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偽りの恋人  作者: 水月
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 翌朝、将太は目覚めるとすぐに蕗子の部屋に駆け込んだ。だが、当然そこには誰もいない。

 蕗子は本当に出て行ってしまったのだと悟った途端、将太はぼろぼろと涙をこぼし始めた。蕗子のベッドに突っ伏して、おいおい泣く。どれくらい泣いていたのだろう、いつの間にか彼は泣き疲れて眠ってしまっていた。

 いつもの時間になっても下りてこない蕗子と将太を心配して、キミが探しに来たのはそんな時だった。

 まず将太の部屋をのぞいて誰もいないことを確認し、眉をひそめる。次に蕗子の部屋に行くと、妙に片付いた部屋のベッドの上で、将太が丸くなって眠り込んでいた。キミは蕗子がいないことに首を傾げながら、将太の肩を軽く揺さぶった。

「坊ちゃま、こんなところでどうなすったんです? もうとっくにお起きになってもいい時間ですよ。さあ、朝ご飯を食べましょうね」

 揺り起こされて、将太が渋々起き上がる。キミは将太の頬が涙のあとで汚れていることに気付いて、眉をひそめた。

「泣いてらしたんですね? どうしたんです?」

 将太は子供らしい仕草で目をごしごしこすると、ふてくされたように家政婦を見た。

「蕗ちゃんがいなくなったった」

「えっ?」

「蕗ちゃんが、ほんとに出ていったった!」

 言うなり、大声で泣きながら部屋を飛び出す。キミがびっくりして蕗子の部屋を調べている間に、彼はパジャマ姿のまま屋敷を飛び出して、庭師の家に向かって走り出していた。

 将太が駆け下りた音に驚いて、何事かと様子を見に来た脇坂夫人の耳に、家政婦の取り乱した声が聞こえて来た。

「奥様! 奥様! 蕗子様がいらっしゃいません!」

 それからは上を下への大騒ぎだった。屋敷中の者を総動員して探し回ったが、蕗子の姿はどこにもない。とうとう夫人は、会議に出る前の息子を電話でつかまえることにした。

 携帯電話はすぐにつながった。家の番号を見たのだろう、蕗子? という、幸せそうな声が聞こえて来る。夫人は一瞬ためらってから、咳払いして答えた。

「いいえ、私ですよ」

「ああ、お母さん。どうかしましたか」

 照れ隠しか、ぶっきらぼうな口調だ。夫人は悪い知らせを告げるために、何度か唾を呑みこんだ。

 その間に、どう言えばショックが少ないかと考えたが妙案は思いつかず、気が進まないながらも事実だけを簡潔に伝えることにする。

「蕗子さんが、消えたの」

 電話の向こうで浩司が沈黙する。

「……なんですって?」

 不気味に静かな声だ。夫人は言いにくそうに続けた。

「朝食の時間になっても蕗子さんと将太が下りてこないので、キミさんが様子を見に行ったの。そうしたら、蕗子さんの部屋で将太が泣いていて。どうしたの、と聞くと、蕗ちゃんが出ていっちゃった、って……」

「それで、将太は?」

「すぐにお隣に駆け出していったわ。香澄ちゃんが、落ち着くまで預かって下さってるの」

 浩司は母の言葉を鋭く遮った。

「かすみちゃん? 誰のことですか?」

「あら、庭師の吉村さんの奥さんじゃない」

 使用人の妻の名前までいちいち覚えてられるか、と心の中で毒づきながら、彼は話を元に戻した。

「一体なぜ……そもそも、将太は知っていたんですか、蕗子が出ていくつもりだったことを」

 夫人は大きなため息をついた。

「昨夜、そう言われたらしいわ。とにかく今は泣くばかりで、詳しい話は分からないのよ。そう、あなたも知らないの……」

「勿論、知りませんよ! 昨日の晩電話した時も、彼女はそんなそぶりすら見せなかった。どこかに出かけただけなんじゃないんですか? 蕗子が消えるなんて、信じられない!」

