表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽りの恋人  作者: 水月
21/26

21

 思う存分泣いて自己憐憫に浸った後は、もう泣かないと決めていた。バスルームでシャワーを浴びて体をしゃっきりさせ、動きやすい服を着て、荷造りをする。ここに持って来た荷物は少ないので、すぐに済んだ。

 それが終わると、隣の部屋に将太を起こしに行く。服を着替えさせて一緒に朝食を食べに階下に下りる頃には、蕗子はいつもの落ち着きを取り戻していた。

 揃ってダイニングルームに入ると、先に来て待っていた脇坂夫人が二人にやさしく微笑みかけてくれた。最近は、一緒に食事をするのが習慣のようになっている。蕗子と将太は声をそろえて朝の挨拶をした。

「おはよう。あ、蕗子さん、今日は買い物に行く予定なんですってね」

 では、浩司は母親に頼んで行ったのだ。まさか昨夜のことまでしゃべってはいないだろうとは思ったが、頬に血が上るのを止めることができない。

 そんな蕗子の様子を見て、夫人は嬉しそうな笑みを浮かべた。たとえ浩司が何も言わなかったとしても、これでは自分で暴露しているも同然だ。蕗子はごまかすようにかぶりを振り、申し訳なさそうに微笑んだ。

「浩司さんがなんとおっしゃったのかは知りませんが、私……買い物には行きません」

 浩司の母親が眉を上げる。その仕草があまりにも浩司にそっくりなので、蕗子の胸がずきんと痛んだ。

「おかしいわね。息子に頼まれたのだけれど」

「ええ、わかってます。でも、今日は将太と遊びに行きたいと思って。やっと頭の怪我も治ったし」

 すると、浩司の母は納得したように頷いた。

「そうね。浩司が帰ってきたら、忙しくなりますからね。それじゃあ、彰吾さんに連れて行ってもらえばいいわ。私から言っておきますから」

 津本の名前を聞いて、蕗子は驚いたように夫人を見た。

「津本さんって……浩司さんと一緒じゃないんですか?」

 すると、夫人はころころと声を上げて笑った。

「昨夜まではそのつもりだったらしいんだけど。今朝になって、あなたを一人にしておくことが急に不安になったようでしたよ。いきなり彰吾さんに、残れ、って」

 可笑しそうにくすくす笑う。

「浩司は何も言わなかったけど、彰吾さんは何もかもお見通しだったようね。驚きもしないであっさり頷いたから。運転手なんかよりも彰吾さんの方がよっぽど頼りになりますからね。あなた達を護衛もつけずに外出させるような浩司ではないと、彼にはわかっていたんでしょう」

 すると、出かけるのも監視付きというわけだ。蕗子は内心ため息をついた。やはり、脇坂家の常識にはついていけない。

 だが、将太は今やこの家の後継者なのだ。誘拐の可能性を否定することはできない。蕗子は素直に感謝の言葉を述べた。


◆ ◆ ◆


 将太とは、評判の大型テーマパークに出かけた。運転手兼ボディガードの津本が影のようにつきまとうのが時々気にはなったが、それでも二人は思う存分楽しんだ。

 ランチを取る頃には津本にもその気分が伝染していたらしく、蕗子が、一緒に食べましょう、と誘うと、珍しく承諾して同じテーブルについた。いつもなら、雇い主とは一定の距離をおかなければならないとかなんとか言うのに。

 その事に気をよくして、蕗子はそれからずっと、津本も仲間に入れて楽しんだ。将太と二人きりより、三人の方がずっと楽しい。

 夕方までたっぷり遊んで家に戻る途中、将太は車の中でぐっすり眠り込んでしまった。

「お疲れになりましたね」

 運転席から、津本が注意深く蕗子を観察しながら言う。蕗子はそっと微笑んだ。

「そうね。私も少し眠ってもいい?」

「ええ、どうぞご遠慮なく。間違いなく家までお連れしますから」

 蕗子は頷き、シートに頭をもたせてかけて目を閉じた。しばらくうつらうつらしていたが、やがてぐっすり寝入ってしまう。寝入る直前、蕗子の頬に涙が一筋流れるのを、津本は見逃さなかった。

 家に着いたのは夕食の時間だった。蕗子は将太を連れて慌てて車から降り、脇坂夫人とキミに謝りながら階段を駆け上がった。汚れた服を着替え、将太と一緒に急いで手を洗って階下に下りる。

 夕食の時間は、一眠りして元気になった将太の興奮したおしゃべりで、明るく過ぎていった。そのあと浩司から電話があったときも、将太は大好きな伯父さんに今日あったことを教えるんだと、張り切って電話に駆け寄った。

