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偽りの恋人  作者: 水月
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6

 蕗子と別れてすぐ、津本は泊まっているホテルに帰っていた。フロントで鍵を受け取り、さっさとエレベーターに乗る。エレベーターは音も立てずに最上階へと彼を運んだ。

 スイートルームの居間に入ると、片隅に設置したデスクの上のファックス機から、続々と印刷物が排出されているところだった。彼はその内の一枚を手にとって眺め、それが調べさせていたことの報告書であることを見て取ると、苛立たしげなため息をついてデスクの上に放り投げた。

 荒い足取りでミニバーに向かい、ウイスキーをグラスになみなみと注ぐ。それを一気にあおると、彼はグラスをカウンターに叩きつけるように置いた。

 手当たり次第、何かに当り散らしたいような気分だ。一瞬、ぐっとグラスを握り締めたが、思いなおしたようにそれから手を離す。グラスを投げつけたところで、何かが解決するわけではない。

 その時、携帯電話が鳴った。彼は素早くそれを取り出し、画面を見て相手を確かめた。

「もしもし」

「今、ホテルの方にファックスで報告書をお送りしていますが……」

 相変わらず、単刀直入な物言いだ。津本は苦笑いに唇を歪めた。

「ああ、知ってる。さっき帰ってきたところだ。膨大な量だな」

「は、なるべく詳しく、とおっしゃっていたので」

「それで、問題は片付いたのか?」

「はい。やはり経理部長でした。かなり巧妙な帳簿操作で、あぶり出すのに時間がかかりましたが」

「では、もう問題はないんだな」

「はい。後はスタッフに任せても支障はないでしょう」

「わかった。報告書には目を通しておく。おまえはすぐこちらに来てくれ」

「は……。とおっしゃいますと?」

 てこずっているのか、と言外に問うような響きがこもっていることに気付いて、津本は苦笑した。

「話が違う」

「……報告書と、ですか」

「そうだ。やはり、おまえ以外の者に任せたのが間違いだったな。だが、もう一度調べなおしている暇はない。計画の手直しをするには、おまえが必要なんだ」

「かしこまりました。今からすぐに向かいます」

 それだけ言うと、相手は電話を切った。

 津本は眉根を寄せてしばらく考え込んだ後、荒々しい感情を振り切るように、ファックス機から吐き出されている報告書を取りに行った。


◆ ◆ ◆


 翌朝8時半には、蕗子は将太をホテルに送り届けてアパートの前で待っていた。

 初めての職場に行くときには、いつも緊張するものだ。勤務場所は倉庫と聞いているが、果たしてジーンズでいいものかどうか迷ったので、無難にスーツを着ることにした。制服がない場合を考えて、一応ジーンズも鞄の中に入っている。

 津本は予想通り時間ぴったりにやってきたが、今朝の彼はなんだか不機嫌そうだ。眉根に軽くしわを寄せて、何事か考え込むようにハンドルを握っている。

 こんな表情をしている人は、刺激しないに限る。蕗子は黙ったまま津本の隣で車に揺られていた。

 会社に着くと、彼は今回は地下駐車場には入らずに、守衛のいる大きな門を抜けて、敷地の奥の方に車を進めた。正面から見ただけではわからないが、その会社は広大な敷地を保有していた。社員用の駐車場も大きければ、その奥に建てられている工場らしき建物も馬鹿馬鹿しいほど大きい。

 津本は工場からほど近い来客用らしい駐車場に車を止めると、蕗子を伴って広いロビーに入っていった。

 受付の女性が二人、座っている。彼女らは津本の姿を認めると、慌てて立ちあがった。

「おはようございます」

 声をそろえて、二人が言う。彼女たちが見るからに緊張していることが、蕗子には気になった。

「おはよう。来ているかな?」

 それに対して、津本はあくまでも愛想良く、にこやかに訊いている。そのわざとらしいにこやかさが、更に違和感を覚えさせた。

「はい、すでにお待ちです。どうぞ、ご案内いたします」

 その丁寧な対応は、どう考えても一社員に対するものではない。受付の女性についていきながら、蕗子は胡散臭そうに津本の顔を見上げた。

 蕗子の視線に気付いたのだろう、精悍な顔をまっすぐ前に向けて歩いていた津本が、不意に目線を下ろしてきた。蕗子は慌てて顔をそむけ、彼の尋ねるような視線を拒絶した。

 ロビーから社員用の扉を開け、奥の廊下の更に奥の扉を開くと、事務所らしい部屋が現れた。受付嬢は二人をそこにいざなうと、一番奥の大きなデスクに座って書類をめくっている男性に声をかけた。

