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偽りの恋人  作者: 水月
20/26

20

R15です

 それからの毎日は、ゆっくりと流れていった。

 浩司は毎晩、どんなに遅くなってもこの家に帰ってきた。そして、帰るたびに蕗子にお土産をくれた。豪華な花束のときもあれば、小さなガラス細工のときもある。それを受け取るたびに蕗子が困惑した顔をすることに気付いているはずなのに、彼は贈り物をやめようとはしなかった。

 次第に、蕗子もそのささやかなプレゼントを心待ちにするようになった。夕食後さっさと寝室に上がるのはやめ、キミや脇坂夫人と雑談をしたりして浩司が帰ってくるまでの時間を居間で過ごした。

 それでも、夜中まで彼の帰りを待ったりはしない。毎晩十一時になると部屋に引き上げるので、そんな日は翌朝ドアを開けると部屋の前にプレゼントが置かれていた。

 最初は浩司の行動に驚きを隠さなかった夫人も、やがて息子の一途な求愛に納得したようだ。謎めいた微笑みを蕗子に向けるだけで、浩司を諌めようとはしなかった。

 その脇坂夫人も、劇的にとまではいかないが明らかに体調は上向いていた。今までになく良く食べ、良く笑い、調子のいいときは庭を散歩するまでになっている。定期的に診察に来る主治医をすら驚かせたほどだ。

 生き甲斐ができたのが良かったのだろうと医師は言った。それが将太をさしているということは、誰の目にも明らかだった。

 痩せ細っていた体に肉がつき始め、こけていた頬もかさかさだった肌も、かつての美しさを取り戻し始めている。悲しみに沈みがちだった瞳も今ではきらきらと楽しげに輝き、もともと弱かった心臓は順調に働いて、血色を良くする一因となっていた。

 その変化を一番喜んだのはキミだったが、浩司もそのことで蕗子に感謝していることはわかっていた。彼が蕗子を見る目、ふとした拍子に触れる指先からさえ、感謝の念を感じ取れた。

 将太自身の体調もすこぶる良好だった。事故のあと一週間が何事もなく過ぎると、彼は遊びの場を外に許されて大喜びした。早速友達を求めたので、蕗子は渋々ではあるが庭師の家に連れて行ってやった。

 将太はもちろん、庭師の息子の朋生(ともお)も大はしゃぎだ。蕗子はというと庭師の妻と思いがけず話が弾んでしまい、結局翌日も遊びに行くことになってしまった。

 ここにいると、時間があまりにのんびりと進むことに驚いてしまう。姉夫婦を亡くしてからというもの蕗子の時間は分刻みに進み、あっという間に一日が過ぎていったものだったが……。

 問題は週末だった。浩司はもちろん津本もこの家にいるため、蕗子はいつもより落ち着かない気持ちにさせられた。

 ふと目を上げると、そこに必ず浩司がいる。そのことが、幸せだった頃を思い出させて蕗子の胸を締め付けた。

 視線が合うたびにさっと目をそらす蕗子を、それでも見つめ続ける浩司。その切ない表情を、津本は週末中見守っていた。

 そんな二人のぎこちない様子に気付かないキミではなかった。喧嘩でもしたのかと遠慮なく浩司に問いかけ、彼の苦しげな表情を見て口をつぐむ。

 それ以来、キミは浩司と蕗子を冷やかすのをやめた。その代わり、油断なく二人の様子を観察した。心の中では結論を出したようだが、彼女は賢明にもそれを口にすることは差し控えた。


◆ ◆ ◆


 やがて、将太が抜糸をする日がやってきた。蕗子は遠田と共に、付き添いとして病院に赴いた。抜糸のあと、浩司が念のためにと手配しておいてくれた検査を受ける。時間はかかったが、特に異常なしと太鼓判を押されると安心するものだ。蕗子は医者と遠田に深く頭を下げて、心からの感謝を述べた。

 その夜は、将太の全快祝いパーティーが開かれた。浩司と津本も早めに帰宅し、庭師一家も招待された。広いリビングがほんの数時間で華やかなパーティー会場に変貌していくのを、蕗子はぼんやりと眺めていた。