「蕗子さんの荷物が、ほとんどなくなっていたわ」

 とどめの一撃だった。息が詰まったような声が聞こえた後、受話器からは荒々しい息遣いが響くだけになった。

「すぐに帰ります」

 唐突に、浩司が宣言した。

「だってあなた、会議が……」

「そんなことどうだっていい!」

 それっきり、電話は切れた。思慮深い息子が初めて露わにした荒々しい態度に、彼の母親はしばし呆然として受話器を見詰めていた。


◆ ◆ ◆


 それからほんの一時間ほど後に、浩司は帰って来た。驚いている家人の前で、ヘリコプターを庭の真ん中に乗り付けたのだ。そこから下りてくるとすぐ、彼は津本に書斎に来るよう、鋭い声で命令した。

 浩司の帰還は、津本の予想よりも早かった。ヘリコプターが自社のものではないところを見ると、どうやらすぐに飛べるビジネスジェット機をチャーターし、最寄りの空港からヘリコプターを手配したらしい。秘書の香川ならそんな手配はお手の物だ。

 津本が書斎に入った時、浩司は苛々と部屋の中を歩きまわっていた。

「蕗子が消えた」

 ドアが閉まるか閉まらないかのうちに、鋭く言う。津本は神妙に頷いた。

「なぜ気付かなかった?」

「申し訳ありません。なにぶん、夜のことで……」

 言いかける津本を、浩司は拳で壁を叩いて遮った。

「気付いたはずだ!」

 自制心をなくして叫ぶ。

「おまえなら気付いていたはずだ! なぜ蕗子を黙って行かせた? なぜ力ずくでも止めなかった!」

 歯を食いしばるようにして言い、またうろうろと歩き回る。

「帰ってくる途中、いろいろ考えた。蕗子がなぜ消えたのか、そして誰にも知られずに消えるということが可能かどうか。前者はわからんが、後者の答えは出た」

 津本の目の前で、浩司は足を止めた。

「不、可、能、だ」

 一語一語、区切るように言いながら津本の胸を指で突く。

「それどころか、手引きした者がいるはずだ。蟻の子一匹出入りできないような警備システムを採用したのはこの僕なんだ。何も知らない蕗子が簡単に出られるような代物じゃないことはわかっている」

 それでも無言のままの津本に、浩司は挑むように吐き捨てた。

「反論できるものならしてみろ」

 津本はため息をついて、ひょいと肩をすくめた。

「おっしゃる通り、手引きしたのはこの私です」

 あっさりと認めてしまった津本に、浩司が唖然とした顔を向ける。そんな彼を哀れむように見ながら、津本は続けた。

「蕗子様は迂闊なことに、益本タクシーに電話をおかけになったんですよ。で、いつもと様子が違うことを不審に思った社長から直々に電話がかかってきましてね。犯罪に関わっていたとしたら大変なことですから」

 浩司は胸の前で腕を組み、黙って津本の説明を聞いている。

「テーマパークで遊んでいるときから、様子はおかしかったんです。これは何かあるなと思ってましたから、電話をしたのが蕗子様だということはすぐにわかりました。それで、部屋に上がられてからずっと庭の影で様子を窺っていたんですが……」

 浩司は津本の言葉をうるさそうに遮った。

「そんなことはどうでもいい。僕が知りたいのは、手引きをしてまで蕗子をここから出て行かせた理由だ。昨日の朝ここに残るように頼んだ時、僕が言いたかったことはわかっていたはずだ。僕の代わりに蕗子を守って欲しかった。どこにも行かせないよう、見張っていて欲しかったんだ! 蕗子の様子がおかしかったことぐらい、気付いていたさ! だからこそおまえに頼んだんじゃないか!」

