表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽りの恋人  作者: 水月
23/26

23

 蕗子のマンションは、都心から少し離れた住宅街にあった。浩司は迷わず中に入ると、防犯もへったくれもないそっけないエントランスから、やすやすとエレベーターに乗りこんだ。

 最近塗り直されたばかりなのか建物の外壁はなかなかきれいだったが、中に入るとその築年数の古さを否応なく思い知らされる。きちんと点検されているらしく動きはスムーズだが、エレベーターの扉も内壁も、薄汚れて錆びていた。

 チン、と音がして目的階に着いたことを知らされた。浩司は決然とした足取りでエレベーターを降りると、狭い廊下にずらりと並んだ部屋番号を順にたどっていった。

 四〇八号。

 ここだ。

 部屋の前に立った瞬間、思いがけなく緊張している自分に気付く。浩司はそんな自分を叱りつけながら、インターホンに手を伸ばした。

 ピンポン。

 インターホンが軽やかな音を響かせる。だが、応答はなかった。

 くそっ、やはりここにはいないのか? それとも、居留守か?

 もう一度インターホンを押す。やはり応答はない。

 古びた丸いドアノブをつかんでみたが、きちんと施錠されていてびくともしなかった。

 浩司は口の中で罵りの言葉を吐くと、インターホンのボタンに乱暴な仕草で掌を打ちつけた。

 ピンポンピンポンピンポン……。

 延々と続く無機質な音。だが、それでもやはり応答はなかった。

 インターホンから手を離して、浩司はドアを数度、強く叩いた。

「蕗子!」

 何度も呼びかけてみたが、金属のドアの向こうは静まり返ったままだ。

 たまたま出かけているのか、居留守なのか、それともどこか他の場所に隠れているのか。

 それを知るすべはなかったが、ここで諦めてしまうことなどできなかった。この瞬間に自分の人生がかかっているといっても過言ではないのだ。浩司は絶望にも似た気持ちを躍起になって振り払いながら、懸命に自分に言い聞かせた。

 とにかく、今のところ手がかりはここだけなのだ。ここと、隣の――加納亮。

 彼のことは蕗子の口から説明してもらいたかったが、そんなことを言っている場合ではない。こうなれば、直接対決をするまでだ。

 また自分のことを調べまわったと怒り狂うであろう蕗子の様子を思い浮かべて、浩司はにやりと笑った。

 何もかもを投げ出して逃げてしまった蕗子より、怒り狂っている蕗子の方がいい。何ごとにも率直で、くるくると良く変わる表情を惜しげもなくさらけ出す、開けっ広げな彼女の方が。

 そんな蕗子だったからこそ自分はここまでぞっこん惚れこんでしまったのだ、と浩司はふと実感した。だからこそなりふり構わず、すがりつくような気持ちでここまで追いかけてきたのだ、と。

 意を決して隣の部屋に歩みより、『加納』と書かれた表札の下のインターホンに手を伸ばす。だが、そちらも応答はなかった。

 浩司は腕時計を見てちらりと苦笑を浮かべた。

 まだ午前十時過ぎだ。普通のサラリーマンは会社に行っているだろう。

 しばらく考えてから、今は行動を起こす時だと判断する。蕗子の資料は何度も読んで頭の中に叩き込まれていた。もちろんその中には、亮の職場である建築会社の住所も含まれている。

 とりあえず、行ってみよう。それからのことはその時考えればいい。


◆ ◆ ◆


「加納! ちょっと来い!」

 いつもネチネチと嫌味を言う部長が、彼らしくもなく慌てた様子で亮を呼んでいる。

 亮は作成中の図面から顔を上げて、うるさそうに部長を見た。

 ちっ、あと少しでできるのに。

「なんすか、部長」

 いかにも渋々といった様子で問い返す。そんな亮の様子にはお構いなく、部長はあたふたと彼を手招きし続けた。亮は仕方なく席を立った。

「なんなんすか。俺、今日の午後一に提出する図面があるんすけど」

 亮のふてぶてしい態度にも、今日ばかりは怒る気にならないらしい。部長は心なしか青ざめた顔を亮に向けた。

「おまえ、一体いつの間にあんな大物と知り合ったんだ?」

「はあ?」

「ワキサカ・コーポレーションだよ! 社長直々のお出ましだぞ!」

 ワキサカと聞いて、亮は顔を強張らせた。

 ついに来たか、という思いと、こんなに早く、と驚く気持ちがせめぎ合う。蕗子から、今日は大阪で会議だと聞いていたのに。

「おい、何を難しい顔して考え込んでるんだ。ワキサカだぞ、ワキサカ! もしどこか地方の工場の一つでも仕事が取れたら、金一封、いや、社長賞ものだぞ! なにしろ世界のワキサカだからな!」