 将太はいつもより遅くまで起きていることを許されてご機嫌だ。朋生と二人、仲良く額をつき合わせて遊んでいるところを見ると、蕗子の顔に穏やかな微笑みが浮かんだ。

 将太が眠ってしまうとすぐに、遠田は脇坂家を辞した。もう既に次の仕事が入っているという。

 彼女に別れを告げながら、私もいつかこの家を出なければならないのだということを実感して、蕗子の胸が悲しみにふさがれた。

 浩司が手配したタクシーが遠田を乗せて走り去るのを見送ってから居間に戻ると、キミたちが後片付けをしていた。

 さすがに疲れた顔をした母親を気遣って、浩司が彼女を部屋に連れて行ったのを潮に、蕗子も自室に引き上げた。

 ドアを開けて、真っ暗な部屋に入る。電気をつける気にはならなかった。目が暗闇に慣れるまでしばらく待ってから、カーテンから洩れる薄明かりを頼りに窓辺まで歩み寄った。

 そっと、静かにカーテンを開ける。窓の向こうから現れた月が、存外に明るく部屋の中を照らし出した。

 その窓は出窓風になっていて、造り付けのベンチシートが、くり抜かれた壁と壁の間に渡されていた。蕗子はそこに膝を抱えて座り込み、一方の壁にもたれてぼんやりと窓の外を眺めた。

 あまり自然に手を入れたくないという夫人の意向で、庭には外灯がない。いつもなら真っ暗で何も見えないのだが、今は月明かりに晧々と照らし出されて、何もかもがはっきりと見えた。青白く透き通るような光に満たされた森は、美しすぎてなんだか怖いくらいだ。

 蕗子は目を閉じて、神々しいまでの景色を視界から締め出した。上向いて頭を壁に預ける。こつんと小さな鈍い音がした。

 蕗子の口から、重いため息が漏れる。

 ここに来てから、将太はすごく幸せそうだ。そのことに気付かないほど、蕗子は盲目でも狭量でもなかった。それはもう、何日も前からわかっていた。頭で理解できた明らかな事実を、ただ胸が痛むというそれだけの理由で、認めずにいただけだ。

 だが、もうこれ以上自分をごまかすことはできない。

 将太の両親がこの世を去ってから今まで、彼のことを愛し、心配しているのは自分だけだと思っていた。だが、そうではないのだ。彼の伯父も、そして祖母も、この屋敷の使用人達すら、将太を慈しみ、笑わせ、その庇護で安心させてくれる。

 ここに来ることに最後まで抵抗していた蕗子も、この屋敷で静養するのが将太にとって最良の道だったということは認めざるを得なかった。専属の看護師がつき、広々とした明るい部屋の大きなベッドで、テレビを見たりおもちゃで遊んだり。身も心も疲れ果てていた蕗子と二人きりだったら、こんなに順調に怪我が治っただろうか?

 贅沢から質素な生活に慣れるのは大変だが、その逆はこんなにも簡単なことなのか、と蕗子が実感するほど、将太は素早く今の生活に馴染んでいた。

 ここに必要とされていないのは、私だけ。

 心の痛みを押し殺して、蕗子ははっきりとそう悟った。そのことを認めるのに、たっぷり二週間もかかってしまった。でも……。

 将太は、私のことを慕ってくれている。私もずっと一緒にここで暮らすと信じて疑わない。彼にとって、それは当たり前のことなのだ。

 僕はずっとここにいたい、だから、叔母さんもここにいたいはずだ。だって、僕のことを大事に思ってくれてるから。それに、今まで二人で暮らしていた狭いアパートより、広い庭と、それぞれの部屋と、おいしいご飯が食べられるここの方が、いいに決まってる。

 ……とまあ、彼が考えていることを言葉にして代弁するとしたら、こんなところだろう。それも仕方がない。彼の両親と父方の親戚との確執を、彼はあまり知らないのだから。それに、実際、彼はとても可愛がられているのだから。

 それだけに、話はややこしい。

 将太はここにいる方が幸せだということはわかっている。そして、蕗子もここにいて欲しいと将太が思っていることも。

 だが、蕗子はここにはいたくない、いや、いられないのだ。ここにずっといるということは、彼の伯父、つまり、浩司の愛のないプロポーズを受け入れるということ。それだけはできない。それだけは……。

