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偽りの恋人  作者: 水月
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3

 その日の夜、蕗子は疲れきった体に鞭打って、机に向かっていた。

 大学の講義が終わってからアルバイトに出向き、午後六時過ぎに将太を保育園に迎えに行って、帰りにスーパーで買い物をし、夕食を食べさせて風呂に入れて寝かしつける。こんなに忙しいのは週のうち二、三日ではあるが、レポートを提出しなければならない今週はとりわけきつかった。

 蕗子はノートパソコンの上に踊らせていた指をしばし休め、肩の凝りをほぐすように頭を左右に倒した後、コーヒーを入れに立ち上がった。

 インスタントコーヒーをマグカップに入れ、そこに砂糖を少し加えてお湯を入れる。立ったままそれを一口飲んで、彼女は大きなため息を一つついた。

 その時、インターホンのブザーが不意の訪問客の到来を告げた。蕗子はちらっと掛け時計を見やり、人が訪問するには遅い時刻であることを確認すると、にやにや笑いながらドアを開けた。

「ちょっと、またなの? もういい加減……」

 ふざけて言いかけた言葉は、相手の顔を見た途端に飲み込まれた。そこには、仕立ての良さそうなスーツを着ていかめしい顔をした、見たこともない男性が立っていたのだ。

 年の頃は四十代の後半くらい、浅黒くてがっしりしたその男は、蕗子を威圧するようにじろっと睨めつけた。

「青海蕗子さんですね?」

 高飛車な、人を見下したような言い方だ。蕗子はむっとして両腕を胸の前で組んだ。

「新聞ならいりませんよ」

 明らかに新聞の勧誘員には見えない男に向かって、ずけずけと言う。案の定、男は気分を害したような表情になった。

「新聞社に勤めているわけではありません」

「あら。じゃあ、換気扇フィルターの押し売りかしら?」

「いや……」

「掃除機? ばか高い布団? それとも……」

「私はセールスに来たわけではありません。あなたの甥ごさんの、脇坂将太さんのことでお話があってやってきました」

 甥の名前を聞いて、蕗子は口をつぐんだ。思わず部屋の奥を振り返り、将太がそこにいないかどうか確かめる。

 もちろん、将太はいなかった。一番奥の、寝室にしている和室の布団の上で、すやすやと寝息を立てているのをついさっき確認したばかりなのだから。

「このままここで話しましょうか?」

 馬鹿にしたように男が言う。

 むかっとしたが、とりあえず蕗子は男を通すように玄関から一歩退いた。すぐさま男が中に入る。ドアが静かに閉まり、狭い玄関で蕗子は男と向き直った。

「言っておきますけど、隣りには親しくしてる友人がいるから、もしも変な気を起こそうとしたら大声で叫びますよ」

 警告するように言う蕗子を馬鹿にしたようにちらりと見下ろしてから、男は胸ポケットから名刺入れを取り出して、その中の一枚を蕗子に差し出した。

 蕗子はそれを受け取り、そこに書かれている文字に素早く目を走らせて、驚きに目を見張った。

「弁護士……?」

 蕗子が驚いたように洩らした呟きを聞き漏らさず、男は尊大に頷いた。

「ワキサカコーポレーション専属弁護士の、大谷と申します」

 ワキサカコーポーレーション。日本有数の、電気機器会社だ。経済にはあまり詳しくない蕗子でも、その名前と巨大さは知っている。

「そんな人がどうしてここに?」

 驚きが覚めやらないまま問いかけたが、大谷が何もかもお見通しだというように鼻を鳴らしたのを聞いて、反抗心がむくむくと湧きあがる。

「人違いでしょう。ワキサカコーポレーションなんて私の人生には何の関わりもないし、関わりたいとも思わないわ」

 すると、大谷は嘲るように鼻で笑い、蕗子の怒りを更に煽った。

「あなたの人生に関わりがないという点には同意しますよ。関わりがあるのは、あなたの甥ごさん、つまり将太さんです」

