表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽りの恋人  作者: 水月
26/26

エピローグ

 その夜、蕗子は将太と共にベッドに入っていた。不安がる将太を、言葉だけではなだめることができなかったからだ。それに、ほんの数週間前まではずっと、布団を並べて同じ部屋で眠っていたのだ。この屋敷に来てからは将太を一人で寝かせていたが、実は淋しかったのかもしれない。

 将太は今、穏やかな表情でぐっすりと眠っている。蕗子はふっと笑みを漏らしてから、将太の部屋の丸い天窓から見える夜空を眺めた。晴れ渡った空にきらめく星たちが、蕗子に「おかえり」と囁きかけてくれているようだ。

 屋敷の中は、蕗子たちが帰ってきた時の騒動がまるで嘘のようにしんと静まり返っている。蕗子は静かな、だが深いため息をついて目を閉じた。

 もう手にすることはできないと思っていた、柔らかな温もり。それが今、こうしてここに、蕗子の手の中にある。失くしたと思っていた愛情と共に。

 震えるほどの幸せが胸に迫ってきて、蕗子は涙ぐんだ。


◆ ◆ ◆


 将太に手を引かれて屋敷に戻った時、中はてんやわんやの大騒ぎだった。連れてこられたばかりの子犬が、床のあちこちには水たまりを、高価なカーペットやソファなどには噛み跡を作っていたのだ。

 家政婦たちは雑巾片手におおわらわ、男たちはすばしっこく逃げ回る子犬を捕まえようと奮闘中という有様に、蕗子はあっけにとられた。そこへいきなり、

「蕗子様、捕まえてくださいっ」

 という声が飛んでくる。状況がつかめないままそちらを振り向いた蕗子は、小さな牙を持つ物体が自分めがけて飛びかかってくるのを見て、とっさに悲鳴をあげた―――。

 が。予想した衝撃は待てど暮らせどやってこない。蕗子は身を守るように上げた手をゆっくりと下ろしながら、恐る恐る目を開けた。

 途端、視界いっぱいに広がるチャコールグレーの生地。それがスーツの上着に包まれた男の背中であると悟って、蕗子は驚いたように目の前の人物を見上げた。

「まったく。情けないぞ、おまえたち。こんな小さな生き物に右往左往させられるとは」

 子犬の首根っこを掴んだ手を軽く揺らしながら呆れたように言い放ったのは、他ならぬ浩司だった。蕗子たちの後ろを歩いていたはずなのに、一体いつのまに?

「も、申し訳ありませんっ」

 謝りながら近づいてきた男に子犬を手渡すと、浩司は蕗子を振り返った。

「大丈夫か?」

 蕗子は何度かまばたきしてから、こくりと頷いた。

「犬を飼ったことがないと言っていたね」

 訊かれて、もう一度頷く。きちんと飼えるかどうか、今更ながら不安になってきた。

「誰か犬を飼ったことのある者は?」

 今度はその場にいる全員に問いかけたが、誰からも返答はない。つまり、誰も犬を飼った経験がないというわけだ。

 浩司は短いため息を一つついてから、飼育に関する本を買ってくるよう、近くにいる者に言いつけた。次いで、別の者に救急箱を持ってくるように言う。残りの者たちは子犬の粗相の後片付けだ。主の帰還によって、屋敷内は秩序を取り戻したようだった。

