25
彼に促されるまま澪の家を出ようとした蕗子は、玄関から出た途端に鍵を持っていないことに気付いた。
突然立ち止まった蕗子を、浩司が訝るように見下ろす。
「私……行けないわ。この家の鍵を持ってないの」
そんなことか、と言うように浩司が微笑んだ。スーツのポケットに手を入れて、その中から魔法のように鍵を取り出す。唖然としている蕗子の前で、彼は悠然とドアに鍵をかけた。
その鍵をドアポケットから玄関の中に落とし入れると、浩司は再び蕗子の肩を抱いた。
「澪さんから預かっていたんだ。行こう」
「待って……。澪は……あなたは……」
浩司に促されて歩き出しながら、ことの経緯がつかめずにつぶやく。戸惑ったような蕗子の顔を見て、浩司の口からため息が漏れた。
「機内から、澪さんに電話をかけたんだ。最初は胡散臭がられたが、きみとのことを説明したら納得してくれた。彼女はきみと二人きりで話ができるようにお膳立てしてくれて、話が丸く収まったらきみを連れて帰れるよう手配しておいてくれた。まあ、大まかに言うとそういうことだ」
「機内って……飛行機では携帯の使用を禁止されてるはずよ」
「衛星電話が装備されてるんだ」
「衛星電話?」
「そう」
ちょっと考えてから、蕗子は困ったような顔になった。
「今どきの飛行機って、すごいのね」
その言葉で、浩司にもやっと二人の会話がすれ違っていることがわかる。
「ああ……ジャンボジェットは、どうだろう。最近乗ってないからな。わからない」
「え……乗ってないって……」
「乗るのは、専ら小型ばかりなんだ」
「……あの、もしかして、小型飛行機を、チ、チャーターしてるとか、そういうこと?」
「いや。会社が所有してる。移動の時間が無駄にならなくて、経済的だろう?」
胸の奥に芽生えた不安な気持ちを抑えて、浩司は茶化すように言った。
ワキサカという大会社に裏打ちされた莫大な財産とその生活様式が、蕗子を脅かしていることはわかっている。だが多忙な生活を送っているため、移動手段はヘリコプターかビジネスジェットか車というところで、公共交通機関を利用しなくなって久しいというのは動かしがたい事実なのだ。
それに慣れてもらわないことには、どこにも進めない。
浩司は思い切って蕗子の顔を覗き込んだ。
「また、脇坂家のなんとか、とか言わないでくれよ」
心配そうな浩司の声を聞く頃には、蕗子の驚きも幾分おさまっていた。諦めたように、大きなため息をつく。
「今更そんなこと言わないけど……。綿密に計画を立てたつもりだったのに、こんなにあっさりと捕まっちゃったなんて、なんだか口惜しい」
だが、その口調からは口惜しさなど微塵も感じ取れなかった。浩司はにやりと笑って、大げさな仕草で腕時計を見た。
「きみの綿密な計画は、僕にばれてから……そう、ざっと六時間くらいで頓挫したな」
「六時間!?」
「そんなものだろう」
「たったの六時間で、居所を突き止められて、連れ戻されちゃうの?」
がっかりしたような、嬉しいような、複雑な口調だ。浩司はふっと微笑んでから、真面目な顔で蕗子の顔を見下ろした。
「必死になると、人間、なんでもできるものだ」
蕗子の足がゆっくりと止まる。浩司も合わせて足を止めた。
「必死……だったの?」
そうだと言って欲しい。そんな願いを表情にちらつかせながら、蕗子が訊く。その願いに違わず、浩司は力強く頷いた。その表情に嘘偽りはなかった。
「必死だった。きみのいない人生なんて、考えたくもない」
蕗子の瞳がみるみるうちに潤み、涙がぽろりとこぼれ落ちた。
「また、泣くのか?」
人差し指を曲げてそっとその涙をすくいあげながら、浩司が聞く。蕗子はゆっくりと微笑んで、彼の胸にしがみついた。人通りの激しい往来であろうと、道行く人々から見つめられようと、そんなことはどうでも良かった。ただひたすら、浩司の深い愛に包まれたかった。
浩司は音をたてて蕗子の頭にキスをすると、蕗子を抱く腕に力を込めて、彼女を促した。
「さあ、行こう」
蕗子はこくんと頷き、未来の夫に愛情を込めて微笑んだ。
◆ ◆ ◆