「部長、お二人がいらっしゃいました」

 その声に、男性が顔を上げる。その顔を見た途端、蕗子は驚いたように目を見開いた。

 部長と呼ばれていたからある程度年配の男性を予想していたが、彼は明らかに蕗子の想像より若かった。せいぜい四十前くらいか。髪は短く刈り込まれ、顔は頬の肉をなにかで削ぎ落とされたかのように鋭い形だ。切れ長な目は少しつりあがり、その目には不似合いな太い眉の間には深い縦皺。鼻には少し傷がつき、口元は厳しく結ばれている。

 一つ一つを見ると普通より少し整っているという感じだが、その全体があいまって、彼を不思議に魅力的に見せていた。

 それでなくとも威圧的な顔立ちなのに、彼が立ち上がってその逞しい大きな体躯を露わにすると、まるで軍人のような雰囲気がにじみ出た。

 こんな雰囲気の男性に出会ったのは初めてだったので、蕗子は怯えて津本の体の影に隠れてしまった。

 だが、女性にこんな反応をされることに、彼も津本も慣れているらしい。苦笑を交わしあって、頷いている。

「おはよう。きみが、青海さんだね」

 外見にふさわしい、低く伸びやかな声。蕗子の背筋がぞくっとした。この人、声優になったら大成功するわ!

「お、おはようございます! すみません、挨拶もいたしませんで……」

 蕗子はそう言いながら慌てて津本の影から出た。

 彼はユーモアを秘めたまなざしを蕗子に注ぎ、かすかに微笑んだ。

 この人、見かけほどには怖い人ではないみたい。

 そう思って安心した蕗子の顔を注意深く眺めてから、彼は津本に向き直った。

「ご苦労様でした。後は、私に任せてください」

 男が津本に向かって言う。津本は軽く頷き、蕗子に頑張れよ、と声をかけて出ていった。

 蕗子は津本が出ていったドアを、呆然と見詰めていた。

 この人、部長さんでしょう? しかも、明らかに津本さんよりも年上の……。なのに、この人のほうが丁寧な言葉を使ってる。ということは、彼って、一体どういう立場の人!?

 呆然とした蕗子を夢から覚ますように、男が声をかける。

「さて、とりあえず自己紹介するとしよう。私は津本彰吾。肩書きは一応部長だが、この工場では所長と呼ばれている。事務所の人間には、昼休みにでも紹介しよう。今は朝礼の最中なのでね」

 津本? 同じ苗字なのは、偶然? それとも、もしかして血縁関係が?

 蕗子の表情からその疑問を読み取ったのだろう、彼はにやっと笑った。

「そう、私の名前も津本だ。今きみを連れてきた彼とは、遠い親戚でね。彼のコネで私もここに就職したので、(いま)だに頭が上がらないんだ」

 彼が笑うと、いかつい顔の感じがすっかり変わってしまうことに蕗子は驚いた。厳しすぎる雰囲気が消え、いたずらっ子のような顔になってしまうのだ。

 その表情は、彼の意に反して温かな人柄を明らかにしているようで、微笑ましかった。

 納得した顔になった蕗子を満足そうに見ながら、彼は続けた。

「だが、同じ苗字はややこしいだろう。私のことは所長と呼んでくれればいい」

「はい、わかりました」

 それから、所長はすぐに蕗子を扉のすぐ向こうにある倉庫に案内してくれた。

 この工場は電子部品を作っていて、海外からも視察に来るくらい有名な会社らしい。だから工場だというのにあんなにきれいなロビーや受付があったのだという。工場自体は地下にある構造なのだが、地上のロビーから入れる視察用の部屋があって、そこからガラス窓越しにこの工場の様子はすべて見られるようになっていた。