「将太、風呂には入ったのか?」

 浩司が問うと、将太はかぶりを振った。

「ご飯は?」

「まだ……」

 蕗子が恋しかったのだろう。浩司は不機嫌そうに吊り上げていたまなじりを幾分和らげて、将太の前にかがみこんだ。

「では、おばあちゃんと一緒に食べていなさい」

 だが、将太はその小さな唇を頑固そうに結んで、伯父の言いつけを拒んだ。

「やだ」

「腹が減ってないのか? それなら……」

「やだ。蕗ちゃんといっしょ」

 強張った声でそう主張すると、将太は蕗子の脚にしがみついて伯父をにらみつけた。

 まったく。小さくとも脇坂家の男だな、こいつは。

 苦笑しながら、浩司は将太の頭を撫でた。

「なあ将太、見てごらん。蕗子は怪我をしてるんだ。手当てしておかないとばい菌が入るだろう?」

 浩司に言われて蕗子の膝を見た将太は、あっと小さな声を上げた。蕗子自身も驚いて浩司を見る。自分がいつこんなすり傷を負ったのか、まったく覚えがなかった。

「蕗ちゃん、タイ? タイタイ?」

 将太が泣きそうな顔で訊いてくる。蕗子はかぶりを振り、安心させるように微笑んで「大丈夫よ」と答えた。

 やがて家政婦が救急箱を持ってきた。それを受け取った浩司が、蕗子を連れて応接室に向かう。駄々をこねるかと心配した将太は、その家政婦に連れられてしょんぼりと食堂に向かって歩き出した。

 応接室に入って半ば強引にソファに座らされると、蕗子は早速抗議の声をあげた。

「ひどい人。これくらいどうってことないのに。可哀相に、将太は……」

「黙って」

 厳しい声でそれだけ言うと、浩司は蕗子の膝に消毒液を噴きつけた。

「いたっ」

 思わず顔をしかめた蕗子をちらりと見やりながら、クールな声で返す。

「我慢しろ」

 が、その手つきは声からは想像もつかないほど優しかった。蕗子はほっとため息をつくと、彼の手に全てを委ねるというようにゆったりとソファにもたれかかった。浩司の顔から険が消える。柔らかな沈黙の中で、彼はてきぱきと作業を終えた。

「よし、終わり」

 消毒液をローテーブルに置いて、蕗子の隣に座る。力強い腕に抱き寄せられて、蕗子は素直に彼の肩に頭を乗せた。

「……しばらくの間、将太はきみにつきまとうんだろうな」

 あきらめの混じった声だ。蕗子はくすっと笑って、苦い表情を浮かべている浩司の顔を見上げた。

「さあ、そうでもないかもしれないわ。何しろ、念願かなって犬を買ってもらえたんですもの」

 すると、浩司は共犯者のような笑みを浮かべた。

「なるほど。となると母の独断もそう悪くはなかったかな」

 言いながら、ゆっくりと頭を下げる。小鳥のように唇をついばまれて、蕗子は幸せそうに微笑んだ。

 小さな音をたてながら、角度を変えながら唇を触れ合わせては、微笑みを交わす。何のわだかまりもない触れ合いは、二人の心を深い幸せで満たしてくれた。

「愛してるよ」

「私も……」

 蕗子を抱く浩司の腕に力がこもる。からかうようなキスは見る間に熱を帯び、やがて二人は互いの唇を味わうのに夢中になった。

 その時、ノックの音が響いた。

 不満そうな呻き声を上げながら、浩司が蕗子を更に強く抱きしめる。が、やがて彼は渋々といった様子で唇を離すと、安心させるような微笑みを浮かべてから立ち上がった。

 ドアの向こうにいたのはやはり津本だった。彼は蕗子に軽く目礼してから、浩司の耳元で何やら話し始めた。無表情だった浩司の顔が、徐々に険しくなっていく。どうやらあまり嬉しい報告ではなさそうだ……。