 いつもは冷静で穏やかな雇い主が、ここまで激昂しているのを見るのは初めてだ。津本はじっと浩司の険しい表情を観察した。

「それで、行き先は? おまえのことだ、ちゃんと知ってるんだろう?」

 気を取りなおしたように、浩司が訊ねる。津本は再び肩をすくめた。

「ええ、まあ」

 津本の口からすんなりと返ってきた答えを聞くと、浩司の顔が安堵に緩んだ。

「どこだ?」

「その前に、質問があるんですが」

 じれったそうに、浩司が唸る。

「後にしろ。行き先が先だ」

「いや、これを聞かないうちは、教えるわけには行きません」

 頑とした物言いだ。その台詞からにじみ出る言外の意味を感じ取って、浩司は津本の顔を静かに見た。

「……蕗子と、何か話したのか」

 津本が頷く。彼の顔に不吉なものを見いだした瞬間、浩司の心臓が凍りついた。

「座りませんか」

 控えめに、津本が提案する。一旦反論しかけて、浩司は渋々頷いた。向かい合ったソファに、それぞれ座る。

「浩司様、義務をお感じになられたことはありませんか?」

 浩司は、一体なにを言い出すんだ、という顔になった。

「勿論あるさ。毎日感じている。会社を発展させる義務、家族を――使用人も含めてだが――養う義務、一族郎党をまとめる義務。僕の立場はおまえが一番わかっているだろう」

 苛々と言う。だが、津本はゆっくりとかぶりを振った。

「それを一番理解なさっていたのは、蕗子様です。だからこそ不安になられたのでしょう」

「どういう意味だ?」

 口調は穏やかだが、浩司の目つきは鋭利な刃物のように鋭い。だが、津本がその殺気立った視線に動じることはなかった。

「かつて浩司様は、誠様のご結婚に反対なさった。そして、そのことをずっと後悔し続けておられた。誠様達が事故死なさった時、心の中で自分のせいだと思われませんでしたか?」

「……そんなことは……ない」

 思い当たる節があるというように、浩司が口ごもる。

「だから、将太様を引き取ろうと躍起になられたのでは?」

 津本が更に言うと、浩司は黙り込んでしまった。

「あなたは、将太様を引き取って自分の息子にすることで、亡くなった誠様に償いをしようとしたのではないですか? 無意識のうちだったのかもしれませんが」

「それは……そう、かもしれない。だが、それと蕗子が出て行ったことと、何の関係があるというんだ」

「蕗子様は、ご自分もその義務の中に含まれているとお考えになられたのです」

 浩司の顔が驚きに歪む。

「義務? 彼女との間に、義務などという言葉は存在しない。一体、何の義務があるというんだ?」

「蕗子様の姉上を苦しめた償い、将太様が慕ってらっしゃる叔母への感謝、礼儀、報酬……呼び方は何とでも。そして、自分が死なせてしまった弟夫婦の代わりに、将太様を幸せにしなければならないという決意。すべて、蕗子様はご存知だったのです。そのすべてが、あなたを間違った行為へと駆り立てていると」

「間違った……行為?」

 今や浩司の顔は真っ青だ。震える唇からかすれた声を絞り出しながら、青筋がたつほどに強く両手を握り締めている。

「蕗子様との結婚です」

「馬鹿な!」

 そう叫ぶと、浩司は勢いよく立ち上がった。

「蕗子との結婚は、そんなこととは関係ない! 僕が望んだんだ。この僕が、心の底から!」

 自分の胸を両手で指しながら、激したように言う。

「蕗子様は、そうは思っていらっしゃいません。浩司様は義務や後悔でがんじがらめになっているから正常な判断ができないのだと、そうおっしゃってました」

「蕗子……。なんてことだ」

「私が消えれば、浩司さんはいつか本当に愛する人に巡り会える。それが蕗子様の最後の言葉です」

 大きなショックを受けて、浩司は呆然と津本の顔を見下ろした。

「蕗子は……僕に愛されているとは、思っていなかった……と?」

「残念ながら。……私が、浩司様のことを愛してらっしゃいますか、と聞いた時、愛してない、とお答えになられました。泣きそうな顔で。愛していると答えれば、あなたを苦しめてしまう。そう思われたのでしょう。それ以上、私には何も言えませんでした」

 どさり、と浩司がソファに座り込んだ。その顔は青ざめて憔悴し、うつろな目はこの部屋にある何ものも見てはいない。彼は片手を顔に当ててうつむき、ぐったりとソファの背に体を預けた。