ホテルは、誰でも聞いたことがあるような一流ホテルだった。しかも、ロイヤルスイートルームだ。いきなり訪れたのだろうに、こういう部屋が用意されてしまうところがワキサカの恐ろしいところだ。
慣れるしかないか、と内心でため息をつきながら、蕗子は豪華な室内に入った。
案内役のボーイが姿を消して二人きりになると、なぜか恥ずかしさが先に立ってしまう。蕗子は浩司と目を合わせるのを避けて、部屋の内装を見て回っては感嘆の声を上げた。
「蕗子」
不意に名前を呼ばれて、振り返る。居間の真ん中に立ち尽くしている浩司は、なぜかとても緊張した様子だった。
「はい。なあに?」
蕗子も緊張して答える。
すると、浩司は可笑しそうに微笑んだ。
「こっちにおいで」
言われてすぐ、蕗子は浩司のそばまで歩み寄った。あと一歩で彼の胸に飛び込むというところで、蕗子は足を止めた。
浩司もそれ以上近づこうとはしない。そのままの姿勢で、二人は見つめ合った。
「ずいぶん前に買ったんだが、今まで渡す機会がなかった」
と言いながら、浩司がスーツのポケットに手を忍ばせた。そこから出てくるものが何であるか、蕗子にもおぼろげながら見当がつく。どきんと心臓が飛び跳ねた。
浩司の大きな手に握られていたのは、蕗子の予想通り、上品な藍色の、ベルベット地の小さな箱だった。
ゆっくりと、浩司が蓋を開ける。蕗子はどきどきしながら彼の手元を見つめた。
中から現れた真っ白なベルベット台に、ちょこんと収まった宝石。その淡いピンク色は、蕗子の想像の範疇を超えていた。
浩司がそれを慎重に取り上げる。
浩司に左手を持ち上げられて、蕗子は指輪をはめやすいように指を伸ばした。
ゆっくりと、プラチナのリングが薬指に押しこまれる。それが指の根元に落ちつくと、浩司は満足そうに指輪のはまった華奢な手を眺めた。
「これ……」
ためつすがめつ指輪を眺めてつぶやく蕗子に、微笑みかける。
「ピンクダイヤだ。きみの誕生石にしようと思ってたんだが、店に入った途端にこの宝石が目に入ってね。あまりにもきみのイメージにぴったりだったから、すぐに買ってしまった」
実際、それは店内の一番目立つところに、しかも厳重な警報装置に囲まれて展示されていた。展示のための展示品。指輪ではなく、売り物ですらなかったそれを財力にものを言わせて買ったことを知ったら、またこの娘は怒り狂うのだろう。そんなことを想像して唇の端がひくつくのを、浩司は懸命にこらえた。
相手がそんなことを考えているなどとは思いもかけない蕗子は、いろんな角度から指輪を検証することに忙しかった。
ピンクダイヤ……。かなり希少価値のあるものだと聞いたことがある。最近はファッションリングなどに小さなカラーダイヤが使われているようだが、こんなに大きなものを見たのは初めてだ。
一カラットはあろうかというブリリアントカットのそれは、シャンデリアの灯りを反射してきらきらと輝いていた。余計な装飾は一切ない。
「気に入らなかったら、別のを買うよ」
浩司が、彼らしくもなく控えめに口を挟む。蕗子が黙ったままなので、不安になったらしい。
宝石がもっと大きい、けばけばしいデザインのものだったら気に入らなかっただろう。ダイヤのまわりにごちゃごちゃと細かい石がついていても、文句を言ったに違いない。だがこれは、この指輪は完璧だった。
シンプルで控えめ、でも見た者を虜にする美しさ。この世の中でも珍しい、貴重な存在。浩司は自分のことをそんな風に思ってくれているのだ。
蕗子は顔を上げて感謝の笑みを浩司に投げかけた。
「ううん。ものすごく素敵。ありがとう」
すると、浩司は可笑しくなるくらいほっとした表情になった。
「きみが気に入るだろうとは思ってたけど、やっぱり緊張するもんだな」
切なくなるくらい素直な表情で、そんなことを言う。蕗子の胸がきゅんと締めつけられた。
大仕事を終えて安心したのか、浩司はさっと二人の間の距離を縮めて蕗子を抱きしめた。
「幸せになろう」
浩司の胸の中で、蕗子は微笑んだ。
「うん」
抱き合った余韻に浸る暇もなく、浩司がいきなりかがみこむ。と思った次の瞬間には、蕗子は彼に抱き上げられていた。驚きの声を上げて浩司の首にしがみつく。標準より身長の高い蕗子はそれなりの体重があるのに、軽々と横抱きにされてびっくりした。