「わかった。すぐに出る」

 平板な声でそれだけ言うと、浩司は頭を下げている津本の姿を締め出すようにドアを閉じた。

「すまない。行かなければ」

 説明してもらうまでもなかった。朝の会議をキャンセルしてまで蕗子を探し出してくれたのだ。そのしわ寄せが出たのだろう。蕗子は頷いて浩司に歩み寄った。

「ごめんなさい。私のわがままのせいで……」

 浩司は蕗子の腰を掴んでしっかりと抱き寄せると、額に優しいキスを置いた。

「いや、僕たちには必要なことだった。きみが気に病む必要はないよ」

 そうしてもう一度、蕗子の唇を味わうように口づける。短いが、甘い口づけだった。蕗子はうっとりと浩司の胸にもたれかかった。

「帰るのは真夜中になりそうだ。将太と一緒に夕食を済ませておいてくれ」

 甘やかすような声で浩司が囁く。その内容に、蕗子は目をぱちくりさせた。

「真夜中にわざわざこんなところまで戻ってくるの? それより都内のマンションに泊まった方が……」

「いや、何時になろうが帰ってくる。だから……」

 僕のベッドで待っていてくれるね、と耳元で囁かれて、蕗子は真っ赤になった。だが、自分もそれを望んでいるのだ。浩司の胸に顔を隠すようにして、蕗子はこくりと頷いた。

 浩司が目尻に皺を寄せて微笑む。

「じゃあ、行ってくる」

 蕗子の顎に軽く手を添えて顔を上げさせ、その手のひらで片方の頬を包み込むようにしてから離すと、彼は踵を返して部屋を出て行った。

 閉まったドアの向こうから、浩司が津本にきびきびと命令を飛ばしている声がする。くぐもったその声が徐々に小さくなっていくのを聞き届けてから、蕗子は小さなため息をついて部屋を出た。

 食堂に入った蕗子を出迎えたのは、将太の待ちかねたような歓声だった。食事中に立ち上がって蕗子の元に走り寄るという無作法を、浩司の母がにこにこと黙認してくれる。蕗子は恐縮して頭を下げながら、将太に手を引かれて隣の席についた。

 それからは、犬の名前を何にするか、犬用のケージをどこに置くか、ペットフードの種類や量、トイレの躾をどうするかなど、話すことはいくらでもあった。その話題は夕食後も続き、家中が将太の元気な声に彩られた。

 やがて、将太が眠そうに目をこすりだした。目ざとくそれに気づいた蕗子が、風呂に入ろうと促す。将太は素直に頷いて、蕗子と共に浴室に向かった。

 浴室の中でも、そこを出てからも、将太は普段より蕗子にべたべたと甘えて、なかなか離れてくれなかった。それだけ自分の家出が将太に衝撃を与えてしまったのだ、と思う。蕗子は内心で深く深く頭を垂れた。

 そのせいで、将太に「一緒に寝て」とせがまれても、断ることはできなかった。蕗子は必ずそうすると約束してから、用事を済ませてくるからと将太の部屋を一旦出た。

 向かった先は浩司の母の居室だ。蕗子はドアをノックして彼女の返事を確認すると、覚悟を決めてそれを開けた。

 夫人はベッドの上で静かに本を読んでいた。が、蕗子の姿を見ると膝の上に本を置き、こちらにいらっしゃいと微笑みながらベッドの端をぽんぽんと叩いて見せる。蕗子はおずおずと夫人のそばに歩み寄り、迷うようにちらちらとベッドの端に視線を投げてから、思い切ったように口を開いた。

「あの……いろいろとお騒がせしてしまって、申し訳ありませんでした」

 ぺこりと頭を下げる。そんな蕗子を、夫人は微笑みを浮かべたままじっと見つめていた。

「頭を上げて、座ってちょうだいな。見上げていると首が痛くなってしまうわ」

 穏やかな口調でそう諭されて、蕗子は恐る恐る顔を上げた。夫人は相変わらず微笑んだままだ。が、その中に逆らえない何かを感じて、蕗子はためらいながらもベッドの端に腰掛けた。

 真正面から夫人と目が合う。

 彼女の目に怒りはなかった。だが、ほんのひとかけらの厳しさは垣間見える。蕗子はごくりと唾を飲み込んで、彼女の言葉を待った。

 夫人が身を乗り出し加減にして、蕗子の手に冷たく骨ばった手を重ねる。血管の浮き出た弱々しいそれを、蕗子はぼんやりと眺めた。

「……あなたが出て行ったと知った時は、そりゃあショックでしたよ」

 静かに言われて、言葉もなく頷く。夫人は蕗子の手を軽くぽんぽんと叩くと、ヘッドボードにたくさん置かれたクッションに再びもたれかかった。

「将太は泣き叫んで半狂乱だし、知らせを受けた浩司も目を血走らせて帰って来るし。でも、あなたにはあなたなりの事情があったんでしょう。私は何も聞きませんよ。帰って来た時の浩司は、それはもう幸せそうだったわ。あの子にあんな顔をさせてくれる女性に、一体何を言うことがあるかしら。将太も大喜びだし。……私はね」