 あれ以来、二人の間で結婚のことが話題に上ることはなかった。なんとなく、使用人達もその話題を避けているように思うのは気のせいだろうか? 浩司の母すらその話題には触れてこない。

 蕗子の知らないところで得体の知れない事態が進行しているようで、時々空恐ろしくなる。そのことを問いただそうにも、もう蕗子には浩司と相対する精神力は残っていなかった。何も感じていない振りをして、彼の贈り物を受け取るだけで精一杯だ。

 蕗子が目を合わせようとしないことに、浩司が苛立っていることもわかっていた。だが、今の蕗子には彼の気持ちまで思いやる余裕がない。毎日を無気力にぼんやりと過ごすことに満足しているわけではないが、何をどうすればいいのかすらわからないのだ。

 蕗子は再び大きなため息をついて、両手で顔を覆った。

 私がいなくても、将太は何も不自由することはない。もちろん、最初は淋しく思うだろう。生まれた時から一緒に暮らしているのだから。たった数ヶ月とはいえ、親子のように寄り添って生きてきたのだから。

 だが、これからは伯父や祖母と共に、新しい家族の歴史を作っていけばいいのだ。浩司は将太を正式な養子にしてくれるだろう。もしも浩司が結婚すれば、将太にも兄弟ができるかもしれないし……。

 浩司が他の誰かと結婚する、そう考えただけで口の中に苦いものが広がった。どう自分をごまかしてみても、彼を愛していることに変わりはないのだ。

 彼を憎もうとした。愛してなどいないと、何度も自分に言い聞かせもした。だが、駄目だった。体の奥からほとばしる愛しい想いを、どうしても消し去ることができなかった……。

 何も知らなかった頃に戻りたい。彼が大企業の社長であることも、憎い脇坂家の当主であることも、そして、将太のことを心から愛しているということも、何もかもを知らなかった頃に。

 閉じた瞼から、大粒の涙が一つ、こぼれおちた。それが掌に当たって初めて、自分が泣いていることに気付く。蕗子は不思議なものでも見るような目つきで掌を濡らしたものを見つめた。

 ぽたり、ぽたりと、涙が落ち、服に丸い染みを作っていく。蕗子はぎゅっと目をつぶって涙を絞り出してしまうと、決然とそれを拳で拭った。

 泣いていても仕方がない。これから私がやらなければならないことには、涙は禁物だ。

 将太を納得させて、ここから出ていかなければ。何でもないことのように言わなければ、私が出ていった後、大騒ぎするかもしれない。浩司や、彼の母親にそんな苦労をさせるつもりはない。