 テーマパークに行ったことを得意そうに、事細かに報告している将太の様子を、蕗子は悲しげな微笑みを浮かべながら眺めた。だがすぐに、あまりにも幸せそうな将太の様子に耐えられなくなってしまう。蕗子は用事を思い出したと誰にともなく言い訳してから、自室に上がった。

 だいぶ時間が経ってから、蕗子の部屋の電話が鳴った。しばらくためらってから、受話器を取る。内線ボタンを押すと、夫人のいたずらっぽい声が聞こえてきた。

「浩司が、あなたに替わってほしいって」

 では、将太は今まで延々と話し続けていたのだ。蕗子は時計をちらりと見て苦笑を浮かべた。

 カチリと電話が切り替わる音がした。

「楽しい一日を過ごしたようだね」

 耳元に、浩司の低音の声が響く。蕗子は思わず目を閉じてその心地よい声に聞き惚れた。

「蕗子? いるんだろう?」

 蕗子ははっとして目を開けた。

「え、ええ、ごめんなさい。あの……楽しかったわ」

 浩司が喉の奥で笑い声をたてる。そのセクシーな響きに、蕗子の下腹部がうずいた。

「将太から散々聞かされたよ。途中で何度もきみに替わってくれるよう頼んだのに。あの子の長話には参ったな」

 蕗子は体の中心がずきずきするほどにうずいているのを無視して、からかうように訊ねた。

「あら、私の甥を邪魔もの扱いする気?」

 すると浩司は高らかに笑った。

「ああ、こときみに関してはね」

 そう答えてから、打って変わった真剣な声で続ける。

「……昼間、何度か携帯に電話したんだ。電源を切ってるのか?」

 そういえば、ここに来てからずっと充電などしたことがない。きっと電池切れだろう。

 だが、もうあの携帯も用済みだ。これからの生活にあんなものは必要ない。

「ごめんなさい。充電してないの」

「じゃあ、この電話を切ったらすぐに充電してくれ。直接話したいから」

 そうするつもりはなかったが、蕗子は素直に、はい、と返事しておいた。

「朝からずっとテーマパークに?」

「ええ。津本さんの運転で」

「それも聞いた。津本は昼食も一緒に取ったし、そのあとは乗り物も一緒に乗ったんだって?」

 その口調に紛れもない嫉妬を感じて、蕗子は驚いた。

「だって……ずっと一緒にいるのに別々に行動するなんて、おかしいでしょう?」

「あいつはボディガードなんだぞ。距離を取って、周りに目を配るのが責務じゃないか」

 むっつりした声だ。蕗子はくすくす笑い出した。

 その声に毒気を抜かれたのか、浩司も笑い出す。

「わかったよ。すまない。きみが浮気するなんて考えているわけじゃない。だが、会議でこんな遠いところに追いやられている間に、他の誰かがきみと楽しんでいたと聞くのは、面白いものではないさ」

 蕗子はまだくすくす笑いながら答えた。

「可哀相な浩司さん」

 浩司も苦笑する。

「まったくだ。しかも、もうひとつ可哀相なことがあるんだ」

 黙ったまま続きを待っている蕗子に、彼は先を続けた。

「会議が長引いて、明日まで持ち越されることになった。今夜はこちらのホテルに泊まって、明日、会議が終わり次第、帰るよ」

 なんという好都合だろう。蕗子は沈んだ心でそう思った。彼がいないのなら、ここから出ていくのは至極簡単になる。

 黙ったままの蕗子の耳に、浩司の心配そうな声が響く。

「……蕗子? 怒ったのか?」

 蕗子ははっとして受話器を持ち直した。強いて明るい声を出す。

「ううん。ちょっと……がっかりしただけ。でも、お仕事だもの、しようがないわ。私のことは心配しないで。皆さん、とってもよくして下さるから」

「それは心配してないよ。きみはうちの者全員に好かれているからな。僕が心配しているのは……」

 最後まで言わせず、蕗子は答えた。

「私は大丈夫。本当よ。もう、何も……心配しないで。あなたがお帰りになる頃には、すべてがうまくいっているから」

 あなたを家族の義務から解放して、本当に愛する人に巡り会えるまで待てるよう、呪縛を解いてあげるから。私や将太への責任なんていうお門違いな思いこみも、拭い去ってあげるから。

