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偽りの恋人  作者: 水月
24/26

24

R15です

「蕗? じゃあ私、買い物に行くけど」

 ひょいと居間の入り口から顔をのぞかせて、澪が言う。蕗子ははっとしたように振り返り、申し訳なさそうに微笑んだ。

「私もついて行こうか? 荷物持ちくらい……」

「そんな風に気を使わなくてもいいってば。いろいろあったんだから、しばらく何も考えずにぼんやりしてらっしゃい」

「……ぼんやりしてる方があれこれ考えすぎて辛いかも」

 ぼそっと言ったのだが、澪には聞こえてしまったらしい。複雑な表情を浮かべて蕗子を見つめている。

 その顔に浮かんでいるのが哀れみだけではないことを発見して、蕗子はちょっと意外に思った。そう、なんというか、秘密めいたというか、何かを楽しんでいるというか……。

「じゃ、行ってくるね」

 だが、そう言ったときの澪は、いつも通りの彼女だった。蕗子は内心首を傾げながら、玄関先まで彼女を見送った。

「行ってらっしゃい」

 澪が行ってしまうと、蕗子は壁にもたれかかって、ため息をついた。

 今朝早く着いた蕗子を、澪は何も言わずに温かく迎えてくれた。それほどに思い詰めた様子をしていたのだろう。澪の夫も、蕗子とは結婚式の日に一度会ったきりなのに、まるで早朝に訪ねてくるのが当たり前の関係であるかのように振る舞ってくれた。

 脇坂家を出たあと、真っ直ぐにここに来たわけではなかった。一旦は自分のマンションに帰ったのだ。だが、やっと帰ってきた我が家だというのに、まるで他人の家に上がりこんだような気持ちになってしまった。

 ショックだった。

 見慣れたはずの家具がいやによそよそしく感じられることに耐えかねて隣の部屋を訪ねると、幸いなことに亮は帰宅していた。

 いきなり帰ってきた蕗子の姿を見て驚いたようだったが、やはり何も聞かずに迎え入れてくれる。今にも泣き出しそうな様子の蕗子に入浴を勧め、落ち着いたところで、コーヒーを飲みながら蕗子の話を聞いてくれた。

 亮は何も言わなかった。蕗子の話に耳を傾け、相槌を打ち、時々慰めるように頭をぽんぽんと叩くだけで。だが、亮のその態度のおかげで、そして心の中のわだかまりを第三者に全て打ち明けたことで、自分でも驚くほどすっきりとした気分になれた。亮におやすみを言うとき、微笑みさえ浮かべることができるほどに。

 亮の勧めもあって、その日は泊めてもらうことにした。

 長い長い夜だった。

 蕗子に明け渡してくれた部屋は寝室の隣で、薄い壁一枚隔てたところに亮がいる。それでも不安で、なんだかこの世に独りぼっちになってしまったようで、眠れなかった。客用布団の中で何度も寝返りを打ち、まんじりともせずに過ごすことになった。

 澪のことを思い出したのは、そんな時だ。彼女が結婚して北海道に行ってしまってからはほとんど会うこともなくなっていたが、それでも時々電話で話はしていた。いつでも遊びに来て、と言われながらも忙しさに取り紛れて行けないままでいたのだが。

 会いたい、と思った。

 他人の軽い誘いにすがりつくなんて、初めての経験だった。

 だが、社交辞令などを交わすような間柄ではないから。澪の言うことは、いつでもそのまま本気だから。素直に、弱音を吐ける相手だから。

 どうしても会いたくなった。

 まだ空が白み始めたぐらいの早朝に、悪いと思いながら亮の寝室のドアをノックすると、彼はすぐにドアを開けた。まるで蕗子と同じく、一睡もしていなかったかのように。

 亮に、親友に会いに行くことを告げ、もし脇坂の人間が追いかけてきても決して居所を教えないよう念を押してから、ここの住所を教えてきた。万一将太に何かあった時、連絡がつかないようにはしたくなかったからだ。