「……どうした」

 静かな声に、はっと顔を上げる。あまりにも自分の考えに没頭しすぎていて、ドアを開ける音にも気がつかなかったようだ。

 浩司がノックもせずにこの部屋に入ってきたのは初めてだ。蕗子はそのことに驚き、咄嗟には声が出なかった。

「まだ、寝るには早い時間だ。具合でも悪いのか?」

 では彼は、心配してきてくれたのだ。

 そう悟った瞬間、再び喉の奥がひりひりして、目頭が熱くなった。

 なんでもありません、と言おうとしたが、喉に何かがからんで声にならない。今しゃべると泣き声になりそうで、蕗子は黙ったままでいた。

 浩司が近付いてくる。蕗子は窓から差し込む明るい月明かりに背を向けるために、足を床に下ろして部屋の方に向き直った。

「それとも、何かあったのか? こんなところに座り込んで……」

 そっと蕗子の顎に手を当てて顔を仰向かせ、優しく問う。蕗子は力なくかぶりを振って、彼の手から逃れた。浩司がかがみ込んで、蕗子のうつむいた顔をのぞき込んでくる。

「……泣いていたのか」

 その問いにも、かぶりを振る。だが、彼の手がまだ湿っている蕗子の頬を撫でると、全身に震えが走った。

「何があったんだ? どうして……僕に何も言ってくれない?」

 こころなしか、浩司の声も少し震えている。彼は蕗子の足元にひざまずくと、逞しい胸板に震える体を抱き寄せた。彼の体の温かさが、じんわりと蕗子に伝わってくる。

 蕗子が抵抗しないことに力を得て、彼は腕に力をこめた。

「……僕のせいか? 僕のことで、泣いているのか?」

 苦しげな声。蕗子は夢中でかぶりを振った。決して浩司のせいなんかではないのだから。彼は彼の信念をもって、将太のために最良の道を選んでくれたのだから。

 そう、私にプロポーズしてまで……。

 浩司は蕗子の隣に座ると、彼女を抱いている腕にぐっと力を込めて自分の膝の上に抱き上げ、横座りさせた。慰めるように、彼女の顔にキスの雨を降らせる。

「泣かないで。きみに泣かれると、辛い……」

 蕗子は震える微笑みを唇に押し上げた。

 家族のためにいろんな犠牲を強いられてきた浩司のことだ、まず他人のことを思いやるくせがついているに違いない。将太の叔母だというそれだけの理由で、この私も家族という一括りに入れてくれている。

「何でもないの。ただ……」

 震える声で言う。蕗子が口をきいたことで、浩司の緊張が緩んだ。

「うん。ただ……何?」

 蕗子はかぶりを振った。

「自分でもわからない。このところ、立て続けにいろんなことが起こったから……」

 再び、浩司の体が強張る。

「その大部分は、僕のせいだ」

 ためらいがちに、蕗子は頷いた。

「そうね。最初は……そう思ってた。でも、今は違うの。あなたは、将太にとってなくてはならない人だわ。私の抵抗を押し切ってここに連れて来てくれたことを、今では感謝してます」

 一言一言、確認するようにゆっくりと言う。彼の罪悪感が、これで消えてくれますように。

 だが、浩司はまるで責められているかのように苦しげな表情になった。

他人事(ひとごと)のように言わないでくれ。きみを手放したくなくて無理矢理ここにつれて来たが、最近のきみはまるで抜け殻だ。ついこの間まであんなに僕を罵っていたのに、今は無関心という壁ですべてを拒否している。怒っているなら、僕をぶてばいい。罵ればいい。悲しいなら、大声で泣けばいい。こんな風に誰にも隠れて泣くのはやめてくれ。泣いていることを隠して、そんな理性的なことを言わないでくれ。僕はきみを傷つけた。意図したことではないが、結果的には……」

 浩司が腕を伸ばし、蕗子の体を離して顔をのぞき込んでくる。蕗子は悲しみに歪んだ顔を背けた。

「すまなかった。本当に、すまなかった。計略や打算に慣れきっていて、素直に頼みに行くという考えなど、頭に浮かびもしなかったんだ。そのために、きみを……」

 蕗子の腕をつかんでいる手に、ぐっと力がこもる。

「許してくれ。もうこれ以上、僕を無視しないでくれ。耐えられない」

 言葉尻が震えた。蕗子は、うなだれた浩司の頭を、不思議そうに見た。

 無視していたつもりはないが、彼と目が合うたびに顔を背けていたのだから、そうとられても仕方がないだろう。自分の無力感に打ちのめされていた蕗子には、以前のような覇気がなかったのも事実だ。浩司に対する怒りすらどこかに置き忘れていたような、そんな無気力な毎日だった。

 蕗子は愛する人が苦しんでいるのを見ていられず、そっと彼の頭にキスをした。この人と会うのもこれが最後、と思う。こんな風に苦しめたまま、別れることはできない。私が何も言わずに消えたら、一生苦しむような人なのだ。

 浩司が、はっとしたように顔を上げた。蕗子は潤んだ瞳で彼をひたむきに見詰めた。

「許すことなんて、ないわ」

 想像以上に声が震えて、咳払いをしてごまかす。

「さっき言ったことは、私の本心です。私だって悪かったの。姉のことを財産を狙っているハイエナ呼ばわりされて、頑なになっていたから。あなたは、辛抱強く私たちに付き合ってくださったわ。本当に、感謝してます。ただ、今日まで素直に認められなかっただけ。あなたを無視していたつもりはないんだけど、もしそんな印象を与えたのだったら……ごめんなさい」