 考え込むように蕗子の顔を見つめ、夫人が続ける。

「もう二度と二人に悲しい思いをさせないと、それだけを約束して欲しいの」

 彼女の強い視線を、蕗子はしっかりと受け止めた。

「はい。それはお約束します。浩司さんがそう望んでくださる限り……私は彼のそばにいます」

 その声に微かな不安を感じ取ったのだろう。夫人は軽く眉を吊り上げた。

「なんだか不吉な物言いね。あの子の心変わりを心配してるの?」

「あ、いえ、その……」

 ばつが悪そうに唇をかんで、蕗子が言いよどむ。いたずらを見つかった子供のような表情になった彼女に、夫人は困ったような微笑みを向けた。

「どうしてそんな風に思うのかしらね。あの子の気持ちは一目瞭然なのに」

 それを聞いて、蕗子もおずおずと微笑み返す。

「ええ……。そうですね」

 つぶやくように言って、少し考えこむ。蕗子は自分の考えを確かめるようにゆっくりと、言葉を選びながら答えた。

「私……自分に自信がないんだと思います。そのせいで、彼を苦しめていると思う時が何度かあったんですけど……。でも、なかなか治らなくて」

 夫人はしばらく考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。

「では、あなたを選んだ息子のことを信じてやって、とお願いするしかないわね。……私はね、あなた達に幸せになってもらいたいの。あなたのお姉さんや誠の分まで。それには、互いに信頼し合うことが必要なのではないかしら。猜疑心に凝り固まっていれば、二人の幸せにもいつか翳りが出てくるでしょう。それはあなた達だけじゃなく、周りのみんなを不幸にすることになると思うの。そうじゃなくて?」

「周りのみんなを……」

 夫人の言葉は、蕗子の胸に素直に染みこんでいった。まるで蕗子の心の中を照らしだして、もやもやしていたものの正体を明らかにしてくれたかのように。

「そう……ですよね。私が臆病なせいで、浩司さんだけでなく、将太も、お母さまも、他の皆さんも不幸にしてしまっているんですよね」

 小さな声でそう言うと、蕗子はすがるように顔を上げた。

「私、浩司さんを信じてます。いろんなことがあったけど、彼の気持ちは信じてるんです。追いかけてきてくれて嬉しかった。プロポーズしてくれて、ここに連れて帰ってきてくれて、本当に、本当に嬉しかった……。だけど、こんな地位の人と結婚することになるだなんて、今まで考えたこともなくて」

 うつむいて、唇を噛む。

「駄目なんです。浩司さんの奥さんになると考えただけで、震えてしまう。彼だったら女性なんて選り取りみどりなのにどうして、とか、いつか飽きられてしまったらどうしよう、とか、そんなくだらないことばかり考えてしまって……。そんなはずはないと頭ではわかってるんですけど。身分違いだなんて考え方は、時代錯誤だとは思うんですけど……」

 小さな声で告白を終えた蕗子を、夫人は悲しげに見つめた。

「そうね。確かに、脇坂家当主の妻の座につくのは容易なことではないわ。あなたの気持ちも、わからなくもない」

 そこで彼女は微笑みを消し、厳しい女主人の顔になった。

「でも、これだけは憶えておいて。私の息子はとても頑固よ。一旦手に入れようと決めたものは、例えどんな困難が待ち受けていようとも、完全に手中に収めるまで諦めたりはしない。そして、そうやって手に入れたものは、決して手放さない。

 だからね、蕗子さん。本当にこの結婚に不安を感じているのなら、それを彼に納得させなきゃダメ。でなければ、あの子は絶対にあなたの不安を理解しようとしたりはしないわ。よしよしと頭を撫でて、その場を丸く収めるだけ。だからもっと話し合いなさい。どんどん喧嘩しなさい。そうして互いを理解し合いなさい。