目を見開いている蕗子の顔をのぞきこむようにして、浩司が囁いた。
「手始めに、僕の体を幸せにしてくれ」
からかうようなその台詞に、蕗子の顔がみるみる赤く染まっていく。
「ば、ばかっ。なんでそう即物的なの!」
「男なんてこんなもんだよ」
高らかに笑いながらそんなことを言って、すたすたと歩き出す。その足取りは確かだった。揺らぐことなく大股に、蕗子を寝室に運ぶ。
そっとベッドの上に下ろされて、蕗子は浩司の顔を仰ぎ見た。先ほどまでのいたずらめいた表情が消え去り、激情を宿した熱っぽい瞳が蕗子を見下ろしている。
強い光をたたえたその瞳を、蕗子は臆することなく見つめた。
浩司が安心したように微笑み、ゆっくりと顔を下ろしてくる。唇を開いてそれを待ちうけながら、蕗子はうっとりと目を閉じた……。
◆ ◆ ◆
「将太が朝から泣いている。そろそろ帰らなくては」
浩司の腕枕に頭を預けて満足そうに目を閉じている蕗子に、浩司は渋々といった様子でそう告げた。蕗子ははっとしたように目を開き、浩司を見上げた。
「何かあったの? だから、お母様があなたに連絡したの?」
おろおろして起き上がりかける蕗子をなだめるように、浩司は腕枕をしていない方の手で彼女の体を押さえこんだ。
「違うよ。将太が泣いていたのは、きみが消えてしまったからだ。朝、きみの部屋のベッドの上で泣きながら眠っていたらしい」
そこまで言って、浩司はふと言葉を切った。眉をひそめて、罪悪感に歪んだ蕗子の顔を見下ろす。
「なぜ急に出ていこうと思ったんだ? 将太はあんなにきみに懐いていたのに。将太のことを第一に考えていたきみが、なぜ将太を置いて出て行こうとしたのかが、どうしてもわからない」
浩司の静かな声に、責めるような響きはなかった。だが、そのことがかえって蕗子の罪悪感を深めた。
蕗子が唇を噛んでうつむくと、浩司は体ごと蕗子に向き直って彼女を抱き寄せた。ほんの少しためらいを見せただけで、蕗子が身を委ねてくる。静かな悦びに満たされながら、浩司は慎重に先を続けた。
「責めてるんじゃない。理由を聞きたいんだ。将太を連れて行ったら、母が悲しむと思ったのか?」
その問いに、蕗子はゆっくりと首を振った。その事が全然頭になかったといえば嘘になるが、本当の理由はそうではない。
辛抱強く返事を待っている浩司を見上げ、蕗子はおずおずと話し出した。
「将太は……あの家で、すごく幸せそうだったわ。広い家、たくさんのおもちゃ、気の合う友達。それに……存在すら知らなかった、優しいおばあちゃん。あの子ね、お母様に犬を飼ってもらう約束をしているの。昔から欲しがってはいたのよ。でも、今までずっとマンション暮らしだったでしょう。経済的にも、ペットなんて到底無理だった。だから、その約束をしてからものすごく楽しみにしていて……」
涙が込み上げてきて声が震える。蕗子はぎゅっと唇を噛んで感情の高まりをこらえ、落ち着いてから続けた。
「私といるより、この家にいた方が将太のためにはいいんだって、そう思ったの。私には、広い家も、犬も、高価なおもちゃも、何にも将太にあげることができない。二人が生活できるぎりぎりの収入しかなかったし、それだって、あなたに紹介してもらった仕事があったからやってこれただけ。
将太が大きくなったら教育費もかかるし、大学や、もしかしたら留学したいと思うかもしれない。姉夫婦が遺した保険金は手つかずで残ってるけど、それでも私の経済力でどれだけのことをしてやれるのか、さっぱりわからないわ。
もしもあなた達が存在していなかったら、いえ、関わりを持とうとしなかったら、それでも何とかやっていこうと思えたでしょう。でも、あなたの家に行って、あなたの財力と将太の幸せそうな様子を見たら……」
最後は、どうしても言葉にならなかった。蕗子は浩司の胸に置いた両手をぐっと握りしめて、口をつぐんだ。
「だが、きみの愛情は? 将太にとって、それが何よりも大切だとは思わなかったのか?」
