遊びたい一心で、風呂の中でも蕗子の言うことをよく聞いた。
風呂から出ると、将太はパジャマを着るや否や、狭い洗面所から飛び出した。蕗子の方は、いくらなんでもパジャマ姿で浩司の前に出て行くわけにはいかない。面倒だがきちんと服を着た。
「おっ、きれいになって出てきたな?」
浩司の声が聞こえる。部屋の中が静かなことに気付いて、蕗子はテレビでもつけておけば良かった、と後悔した。さぞかし退屈だったことだろう。
蕗子がまだ濡れている髪を適当にまとめて出て行くと、浩司がはっとしたようにこちらを見た。もじもじしている蕗子に、安心させるように微笑みかける。
「そういう髪型も、新鮮でいいな。いつもポニーテールだから」
蕗子は照れ隠しのように微笑み、奥の部屋に入って将太のために布団を敷いた。その間、二人の男性はプロレスもどきの取っ組み合いをしてふざけあっていた。
布団が敷けると、浩司に連れられて、将太は意外に素直に布団に入った。二人におやすみの挨拶をすると、もう舟をこぎ始めている。浩司と蕗子は、可笑しそうな微笑みを交わし合った。
将太が眠っている部屋の襖を、少しだけ隙間を残して閉める。そうして、静かな部屋に二人きりになった。
「あの……もう一杯、コーヒーでもいれましょうか」
なんとなく緊張した面持ちで蕗子が問うと、浩司は苦笑した。
「いや、もういいよ。それより、少し話をしないか」
そう言われてはキッチンに行く理由もない。蕗子はおずおずと浩司のそばに座った。
だが、話をしようと言った割には、一向に話し出す気配がない。壁にもたれて座った彼は片膝を立ててその上に肘をつき、何事か考え込むように手を口元に当てている。その顔があまりにも真剣なので、蕗子はびっくりした。
「どうしたの?」
思わず心配になって、訊く。
浩司は夢から覚めたように蕗子の顔を見た。
「何か心配事でもあるの?」
浩司は口元から手を外すと、ゆっくりと微笑んだ。
「いや……。そんなことはないよ」
それでも、彼の表情には未だ逡巡の跡がうかがえる。だが、否定するからにはまだ蕗子に話をする準備が整っていないのだろう。
蕗子は彼の気持ちを引きたてるために、何か別の話題を探そうとした。
「えーと、そう、所長って、変わってるわね」
浩司の目が可笑しそうにきらめく。
「何が?」
「何がって言われると……。うーん、一介のサラリーマンには見えないところとか、役職に縛られてないところとか……」
浩司はにやりと笑って蕗子の心臓を飛び跳ねさせた。
「そうだな」
だが、やはり彼はこの話題にも乗ってこない。蕗子は必死になって話の続きを考えた。
「そういえば、所長っていくつなのかしら」
「さあ。四十ぐらいじゃないのか」
意外に無関心な答えだ。蕗子は軽い驚きを覚えた。
「結婚してらっしゃるわよね?」
「いや。してない」
「えっ、どうして? もてそうなのに」
「……そうかな」
「そうよ。だって……」
「もうあいつの話はいいよ」
突然、浩司が怒ったように遮った。驚いて口をつぐんだ蕗子を、じろっと睨みつける。
「あいつに興味があるのか? だから根掘り葉掘り聞くのか?」
浩司の険しい表情に、蕗子はたじたじとなった。
「興味って……。別に、そんなんじゃ……」
「じゃあ、なぜあいつの話ばかりするんだ?」
「なぜって、だって、私達の共通の知り合いは所長だけだし、他に話題を思いつかなかったから……」
すると、ちょっと浩司の顔から険しさが薄れた。蕗子はほっとしたように微笑み、明るい声でからかった。
「変よ、浩司さん。まるで嫉妬してるみたい」
彼もにやりとするかと思ったのに、返ってきたのはやましそうな表情だった。浩司はばつが悪そうに視線を外し、蕗子から顔を背けた。
「僕だって人並みに嫉妬くらいするさ」