 ワキサカワキサカと連呼して興奮している部長を、亮は冷ややかに眺めた。

 馬鹿か、こいつ。仕事とは全然関係ないっつーの。

「で、どこにいるんすか。その社長さんは」

「応接室に決まっとるだろうが! 粗相のないようにな。それと、あとでどうやって知り合ったか報告しろ!」

 へいへいと生返事をしてから、亮は社内唯一の応接室に向かった。

 おざなりにノックしてドアを開ける。顔を上げて中にいる人物に目をやった途端、鋭い視線に突き刺された。そのあまりに強力な眼光にぎくりとして、思わず足を止める。

 ……なるほど。こいつが脇坂浩司か。

 思わず納得するほど、彼の姿は印象深かった。

 亮の姿を見た瞬間、豹のように油断なく立ちあがった様子。仕立てのいいスーツに覆われている、すらりとした体躯。部長など一睨みで平伏させてしまうであろう殺気立ったまなざし。そのすべてが、彼の威圧的な雰囲気とあいまって近寄りがたい存在に感じさせた。

 亮自身も頭のてっぺんからつま先まで、余すところなく値踏みされている。そのことははっきりとわかった。いや、わからされたと言うべきか。

 亮はわざと大きな音をたててドアを閉めた。そのまま、ドアにもたれかかる。相手の出方を見ようと腕を組むと、その相手もまた亮の力量を見定めようとでも言うかのように、軽く足を開いて堂々と胸を張った。

「きみが加納亮くんか」

 張りのある低い声が響いた。外見を裏切らない、渋い声だ。亮は自分の高めの声があまり好きではなかったので、内心歯噛みした。

「そういうあんたは脇坂浩司さんだね」

 生意気そうに顎を上げてそう言うと、相手はふんと鼻で笑うように唇の端を歪めた。

「名刺の交換でもするか?」

「いや、結構」

 それきり、睨み合いが続く。

 だが、流石に大人の余裕を見せつけたのは浩司の方だった。不意ににやりと笑って、亮に座るよう促したのだ。亮は渋々それに従った。それを見届けてから浩司も座る。

 亮には知る由もなかったが、浩司はその短いやり取りだけで亮の誠実な人格を嗅ぎ分けていた。蕗子が一番頼りにしている友人だが、その信頼に応えられないような人物なら、高圧的に脅しをかけて彼女の居所を聞き出そうと考えていたのだ。

 だが、亮は浩司の地位にも、大きな体格や他人を見下した態度にもへつらうことはなかった。それどころか、雛を守る親鳥のように立ち向かってきたのだ。蕗子の人を見る目は確かだ。