浩司が、静かに言葉をはさむ。蕗子は激しく首を振った。
「愛情なら、あなたとお母様、それに、キミさんだってたっぷりと注いでくれたわ。将太を赤ん坊の頃からずっと見てきて、姉夫婦が亡くなってから面倒を見て来たのは、確かに私よ。でも、所詮は叔母だもの。決して親にはなれない。それなら……同じ立場なら……裕福な境遇を取った方が、後々あの子のためだと……」
「もういい。わかった。わかったから」
声を殺して泣いている蕗子をぎゅっと抱きしめ、守るように揺すりながら、浩司はつぶやいた。
「辛い選択をしたな」
濡れた顔をそっと上げさせ、涙を拭うように唇を這わせる。蕗子の体から緊張が解けていくのがわかった。
「将太には……前もって、言ってから?」
出て行ったのか、という言葉は使わなかった。蕗子には、浩司のその心遣いがありがたかった。
「ええ。昨夜、寝る前に。私について来るって……言ってくれたわ。でも、いつでも会えるからって、言い聞かせたの。納得してくれたように見えたけど……」
「将太は将太で、我慢していたんだろうな。今朝の将太は半狂乱だったと聞いた」
将太、とつぶやいて、蕗子は両手で顔を覆った。
「捨てられたと思ってるわよね」
涙にむせびながら、つぶやく。浩司は下手な慰めなど言わずに、ゆっくりと頷いた。
「まだ小さいから、きみが考えたことは理解できないだろう。だが、今すぐ帰ればまだ間に合う。きみに捨てられたわけじゃないと、納得してくれるさ」
蕗子は涙がいっぱいたまった目を見開いて、浩司を見上げた。
「……迎えに来てくれて、ありがとう」
そう囁くのが精一杯だ。浩司は、そっと微笑んでから、心からの愛情を込めて彼女の唇を熱いキスで覆った。
◆ ◆ ◆
近くの空港に待機していたビジネスジェットに乗って、二人は一路東京へ向かった。
その経験は、蕗子が持っていた小型飛行機の概念をことごとく覆すことになった。
ジャンボジェットを小さくしたような外観は勿論、その内装も想像以上だ。
四人で小会議ぐらいは開けるようなテーブルを挟んで向かい合った座席、ゆったりとリクライニングする一人用の座席。奥にはソファやステレオセットなど、長時間の飛行も快適に過ごせるようなスペースがある。ソファはベッドにもなるらしく、夜でもぐっすり眠れそうだ。
狭い空間と、壁に一定間隔で設けられている丸窓がなければ、到底飛行機の中だとは思えなかっただろう。
十人くらいは楽に乗れるだろう機内だが、乗客は浩司と蕗子の二人だけ。あとはパイロット達だ。
空の旅は快適だった。ほんの一時間ほどで成田空港に着き、そこからヘリコプターに乗り換える。浩司が本社の屋上ヘリポートから乗ってきたヘリコプターは、指示通りいつでも飛びたてるようになっていた。
ヘリコプターの旅は、ビジネスジェットよりはるかにゆっくりと進む。その分、景色も楽しむことができた。
北海道を発つ時に空を紅く染め上げていた夕日はとうに沈み、眼下にはきらびやかな夜景が広がっていた。
だが、将太のことが心配な蕗子には、景色を楽しむ余裕などないようだった。何度も腕時計を見て時間を確認している蕗子を、浩司はそっと抱き寄せた。
しばらくすると、浩司が遠くに見える一点を指差した。山の中腹が、妙に明るく照らし出されている。そこを目指して飛ぶようパイロットに指示を出している浩司の横顔を見ながら、蕗子はやっと帰ってきたという実感に胸を熱くしていた。
ヘリコプターが脇坂家の上空に着いた時、家の中から数人が出てくるのが見えた。緊急用のサーチライトがいくつも置かれて、ヘリコプターが着陸できる場所を明るく照らし出している。いつもなら車道以外は真っ暗な庭が、今日ばかりはまるで真昼のように明るかった。蕗子は身を乗り出して下を覗き込み、その中に将太の姿がないか必死で目を走らせた。
果たして、将太は、その中にいた。無闇に飛び出さないよう、片膝をついた格好の津本にしっかりと抱きかかえられている。その横には、心配そうな脇坂夫人の姿もあった。
ヘリコプターがゆっくりと旋回しながら着地する。浩司に抱きかかえられてヘリコプターから下りると、蕗子は真っ直ぐ将太の方に向かっていった。