「将太? 将太に一体何の関わりが……」

 大谷はわざとらしいため息をつき、呆れたように首を振った。

「しらばっくれるのはいい加減になさい。知らなかったふりをしても、いいことは何もない。裁判になったら、こちらが勝つのは目に見えています」

「裁判?」

 何のことかさっぱり訳がわからず、蕗子はぼんやりと聞き返した。

「今すぐ手をひいて将太さんを引き渡してくれるというのなら、ワキサカとしても最大限のお礼をするつもりです。あなたが一生かかっても手に入れられないような大金をね。だが、もしも欲をかいてそれ以上のことを望むようなら、こちらにも考えがあります」

 将太を引き渡す!

 ぎょっとしたような蕗子の顔を、大谷は相変わらず冷ややかに眺めている。蕗子は話についていけなくなって、しどろもどろになりながら訊ねた。

「一体何の話をしてるのか、さっぱりわからないわ。将太がこの事に何の関わりがあるとおっしゃるの?」

 何を今更とぼけた事を。

 大谷の雄弁な顔には、はっきりとその台詞が浮かんでいた。蕗子は、説明を受けるまではもう一言も喋るもんかという決意を目にたたえて、ぐっと相手を睨み返した。

「お互い、腹を探り合うのはやめましょう。脇坂誠氏がワキサカコーポレーションの取締役社長、脇坂浩司氏の弟だという事は、ご存知のはずです。父上に勘当されていたとはいえ、れっきとした跡取りだ。誠さんが亡くなった今、浩司さんはその息子の将太さんに、正当な遺産を譲り渡すつもりなのです」

「お、お義兄さんが……ワキサカコーポレーションの跡取り?」

 そんな話は寝耳に水だ。蕗子は呆然と弁護士の言葉を繰り返した。

「将太さんを手元に置いておけば遺産のおこぼれに預かれるとでも思っているのでしょうが、そうは問屋が卸さない。今までの養育費と謝礼として、これをお収め下さい。そして、大人しく将太さんをワキサカに引き渡していただきたい」

 大谷が差し出した封筒を、蕗子はまるで毒蛇でも眺めるような目で見つめた。

 手を出そうとしない蕗子を見て苛立たしげなため息をつくと、大谷はその封筒を玄関のシューズボックスの上に静かに置いた。

「今夜一晩、よく考えて下さい。何があなたにとって一番得かという事を。また明日、返事を聞きに伺います。できればその時に将太さんを連れて帰らせていただきたい」

 呆然としたままの蕗子に軽く会釈して、彼はドアを開けた。

「では、失礼」

 蕗子の人生に爆弾を投げつけた事にも気付かぬように、彼は何食わぬ顔で退場した。

 蕗子はへなへなとその場に座り込み、たった今聞いた、信じられないような話を必死で思い返した。

 誠が、あの義兄が、ワキサカコーポレーションの御曹司だったとは! どこかの育ちのいいお坊ちゃんだという事と、もともと父親と折り合いが悪く、駆け落ち同然で姉と結婚した事は聞いていたが……。

 その時、ドアに控えめなノックの音がした。蕗子ははっとして立ち上がり、尊大な客を追い返そうと顔を強張らせてドアを開けた。

「まだ何か言い足りないことが……」

 威勢よく言いかけて、相手が違うことに気付く。

 隣りに住んでいる、加納亮だった。蕗子の険悪な様子を見て、びっくりしたように目を丸くしている。

 だが、そもそもあの偉そうな弁護士が来た時も、亮が来たと思ったのだ。だから、気安くドアを開けてしまった。もしもあの時に来てくれてさえいたら……。

「なんで今ごろ来るのよ!」

 亮には何の落ち度もないと知りながら、蕗子は噛み付くように言い放った。

 だが、その不当な非難にも、亮はめげなかった。ちょっと小首をかしげて、素直に謝ったのだ。

「ごめん」

 その言葉に、蕗子の毒気が抜かれた。やっと現実に立ちかえり、何の関係もない隣人に当たり散らしてしまったということに気付く。この怒りをどこに持っていけばいいのか見当もつかなかったからとはいえ、そんなことは言い訳にならない。

