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偽りの恋人  作者: 水月
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 その夜、蕗子は今までとは明らかに違う津本の態度に戸惑いながらも、幸せな思いに包まれていた。

 本気だと思ってもらえるよう努力する、と言った通り、彼は蕗子への好意を隠そうともしなくなったのだ。あからさまに熱っぽい目つきで蕗子の顔を見詰め、ふとした拍子に触れ合った指先を、放さないとでも言いたげに手で包み込む。

 そのたびに蕗子は赤くなったり青くなったり、将太の顔を見たりと忙しく反応した。

「所長とは、どういう関係になるんですか?」

 レストランに入ってからもそれまでも、今夜の津本はどこか口数が少ない。ふと気付くとじっと見詰められているので、蕗子は話題を考え出すのに必死だった。

 津本はそんな蕗子の様子に微笑み、テーブル越しに握り締めた手をそっと放した。そのことにほっとしたのか、淋しくなったのかは考えたくなかった>

「遠い親戚だよ」

「それは所長から聞きました。でも、遠いって、どんな?」

 すると津本は大きなため息をついた。

「聞いてから文句を言わないでくれよ。とてもややこしくて退屈な関係なんだから」

 そう前置きしてから、津本は説明し出した。

「簡単に言うと、僕の曽祖父と彰吾の曽祖父が兄弟だったんだよ。だが、僕たちの関係はと問われると、非常に難しい。ほとんど他人のようなものだからね。しいて言えば、お互いの父親同士がまたいとこだったから、僕たちは……またいとこの子、ってところかな」

「またいとこの子」

 またいとこというと、親がいとこ同士の子供のことで、津本さんと所長は更にその子供だから……。

 ぐるぐると考え込んでから、蕗子は笑い出した。

「本当、単純だけどややこしい関係!」

 すると、津本は楽しそうに頷いた。

「そうなんだ。数年前まで会ったこともない、存在さえ知らない男だったんだがね。ひょんなことから知り合いになって、それからずっと行き来があるんだ」

「津本さんに仕事をお世話してもらったっておっしゃってました」

 津本はちょっと苦笑した。

「うん。いつもそう言うな。でも、僕の方が助けてもらってるんだよ」

 そこで言葉を切ると、彼はやさしい微笑みを唇に浮かべた。

「津本さん、か。僕の名前は呼びにくいかな?」

 唐突に問われて、蕗子は口をつぐんだ。

 答えない蕗子に、彼は更に続ける。

「僕はきみを名前で呼びたいな」

「しょうたも!」

 突然、将太が会話に加わった。津本も蕗子も驚いたように将太を見やり、彼の顔が食べ物で汚れているのを見て声をそろえて笑った。

「よし、じゃあこれから、将太って呼んでもいいかい?」

 津本が笑いながら聞く。

「うん、いいよ!」

 蕗子もくすくす笑いながら、ナプキンで将太の口のまわりを拭き取ってやった。

「蕗子は?」

 突然自分の名前を呼ばれて、蕗子は真っ赤になった。津本らしくもなく緊張しているのか、その声はわずかにかすれている。そのことにかえって勇気を得て、蕗子は津本の顔をしっかりと見返した。