 浩司はやっと安心したようだ。満足そうな声で答える。

「それじゃあ、また明日、帰る時に電話する。今夜はぐっすり眠りなさい。昨夜の分もね」

 真っ赤になった蕗子の顔がまるで見えるかのように、からかうように続ける。

「僕の夢を見て。僕の唇と、手の感触を思い出しながら。……今夜も同じ事をしたいよ」

「浩司さんったら!」

 困ったように蕗子が叫ぶと、浩司が笑い声を上げた。

「ごめん、ごめん。もう切るよ。きみをこれ以上困らせないように。おやすみ」

「おやすみなさい」

 そっと囁くと、蕗子は未練が残らないよう、すぐに受話器を下ろした。唇を噛み、こみあげてくる涙と戦う。しばらくしてやっと涙を飲み下すと、意を決したようにもう一度受話器を取り上げた。

 タクシー会社の電話番号がキッチンのコルクボードに止めつけてあることには、だいぶ前から気付いていた。いざというときのために何度も見て番号を覚えておいたのだが、ついに役立つ時が来たのだ。

 蕗子は震える指でタクシー会社の番号を押し、十時に門の外まで迎えに来てくれるように頼んだ。

 何度も呼ばれているだけのことはあって、今回に限って家の前ではなく門の前で待つ理由を訊かれたが、ちょっと事情があってとごまかしておいた。タクシー会社はそれで一応納得してくれたようだ。時間を確認しただけで予約を受け付けてくれた。

 最後にもう一度、忘れ物がないか部屋中を確認して回った蕗子は、部屋の片隅に逆さにして吊るしてあるドライフラワーに気付いた。

 初めてこの家に連れて来られた次の日に浩司が買ってきてくれた、一輪の薔薇。そのあと何度かもらった豪華な花束はリビングルームの花瓶を飾ったが、これだけはどうしてもこの部屋に置いておきたかった。

 蕗子はそれをそっと取り上げ、かさかさになって色褪せた花弁を指でなぞった。

 高価なものより、こんな他愛ないものほど愛着を感じるのは何故だろう。浩司にもらった小さな天使のガラス細工は荷物に入れたが、高価そうなブレスレットやイヤリングなどは鏡台の引出しに突っ込んだままだ。何気ないものにこそ、彼の真心がこもっているような気がするからかもしれない。

 ふと時計を見ると、もう八時過ぎになっていた。まだ階下で夫人と話している将太を迎えに行き、もうお風呂に入って眠る時間だと促す。将太は素直に頷いて、祖母にお休みを告げた。蕗子も、もう休みますと断って、将太と一緒に二階に上がった。

 くたくたに疲れてはいたが、充実した一日だった。忘れられない思い出ができたと、ふと思う。将太とお風呂の中でふざけ合いながら、蕗子は心の中でかわいい甥に別れを告げていた。

 部屋に入り、パジャマに着替えさせてベッドに入れる。将太の興奮に輝いた瞳も、もうそろそろ限界のようだ。眠たげに目をこすり、大きなあくびをしている。

 ベッドに入った将太の傍らで、蕗子は悲しげに微笑んだ。

「ねえ、将太はこのおうちが好き?」

 将太が閉じかけた目を開き、にっこり笑う。

「うん、大好き!」

「蕗ちゃんと住んでいたおうちより?」

 すると、将太は急に不安そうになった。

「蕗ちゃん……怒ってるの?」

 蕗子は安心させるように微笑んだ。

「ううん。怒ってなんかいないよ。あの家は、ここよりずっと狭くって、静かに歩かないと階下の人に怒られたもんね」

 将太が安心したように笑う。

「したのおいたん、よく怒ってたね。でも、今はもう走っても誰もなんにも言わないよ。おもちゃも、欲しい物は何でも買ってもらえるし、それに僕、おばあちゃんができた!」

 蕗子の唇に浮かんだ悲しげな微笑みを、将太は無邪気に見上げた。

「そうね。おばあちゃんも、伯父さんも、それに、お友達までできたよね」

「うん!」

「だから、蕗ちゃんがいなくなっても、大丈夫だよね?」

 静かに問うと、将太は黙り込んだ。不安そうに目を見開き、蕗子の手をぎゅっとつかむ。

「蕗ちゃん、いなくなっちゃうの?」

 蕗子も将太の手を握り返した。

「ねえ、将太、よく聞いて。蕗ちゃんね、将太のおばあちゃんや伯父さんのことを良く知らなくって、意地悪な人達だと思ってたの。だからずっと会わないままだった。でも、こうやって一緒に暮らしてみたら、ものすごく優しくて、いい人達だったよね。このままここのうちの子になったら、将太はすごく幸せになれると思うよ」