 蕗子はばつが悪そうに頬を染め、口の中でもごもごと謝った。

 すると亮はほっとしたように微笑んだ。

「良かった。何か怒られるようなことをしたのかと思った」

 蕗子はかぶりを振り、ドアを大きく開けて亮を中に招き入れた。

「ううん、違うの。今のは単なる八つ当たり。ごめんね」

 蕗子が申し訳なさそうに言うと、亮は笑って頷いた。

「いいよ、いいよ。ストレスたまってんだろ? 俺で良かったら、いつでもはけ口になってやるぜ」

 気安くそう答えると、亮は靴を脱いで部屋に上がった。

 彼は二十四歳の蕗子より二つ年上で、建築関係の仕事をしている。以前は単なる顔見知り程度だったのだが、姉夫婦を亡くして途方に暮れている蕗子を見るに見かねて手助けしてくれたのがきっかけで、友達付き合いをするようになったのだった。

 小さな居間のテーブルの前に腰を落ち着け、蕗子が入れたコーヒーを一口飲んでから、亮は促すように訊ねた。

「それで? 何か言い足りないことを言いに戻って来そうな奴って、誰?」

 それを聞いた蕗子が憂鬱そうな表情になるのを見て、ただごとではないということを察したらしい。亮はマグカップをテーブルにおいて、体ごと蕗子に向き直った。

「深刻そうだな。何があったんだ?」

 蕗子は大きなため息をついて、疲れたように両手で顔をこすった。

「実は、私にもよくわからないのよ。あのいやな奴が訪ねてくるまで、誠義兄さんの素性なんて、知らなかったんだもの……」

「お兄さんの素性? なんだ、それ。だいたい、そのいやな奴って、誰なんだよ」

 蕗子は顔を上げ、途方に暮れたように名刺を取り出した。それを亮に手渡す。

「信じられる? 大企業ワキサカコーポレーションのおかかえ弁護士なんですって」

 名刺を見ながら、亮が問いかけた。

「ワキサカ?」

「将太をよこせって」

「将太を? 何だよ、それ!」

 亮が怒ってくれたので、蕗子は気が楽になった。自分の味方が少なくとも一人はいる。それがどれほど心強いことか、亮にはわかっているのだろうか?

 蕗子はわからないというようにかぶりを振り、テーブルに頬杖をついた。

「あのいやな奴の話を要約すると、ワキサカコーポレーション社長の命を受けて、お偉い弁護士様がこのあばら屋におみえになったということらしいの。つまり、核心はこうよ。将太は脇坂家の正当な血族である。ゆえに、今すぐ引き渡すことを要求する」

 大谷の不愉快な顔を思い出して、蕗子の眉根が腹立たしげに寄せられる。

 今から思うと、あの弁護士は部屋中をまるで汚いものでも見るかのような様子で眺め回していた。しかもそれだけでは飽き足らず、大して身長は変わらないくせに、蕗子を見下すように、蔑むように内容を告げたのだ。今から考えてもはらわたが煮えくり返る思いがする。

 蕗子が口をつぐんで亮を見ると、彼は口をぽかんと開けたまま、放心したように蕗子を見詰めていた。

「ちょ……ちょっと待てよ、脇坂って、あのワキサカなのか? てことはつまり……」

 蕗子は不愉快そうに頷いた。

「そう。義理の兄は、脇坂家の御曹司だったってわけ」

「それ、マジ? じゃあなんでこんなちっぽけなマンションに住んでたんだよ!」

 蕗子はまたため息をついた。

「いろいろと、事情があるのよ。どこかのお金持ちのお坊ちゃんだということは知ってたけど、それがまさかワキサカコーポレーションなんていう桁違いの大企業の御曹司だなんてね」