 蕗子の仕事は、工場から運ばれてきた完成済みの製品の在庫チェックだ。所長がよどみなく話す仕事の詳しい説明を、蕗子は懸命に聞いた。

 出庫や入庫といった、客相手の大事な仕事は正社員がするらしい。そのことは、蕗子にとってもありがたかった。

 初日は、倉庫のほかのスタッフとの顔合わせと、ベテラン社員のあとについてまわってやり方を覚えることで終わった。


◆ ◆ ◆


 仕事が終わったのは五時前だった。大学にも行っていないことだし、フルタイムを希望したのだ。今はちょうど繁忙期らしく、その時間帯は所長を喜ばせた。

 正社員たちがまだ残業している中で、蕗子は控えめに挨拶をして工場を出た。

 工場から社員用の駐車場を抜けて、正門にたどり着くまでがまた一苦労だ。正門の目の前にあるバス停からアパートまでは、バス一本で帰れて便利なのだが。

 バス停でバスを待っていると、見覚えのある車が近くに止まって軽いクラクションを鳴らした。

 津本の車だ。

 そのことに気付くと、蕗子は目を丸くしてそちらに歩み寄った。

「後ろからバスが来てる。早く乗って」

 津本にせかすように言われて、蕗子は急いでドアを開けて車に乗りこんだ。すかさず、津本がアクセルを踏む。車はなめらかにバス停から遠ざかった。

 後ろを振り向いた蕗子は、そこにバスの影も形もないことに気付いて、疑うように津本を見た。

「バスなんて、来てないじゃないですか」

 すると津本はにやりと笑い、蕗子の怒った顔にちらっと視線を投げた。

「そうでも言わないと、どうせごちゃごちゃと理由を並べ立てて乗らないだろう?」

 まったくその通り。ずばりと言い当てられて、蕗子はむっとした。

「そこまでわかってるのなら……」

「ああ、わかってるさ。でも、僕はそうさせたくなかった。それでいいだろう」

 いいわけがないではないか。だが、もう乗ってしまったのだ。これ以上言い争っても無駄というものだろう。

 蕗子は大きなため息をついて、津本を睨みつけた。

「言い返さないのかい?」

「馬の耳に念仏って諺、知ってる?」

 いやみな口調で言うと、津本は笑い出した。そのあまりにも楽しそうな笑い声に、蕗子もいつまでも怒ってはいられなくなる。ついに、一緒になって笑い出した。

 笑いが収まると、津本は急に真面目な顔になって、固い口調で切り出した。

「今朝は、すまなかった。それが言いたかったんだ」

 そう言われても、蕗子には一体何のことかさっぱりわからない。困ったように津本を見ていると、彼はかすかに微笑んだ。

「今朝、僕はむっつりしてて嫌な奴だっただろう?」

「ああ……。そういえば、ご機嫌ななめだったかしら」

 すると、彼は顔をしかめた。

「そうだな。機嫌が悪かったわけではなかったんだが。ちょっと、考え事をしていて……。だが、きみに不快感を与えるつもりではなかった。すまない」

 蕗子は小首をかしげた。

「別に、気にしてませんから。それより、どうして今ごろになって謝るのか、その方が私には不思議だわ」

 津本が苦笑する。

「つも……いや、彰吾が文句を言ってきたのでね。きみに無愛想すぎたって。そう言われてみると、車に乗ってる間も会話らしい会話をしてなかったし、もしかしてきみを怒らせてしまったかなと思ったんだ」

 それを聞いて、蕗子はあきれたように笑った。

「そんなことで怒ったりしませんよ。でも、私を庇護が必要なかよわい女性扱いするのは嫌いです。私は自立した一人の人間なんですから。こうやっていちいち車で送り迎えしたり、食事をご馳走してくれたり、そういうことはお断りします」

 すると、津本は困ったように口元をゆがめた。

「牽制されたか。今夜も誘いたかったのに」

 蕗子は得意そうに笑って、首を振った。

「駄目です。お仕事とアパートを紹介してくださったことは本当に感謝してますけど、これからは一人でやっていけますから。出張が終わって東京に戻られるとき、連絡をください。最後に夕食をご一緒しましょう」

 津本が恨めしそうな視線を蕗子に投げかけた。

「それまでは会わないということか? それはないだろう。興味のない女性のために駆けずり回るわけがないじゃないか。少しでもきみに振り向いて欲しくて、必死だったのに。その努力すら認めてもらえないのか?」