「……なぜだ? なぜ、僕に何も言ってくれなかった?」

 自分に向かって言っているのではない、ここにはいない、蕗子に向かって言っているのだと、津本にはすぐにわかった。

「あなたのためでしょう。蕗子様は、これ以上あなたに重荷を背負わせたくないとお考えのようでした」

 そう言われて初めて、浩司は一昨日の晩のことを思い出した。

 あまりにも早く部屋に退がってしまった蕗子のことが気になって部屋に行くと、彼女は月明かりに照らされた部屋で一人、窓辺に座っていた。そっと近付いて話しかけると、悲しげにうつむいた。

 彼女は泣いていた……。たった一人で。声を押し殺して。

 あの時から、出て行くことを決意していたのか? だから、僕のことを許し、将太を任せるとほのめかしたのか?

 では、その後のことは? 僕と愛し合い、これ以上ないほどに親密に体を開いたことは……?

 思い出だったのか。最後の思い出に、抱かれたと言うのか。

 目の前に突きつけられた現実に、浩司は改めて目を開かされた思いだった。

 その時、控えめなノックの音がドアに響いた。呆然と座り込んでいる浩司の代わりに、津本がドアを開ける。ぼそぼそと会話を交わす声がして、津本が戻って来た。その手に、白い封筒が乗せられている。浩司はぼんやりと津本を見た。

「蕗子様からです。浩司様のベッドの上にあったそうです」

 津本の言葉が終わらないうちに、浩司はその手紙をひったくるようにして取った。震える手で、じれったそうに封を開ける。

 短い手紙だった。



 浩司様


 あなたとは結婚できません。

 愛のない結婚など、いずれ破綻するとわかっているからです。

 親権は放棄することにしました。

 将太のことを、よろしくお願いします。



 浩司は何度も何度もそのそっけない手紙を読み返し、信じられないというように首を振った。手紙を握る手に力がこもり、シンプルな便箋がくしゃくしゃになる。

 愛情がない、と書いてあるのが自分のことだとは、まだ信じられない。

 だが、この手紙はどちらとも読めるではないか? もしかして蕗子は暗に、あなたのことを愛していないから結婚できないのだとほのめかしているのでは? そして、津本の話が本当なら、愛していないと言うことで、浩司の肩から結婚の義務という重荷を下ろさせようとしているのだ。

 浩司は手紙を津本に差し出し、目で問いかける彼に頷いた。津本はざっと目を通した後、やはり、というように頷いた。

「何をしているんです? 本当に愛しているのなら、追いかけなさい」

 津本に発破をかけられて、浩司がはっと目を見開く。津本は、打ちのめされて真っ青になっている雇い主に、晴れやかな微笑みを向けた。

「タクシーの行き先は、最寄りの駅でした。そこから電車に乗るとしたら……」

「マンションに戻ったのか!」

「多分。もしそこにいらっしゃらなくても、手がかりはまだ隣に住んでるでしょう」

 加納亮。

 その名前が一瞬のうちに浩司の脳裏に閃いた。

 恋人ではなかったにしろ、蕗子の生活に深く関わり合っていることは明らかな男。

 浩司の複雑な表情を見て、津本は深く頷いた。

「彼については、私が調べても報告書以上のことはわかりませんでした。ですが、蕗子様ははっきりと、彼は友人だとおっしゃいました。私ならその言葉を信じますね」

 それ以上、浩司は津本にしゃべらせなかった。ぱっと立ちあがり、ドアに向かって歩き出したのだ。ドアを開けたあと一瞬立ち止まって、したり顔の津本を振り返る。

「彼のことは蕗子自身から聞き出すさ。今度こそ、納得のいく説明をしてもらう」

 それから、浩司は真剣なまなざしを津本に投げかけた。

「必ず、連れて帰る」

 浩司の言葉に、津本は微笑んだ。

「お待ちしております」

 浩司も微笑み返す。それきり、彼は振り返ることなく屋敷を後にした。

公私混同甚だしい(笑)

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