「……蕗子?」

 浩司らしくもない、自信のなさそうな問いかけ。蕗子は唇を震わせながら、精一杯微笑んでみせた。

「あなたは立派だったわ。あなたになら、安心して将太を任せられます。だから……」

 その先を言うことはできなかった。感極まった浩司に抱きしめられ、激しいキスで唇を覆われたから。

 蕗子は彼の背中に腕を回し、唇を開いて熱い舌を迎え入れた。ああ、愛してるわ、と心の中でつぶやく。

 浩司の口づけは徐々に激しさを失い、穏やかな、優しいキスに変わっていった。角度を変えて、何度も唇をついばむ。唇を離すのが惜しいというように、何度も、何度も。

「……このままでは、きみの体を奪ってしまう」

 蕗子の首筋にキスを浴びせている浩司の唇から、ハスキーな囁き声が漏れた。

「いやなら、今のうちに逃げてくれ」

 一瞬ためらった後、蕗子はそっとかぶりを振った。

 息を詰めて蕗子の返事を待っていた浩司の口から、胸の底から響くようなため息が押し出される。浩司は息ができないくらい強く蕗子の体を抱きしめたあと、そっと腕を解いて横向きに抱き上げた。

 ベッドに下ろし、ブラウスのボタンを外しかけたところで、ふっと蕗子の顔を見つめる。蕗子はうっとりと彼に見とれていた。

「本当にいいんだね?」

 蕗子の顔を見て、どこか緊張した表情で問う。蕗子は頷いた。

「明日の朝、僕の顔を見るのもいやだなんて言わないね?」

 ゆっくりと、かぶりを振る。浩司の顔から緊張が消えた。嬉しそうに微笑み、蕗子のブラウスを素早く脱がせる。

「愛してるよ」

 ブラジャーをずらして胸の膨らみに手を滑らせながら、つぶやく。蕗子は低くうめいて彼の手に身を委ねた。


◆ ◆ ◆


 翌朝、蕗子は何かに肩を揺すられて目覚めた。うーん、と眠そうにうめいて、布団の中に潜り込む。だが、その布団がそっと、だが強引にめくられて、裸の背中に何か温かいものが押しつけられた。

 蕗子がびっくりして飛び起きると、そこにはにやにや笑いを浮かべた浩司の顔があった。どうやら、背中に押し付けられた温かいものは、彼の唇だったらしい。

 彼はすでにシャワーを浴び、きちんとスーツを着てベッドの端に座っていた。寝起きで髪もくしゃくしゃの蕗子とは、雲泥の差だ。

 呆然としている蕗子を面白そうに眺め、彼は蕗子の胸元に視線を落とした。その目が、愛しげに狭まる。蕗子もつられて視線を落とし、そこに裸の乳房を見つけて仰天した。

 羞恥の叫びを上げて布団を手繰り寄せ、体を隠す。すると、浩司は残念そうに笑った。

 おはよう、と言いながらキスをする。そのキスで、蕗子は昨夜のことを思い出した。ぱあっと頬を染めて、彼のキスから逃れようともがく。だが、彼は蕗子の体を引き寄せて、更に激しいキスを始めた。蕗子の羞恥心を追い出そうというように。