 亮は神妙な顔つきで頷き、すぐに飛行機の手配をしてくれた。おかげで、その日の始発に乗ることができたのだった。



 ピンポン。

 突然インターホンが鳴って、物思いを破られる。蕗子は苦笑した。鍵を忘れでもしたのだろうか? 蕗子がいるのだから、鍵ぐらい忘れてもどうと言うことはないのに。

「はいはい、忘れも……」

 ドアを開けて目の前にいる人物を見た途端、蕗子の口から言葉が途切れた。

 ぽかんと口を開けた蕗子を、浩司が食い入るように見つめている。目の下のくまも、青白い顔色も、充血した目も、蕗子の全てを目に焼き付けるように、まっすぐな視線で。

「入ってもいいかな」

 静かに、浩司が問う。蕗子ははっとしたようにかぶりを振った。

「それは……困るわ。ここは友達の家で……」

「ああ、知ってる。澪さんには了解を得てあるよ」

 平然と言う浩司の言葉に、蕗子は息を呑んだ。なんだか様子がおかしいと思ったら、こういうことだったのね……。

 蕗子は渋々後ろに下がって浩司を通した。ちょっと考えてから、居間に向かう。その他に、浩司と対決できる場所を思いつかなかった。

「どうしてここが分かったの?」

 部屋の中ほどでくるりと振りかえって、ぎこちなく問いかける。浩司は穏やかに微笑んだ。

「加納くんに聞いた」

「……嘘」

 信じられないというように険しい顔でかぶりを振る蕗子を見て、浩司は大きなため息をついた。

「一度失くした信用は、なかなか取り戻せないのが世の常だな。だが、きみにはもう嘘はつかない。疑うなら、本人にきいてみればいいさ。ほら」

 と言いながらポケットから携帯電話を取り出す浩司を、蕗子は胡散臭げに見守った。

「……ほんとに亮ちゃんから聞いてここに来たの?」

「本当だ」

 深く頷く浩司を、今度は信じたらしい。蕗子は憤怒に燃える目で携帯電話を睨みつけた。まるでそれが亮であるかのように。

 いつまでたっても蕗子が携帯電話を取ろうとはしないので、浩司は仕方なくそれをポケットに戻した。

 二人の間に重くのしかかる沈黙。

 蕗子もそうだが、浩司もまた何から話せばいいのかわからないというように黙ったままであることが意外だった。どんな場面でも適切な言葉を探し出すのが得意な人なのに。

 ふと会議のことを思い出して、蕗子は時計を見た。午後二時過ぎ。確か、もめているか何かで昨日の会議が今日に持ち越したのではなかったか。なのに、今彼はここにいる。亮に教えてもらったとしても、なぜこんなに早くここに辿りつけたのだろう?

 蕗子は唇を舌で湿らせてから、思いきって疑問をぶつけた。

「いつ、私がいないことに気付いたの?」

「八時過ぎかな」

「今朝の?」

「そう」

「だって……その時はまだ大阪にいたんでしょう?」

「ああ。母から電話があった」

 なるほど。もちろん、彼女は息子に連絡するはずだ。それすら考えつかなかった自分に腹が立つ。

「じゃあ、会議が終わってすぐここに飛んできたわけね」

 蕗子が憮然として言い放つと、浩司は謎めいた笑みを浮かべた。

「会議は延期した」

 こともなげに言う。蕗子は唖然とした。

「どうして……?」

 おずおずと問いかけた途端、浩司の冷静な仮面がはがれ落ちた。落ち着いた表情が跡形もなく消え去り、激情に駆られた男の顔が表れる。

「どうして、ときみが聞くのか? きみが消えたと聞いて会議を延期した男に、どうして、と」

 浩司の両手は、両脇で固く握り締められていた。まるで、そうしていないと蕗子の首を締めてしまうとでもいうように。

「婚約者が、そっけない手紙一枚を残して消えてしまった。それでもくだらない会議に出なければならないのか? えっ?」

「わ、私……あなたの婚約者なんかじゃ……」

 震える声で反論する。浩司はふん、と鼻で笑った。

「そうだな。僕一人が勝手に決めたことだよな。後で考えたら、あの夜きみは僕と結婚するなどとは一言も言わなかった。だが、きみを抱いた時、きみの愛情を痛いほど感じた。僕を受け入れてくれたきみの体の隅々まで、僕への愛で満ち溢れていた。同じように、僕もきみへの愛を全身で表した。言葉でもはっきりそう言った。結婚の話もした。なのに、きみは勝手に僕に愛されていないと思い込んで、こんなところまで逃げて来た!」