「蕗ちゃんもこのうちの子になればいいんだよ」

 熱心な将太の言葉に、蕗子はゆっくりとかぶりを振った。

「将太はこのうちの子だけど、蕗ちゃんは違うの。将太の名前は?」

「わきさかしょうた」

 すかさず返って来た答えを聞いて、笑みが漏れる。

「じゃあ、蕗ちゃんの名前は?」

「えーと……おうみふきこ」

「よくできました。ね、おばあちゃんも、伯父さんも、将太と同じ『脇坂』っていう名前なの。でも、蕗ちゃんは『青海』でしょう。このうちの人とは関係ないのよ」

「……じゃあ、出ていっちゃうの? しょうたと一緒にいたくないの?」

「ああ、将太!」

 今にも泣き出しそうな将太を、蕗子は抱きしめた。

「一緒にいたくないわけじゃないのよ。将太のことが大好きなんだから。大好きだって、知ってるよね?」

 蕗子の胸の中で、将太の小さな頭が頷く。

「将太は蕗ちゃんと一緒にいた方が幸せだって、ずっと思ってた。でも、ここに来て、ここの方がもっとずっと幸せなんだって思ったの。蕗ちゃんはまた学校に戻らなくちゃならないし、ここからでは遠いでしょう? だから、蕗ちゃんは元のおうちに帰らなくちゃ」

 大粒の涙で蕗子の服を濡らしながら、将太がしがみついて来た。

「僕、おばあちゃんより蕗ちゃんの方がいい」

「まあ、将太……」

「蕗ちゃんと一緒に行く。前のおうちでもいいよ。蕗ちゃんに怒られないよう、いい子にするから。だから連れてって」

 蕗子はたまらなくなって、将太をぎゅっと抱きしめた。目頭が熱くなったが、無理矢理に涙を飲み下す。喉の奥がひりひり痛んだ。

 連れて行きたい。このままこっそり、将太を連れて出て行きたい。どれほどそうしたいと思っているか!

 だが、将太の将来のことを考えると、それはできない相談だった。蕗子は心を鬼にして、きっぱりと答えた。

「ありがとう、将太。でも、駄目なの。連れて行くわけにはいかないのよ。そのかわり、伯父さんがいるじゃない。伯父さんのことは大好きなんでしょう?」

「おいたんよりも、蕗ちゃんがいいの!」

 蕗子は将太の細い体をぎゅっと抱きしめた。

「でもね、将太が大きくなっても、蕗ちゃんはキャッチボールできないんだよ。女の子だもの。欲しいおもちゃも買ってあげられないし、おいしいものも食べられない。こんなに広いお庭もないし、お隣の朋くんともお別れしなくちゃならないんだよ」

 将太が涙に濡れた顔を上げた。

「一緒にいてよ。僕、おばあちゃんとおいたんに頼んであげるから。蕗ちゃんもうちの子にして下さいって。だから……だから……」

 蕗子は震える唇に微笑みを浮かべた。

「それはできないの。ね、蕗ちゃんが出ていっても、いつだって会えるわ。将太が会いたいと思う時、いつでも。必ず手紙を書くし、時々は蕗ちゃんのおうちに泊まりに来て。待ってるから」

 泣きじゃくる将太の気をそらすように、付け加える。

「もうすぐ朋くんと一緒に幼稚園に行くんでしょう? 楽しみにしてたじゃない。蕗ちゃんに会った時、どんなだったか教えてちょうだい。幼稚園に行って、たくさんのお友達を作ってね。蕗ちゃん、楽しみにしてるから」

 幼稚園と聞いて、将太の心は決まったようだった。不安そうに蕗子を見上げる。

「いつでも、会える? 本当に?」

「ほんとよ。でも、幼稚園がお休みの時にね。蕗ちゃんも、学校とお仕事がお休みの日には将太に電話するわ。遊びにおいでって」

「蕗ちゃんも、来てくれる?」

「もちろんよ。おばあちゃんと伯父さんが、いいって言ってくれたらね」

 決していいとは言ってくれないだろうと思いつつ、答える。

「いいって言ってくれるよ。みんな、蕗ちゃんのことが好きだもの」

 蕗ちゃんのことを嫌う人などこの世にはいない、とでも言いたげな口調だ。蕗子は苦笑を禁じ得なかった。

「いい子にしているのよ。おばあちゃんと伯父さんの言うことを良く聞いて。蕗ちゃんは、いつだって将太のことを思ってるからね。ここで幸せに暮らせますようにって、祈ってるから」

