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偽りの恋人  作者: 水月
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 翌日も、アルバイト探しは困難を極めていた。アパート探しも同様だ。蕗子は途方に暮れて川沿いの土手に座り込み、ぼんやりと遠くの風景を眺めていた。

「あれっ、きみ……」

 風が、背後から聞き覚えのある声を運んで来た。蕗子は振り返り、土手沿いの道路に車を止めて窓から顔を出している津本の姿を認めた。

「あら……」

 思いがけない出会いに驚いて、蕗子は立ち上がった。

 だが、考えてみれば、津本との出会いに思いがけなくないシチュエーションなどなかったのだ。今更それがひとつやふたつ増えたからといって、どうということもない。

 津本は車を路肩に寄せてエンジンを切り、車から出てこちらに向かって来ている。途端にどきどきと騒々しい音をたてはじめた心臓を意識しながら、蕗子はじっとそんな津本の姿を見詰めた。

「やあ。きみとはいつも思いがけない場所で会うなあ。運命めいたものを感じないか?」

 蕗子のそばまで来た津本が、不敵な笑みを唇に浮かべて言う。蕗子はつんと頭をそらした。

「そんな気障なことを言う男性は信用しないことにしてるんです」

 すると津本は面白そうに笑い、

「賢明なことだ。さぞかしきみの人生には失敗が少ないだろうよ」

 とからかうように言った。

 それに対する返事は、ただ黙って冷たいまなざしを向けるだけにしておいた。

「で、どうした。こんなところで一人で。しょうたくんは?」

「将太は……ホテルの子供預かり所です」

「ふうん。で、きみは一人でのんびりと旅を楽しんでる?」

 非難するような口調ではなかったが、蕗子は思わず言い訳したい衝動にかられた。

「そんなわけでは……。あの……実は、アルバイトを探してるんです」

 蕗子の言葉を聞いて、津本は驚いたように眉を上げた。

「アルバイト? 旅行に来て、わざわざ?」

 しばらくためらってから、蕗子はある程度まで打ち明けることに決めた。

「旅行に来てるわけじゃないんです」

「旅行じゃない……」

 吟味するように蕗子を眺めながら、津本が繰り返す。蕗子は頷いた。

「ちょっとわけがあって……。でも、なかなかいいアルバイトが見つからなくて」

 津本は考え深げに頷いた。

「そりゃあ、ホテル住まいではね」

「ええ、そうなの。私もそれは考えたんですけど……」

「それに、長く滞在するつもりならホテル暮らしは不経済極まりない」

 まったくその通り。蕗子は苛立たしげにこくんと頷いた。

「だけど、アパートを借りようにも保証人がいないとどうしようもないんです。東京ではお金を出せば保証人欄にサインをしてくれるっていう会社があるらしいけど、こちらではそんなものもないし」

「きみの地元にも保証人になってくれそうな人はいないの?」

「もちろん、います。でも、なぜだか知らないけど、ここの不動産業者はみんな口をそろえて、市内に住んでる人でないと駄目だって。そんなの、いるわけないわ!」

 噛みつくような口調で打ち明けてから、蕗子ははっとしたように唇を噛んだ。

 しまった。またやっちゃった。苛々してる時に手近な人に当たって鬱憤を晴らすなんて、子供のすることじゃないの。

「あの……ごめんなさい。あなたのせいじゃないのに、ひどい言い方をして」

 蕗子がおずおずとそうつぶやいて顔を上げると、津本は胸の前で腕を組んだ格好で、じっと蕗子を見詰めていた。彼の無表情な顔つきになぜか寒気をおぼえて、蕗子はぶるっと震えた。

 不意に、津本の唇が微かに微笑むようなカーブを描いた。蕗子の不安そうな表情に気付いたのだろう。

「きみの力になれるかもしれない」

 えっと思ったときには蕗子は彼に腕を取られ、車に向かって歩かされていた。いや、半ば引きずられていたと言っても過言ではない。

「ちょっ……ちょっと待ってください。引っ張らないで。待って……待ってったら!」

 蕗子の抵抗をものともせずに、津本はさっさと助手席のドアを開け、そこに蕗子を押し込んだ。

「アパートとアルバイトだろ」

 有無を言わさぬ口調でそれだけ告げると、彼はドアを閉めた。

 ボンネットを回って運転席に着いた津本を、蕗子は呆然と眺めていた。彼はこんなことは日常茶飯事だという様子でシートベルトを締め、蕗子にもそうするようにと無言で指示した。