「愛なんかじゃない!」

 激した口調でまくし立てる浩司に負けじと、蕗子も声を張り上げた。

「そんなの、絶対に愛なんかじゃない! ただ、義務という言葉をごまかすためにきれいにラッピングしただけ。金めっきの愛なんて、私はいらない……」

 言いながら、声が震えるのをどうしようもなかった。最後には涙まで溢れ始め、どんなに自分を叱咤してもそれが流れるのを止めることはできなかった。

 立ちつくしたままぼろぼろと涙を流す蕗子を、浩司は絶望したような呻き声を上げながら抱きしめた。

「きみがそんな風に思っていたとは、津本に言われるまでまったく気付かなかった。なぜ、僕に打ち明けてくれなかった。なぜ何も言わずに僕に抱かれ、そのまま姿を消してしまったんだ」

 蕗子はしばらく彼の腕の中でもがいていたが、浩司が頑として腕を離すまいとしていることを思い知らされると、大人しくなった。

「だって……愛情と義務を勘違いしていたから」

 誰が、と聞く必要はなかった。浩司は苦しげに目を閉じた。

「確かに、きみを誤解していたことに責任を感じていた。将太のことも、伯父として面倒を見なければと思っていた。だが、それはプロポーズとは何の関係もない。僕はきみと結婚したかった。いや、今でもしたい。それ以外には考えられないくらいだ……」

 言いながら、蕗子の唇に思いつめたようなキスをする。どうしようもないというように。溺れかけた男が必死で酸素を吸い込むように。

 だが、彼は蕗子が応え始める前に唇を離して、大きなため息をついた。

「最初から話そう」

「あの……座らない?」

 蕗子が涙を拭いながらおずおずと提案すると、浩司は上半身を少しだけ離して蕗子の顔をのぞきこんだ。

「僕はこうしてきみをずっと抱いていたいが……。きみがそう言うのなら、座ろう」

 二人はすぐそばの二人がけのソファに腰を下ろした。あまりにもぴったりとくっつきすぎていると思った蕗子が、彼から少し離れた場所に座りなおす。だが、不満げに鼻を鳴らした浩司に、あっという間に抱き寄せられてしまった。ほんの数センチの距離さえ我慢できなかったらしい。

「僕から離れないでくれ」

 文句を言う暇もなく蕗子の首筋に顔を埋めた浩司に懇願されると、嫌とは言えなかった。惚れた弱みというやつだろう。

 それに、彼にこうして抱かれているのはなによりも心地良かった。そのことを認めるのに、さほど時間はかからなかった。最初はおずおずと、やがてドキドキと脈打つ彼の心臓の鼓動に促されるように、蕗子は彼の胸にもたれかかった。

 そのことに安心したように、浩司の腕に力がこもる。彼は蕗子の額にキスをしたあと、ゆっくりと話し始めた。

「最初は、確かに罪悪感に駆られていたと思う。弟ときみのお姉さんの結婚に反対したことも、弟から音沙汰がなくなった時、あえてこちらから連絡を取ろうとしなかったことも、ずっと後悔していたから。当時の僕は、いつでも仲直りできるとたかをくくっていたんだ。まずは社内の混乱を収めて体制を立て直し、それから父の怒りをなだめようと……。だが、その時を待たずに誠は死んでしまった」

 彼の声が微かに震えていることに気付いて、蕗子は胸を痛めた。

「父も死に、(とこ)に臥せってしまった母に懇願されて、僕は将太のことを調べ始めた。大谷からきみの間違った人物像を聞いて、なんとしても将太だけは幸せにしなくてはと思ったことは否定しない。そのためにきみに近づいたことも。だが、きみに惹かれた気持ちだけは断じて嘘ではない」

 そう言って、彼は切なげなまなざしを蕗子に向けた。

「自分の気持ちに気付いたとき、きみに惹かれるのは賢明ではないと何度も自分に言い聞かせた。きみは明らかに僕を警戒していたし、僕も正体を隠して近づいたという負い目を持っていたからね。それに、愛だの恋だのにうつつをぬかしている暇など、僕にはなかったんだ。あまりにも忙し過ぎたから」

 大きなため息をつく。

「恋に落ちたりなどしたくなかった。愛情などという甘っちょろくて不確かな感情に、生活を支配されたくはなかったんだ。だがその一方で、きみに惹かれていく気持ちをどうすることもできなかった」

 彼は一旦言葉を切り、落ち着きを取り戻そうとするかのように深呼吸した。

「きみが僕のことを信頼し始めていることはわかっていた。このままでは、きみも将太も傷つけてしまう。さっさと正体を明かして、手を引くべきだ。何度も自分にそう言い聞かせたさ。それなのに……できなかった」