「単刀直入に言おう。蕗子の居場所を教えて欲しい」

 浩司が率直に言うと、亮はソファにもたれて足を組み、ふてぶてしい態度を露わにした。

 浩司の方は両膝に肘を乗せ、前に乗り出した格好だ。

「いやだね」

「なぜ」

「蕗ちゃんと約束したからさ」

「では、正確に教えてくれ。蕗子となんと約束したんだ?」

「もし誰かが私を探しに来ても、絶対に居場所を教えないで」

 蕗子の台詞を忠実に再現して、亮は優越感に満ちた笑みを浮かべた。だが、浩司は動じない。

「いや、きみは教えてくれるさ。最終的にはね」

 ためらいやごまかしは、浩司の顔のどこにも見出せなかった。亮はそのことに苛立ち、不機嫌なことを隠そうともしないで言い放った。

「なんで俺が」

「きみが蕗子の友達だからだ」

 亮の唇の端が皮肉っぽく歪む。

「元恋人じゃなかったんすか」

「いや。蕗子が友達だと言うんだから、そうなんだろう」

 それは、蕗子の言うことを無条件に信じるという宣言に他ならなかった。

 亮がそのことに気付くのに、さして時間はかからなかった。ぽかんとした表情を、向かいに座っている男性に向ける。

 おいおい、蕗ちゃん、話が違うよ。

 心の中で言ったつもりが、思わず声に出してしまっていたのだろう。浩司の顔が一瞬ではあるが苦しげに歪んだ。出会ってから今までに彼が心のうちを外に出すのを見たのは初めてで、そのことにも亮はびっくりした。

「……そうだろうな。散々彼女を傷つけてきたから」

 信じてもらえなくて当然だ、と浩司は自嘲気味につぶやいた。

 おいおいおい、マジで話が違うじゃん。目の前にいるのは、どう見ても恋に狂った男だぜ。

「そういう意味じゃないんだけどさ……。ま、いいや。で、友達だったらなんであんたに蕗ちゃんの居所を教えなきゃなんないんだ?」

「きみが彼女の幸せを願ってるからだ。彼女を幸せにできるのは僕だけだから、教えるしかない」

 疑問をさしはさむ余地もない、確信に満ちた答え。亮はそのことに唖然として、しばらく黙り込んだ。

「……蕗ちゃんは、あんたが義務だか勘違いだかで結婚したがってるって言ってたぜ」

 少しばかりガードを緩めて、言ってみる。やはり、というような表情で浩司が頷くのを見て、亮の疑問は更に膨れ上がった。

「将太のために。そうだ、彼女はそう思ってる。最初から扱い方を間違えたんだから、ずっと間違っていたと聞かされても今更驚きはしないがね」

 浩司の唇が自嘲気味に歪んだ。

「事情は聞いているんだろう?」

 その問いに亮が頷くのを確かめてから、続ける。

「嘘と策略に満ちた、作られた出会いだった。そのことを責められても仕方がない。言い訳するつもりもない。ただ、蕗子を愛する気持ちは本物だ。なぜ蕗子が義務だか罪悪感だかを引き合いに出すのかさっぱりわからないが……。そんなもので結婚するほど僕はお人()しじゃないさ」

 確かに。そんな甘い人間ではないだろう。

 なぜか納得してしまって、亮は深く頷いていた。

「だから、教えてくれないか。蕗子がどこにいるのか」

 浩司の声音からは、確かに必死な様子が窺い知れる。冷徹な表情で隠してはいるが、その奥に切羽詰った思いが見え隠れしていることも、今の亮にはわかった。

 亮は唇を噛んでしばらく考え込んでいたが、やがて思い切ったように顔を上げた。

「教える前に確認させて欲しいんだけど。あんた、本当に蕗ちゃんのことを愛してるんだな?」

「愛している」

 一瞬たりとも視線をそらさず、まっすぐに自分を見て答える目の前の男性を、亮は信じた。

「幸せにしてくれるんだな?」

「僕の力の及ぶ限り」

「あいつ、実はすごく手強いんだぜ」

 亮がからかうように言うと、浩司は満面に笑みを浮かべた。

「知ってるよ」

 そうか、知ってるのか。じゃあ、蕗ちゃんもこいつの前では自分をさらけ出していたということかな……?

 ひとつ大きく頷くと、亮は蕗子が愛してやまない男を見据えた。

「わかった。あんたを信じるよ。俺がばらしたとわかったら、しばらく口もきいてくれなくなるかもしれないけど」

 諦めたように亮が言う。浩司は晴れ晴れとした笑みを浮かべて断言した。

「それどころか一生感謝してもらえるさ」

 亮は恨めしげに浩司を見た。

「あんたぐらい自信を持てればと思うよ。ほんとに」

 そうこぼしながら、携帯電話をポケットから取り出す。いくつかの操作をすると、登録しておいた連絡先が画面に表示された。その画面を見ながら、手近なメモに住所と電話番号を走り書きする。