 将太がこっくり頷くと、蕗子はそっと身を離した。濡れた頬をそっと手で拭って、かわいいほっぺにキスをする。

「さあ、もう寝なさい。今日はたくさん遊んだから」

「寝るまでここにいる?」

「ええ、いるわよ。将太が眠るまで、ずっと手を握ってる」

 それでやっと安心したのか、将太は微かに微笑んで目を閉じた。蕗子がそっと頭を撫でてやっていると、やがて静かな寝息が聞こえて来た。それからもしばらくは頭を撫でてやり、確実に眠っていると確認してから、蕗子は手を離した。将太の手は、力なくベッドに落ちた。

 時計を見ると、予定外に時間がかかっている。タクシーがしびれを切らしてクラクションを鳴らしたりしないよう、蕗子は急いで身支度を整えた。

 前もって書いておいた手紙を、浩司の寝室のベッドの上に置く。未練が出ないよう素早く部屋から出ると、こっそりと屋敷から抜け出した。幸い、誰にも見咎められずに済んだ。

 と、思っていた。

「どこへ行くんです?」

 不意に暗闇から声をかけられて、蕗子はびくっと体を震わせた。荷物を詰めた鞄を、身を守るように抱きかかえて振り返る。暗闇の中から、津本が姿を現した。

「あの……私……」

「私に黙って出かけられると、困るんですがね。職務がありますから」

 蕗子は困ったように後退った。

「だって……あなたが守っているのは、脇坂家の人間でしょう? 私は関係ないわ」

 津本の目が鋭く光る。彼は一歩、更に一歩と蕗子に近付いた。

「あなたも脇坂家の人間だ。そうでしょう?」

「違う……違うわ。私は脇坂家の人間なんかじゃない。これっきり、何の関わりもない人間に戻るの。脇坂の人達を知らなかった頃の私に」

 黙り込んだ津本を振り切るように歩き出すと、背後から彼の鋭い声が飛んだ。

「そんなことができると本気で思っているんですか? 浩司様がお許しになりませんよ」

「あの人には、何の義務もないのよ!」

 家人に見つからないように小声で、だが激しく言う。

「間違った義務感から、私と結婚しなければならないなんて思って欲しくないの」

「間違った義務感? 一体、何のことですか?」

「将太のため、誤解されたまま死んでしまった私の姉のため。理由はいろいろあるわ。彼は自分が結婚を反対したせいで姉夫婦が死んでしまったと思ってる。その間違いを、私との結婚で修正できると思い込んでいるのよ」

「修正ですって? なぜそんなことを思いついたんですか? 浩司様は純粋にあなたのことを……」

 悲しげにかぶりを振り続ける蕗子を見た津本の口から、言葉が途切れた。

「私がいなくなったら、あの人はいつか本当に愛する人を見つけられるわ。今は、私への罪悪感で目が見えなくなっているだけ。だから……お願い、行かせて」

 津本はしばらく考え込み、やがて、静かに問いかけた。

「あなたは浩司様を愛していますか?」

 蕗子の顔に逡巡の色が浮かんだ。その苦悩の表情を見て、津本は彼女の答えを確信した。

「……愛してない。愛してなんか、いないわ」

 しっかりした声の、そして表情を消した顔の裏に潜む真実の答えが、津本にははっきりとわかった。

彼女を行かせるべきではないと思う一方、このままそっとしておいて、浩司に後を任せるべきだとも思う。

 しばらく考えた後、津本は後者を選択した。黙ったまま数歩後退り、蕗子が安堵したように暗闇の中に消えていくのを見守ったのだ。

 彼女が姿を消すとすぐに、津本は足早に警備システムセンターに向かった。そこに詰めている警備員に短く挨拶をして、素早くいくつかの操作をする。それが赤外線探知システムと外壁に流れる高圧電流の解除と知った警備員が、背後で息を呑んだ。

 タクシー会社はこのシステムを良く知っているので惨事になることはないだろうが、蕗子はまったくの無知だ。あとを尾けることができない以上、こうする他なかった。ほんの数分とはいえ警備システムを切ってしまうのは賭けでもあるが。

 どこか遠くの方で、車が走り去る音が微かに聞こえて来る。その一瞬後、タクシーの運転手から乗客を無事乗せたという報告が、独特のしゃべり方で無線に入った。津本も蕗子にばれないように声色を使って、了解、と短く返事する。無線を切ってから、津本は再び警備システムのスイッチを入れた。すぐに見まわりに行かなければ、と考えながら。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