 彼の哀れな口調に笑いを誘われて、蕗子はくすくす笑い出した。

 津本に一番似合わない言葉を選べ、と言われたら、蕗子は迷わず「必死」とか「狼狽」という言葉を思い浮かべるだろう。

 そもそも、彼は女性に振り向いてもらうために何かをする必要すらないではないか。何もしなくても、掃いて捨てるほどの数の女性が彼の魅力の虜になるはずだ。

「そんなことを言って同情を引こうとしても無駄ですよ。一人くらい、あなたになびかない女性がいたっていいでしょう?」

 まだ笑いながら蕗子が言うと、津本は急に険しい表情になった。

 乱暴な運転で車線変更して左に寄り、強引に左折する。

 タイヤがきしむ鋭い音が辺りに響いた。

 蕗子の体がシートベルトに食い込み、遠心力で運転席の津本の方に傾く。

 わずか一瞬の出来事だったが、蕗子はあまりにもびっくりして声も出せないでいた。

 津本はしばらく無言で走り、幹線道路から外れて田舎道に入ると、急ブレーキの音を響かせて車を止めた。

 車が止まるか止まらないかのうちに、彼は自分のシートベルトを乱暴にはずして蕗子に向き直った。

「なびくとか、なびかないとか、そんなことを言っていると思っていたのか?」

 剣呑につりあげた目を蕗子に当て、津本が激しい口調で問いただす。蕗子は彼の剣幕に驚いて、ただただ目を見開いていた。

「確かに、冗談めいた口説き文句ばかり並べていたことは認める。だが、今までに言ったことはすべて本気だ。あまり真剣に迫って、きみを驚かせたくなかった。怯えさせたくなかった。それが裏目に出るとは……」

 くそっ、とつぶやいて、津本はハンドルを両手でどんと叩いた。そのまま、ぷいっとそっぽを向く。

 彼の手が震えるくらい強く握り締められているのを見て、蕗子は目をしばたたいた。顔を背けた津本の首筋は怒りに上気して激しく脈打ち、強張った体全体で蕗子の心ない台詞を拒絶している。

 蕗子はおそるおそる彼の肩に手を当てた。

 津本の体がぴくりと動いたが、彼は振り向こうとはしなかった。

「ご、ごめんなさい……。私、こんな風に口説かれたことなんてなかったから……。あなたが本気だとは思わなかったの」

 数秒間、彼はぴくりとも動かなかったが、やがて不承不承という様子で振り向いた。

「それで、今では本気だと思っているというわけか?」

 皮肉な口調で言う。蕗子は彼の肩から手をはずした。

「あなたがそう言うなら」

 蕗子はうつむいて、口早にそう告げた。津本がなんと返事をするかどきどきしながら。

 津本の反応をどう想像していたにせよ、彼の次の行動は蕗子の予想の範疇を越えていた。

 彼はまず大きなため息をつき、次にふわりと蕗子の体を抱きしめたのだ。驚いて体を固くした蕗子の耳に温かい息を吹きかけながら、囁く。

「すまない。怯えさせたくないと言いながら、すっかり怯えさせてしまった」

 震えながら顔を上げた蕗子が見たのは、津本のあまりにもやさしい表情だった。そんな顔の彼を見たのは初めてで、それだけで体中の力が抜けてしまう。

「いえ、あの……、怯えてなんて……」

 真っ赤になってうつむいてしまった蕗子の顔を両手で包み込んで上げさせ、津本はじっと見詰めてきた。

「僕が本気だと思ってもらえるよう、努力するよ」

 笑いの混じった声だったが、彼の目は真剣だった。その視線が自分の震える唇に当てられていると気付いたとき、蕗子は自然に目を閉じた。

 軽く当てられる、津本の唇。

 彼の唇は意外に柔らかく、温かかった。蕗子は震えながら、彼の胸に両手を置いた。

 まるでドラムのように津本の胸が高鳴っている。そのことに驚いて、蕗子は目を開けた。

 津本はじっと蕗子の目を見詰めたままキスを続けていた。軽くついばむように、蕗子の反応を見定めるように。

「そんなに身構えないで」

 蕗子の口元で、津本がつぶやく。

 蕗子の体は狭い車内で可能な限り強く抱き寄せられた。津本の大きな体が覆い被さるようにして、キスを深めてくる。

 こんな濃厚なキスは、蕗子には初めての体験だった。だが、今までに想像していたような不快さは感じられない。彼の舌に絡め取られ、熱く吸われて、恥ずかしさを感じはしたが、決して不快ではなかった。

 やっと津本が満足したような声をあげて唇を離したとき、蕗子はふらふらと津本の胸にもたれかかってしまった。全身が震え、まったく力が入らなかったのだ。

「大丈夫か?」

 津本が気遣わしげに訊く。蕗子はかすかに頷き、かれの胸元に真っ赤になった顔を隠した。

「今夜も一緒に夕食をとってくれるね?」

 その問いにも頷く。

「じゃあ、将太くんを迎えに行こう」

 蕗子の頭のてっぺんにキスをすると、彼はにっこり微笑みながら蕗子の体を起こした。

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