 やがて蕗子の体から力が抜け、熱いもので全身が満たされた。蕗子の腕が知らず知らずの間に浩司の首に回される。二人は恋人同士の甘く激しいキスを交わし合った。

 二人の息遣いが速まり、熱い欲望が湧き起こった途端、浩司は唇を離した。肩を激しく上下させながら、蕗子の火照った体を抱きしめる。

「すまない。もう出かけなければならない。大阪で、会議があるんだ」

 あえぐように浩司がつぶやく。蕗子は震えながら頷いた。

「……後悔してないね?」

 その問いにも、頷く。浩司の胸が大きく上下して、深いため息をついたのがわかった。

「ちょっと恥ずかしかったのかな」

 からかうような声。蕗子はぽっと頬を染めて、また頷いた。浩司の顔に穏やかな微笑みが浮かぶ。

「これでもう、僕たちは大丈夫だ。うまくやっていけるとも。明日から結婚式の準備に入ろう」

 そう囁いてから、浩司は幸せそうに微笑んでいる蕗子を見下ろし、申し訳なさそうに額にキスをした。

「本当は今すぐにでも手配したいんだが。今日の会議はどうしても外せないんだ。ごめんよ、式の話はその後だな」

 浩司の言葉を聞いて、蕗子は内心安堵のため息をついた。にっこり笑って顔を上げ、愛する人の顔を胸に刻みつけるように見つめる。

「気にしないで。私なら大丈夫だから」

 浩司はしばらく面白くなさそうな顔で蕗子を見下ろしていたが、何事か口元で罵ると、素早く蕗子を抱きしめて唇を奪った。

「嘘でもいいから、僕と早く結婚したいような顔をしてくれ。そんな風に平気な顔で……」

 キスの合間に、苦しげにつぶやく。蕗子は彼のキスに懸命に応えながら、あなたと結婚したい、本当に結婚したいのよ、と心の中で叫んでいた。

 あなたの愛さえあれば。家族の義務ではなく、バージンを奪ってしまった罪悪感でもなく。あなたの愛だけが欲しいのに……。

 浩司への絶望的な愛情が胸に迫り、蕗子は無我夢中で浩司にキスを返していた。そのキスが蕗子の愛情を浩司に確信させたとも知らずに。

 やがて、浩司はゆっくりと蕗子の唇を解放した。

「僕を見て」

 静かに言われて、蕗子が顔を上げる。彼女の頬が上気しているのを見て、浩司の目が和んだ。

「今日は遅くなるが、必ず帰ってくる。待っていてくれるね」

 その問いには、素直に頷くことができなかった。頷かなければ不審に思われるとわかっているのに、嘘をつくことに抵抗を感じる。今日のうちにここから出ていくのだ、と蕗子は思った。この人と会うのも、これが最後。この顔を見るのも、これが最後……。

 切なげな表情を見て、浩司の顔つきが変わる。

「そんな目で見ないでくれ。僕だって、行きたくはない……」

 囁きながら、そっとキスをする。自分の反応を、離れたくないと思っていると誤解しているのだ、と蕗子が悟った時には、もうキスは終わっていた。だが、ある意味では浩司の推測は当たっている。彼と別れたくない、離れたくない、そう思っているのだから。

「この問題が片付いたら、必ず埋め合わせをするから。そうだ、母に言って、買い物をしてきなさい。一緒に行きたいが、時間がない。ハネムーン用でも、普段着でも、気に入った服を全部買えばいい。君の未来の夫は、ちょっとやそっとでは破産しないから」

 最後は、からかうような口調だった。蕗子は目を潤ませながらもくすくす笑い、そんな自分に喝采を送った。

 名残惜しげなキスを置いて、浩司は立ち上がった。

「さあ、もう行かなければ。何かあったら、携帯に電話してくれれば僕が直接出るから。番号は知ってるね?」

 出会ってすぐの頃に渡された名刺の裏に書かれた番号のことだ。あとから知ったのだが、それは家族しか知らされていない、ごくごくプライベートな番号だった。結局一度もかけることはなかったが、彼の正体を知るまでは宝物のようにいつも持ち歩いていたものだ。彼が脇坂浩司だと知ったその日に、破り捨ててしまったが。

 蕗子が頷くと、浩司は微笑んだ。

「いい子で待ってるんだぞ。じゃあ、行ってくる」

「行ってらっしゃい」

 声は震えてしまったが、顔は微笑んでいるはず。蕗子は泣き出してしまわないよう、懸命に自分に言い聞かせた。

 浩司はドアの前でちょっと戻ってくるようなそぶりを見せたが、思い直したように微笑んで頷き、そっと部屋を出て行った。

 彼の足音が遠ざかる。階段を降り、しばらく間があった後、玄関の重いドアが閉まる音がした。

 浩司が前庭の車回しのところでこの部屋の窓を見上げているかもしれないと思ったが、蕗子にはそこに行ってそれを確かめる勇気はなかった。車のドアが閉まる音、エンジンがかかって車が遠ざかって行く音……。

 すべてが終わって部屋に静寂が訪れた時、蕗子の目に涙があふれた。それは堰を切ったように流れ出て、いつまでもとどまることを知らなかった。

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