「蕗ちゃん!」
将太が涙ながらに叫び、津本の腕を振り切って駆け出す。蕗子も走り出した。ぶつかるようにして抱き合った二人は、泣きながら相手にしがみついた。膝を突いて将太を抱きしめながら、蕗子が何度も、ごめんね、とつぶやく。将太はわあわあ泣くばかりだ。
やがて、浩司がゆっくりと蕗子を立たせた。スカートの下は素足だったので、膝小僧をすりむいている。軽く眉をひそめてその傷を見た後、蕗子の腰に抱きついている将太を抱き上げた。
渋々伯父の腕に抱きかかえられた将太は、心配そうに蕗子を見やった。
「蕗ちゃん、帰って来たの? もうどこにも行かない?」
涙に濡れた顔を晴れ晴れと輝かせて、蕗子は頷いた。涙で喉が詰まって声を出せないでいる恋人の代わりに、浩司が力強く請け負う。
「そうだよ。もう絶対にどこにも行かない。伯父さんと結婚するからね」
すると、将太は目を真ん丸に見開いた。
「結婚しゅるの?」
微笑んで頷く蕗子と、穏やかな伯父の表情を見比べながら、聞く。
「じゃあ、蕗ちゃんもこの家の子になるの?」
昨夜の例えを持ち出されて、蕗子は赤面した。浩司が眉を跳ね上げ、問いかけるように蕗子を見やる。それには応えず、蕗子は照れ臭そうに甥に微笑みかけた。
「そうよ。将太と同じ、脇坂蕗子になるの」
背後で、驚いたような、安堵したようなため息が漏れた。振り向くと、そこには浩司の母の優しい微笑みがあった。蕗子はおずおずと微笑み返し、問いかけるように口を開いた。
「お騒がせして、申し訳ありませんでした。あの……?」
すると、彼女は鷹揚に頷いて、歓迎するように両手を広げた。
「ええ、ええ。聞いていましたよ。私の望み通りになって、何も言うことはないわ。ただし、もう出て行くのはなしよ。例え浩司と喧嘩してもね」
その言葉に、蕗子の頬が真っ赤に染まる。浩司はそんな彼女を空いているほうの手で力強く抱き寄せ、将太と母親、そして蕗子に誓うように宣言した。
「そんなことはさせませんよ。僕の命にかけても」
浩司の言葉に安堵したのか、夫人は大きく頷くと、津本を伴って屋敷に入っていった。去り際、津本がちらっと振り返り、浩司に向かって親指を立ててみせた。浩司も同じ事を返す。蕗子が不思議そうに見上げると、彼はにっこり笑った。
「こうして僕達が幸せになれたのは、半分は津本のおかげじゃないか?」
その言葉を聞いて、蕗子も納得する。
そういえば、昨夜はまさにこの場所で津本と対決したのだ……。あの時の悲劇のヒロインぶった自分を思い出すと、顔から火が出るほど恥ずかしい。
真っ赤になった蕗子の頭にキスを置きながら、浩司が可笑しそうに訊く。
「真っ赤だぞ。どうした」
「う、ううん。なんでもない」
その時、将太がじれったそうに浩司の肩を押しやり、地面に下りたがった。浩司は蕗子の方を見て苦笑してから、望み通り甥を下ろしてやる。将太はすぐに蕗子の手を取り、屋敷の方へと引っ張り始めた。
「ねえねえ、蕗ちゃん、見てよ。僕、おばあちゃんに犬を買ってもらったんだよ」
どうやら、浩司の母は泣き喚く孫をなだめる為に、予定より早く犬を買ってしまったようだ。蕗子は浩司の呆れたような顔を見て、思わず吹き出してしまった。
大はしゃぎの将太に引っ張られて屋敷に向かいながら、蕗子が申し訳なさそうな微笑みを浮かべる。浩司は許可するように頷いて、二人の姿を見送った。
「ライバルは甥っ子、か」
半ば本気でつぶやく。
これはなんとか対策を考えておかないと。あんな小さな子供と一人の女性を取り合うのは、ごめんこうむりたいからな。
浩司は軽く首を振って、二人の後から屋敷に向かった。蕗子の膝の手当てをしてやらなければ、と思いながら。
◆ ◆ ◆
ヘリコプターが会社所有の格納庫に向かって飛び立ち、庭や屋敷の屋上などに取りつけられたライトがすべて取り払われると、そこはいつも通りの穏やかな時間を取り戻した。
「やれやれ。世話の焼ける二人だ」
ライトを片付け、警報装置のチェックをしながら、津本がつぶやいたとかつぶやかなかったとか……。
ひとまずここで大団円です。
後日に書き足したエピローグに続きます。