その声があまりにも淋しげだったので、蕗子はそっと彼の肩に手を添えた。浩司がぱっと振り向く。
彼の目の奥に孤独が揺らめいているように見えたのは、気のせいだったのだろうか? その目は一瞬にして表情を消し、用心深く蕗子の顔を窺った。
「特に、相手の気持ちがわからない時には」
言いながら、蕗子の反応を確かめてくる。
彼はゆっくりと蕗子の肩に手を回して、自分の方に抱き寄せた。蕗子が従順に胸にもたれかかってくるのを感じると、その手に力がこもる。彼はそっと蕗子を抱きしめた。
「試すような真似はしないでくれ」
蕗子のこめかみに何度もキスを落としながら、囁きかける。蕗子は訴えかけるように浩司を見上げた。
「そんなことしてないわ」
すると、やっと浩司の表情から切羽詰まった色が消えた。
「それならいい」
つぶやくように言い、愛してる、と彼は続けた。
愛という言葉を彼が使ったのを聞いたのは、初めてだ。蕗子は目をしばたたいて浩司の真摯な瞳を見詰めた。
「もう、僕が本気だと納得してくれた?」
こんな風に抱き寄せられていては、冷静になど考えられるわけがない。だが、彼の態度の端々、ふと発した言葉や将太に対する思いやりなどから、彼の気持ちはにじみ出ていた。素直にそう思えた蕗子は、こっくりと頷いた。
浩司が嬉しそうに微笑む。が、その顔は一転して心配そうなそれになった。
「嫉妬深い男は嫌いか?」
なんとも思っていない相手に嫉妬されたら怖気をふるうだろうが、浩司が相手だと、かえって嬉しいくらいだ。
なぜそう感じるのか深くは考えずに、蕗子はかぶりを振った。浩司が晴れやかに微笑む。そのことが嬉しくて、蕗子は彼にすり寄った。
そっと顎に手を当てられた時にも、蕗子はまだ微笑んでいた。そのまま、顔を上げさせられる。蕗子の微笑みは、浩司の唇が重ねられるまで消えることはなかった。
蕗子の唇が柔らかく彼の唇を迎え入れると、キスは深く、激しいものに変わった。熱い舌が蕗子の唇を割って歯列をなぞり、更に奥へと侵入する。蕗子の手が自然に上がり、浩司の背中にしがみついた。
激しいキスの合間に、浩司は何度も、愛してる、とつぶやいた。その手はせわしなく蕗子の背中を撫で、まだ湿っている髪をまとめている髪留めを引き抜き、頭と腰を支えて蕗子の体を自分に押し付ける。
蕗子は大人の世界にうっかり足を踏み入れてしまったような、頼りない気持ちでいっぱいになった。彼のキスに酔いしれながらも、微かな不安を感じる。
苦しげな声を上げて、浩司が唇を離した。そのまま、思いきり蕗子の華奢な体を抱きしめる。押し当てられた胸に、彼の激しい鼓動が伝わってきた。蕗子自身の鼓動と相まって共に脈打ち、まるで一つのもののように溶け合っていく。
「すまない」
かすれた声で、浩司がつぶやいた。
「こんなことをするつもりじゃなかった。少なくとも、今はまだ」
最後の言葉に、蕗子の心臓が不規則に飛び跳ねた。
浩司はゆっくりと腕を伸ばして蕗子の体を離すと、目を大きく見開いている彼女の顔をのぞきこんだ。
一つになっていた心臓が無理矢理引き剥がされたようで、心細くなる。そんな蕗子の表情を見て、浩司は唇を歪めた。
「また怯えさせてしまったな。きみに関しては、へまばかりしているような気がするよ」
自分を嘲笑うように、言う。その言葉を否定することもできないでいる蕗子を苛立たしげに見やったあと、浩司は彼女を解放した。
「今日は帰るよ。また明日、電話する」
立ちあがった浩司を、蕗子は不安そうに見上げた。そのあどけない表情が、浩司の苛立ちを和らげた。
「見送ってくれないのかい?」
そう言われて、蕗子も慌てて立ち上がる。
彼は最後にもう一度蕗子を抱き寄せて軽いキスをしてから、帰って行った。