「……どうぞ」

 蕗子の声は、津本のそれよりもかすれていた。そのことに自分でも驚いたが、津本の嬉しそうな顔を見ると自然に笑みがこぼれた。

「僕の名前は、憶えてくれているのかな」

 からかうような口調だが、彼の目は真剣だ。蕗子は困ったように微笑んでから、答えた。

「憶えてます。あの……浩司、さん」

 すると彼は満足そうに微笑み、テーブル越しに蕗子の手をぐっと握ってきた。

「呼び捨てにしてしまって、悪かった?」

 ちょっと心配そうなその質問を、蕗子は笑って否定した。

「さんづけしたら、呼びにくいでしょう、私の名前。友達にも、蕗ちゃんとか、蕗、とか呼ばれてます」

「ぼくも、ふきちゃんて呼んでるよ」

 将太が得意そうに宣言する。蕗子は笑いながら、そうね、と頷いた。

 蕗子の手を握る浩司の手に、力が入った。はっとして彼の顔を見ると、彼は真剣なまなざしを蕗子に向けていた。

「自分が特別だと思いたいんだ。きみのことを蕗子と呼ぶのは、僕だけだと」

 そのあまりにも真剣な物言いに圧倒されて、蕗子は目をしばたたいた。

「きみのことを蕗子と呼ぶ人は、他にいない?」

「え、ええ、今は……」

 蕗子の返事を聞いて、浩司が目を狭める。

「今は?」

「……昔、両親が生きていた頃は、蕗子と呼ばれてましたから。それに、姉にも……」

 蕗子の目がみるみるうちに潤むのを、浩司はじっと見詰めていた。

「すまない……」

 蕗子はめそめそしている自分を叱るように瞬きを数回して涙を抑え、にっこり微笑んだ。

「いいえ! だから、蕗子って呼ぶのは浩司さんだけです」

 浩司の目が励ますように光り、強い人だ、とつぶやきながら蕗子の手を口元に持ち上げる。彼の唇を手の甲に感じて、蕗子は真っ赤になった。

「その敬語もなんとかならないか? ただでさえ年の差があるのに、そんな言葉遣いをされると、うんと年寄りのような気がするよ」

 苦笑混じりの言葉に好奇心を刺激されて、蕗子は身を乗り出した。

「浩司さんって、いくつ?」

 しばらく彼は、逡巡するように口をつぐんでいた。だが、やがてあきらめたように小さくため息をつく。

「三十五だ」

 あら。十一歳も年上……。

 蕗子が頭の中で年の計算をしていると、浩司は苦笑いに唇の端を歪めた。

「想像より、歳をくってた?」

「ええ、まあ」

 正直な感想を聞いて、彼の唇が更に歪む。

「すまない」

「えっ、いえ、別に謝ることじゃ……」

「そうか? 一回りほど年が離れてるけど、気にしない?」

 浩司は本当に年の差を気にしているようだ。急にこの状況が可笑しくなってきて、蕗子は笑い出した。

「何が可笑しい」

 浩司がむっとしたように言う。だが、蕗子の手を放さないところを見ると、実際には怒っていないのだろう。

「だって……本当に気にしなければならないのは浩司さんの方なのに。お友達には、私みたいなお子様を相手にしてって馬鹿にされるだろうし、世間的に見ても、若い子をかどわかしてるって後ろ指さされるのは年上の方でしょう? それが男性でも、女性でも」

「それはそうなんだが……」

 苦笑しながら浩司はそうつぶやいたが、次の瞬間には真剣な瞳を蕗子に向けていた。

「では、きみは気にしないんだね?」

 蕗子はきっぱりと頷いた。

「私は別に気にならないわ」

「そうか」

 そう言って、浩司は安心したように微笑んだ。

「きみが気にしないなら、僕も気にしないことにしよう。きみがお子様だということをね」

「あっ、ひどい!」

 二人は声を合わせて笑い、仲間に入りたい将太もわけがわからないまま笑い始めた。

 食事を終えて浩司の車に乗りこんだ途端、彼の携帯電話が鳴った。浩司は二人に断ってから車を降り、念入りにドアを閉めてから話し出した。きっと仕事の電話なのだろうと、蕗子は気にもとめなかったが。

 しばらくしてから、浩司はどこかわざとらしい微笑みを浮かべて運転席に乗りこんできた。蕗子はちょっと眉をひそめ、どうしたの、と訊いてみた。

「いや、なんでもない」

 浩司の返事はそっけない。ルームミラー越しに、彼の眉間に深い皺が寄せられているのが見えた。

「何かお仕事上の問題でもあるの? もしそうなら、私達のことはいいのよ」

 蕗子が心配そうに言うと、やっと浩司が振り返った。眉間の皺は消え、やさしいまなざしを注いでくれる。蕗子はぽっと頬を赤らめた。

「大丈夫だよ。でも、心配してくれてありがとう」

 そう言われると、それ以上追求はできなかった。蕗子は何か腑に落ちないものを感じながら、頷いた。

 アパートに着くと、彼はやはりさっさと車を降りて蕗子の側のドアを開けてくれた。蕗子もついにそれに慣れてしまい、彼が開けてくれるのを待つようになった。

 今夜は将太が眠くなる前に連れて帰ってくれている。その心遣いもありがたかった。

 蕗子の後から、浩司が将太と手をつないで階段を上ってくる。階段を上りきって廊下を進むと、ドアの前に着く頃には浩司が追いついて、鍵を渡すようにと手を差し出した。

 無論、蕗子にも異存はない。素直に鍵を差し出し、彼が鍵を開けるのをじっと待つ。彼はドアを開けて玄関の電気をつけると、中を確認するように一通り見渡した。そうしてやっと、安心したように鍵を蕗子に返してくれる。

 どう考えても過保護だが、この男に何を言っても無駄だろう。蕗子はあきらめのため息をつきながら、鍵を受け取った。

「明日、また迎えに来たら怒るんだろうな」

 浩司の方も、あきらめたように言う。蕗子は意地悪く微笑みながら、大きく頷いた。

「子供じゃないんだから、自分のことは自分でできます」

 胸を張って蕗子がそう言うと、浩司はじれったそうに片手を腰に当てた。

「どうしてそう突っ張るのかな。他人に甘えることは罪じゃないんだよ」

 罪だと思っているわけではない。両親を亡くしてから、そうせざるを得なかっただけだ。

 蕗子の困ったような顔を見て、浩司はまなざしを和らげた。

「きみが自分の面倒をきちんとみられることは知ってる。でも、そろそろ誰かに面倒をみてもらってもいい頃だ」

 その誰かが自分であることを暗に、だが疑いようもなくほのめかしてから、浩司は帰っていった。蕗子の頬に軽いキスを残して。

 しばらく、蕗子は開け放したドアの前でぼうっと浩司を見送っていた。将太の無邪気な言葉にやっと我に帰る始末だ。

「ふきちゃん、どうしたの? 早くお家に入ろうよ」

 蕗子は瞬きして、夢見心地から脱した。不審そうに見上げている将太に、謝るように微笑む。

「そうだね。お風呂に入らなくっちゃ」

 そして、やっとドアを閉めた。

 ドアが閉まるのを見届けてから浩司も車を出したのだが、蕗子はそのことには気付いていなかった。

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