 蕗子がシートベルトを締め終わるのを待ってから、車が滑らかに動き出す。営業で回っているにしては高級そうな車だった。会社名のロゴも入っていないので、多分自分の車なのだろう。

 この人、もしかしてものすごい大企業に勤めているのかも。そんな考えがふと頭に浮かぶ。そうでなければ、彼が身につけている質の良さそうなスーツや、この車を買うことはできないだろう。

「あの……どこに行くんですか?」

 半ばあきらめの境地に陥りながら、蕗子は訊いた。津本が素直に教えてくれるとは思っていなかったが、謎めいた微笑を向けられるとも思っていなかった。一瞬ではあったが鋭い瞳に射抜かれ、全身がかっと熱くなる。

 津本は唇の端だけで笑いながら、無言のドライブを続けた。蕗子もそれ以上追求しようとはせず、ただひたすらに彼の微笑が引き起こした恐慌状態をなんとかしようと躍起になった。

 やがて、車は町の中心部にあるビジネス街の、大きなビルの地下駐車場に入っていった。

 入り口にいる警備員に手を上げて挨拶して、進入防止のバーを上げてもらったところを見ると、彼はここの社員なのだろう。しかも、かなり上級職の。でなければ、こんなに社員の多そうな会社の、しかも単なる出張で来た人間の顔など警備員が覚えているわけがない。

「うちの会社は電気機器の部品を作っていてね。確か、倉庫の在庫管理のスタッフが足りないと言っていたよ」

 きょろきょろと不安そうにあたりを見まわしている蕗子に、津本が説明する。蕗子はちょっと安心したように頷いた。

 やっぱりここの社員だったのだ。駐車場に入るときにちらっと見ただけだったが、電気とはいえワキサカとは縁もゆかりもなさそうな名前だった。

 奥まった、エレベーターに近い駐車スペースに車を滑り込ませると、彼はさっと車を降りてシートベルトをはずすのに手間取っている蕗子の側のドアを開けた。

 こんな風にエスコートされることに慣れていないので、蕗子はあんぐりと口を開けた。が、一瞬後にはその口を閉じる。ただでさえおどおどしているのに、これ以上の醜態をわざわざ見せることはないと思ったのだ。

 蕗子の手をとって車から降りる手助けをすると、彼は軽く蕗子の肘に手を添えた。そのまま、自然にエレベーターの方に促す。

 その上品な仕草は、驚くほど板についていた。戸惑ってはいたが、蕗子にも彼の育ちが良さそうなことは察しがついた。

 エレベーターは微かな揺れとともに静かに上昇していく。どこまで上るのかと電光表示板をじっと見つめていたが、途中でどこにも止まる気配がない。蕗子は不安そうな目を津本に当てた。

 蕗子の視線に気づいたのか、津本が視線を下げた。蕗子の不安そうな表情を見て、安心させるように微笑みかける。

「大丈夫、僕に任せて」

 力強い声でそう言われると、なぜだか安心した。蕗子は詰めていた息を吐いて、肩から力を抜いた。

 微かな電子音を響かせて、エレベーターが止まる。結局、エレベーターは最上階までノンストップだった。

 エレベーターを降りると、広いホールの奥にドアがあった。

「ちょっとここで待っていてくれ」

 そう言うと、津本は躊躇することなくそのドアに向かって歩き出した。彼がドアの中に入ると、蕗子は所在なげに辺りを見まわした。

 どこもかしこもすごい眺めだ。絨毯はふわふわで靴が埋まりそうだし、一面がガラス張りになった壁から見える景色も壮大だ。津本が消えたドアがある壁には高級そうな壁紙が貼られ、天井は普通のオフィスでは見たことがないほど高い。

 蕗子はおそるおそるガラス張りの壁に歩みより、そっと下をのぞきこんだ。その高さに驚いて一瞬後退ったが、好奇心に負けて再びのぞきこむ。そこから眺める下界は、まるでおもちゃに見えるほど小さかった。

 がちゃりと音がして、ドアが開いた。蕗子はびくっとして振り向き、津本が手招きしているのを見てごくりと唾を飲み込んだ。

 ゆっくりと、彼の方に歩き出す。ドアのところまで来ると、尋ねるような表情で立ち止まった。すると、津本は安心させるように微笑んでくれた。

「おいで。社長に紹介するよ」

 なんとなく予想していたとはいえ、社長という言葉は蕗子を仰天させた。たかがアルバイト一人雇うのに、社長の面接を受けるなんて聞いたことがない。ましてや、こんな大企業で!