 そうまでしても不安が消えないと言うのなら……。そうね、その時はもう、婚約を解消するしかないわね。でも、もし浩司と別れるのが身を裂かれるほどに辛いと思うのなら。その時はどうか思い切って結婚してやって欲しいの。あの子のために。そして、あなた自身のために」

 それだけ言うと、彼女は再び柔らかい表情に戻った。

「結婚は夢なんかじゃない。現実の、それもかなりの忍耐と妥協を要求される難事業よ。相手に対する信頼がなければ、決して持続することはできないわ。

 愛だの恋だの、そういう表面的な感情は、いつかは冷めてしまうでしょう。だけど真に理解しあったカップルは、根底が絶対に揺るがない。その土台をきちんと作らなくてはね」

 結婚は生活だ。決してきれい事ではすまない。両親や姉夫婦の結婚生活を見てそうとわかっているはずだったのに、やはり夫人の話には衝撃を受けた。蕗子は話を聞きながら、彼女の言葉を胸に刻み込むように何度も小さく頷いた。


◆ ◆ ◆


 そこまで思い出して、蕗子はため息をついた。

 蕗子の不安や不信を吹き飛ばすために、今日の浩司はこれ以上ないというほど言葉を尽くしてくれた。そして、蕗子も一旦は納得したはずだった。

 だが、現実には。

 未だ不安を感じている自分がいる。口では信じていると言いながらも、浩司の言葉を心底信じきることができない自分がいる。この結婚に、思い切って飛び込めない自分がいる……。

 潤んだ目を固くつぶって、蕗子は布団の中で丸くなった。

 浩司に会いたい。そして、もう一度しっかりと抱きしめて欲しい。その確信に満ちた言葉で、私の不安なんて吹き飛ばして欲しい……。

 屋敷から遠く離れた場所で仕事をしている恋人のことを想いながら、ため息をつく。温かいしずくが目のふちから流れ出して、こめかみを濡らした。

 浩司の部屋で待っていると約束したが、まだ一人にはなりたくない。もう少し、こうしていよう。将太のそばで、将太の温もりを感じながら、もう少し。誰もいない部屋で彼を待つのは淋しすぎる……。

 蕗子は温かい甥の体にすり寄るようにしながら、布団に深くもぐりこんだ。


◆ ◆ ◆


 浩司が帰ってきた時、家の中はしんと寝静まっていた。

 ジャケットを脱ぎ、ネクタイもほどいて居間のソファの上に無造作に放り投げる。疲れたため息をつきながらホームバーに向かうと、彼はキャビネットからずしりと重いロックグラスを取り出して、ロックアイスの上からウイスキーを適量注ぎこんだ。

 薄暗い部屋に、カラリと澄んだ音が響く。浩司は長い指でグラスを取り上げると、琥珀色の液体をごくりと飲み干した。

 短い息を鋭く吐き出しながら、空になったグラスをバーカウンターに置く。空きっ腹にはさすがにこたえた。忙しさにかまけてろくに夕食もとらなかった自分に呆れて、浩司は苦笑をもらした。

 が、少量の酒は疲れた体を鼓舞する役には立ってくれる。浩司はグラスをその場に残して、足早に階段を上った。

 円形の居間の半分を取り囲むように設えられた半円形の廊下を、将太の部屋とは反対側に進む。その先が浩司の、いや、これからは夫婦のものとなるはずの寝室だった。

 蕗子を起こさないよう、静かにドアを開ける。

 部屋はしんと静まり返っていた。柔らかな光を醸し出すフロアスタンドも、足元灯すらもついていない。なぜだか嫌な予感がして、浩司は大股に部屋の奥に進んだ。

 奥まった場所に置かれた、キングサイズのベッド。それが目に入った瞬間、浩司は衝撃を受けたように足を止めた。

 レースのカーテンだけがかけられた大きな窓。そこから差し込む月明かりに煌々と照らしだされているその場所に、人が寝た形跡は全くなかった。

 浩司の脳裏を不吉な考えがよぎる。

「ばかな!」

 低い声で唸るようにつぶやいてその考えを否定すると、彼は足音も荒く蕗子の部屋に向かった。

 が、そこにも人影はない。ベッドの表面を触ってみたが、体温どころか皺一つ残ってはいなかった。

「そんな……まさか」

 嘘だろう。誰か嘘だと言ってくれ!