 浩司の全身が固く強張り、激情を抑えるように震え始める。

「きみを初めて抱いたとき、こんなにも一人の女性を愛しく思えるものかと思ったよ。すぐにも正体を明かして許しを乞いたかった。だが、タイミングが悪すぎたんだ。翌日、東京に飛ばなければならなかったことは覚えているだろう?」

 蕗子が頷くのを待ってから、彼は言葉を続けた。

「その問題さえ片付いたら、しばらくは仕事から解放されるはずだった。きみが納得してくれるまで説明しよう、そう思って僕は帰ってきた。その日のうちに最悪の形できみにばれるとは思いもせずに」

 あの時の衝撃を思い出したのか、浩司は歯を食いしばって目を閉じた。

「きみを失ったと思った……。このまま失ってしまいたくない、離したくない。自分でも驚くほど激しく、そう思った。僕は必死になって……」

「もうやめて!」

 蕗子は浩司の腕を振り払って立ちあがった。遅れて立ちあがった浩司から逃れるように、部屋の端まで歩いていく。壁の前まで来ると、蕗子はくるりと振り返った。

「失いたくなかったのは将太でしょう?」

 激しい口調で問い詰められて、浩司は目を見開いた。

「違う!」

 蕗子は両手を耳に当てて、大きくかぶりを振った。

「いいえ! おためごかしはもうたくさん! 正直に認めてよ! あなたが離したくなかったのは、将太だわ!」

 蕗子はそこで口をつぐみ、ゆっくりと手を下ろしながら悲しげな瞳を浩司に向けた。

「どうしてそう言ってくれないの? 騙されてたことなんて、とうの昔に許してる。あなたの立場に立って考えてみたら、仕方がなかったことなんだって、今では思ってるわ。でも、将太のために結婚するのなんて、まっぴらごめんよ! 私は私自身を愛してくれる人と結婚したい。義務や罪悪感じゃなく……」

「ふざけるな!」

 浩司の迫力に呑まれて、蕗子の言葉尻が消える。

「僕の話を聞いていなかったのか? 愛している! 義務も、罪悪感も関係ない! 僕は、きみを、愛している! この世でただ一人、きみだけを愛している!」

 浩司の告白に呆然とした蕗子の顔を穴があくほど見詰めながら、彼はゆっくりと足を前に進めた。

「愛してる。将太のことも、脇坂の家のことも、誠ときみの姉さんのことも、きみへの愛に比べたらほんの些細なことだ。愛してる。これからテレビ局に乗り込んで、全国に向けてこの告白を放映してもいい。きみを愛してる」

 浩司が目の前に立った時には、蕗子の体はぶるぶる震えていた。今にも崩折れてしまいそうな蕗子を、浩司はそっと抱きかかえた。

「私……ほ、本当に……?」

 か細い声で囁く蕗子の震える体を、ぎゅっと抱きしめる。

「嘘だと思うのか?」

 軽く責めるような、浩司の声。だが、蕗子はためらいがちではあるが、なおも言い募った。

「欲望と……愛情は……違うわ」

 浩司が絶望したように呻いた。

「欲望と愛情は違うさ。当たり前だ。僕を、愛情もないのに手当たり次第に女性を抱くような男だとでも思っているのか? それは……昔、若い頃はそんなこともあった。だが、今は違う。信じてくれ。きみを愛しているから、あんなにも欲しかった。確かに、今でも欲しいさ。いつでも、どこでも、きみを愛したい。だが、欲しいのは体の繋がりだけじゃない。きみを愛し、敬い、慈しんで、心までも繋がりたいんだ。きみの体の中だけに入りたいんじゃない。きみの心の中にも入り込みたいんだ。きみという人を完璧に、完全に自分のものにしたい。だから結婚したいんだよ」

 蕗子の頬に、ぽろりと涙がこぼれた。

「……信じても、いいの?」

 浩司の腕に力がこもる。

「きみが信じてくれなかったら、どうすればいいのかわからない」

 浩司の声に震えを感じて、蕗子は目を閉じた。おずおずと、浩司の背中に腕を回す。すると浩司の指が顎にかかり、ゆっくりと上向きにさせられた。

「愛してる」

 と、口元で囁かれて、蕗子は唇を開いた。

 浩司の唇が、そっと、優しく蕗子の唇を覆う。蕗子が泣きながら舌を差し入れると、彼は深い安堵の吐息をつきながら彼女の舌を押し戻して、相手の口の中に自分の舌を滑り込ませた。