 さあ、と腕を軽く掴まれて、蕗子は部屋の中に入った。

 そこはまだ社長室ではなかった。秘書らしい女性が二人、忙しそうに立ち働いている。蕗子の姿に気づくと、二人は愛想良く微笑みかけてきた。

 蕗子が微笑みを返す暇もなく、津本がその奥のドアに急き立てる。蕗子は身構えながら奥の部屋に入った。

 正面の大きなデスクの向こうに、五十代か六十代くらいの男性が座っている。思ったよりも細身で、白髪混じりの頭はまだふさふさしている。なんとなく、社長というと太って禿げ上がった男性を想像していたので、蕗子は驚いた表情をあからさまにしないように気をつけた。

「高見沢社長、おうみふきこさんです」

 津本が愛想良く言う。蕗子は慌てて頭を下げた。

「青海蕗子です。よろしくお願いします」

 高見沢に促されて、二人はソファに並んで腰掛けた。高見沢もデスクの奥から立ちあがり、二人の向かい側のソファに腰掛ける。

「社長の高見沢です。おうみさん……でしたかな。履歴書はお持ちですか?」

「あ、はい」

 ぼんやりした頭を叱責するように、蕗子は目をしばたたいてバッグの中を探った。

 封筒から履歴書を取り出し、高見沢に差し出す。彼は眼鏡をかけ、蕗子の几帳面な文字が並んだ履歴書にざっと目を通した。

「青海蕗子さん、二十四歳、と。……三年前に、勤めていた会社を辞められていますな。今は、何を?」

「実は、大学生です」

「大学生?」

 高見沢が眼鏡をちょっと下げて蕗子の顔を見る。今まで何度も面接に行ったが、この質問は必ず出る。蕗子はちょっとうんざりしたが、それを表情には出さなかった。

「高校生のときに両親を亡くしまして、一旦進学はあきらめたんです。それで就職したんですが、学費が貯まって余裕ができたので、受験しました。今は三年生です」

「ふむ。で、どこの大学です?」

 蕗子が淡々と学校名を答えると、高見沢は驚いたように目を見開いた。

「それは、東京の大学では……?」

 と言いかけて、津本の方をちらっと見、慌てて咳払いをしてごまかす。蕗子は不審に思って横にいる津本の顔を見上げた。だが、そこにはわざとらしいくらい爽やかな笑顔があるだけだった。

「うちの仕事が一時的なものだとは、ご存知ですかな?」

「それは……知りませんでした。でも、私にとっても都合がいいんです。近いうちに東京に帰らなければならないので……」

「そうですか。いや、それなら話は早い。津本くんの紹介でもあることだし、早速明日からでも来ていただきましょう。期間は二ヶ月、時給は……」

 高見沢が口にした額は、今までに聞いたこともないような高額だった。内心びっくりして心臓が飛び跳ねたが、表面上は冷静な表情を取り繕う。蕗子は声が震えないよう気を付けながら、高見沢に礼を申し述べた。