 その存外に遠い住所を見て、浩司は軽く目を見開いた。

「……北海道?」

「高校時代の親友が、結婚して移り住んだって」

 その説明に納得したように頷くと、浩司はメモを受け取りながら立ち上がった。最後に、亮に握手を求める。亮も立ち上がり、ためらうことなくその手を取った。

 しっかりと相手の手を握りながら、目と目を見交わす。

「ありがとう。助かったよ」

 浩司が真心を込めて言うと、亮は照れくさそうに笑った。

「礼は蕗ちゃんをちゃんと捕まえてからにしろって」

 握手の手を外しながら、浩司はもう歩き出していた。彼のせっかちな行為に、亮の口から笑いが洩れる。

「ああ、そうする」

 と言いながら、浩司は既にドアを開けていた。そのまま出て行くかに見えた彼が、突然足を止めて振り返った。怪訝そうな表情の亮に、強い視線を当ててくる。

「一つ、聞かせてくれ。きみは何度も蕗子と一つ屋根の下で夜を過ごしている。手を出そうとは思わなかったのか? ただの一度も?」

 表面的には、浩司の声にも表情にも嫉妬は表れていない。だが、亮は本能とも言うべき勘で、彼の無頓着を装った態度の陰からそれを嗅ぎつけた。

「ああ、あいつ、内緒にしてくれたんだってな」

 にやにや笑いながら謎めいたことを言う亮を、浩司はじっと見つめた。

「秘密ってほどじゃないけど、あまり言いふらしたくはないことだから、いつも気を使ってくれる。ほんと、律儀な奴だよ」

 黙って忍耐強く待っている浩司に、笑いかける。

「俺、ゲイなんだ」

 軽く目を見開いたあと、浩司はしまったというようにドアを閉めた。

 社内の人間に聞かれたらまずいと思ったのだろう。心の中で脇坂浩司の株がぐんと上がるのを感じながら、亮は笑みを大きくした。

「大丈夫、社内の人間はみんな知ってるから。ちなみに、恋人もいる。蕗ちゃんにセックスアピールを感じたことは一度もないよ」

 だから嫉妬する必要は全然ないと言われて、浩司はにやりと笑った。

「道理で。蕗子の魅力に参らないなんて、変な奴だと思った」

 からかうようにそれだけ言うと、浩司は今度こそ蕗子を捕まえるために亮の会社を後にした。


◆ ◆ ◆


 応接室に一人取り残された亮は、浩司とのやり取りの余韻を味わうように目を閉じて、ソファに座り込んでいた。

 嬉しいというより、むしろ爽やかな気分だ。

 あいつなら蕗ちゃんを幸せにしてくれる。蕗ちゃんが多少ごちゃごちゃ言おうが、あの自信と強引さで引っ張っていくに違いないさ。

 亮は肩の荷を下ろしたような深いため息をひとつついて立ち上がると、口笛を吹きながら応接室を出た。

 亮が自分の部署に戻ったとき、部長ばかりか常務や専務、それに社長まで、お偉方どころが顔を揃えていた。それには構わずのんびりと自分の席に向かいかけたが、たちどころに役員のお歴々に捕まってしまう。

「脇坂社長はなんだって?」

「社屋の建替え予定でもあるのか?」

「どういう伝手で知り合った!」

「契約は取れたのか?」

 口角泡を飛ばすお偉方を一瞥してから、亮はしゃらっと答えた。

「仕事の話なんてしてませんよ」

 一同、その言葉に絶句する。その隙に亮はするりと輪の中からすり抜け、自分に席についた。真っ先に我に返ったのは部長だった。

「かっ、かっ、加納っ! そりゃ一体どういうことだ!」

 既に鉛筆を持って図面に手を入れ始めている亮に、凄まじい勢いで詰め寄る。

 亮はうるさそうに顔をしかめた。

「どういうって、言葉のまんまでしょうが。脇坂さんとは個人的な付き合いがあるだけなんで」

「ばっ、馬鹿もん! それならそれで個人的に頼むこともできるだろう!」

「やですよ、そんなこと」

「かかかかかか加納ーっ!!」

 このあと、亮が役員室に引きずり込まれてこってり絞られたことは言うまでもない。ついでに言うと、午後一で提出しなければならなかった図面は、もちろん時間までには仕上がらなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