「ということは、ワキサカじゃなくても、金持ちの坊ちゃんだということは知ってたんだろ?」

「まあね。話せば長いことなんだけど……」

 聞く気があるのかどうか確かめるように、ちらっと亮の顔を見る。亮が熱心に頷いたので、蕗子はなるべく客観的に、簡単に説明した。

 姉の真澄と義兄の誠が、バーで出会って恋に落ちたこと。誠の積極的なアプローチで、間もなく結婚を決めたこと。誠の父親にひどく反対されたこと。

 姉を財産目当て呼ばわりした冷酷な父親のことを話す時には、さすがに怒りで声が震えてしまった。

 だが誠は、家も財産も、家族すら捨てて姉と一緒になったこと。そして、幸せな結婚生活を送ったこと。

 二人が幸せだったことは、亮も知っているはずだ。隣に住んでいるのだから。

 亮は黙ったまま話を聞いていたが、蕗子が口を閉じると質問を始めた。

「じゃあ、ワキサカコーポレーションの後継者争いはどうなるんだ?」

 その問いに、蕗子が目をぱちくりさせる。

「後継者争いって?」

「ちょっと前に新聞に載ってただろ。ワキサカの会長の死亡記事。誠さんの父親じゃないのか?」

「死んだ……? 誠義兄さんのお父さんが、亡くなったっていうの?」

「ああ。間違いない」

「ああ、それであの弁護士も、父親じゃなくてエリート兄貴の名前を出してたのね。おかしいと思ってたのよ……」

「エリート兄貴?」

 亮の問いに、蕗子はこくりと頷いた。

「誠義兄さんにはお兄さんがいてね。その人がまた冷酷なエリートで、家業を継ぐのは兄貴だって、お義兄さんが口癖のように言ってたの。頑固おやじが会長だったとすると、エリート兄貴はとうの昔に社長になってたわけね」

「てことは、誠さんは次男か……。じゃあ、後継者争いにはならないわけだ」

「うん。誠義兄さんの話では、エリート兄貴の社内の支持基盤はとても堅固だそうだから」

 そこで一呼吸置いてから、蕗子は真剣な顔を亮に向けた。

「でも、それっていつ頃の話? 初耳だわ」

「いつって、でかでかと新聞に載ってたぜ。テレビでもやってたし。ああ、でも、そうか、あの時はお姉さん夫婦が亡くなって間がなかったかもしれない。新聞なんて読んでる閑ないよな」

 それを聞いて、蕗子も納得した。今でこそ落ち着きを取り戻したが、この三ヶ月というもの、文字どおり戦争状態だったから。

「だけど勝手な話だよな。勘当したり、子供を渡せって言ったり」

「そうなの」

 蕗子の言い方が悲しげだったのだろう、亮は素早く蕗子の隣に移動すると、慰めるように肩を抱いてくれた。

「渡したくないんだろう?」

「当然よ! 確かに相手はお金持ちよ。だけど、お姉ちゃんのことをハイエナ呼ばわりしたり、言いなりにならなかったからと言って息子を勘当するような冷たい人達に、将太を渡せるはずがないわ。あの人達、将太が生まれた時にだって、一度も顔を見せてないのよ」

「だよな。俺、誠さんに他に家族がいるなんて初めて知ったもん」

 蕗子は慰めを求めて亮の胸元に顔を埋めた。亮がやさしく抱きしめてくれる。相手が男性という意識はなかった。口の悪いお姉さんに相談しているという程度の認識だ。

「でも、怖いの。相手が有力者であるということは、お金の力でなんとでもなるということでしょう? 弁護士が来た時は怒り狂って追い返したけど、こうして冷静に考えてみると……。私、法律のことなんて何にも知らないし、もしも裁判なんてことにでもなったら……」