 面接はあっけないくらい簡単に終わり、気がつくと蕗子は津本と一緒にまたエレベーターに乗り込んでいた。

 ぼうっとしている蕗子に、津本が事務的な口調で告げる。

「明日はホテルまで迎えに行くよ。社長から、倉庫の主任に引き合わせるように頼まれてるから」

 その言葉にはっとする。蕗子はやっと我に返って津本を見上げた。

「あ、あの、あの……ありがとうございました。まさかこんなに簡単に仕事が決まるなんて……」

 すると、津本はからかうように眉を上げた。

「任せておけと言ったろう。信じてなかったな」

「ええ……まあ……」

 正直に答えながら、蕗子はまだぼうっとした頭をはっきりさせようと、首を振った。

「さて、次はアパートだな」

 そう宣言した通り、津本はまた蕗子を車に乗せて会社からほど近いアパートに連れて行き、自分が保証人になってあっという間に賃貸契約を取り付けてくれた。

 契約書に必要事項を書いているとき、不動産業者がちょっと席をはずした折を見計らって、蕗子は津本に疑問をぶつけてみた。

「津本さんだって出張で来てるんだから、地元の人間じゃないはずでしょ。なのに、なぜ保証人になれたんですか?」

 すると津本はにやっと笑った。

「僕が勤めている会社は、この地域では一番大きくて信頼があってね。そこの社長が僕の身元に太鼓判を押してくれるとなれば、どの不動産会社でも歓迎してくれるのさ」

 なるほど。蕗子は納得したように頷いて、書類の続きを書き始めた。

「青海、蕗子……。おうみって、こんな字を書くんだ」

 思いがけなく、津本の声が耳元でする。蕗子がびっくりして振り向くと、彼は蕗子の後ろから覆い被さるようにして書類を覗きこんでいた。

「珍しい字だね」

 間近にある彼の顔に微笑みかけられると、蕗子の顔は真っ赤にのぼせ上がった。ごまかすように慌てて顔を伏せ、震える手を励まして続きを書くふりをする。だが、彼が蕗子の両側に手をついて囲い込むようにしてくると、緊張しすぎてますます手が震えた。

 書類の横に置かれた津本の大きな手が、すっと蕗子の視界から消える。どうやら書類には興味をなくしたらしい。蕗子は強張っていた全身がやっとリラックスするのを感じて、こっそりため息をついた。

 そんな蕗子の後ろ姿を、津本はじっと眺めていた。

 アパートは狭かったが基本的な家具がそろっていて、とりあえずの仮住まいにするには十分だった。小さな冷蔵庫や折畳式のテーブルまであるので、改めて買い揃えるものもない。こんなに条件の良い物件をものの十分もたたないうちに借りることができるなんて、蕗子は夢にも思っていなかった。

 津本に送ってもらった帰り道では、ずっと夢見心地で車のシートに収まっていたので、ホテルに着いたことにも気づかなかった。津本に可笑しそうにそう告げられて初めて、はっとする始末だ。

 蕗子はシートの中で座りなおし、津本の顔を真剣な面持ちで見上げた。

「今日は本当にありがとうございました。ぼうっとしててごめんなさい。でも、本当に感謝してるんです。どうやってこの気持ちを表したらいいのかわからないけれど……」

「じゃあ、今夜食事に付き合いなさい。それをきみの感謝の気持ちとして受け取るよ」

 蕗子は驚いたように津本を見た。

「でも、それじゃあ……」

「抗議はなし。僕に感謝の気持ちを表したいんだろう?」

「そ、それじゃ、せめてご馳走させてください。でなければ行きません」

 津本は強情そうな蕗子の顔を見下ろしながらしばらく考え込んでいたが、やがて仕方なさそうに肩をすくめた。

「わかった。それ以外に方法はなさそうだな。店は任せてもらっていいのかな?」

 からかうような問いにも、蕗子は真面目くさって頷いた。

「私が知ってる店といえば、ファミリーレストランか喫茶店ぐらいですから、お任せします」

「わかった。それじゃ、六時半ごろ迎えに来るよ」

 蕗子が止める暇もなく、彼はさっさと車を降りてまた助手席のドアを開けてくれた。そんな必要はないのにと思いながら、手助けされて車を降りる。その時になって初めて、蕗子はあることに気付いて愕然とした。

「私……あなたのお仕事を、邪魔してしまいました!」

 とんでもない重罪を犯したような、悲壮な表情で叫ぶ。蕗子の声よりもその表情に度肝を抜かれて、津本は目を見張った。

「津本さん、お仕事中だったのに……。私、全然気が利かなくて、申し訳ありませんでした。あの、急ぎのお仕事とか、なかったんですか? もっと早く聞くべきだったのに、私ったら」

 うろたえたようにしゃべりつづける蕗子の唇を、津本の温かい指が押さえる。蕗子がはっとして見上げると、彼は半ばあきれたように、それでいて楽しそうに瞳をきらめかせながら蕗子を見下ろしていた。

「大丈夫、心配しなくていい。大して重要な予定はなかったから」

 それよりも、きみの事情の方が切羽詰っていただろう、ととろけるように甘い声で指摘されて、蕗子は首筋まで真っ赤になった。

 そんな蕗子を楽しそうに眺めながら、彼は続けた。

「それに、きみが僕の……その、邪魔をしたのは、ほんの二時間ばかりだ。気にすることはないんだよ」

 それだけ言うと、彼はまた運転席に回ってドアを開けた。

「では、六時半に」

 簡単にそう言い、蕗子が頷くのを確認してから、車に乗り込む。彼は窓からさっと片手を振って見せると、あっという間に車を発車させた。

 津本の車が小さくなっていくのを、蕗子はいつまでも見送っていた。

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