 心の中で悲痛な叫びを上げながら、一つ一つの部屋を見て回る。最後に残った部屋―――将太の部屋のドアを開ける時、彼の手ははた目にもわかるほど震えていた。

 静かに、だが思い切ってレバーを下げる。ドアはあっけなく開いて、その内部を浩司の目にさらけ出した。

 ベッドの上に乗せられた布団が、こんもりとした山を作っている。明らかに将太だけではないとわかる、大きな山だ。

 安堵に震える足を励まして、浩司はそっとベッドの中を覗きこんだ。

 大の字になっている将太と、横向きに丸くなっている蕗子。どちらもぐっすりと眠りこんでいる。

 それだけを確認すると、浩司はぐったりと壁にもたれかかった。

 長く震えるため息をついて、痛み始めたこめかみを揉む。

 くそっ。寿命が十年は縮んだぞ。

 小さく毒づいてから、彼は蕗子の体をそっと抱き上げた。


◆ ◆ ◆


 翌朝目覚めた時、蕗子は温かい何かにぬくぬくとくるみこまれていた。

 寝ぼけた頭で、何だっけ、と考える。

 ああ、そうだった。昨日は久しぶりに将太と寝たんだった。

 誰かの横で目覚めるのは久しぶり、と思いながら、蕗子はころりと寝返りを打った。

 が、思いがけず逞しい腕に行く手を阻まれる。

 驚いた拍子に今度こそはっきりと目が覚めて、蕗子はぱっと振り返った。

「おはよう」

 浩司だった。眠たげな、だが満足そうな瞳で蕗子に笑いかけている。蕗子はぱちぱちと瞬きを繰り返してから、ぽかんと口を開けた。

 浩司がくぐもった笑い声をもらしながら、そっと蕗子の唇の端に口づける。起きたばかりの彼のそれは、いつもより熱いように思えた。

「どうした?」

 甘やかすような声で問われて、恐る恐る部屋を見回す。

「あの……ここ、あなたのお部屋じゃないの?」

 まるで誰かが聞き耳を立てているのを怖れてでもいるかのような、ひそひそ声だ。浩司は可笑しそうに唇の端を歪めた。

「そう、僕の部屋だよ」

 その微かに非難めいた口調を聞いて初めて、昨日の約束のことを思い出す。蕗子は申し訳なさそうに浩司の顔を見上げた。

「ええと……あのう、約束を忘れたわけじゃなかったんだけど」

「ほう、そうだったのか。僕はまたてっきり忘れ去られているものと思っていた」

 冗談半分、だが半分は本気でなじられて、蕗子は真っ赤になった。

「だ、だって、昨日は将太が大変だったの。私から全然離れてくれなくて。元はといえば私が悪いんだから、仕方ないんだけど」

 そうか、とつぶやくと、浩司はゆっくりと体を起こして蕗子に覆いかぶさった。

「事情はわかった。だが、今朝のきみは僕のものだ。将太には渡さない」

 唇を触れ合わせる直前でそう囁いて、そっと舌を伸ばす。なまめかしい仕草で下唇を舐められて、蕗子は喘ぐように唇を開いた。

 蕗子の望みに応えるように重ねられる唇。熱く絡まる舌。目覚めて間もない肉体の隅々にまで行き渡る、強烈な欲望。

 やがて蕗子は浩司の首に両腕を回し、彼に負けない激しさでキスに応え始めた。浩司は喉の奥で満足そうな声をあげると、はっきりとした目的を持って愛しい人の体を組み敷いていった。


◆ ◆ ◆


「……大学は、どうする?」

 愛し合った後の濃密な空気の中、浩司がつぶやくように問いかけた。

 この場には似つかわしくない、あまりにも唐突な質問だ。だが、蕗子にとっては頭の片隅にずっと引っかかっていた問題だった。少し考えてから、目の前にある逞しい胸板に、片手を広げるようにして置く。