 熱く、なまめかしく、絡み合う。彼に口の中を甘やかに探られ、時には激しく吸われながら、蕗子は天にも昇る心地だった。

 浩司に愛されているという思いが、キスが深まるごとに胸にひたひたと打ち寄せてくる。蕗子は彼のキスに全身全霊で応えながら、愛してる、と心の中で囁き続けた。

 愛してるわ、愛してる……。無意識につぶやきながら浩司の唇を貪る。浩司は目元を和ませながら、彼女の唇をついばんだ。

 ぐいっと顔を引き離し、彼女の頭を胸に抱え込む。蕗子は涙に潤んだ目を、ぼんやりと部屋の中に泳がせた。

「今度こそ、結婚してくれるね」

 その言葉にはっとしたように、蕗子は顔を上げた。不安そうなその顔を見て、浩司の顔から微笑みが消える。

「愛してる。信じてくれるね?」

 軽く蕗子の体を揺すって訴える。蕗子はためらいながらも頷いた。

「笑って、はい、と答えてくれ」

 蕗子の下唇を指でなぞりながら、そっと強要する。蕗子はぶるっと体を震わせた。

「ずるいわ、そんな……私が抵抗できないってわかってて……」

「利用できることは何でも利用するさ。きみと結婚するためなら」

 切羽詰まったように囁きながら、蕗子の胸元に手を滑らせる。蕗子はその手に胸を押しつけるようにして、低くうめいた。

「ああ、愛してるわ……。抱いて、お願い……」

 蕗子の喉元に唇を滑らせながら、浩司は断った。

「いやだ。きみが結婚してくれると言うまで。いや、実際に結婚してくれるまで」

 そう言いながら、ブラウスのボタンを外して手をブラジャーの中に忍びこませる。硬く尖った胸の頂を指でつままれて、蕗子は悲鳴を上げた。

「浩司さん、浩司さん、お願い……」

 半泣きになりながら哀願する。彼の手がそっとブラジャーを押し上げたかと思うと、唇がその先端のピンクの果実を探り出していた。最初はそっと、徐々に強く吸われて、蕗子の体が痙攣する。体が一昨日の情熱を求めているのだ。

「あなたを感じさせて……。愛してるわ。愛してる……」

「結婚するね?」

 蕗子が苦しげにうめく。

「結婚は……できない……」

「じゃあ、セックスもできない」

 無慈悲にそう言うと、浩司は素早く体を離した。

「僕を信じていない女性と、愛を交わすことはできない。単なるセックスを求める年齢はもう過ぎたんだ。たとえ愛する人とであっても、だ」

「だって、私は脇坂家のお嫁さんにはなれないのよ!」

 蕗子は絶望したように叫んだ。

「あなたを愛してる。でも、怖いの。あなたのような地位の人の妻には……なれない」

 浩司はちょっと顔をしかめた。

「なぜ?」

「姉の時と一緒よ。親戚の人達みんな、私のことを財産狙いだって言うわ」

「そんなことはないと、この僕が知っている。全身全霊をかけて、きみを守ると誓うよ」

「私、お金持ちの生活なんかわからない。社交生活もできない。あなたの世界には、きっと馴染めないわ」

「わからないことは何でも訊いてくれればいい。それでも馴染めなければ、別に無理をして馴染もうとしなくてもいいさ。僕だってあまり社交的とは言えない生活を送ってるんだから」