「うーん、確かにな……。俺、ちょっとゲンに相談してみるよ。弁護士のようにはいかないけど、俺より歳を食ってる分、ちょっとはマシだろう」

 そう聞いて、蕗子はやっと、亮の方から訪ねて来たことに思い当たった。

「そう言えば、亮ちゃん、何の用事だったの?」

 すると亮は照れ臭そうに頭をかき、えへへ、と笑った。

「忘れてた。ゲンと喧嘩したんだった」

 蕗子はやっぱりというように笑い、亮から離れた。

「そんなことだろうと思ってたわ。ほんとにもう、あなたたちって、会えば必ず喧嘩するんだから。しかもその度に私のところにグチりに来るし」

「必ずってほどじゃないじゃないか」

「はいはい。時々ね、時々。犬も食わないなんとやら、よね。じゃあ、仲直りにちょうどいいじゃない。今から工藤さんの家を訪ねてみたら?」

 うん、そうする、とあっさりと立ち上がり、亮は玄関に向かった。玄関で靴を履きながら、シューズボックスの上の封筒に目を留める。

「これ、何?」

「ああ、それ。いわゆる、手切れ金らしいわよ」

「ふうん。いくらだった?」

「まだ見てない」

「じゃあ、見てみな」

「うん……」

 あまり気乗りはしないが、相手の出方を探るためにも見ておいた方がいいだろう。蕗子は封筒を取り上げ、中に入っている薄い紙切れを出した。

 その小切手に書かれた金額を見た途端、二人は息を呑んだ。しばらく機械打ちされた数字を凝視してから、顔を見合わせる。

「マジ?」

 誰かに聞かれるのを恐れるように、亮が声を潜めて言う。蕗子はごくりとつばを飲みこんでから、震える指で一桁ずつ数え上げた。

「間違いないわ……」

「このことも、ゲンに報告してもいい?」

 まだ声を潜めたまま、亮が聞く。ちょっとためらってから、蕗子は頷いた。亮と同じく、その恋人の工藤も信用できる人間だ。

 とりあえず小切手は封筒に入れたままどこかに保管しておけ、と言い残して、亮は帰って行った……。


◆ ◆ ◆


 そこまで思い出して、蕗子は目を閉じた。

 姉夫婦が亡くなって甥の将太を引き取ってから、もう四ヶ月になる。将太はもとより蕗子自身が、姉夫婦の死という事実に馴染むまでに時間がかかったために、最初の頃、家の中は混乱を極めた。

 親類がいないために蕗子が喪主にならざるを得ない状況だったので、警察から通報を受けた時から葬儀を行なうまで、無我夢中だった。今考えても、当時の自分が何をしたのかさっぱり思い出せないくらいだ。文字どおり、亮と工藤に言われるまま、しなければならないことをこなしていくだけの毎日だった。

 確かに突然の育児は思いがけないことだったし、大きな負担でもあった。毎日が戸惑ったり途方に暮れたりの連続だった。けれど、それでも将太と二人、肩を寄せ合い、互いを慰めあって暮らして来たのだ。その将太がいなくなるなんて……。

 そんなの、絶対に、いや。

 あの翌日、弁護士が来てすぐに小切手を返し、将太は渡さないと頑張り続けたが、ワキサカからの圧力は増すばかりだった。四六時中誰かに見張られ、保育園に他人が迎えに来ることもしばしばだった。もちろん、保母達に事情を説明してあったので将太を引き渡されることはなかったが、それでも恐怖感がつきまとった。

 アルバイトも首になった。雇い主は、この不況で、と空々しい言い訳をしていたが、ワキサカから手を回されたことは一目瞭然だった。

 そんな生活が続いてパニック状態になり、思わず逃げ出してしまったが、もしも見つかったらどういう状況になるのだろう。さっぱりわからないし、想像もつかない。

 いや、想像したくないのだ。そのことを認めて、蕗子は不安に胸を締め付けられた。

 逃げ回っていても何の解決にもならないが、考える時間を稼ぐことはできる。そう思ってワキサカコーポレーションの本拠地、東京から逃げ出した。だが、保証人なしにはアパートは借りられない、ホテルの仮住まいではアルバイトも見つからないというこの状況で、一体何を考えられるというのだろう。

 蕗子は難問に頭を悩ませて、その夜をまんじりともせずに過ごした。

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