「できれば卒業したいけど……」

 語尾を濁した蕗子のその手を、浩司がそっとすくい上げた。指の一本一本にキスをしながら、横目で蕗子を流し見る。

「じゃあそうすればいい。今まで必死に頑張ってきたんだ、その証を手に入れても罰は当たらないさ」

 だが、蕗子の返事はなかった。今ひとつ乗り気ではないようだと察して、浩司は眉を上げた。

「どうした?」

 言いにくそうに唇を噛んでから、蕗子は上目遣いに浩司を見た。

「だって、ここから通うのは大変だわ。私、運転免許なんて持ってないし、かと言って毎回誰かに送り迎えしてもらうのは気詰まりだし」

 すると浩司は、なんだそんなことか、とでも言いたげな微笑みを浮かべた。

「その点については心配しなくていい。週日は会社の近くのマンションで暮らすつもりだからね。駅が近いから、電車で通えるだろう」

「でも、それじゃあ将太は?」

「無論、将太も連れて行けばいい」

「だって、そんなことをしたらまた元の生活に逆戻りだわ。将太を保育園に入れて、私が迎えに行って……」

「人を雇うさ。保育園に迎えに行った後、きみが帰ってくるまで将太の相手をしてくれるような人をね。家事は通いの家政婦がやってくれるし」

 こともなげに言う浩司をじっと見つめながら、蕗子は悲しげにかぶりを振った。

「それじゃ駄目なのよ。昨日の様子を見ていると……」

 自分の行動を悔やむように唇を噛む。

「今の将太は安心を求めているんだと思うの。突然両親を亡くした上、私まで家を出てしまったでしょう。もう誰もどこにも行かないって、確信したいんじゃないかしら。……考え抜いた末にここから出ていくことを選んだつもりだったけれど、結果的には将太を傷つけてしまった。あの子には申し訳ないことをしたと思ってるわ……」