「だって……お付き合いとか、いろいろ、あるんでしょう?」

 すると浩司は降参とばかりに両手を軽く挙げた。

「その辺は、母に聞いてくれ。僕にはわからない」

 心底困ったというようなその表情を見ていると、浩司が上流階級の社交生活にはあまり関わりがないという言葉を信じられる気がする。それでもやはり未知の世界は怖かった。

「パーティーとか、裏表があるような人たちと付き合うのなんて、真っ平」

「ああ。僕もだ。気が合うじゃないか」

 ぐっと言葉に詰まりながらも、蕗子は言い募った。

「社長夫人なんて、私の柄じゃないわ」

「公の場に出なければならない機会なんて、数えるほどしかないさ。それに、その時には必ず僕がそばにいる。どんなことが起こっても、僕が必ずなんとかする」

「人を使うなんてこともできそうにないし……」

「そうかな? きみは使用人たちに受けがいい。コツさえ掴めば、采配を振るうことなんて簡単なはずだ」

 駄目だ。未知の世界が怖いなどというぼんやりとした理由では、彼を納得させることなどできそうもない。乗り越えられない問題などないと思い込んでいるこの男には。

「わ、私は物わかりのいい妻にはなれないわ。仕事ばかりで家にいない夫になんて、我慢できない」

「我慢なんてしなくていい。父が亡くなってしばらくは家にも帰れない状態が続いたが、今はだいぶ落ち着いてるんだ。毎晩きみの元に帰る。出張は時々あるだろうが、以前ほどではないはずだよ」

 まったく、ああ言えばこう言う! この人を言い負かすのは至難の業だわ!

「だって……」

 ちょっと言いよどんでから、

「あなた、女性にもてるじゃない」

 正当な理由がなくなって、思いついたことを断罪するように言う。すると、今までずっと辛抱強く答え続けていた浩司が、途方に暮れたように両手を広げた。

「どういう意味だ? きみとつきあっていた時、そんな素振りを見せる女性が一人でもいたか?」

「直接にはいなかったけど。でも、女性という女性から注目されることは否定できないはずよ」

 浩司は苛立たしげに唸った。

「それがどうした。きみは、よその女に見向きもされないような冴えない男がいいのか?」

 そう言われると、なんだか馬鹿馬鹿しいことにこだわっているように聞こえる。蕗子は唇を噛んでうつむいた。

「きみ以外の女性に心を移すとでも? もてるから、浮気の心配が絶えないと? そう言いたいのか?」

 そんなこと、思ってるわけがない。単なる言いがかりなのだから。その方面での浩司の身持ちの良さは、心の底から信じることができる。

 おずおずと見上げてくる蕗子の表情に後ろめたさを認めて、浩司はほっとしたように微笑んだ。

「そんなことはないと、わかっているだろう。きみ以外の女性など、僕にとっては存在しないも同然だ。勿論、母は別だよ」

 いたずらっぽく付け加えて、蕗子の笑いを誘う。蕗子はばつが悪そうにもじもじしたあと、腕を広げて待っている浩司の胸の中に、思い切って飛び込んだ。もう、どうにでもなれ、という心境だった。

 問題はまだまだ山積みだ。蕗子の恐れも取り除かれてはいない。だが、この人と共に歩いていこうと思った。何が起こっても僕が守ると断言してくれた、この人と。

「結婚してくれるね」

 その問いに、一瞬ためらってから、頷く。蕗子の頭の上から、満足そうな声が聞こえた。

 浩司はちょっと蕗子の体を揺すって、更に確実な答えを求めた。

「きちんと言葉で答えて。結婚してくれるね」

「……はい」

 それは、蚊の鳴くような震える声だったが、浩司にははっきりと聞こえた。そして、その言葉を何がなんでも守らせると心に誓った。

「結婚するまで、セックスはなし」

 緩む口元を無理矢理引き締めて、続ける。それを聞いて、蕗子ががっかりしたような声を上げた。

「……したい?」

 蕗子の耳元に口を寄せて、息を吹きかけながら問うと、蕗子は体をぶるっと震わせて頷いた。言葉で、と囁きかけてやる。すると、蕗子は恥じらいに頬を染めながらも、したい、と小さな声で答えた。

「セックスしても、逃げ出さないと約束できる?」

 浩司の問いに頷きかけて、蕗子は慌てて、はい、と答え直した。

「僕がどんな事を求めても、恥ずかしがったり、嫌がったりしない?」

 その問いには、かなり躊躇したようだ。だが、やはり蕗子は、はい、と答えた。

「僕を愛してる?」

 最後の問いだ。緊張して待っている浩司をぱっと見上げた蕗子は、彼の顔をうっとりと見詰めながら、はっきりと、はい、と答えた。

「言って」

 そっと促す。蕗子の顔を両手で包み込みながら。

「愛してます」

 ため息のような声で、蕗子が囁いた。浩司は蕗子の体を力強く抱きしめ、その唇を再び奪った。

「……この近くのホテルにチェックインしてある。行こう」

 誘いかけるような微笑みを顔に浮かべながら、浩司が囁きかける。蕗子は夢見心地で頷いた。

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