 そう言ってうつむく蕗子を、浩司は困ったように眺めた。

「じゃあ一体どうしたいんだ」

 静かな口調で問う。蕗子は片肘をついて上半身を起こし、申し訳なさそうに浩司を見下ろした。

「……大学へは、将太が精神的に落ち着いてから戻りたい」

 さらさらとこぼれ落ちた蕗子の髪を少しすくってキスをしてから、浩司はあっさりとそれを許した。

「なら、そうすればいいさ」

「……いいの?」

 おずおずと問いかける蕗子に、鷹揚な微笑みを向ける。

「僕は別に構わない。きみがしたいように」

 蕗子はごくりと唾を飲み込んでから、重ねて訊ねた。

「結婚するのは卒業してからがいいって言っても?」

 さすがにそれは聞き捨てならなかったのだろう、浩司が表情を変えた。

「何だって?」

「きちんと卒業してから結婚したいの」

 すると浩司は蕗子を胸に抱いたまま、むくりと起き上がった。蕗子の両肩をしっかりと掴んで、軽く揺さぶりながら言う。

「ちょっと待て。卒業と結婚は別だろう。結婚が先だ。それだけは譲れない」

 蕗子は彼の視線を避けるようにうつむいた。

「私……考える時間が欲しい。ううん、慣れる時間、かな……」

「慣れる? 何に慣れると言うんだ?」

「あなたの妻になるという考えに……」

 一瞬絶句した後、浩司は蕗子の肩を掴んでいる手に力をこめた。

「今更何を言うんだ。昨日、結婚を承諾してくれたじゃないか。あれは嘘だったとでも言うつもりか?」

「嘘なんかじゃない! 今だって結婚したいわ。あなたの奥さんになりたい」

「それならなぜ……」

「だって、あなた普通のサラリーマンじゃなかったんだもの!」

 たまらなくなって蕗子がそう叫ぶと、浩司は虚を突かれたように黙り込んだ。信じられないと言いたげなその表情を見ていられなくて、蕗子は顔を背けた。

「あなたの奥さんになるには、覚悟が要るの。わかって……」

 弱々しい声で哀願する。二人の間に重い沈黙がたれこめた。

 浩司がゆっくりと蕗子の肩から手を外す。膝に落ちたそれがぐっと握りしめられるのを、蕗子はうつむいたまま、申し訳なさそうに見つめていた。

「……僕を愛してないのか」

 やがて聞こえてきた浩司の声は、これ以上ないというほど強張っていた。蕗子は弾かれたように顔を上げ、彼の傷ついた表情を見て声をあげた。

「愛してるわ! 愛してなかったら、あなたとこんな……」

「じゃあなぜだ! その話は昨日済んだはずじゃないか! 今更なぜ蒸し返す!」

 そう言われても仕方がない。蕗子は再びうつむいた。

「……ごめんなさい。だけど、自分に嘘はつけない。あなたを愛してる。でも、やっぱり怖いの。怖くて怖くて仕方がないの。それを、理解して欲しかったの……」

 震える声で告白した途端、ほろほろと涙がこぼれ出した。慌ててそれを指先で拭う。だが、拭っても拭っても涙はこぼれ続け、やがてシーツに丸いしみをいくつも作った。

「……泣くな」

 ぶっきらぼうな声で浩司がつぶやく。蕗子はびくりと体を震わせた。

「ごめ……」

 が、謝罪の言葉は途中で途切れてしまった。浩司に有無を言わさず抱き締められたのだ。

「違う、そういう意味じゃない。……謝るのは僕の方だ。きみの気持ちを考えもせず」

 すまなかった、と囁かれて、蕗子は安心したように体から力を抜いた。

「浩司さん……」

 甘えるように、浩司の胸に顔をすり寄せる。そんな蕗子の髪をそっと指ですきながら、彼は再び口を開いた。

「もう逃げないと約束するなら、少しだけ猶予をあげよう」

 優しさと諦めの混じった声で、渋々譲歩する。が、彼はそこで口調を変えた。

「だが、もし逃げ出したりしたら、今度は容赦しないぞ。泣き叫ぶきみを引きずってでも、祭壇に連れて行く」

 わざと怖がらせるような声音を作る浩司に、蕗子が泣き笑いの声をあげる。

「浩司さんったら」

 蕗子の目尻に軽いキスを置いて、浩司はふっとため息をついた。

「言っておくが、長くは待たないぞ。なるべく早く結婚したい。そのための努力は惜しまないつもりだ。だから、きみも努力してくれ。僕のために」

 強引な物言いの奥に見え隠れする優しさ。それを蕗子は敏感に感じ取っていた。安堵の微笑みを浮かべて、逞しい体にそっと腕を回す。

「うん。わかった」

 素直にそう答えてしがみついてくる恋人を、浩司は複雑な面持ちで眺めていた。

 本当なら明日にでも入籍してしまいたい。正式に脇坂の名を与えて、何もかもを自分のものにしてしまいたいのだ。

 だが、無理にそんなことをしても、目の前の女性は自分のものにはならないとわかっていた。浩司は諦めたような笑みを浮かべると、蕗子をそっとベッドに横たえた。

「まったく、困った人だ。涙一つでこの僕を従わせるんだから」

 まだ残る涙のあとを唇で吸いながら、囁く。蕗子の瞳に不安そうな影が宿った。浩司はそれを覆い隠すようにキスで瞼を閉じさせると、一瞬にして理性を吹き飛ばすような濃厚な口づけを彼女に仕掛けた。

 最初は戸惑っていた蕗子も、やがて浩司と同じ激しさで応え始める。そうと確信すると、浩司はにやりと笑って唇を離した。

「まあ、多少なら婚約期間があるのも悪くない。恋人気分が味わえるからね」

 唇が触れ合うか触れ合わないかというぎりぎりの位置で、囁きかける。浩司の首に回された蕗子の腕に力がこもった。

「大学は戻りたい時に戻ればいい。僕もできる限りの応援はする。だが、まずは結婚だ。結婚しないまま復学するのは許さない。いいね?」

「う……ん」

 ためらいがちに蕗子が頷く。浩司は満足そうに微笑むと、蕗子の望みをかなえるために頭を下げていった。

これにて完結です!

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