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部屋に戻る前にフロントで確認したが、伝言は何も残されていなかった。蕗子はとぼとぼと奥に進み、キッズルームに入って保母に会釈をした。
蕗子がこのホテルを選んだ最大の理由が、これだ。三歳の子供を連れていては、アルバイトなど探せるはずもない。宿泊費に加えて保育費も決して安くはないが、これだけは譲れない条件だった。
ほんの数人の子供達の中から甥の将太を見つけ出すのはたやすかった。将太の方もすぐに蕗子の姿を認め、嬉しそうに駆け寄ってくる。
保母から今日の様子を聞いてから、二人はキッズルームを出た。
エレベーターに乗っている間も、長い廊下を歩いている間も、将太はキッズルームで遊んだことをつたない言葉で一生懸命話してくれる。蕗子はそれにいちいち頷きながら、将太の元気そうな様子に安堵した。
部屋に戻ってスーツを脱ぎ、ジーンズとTシャツに着替える。今日は帰ってくるのが遅くなってしまったので、もう夕食の時間だ。蕗子は洗濯物と財布をつかんで、もう一度部屋を出た。
エレベーターで一階まで降り、コインランドリールームに入る。洗いから乾燥まで全自動でしてくれる洗濯機に洗濯物を入れ、お金を入れた。こうしておくと、食事をしている間に洗濯が出来上がっているのだ。
洗濯機が動き出したのを確認して、蕗子は将太と共にホテルを出た。
ホテルで食事をする余裕はないので、いつも近くのファミリーレストランや喫茶店を利用しているが、それでもやはり外食続きは辛い。経済的なこともあるが、なにより濃い味付けや栄養面で、小さな子供には良くないだろうとわかっているからだ。
やはり、なんとかして小さなアパートでも借りなければ……。
そんなことを考えながらホテルを出て階段を降りていると、不意に首筋がぴりぴりするような感覚に襲われた。
誰かに見られている?
数週間前にある男の訪問を受けてから敏感になった感受性が、そう教えていた。
蕗子は視線を感じる方をぱっと振り向き、そこに意外な人物を見つけて驚いた。
「やあ」
つい数十分ほど前に出会った、あの男だ。蕗子はあまりの驚きに、しばらくは口もきけなかった。
「食事に行くんだろう? 一緒に行ってもいいかな」
魅力的な微笑みを口元に浮かべて、男が言う。蕗子は呆然と男が歩み寄ってくるのを見詰めた。
「あなた……どうして……」
男は片方の眉をぴくりと動かしてからにやりとした。
「障害があれば燃える性質だと言っておいただろう。僕を挑発したのは間違ってたな」
「挑発なんて……」
してません、と言う前に、男は将太の方にかがみこんでいた。
「障害と言うには不憫なほどかわいい子だな。やあ、こんにちは。きみ、名前はなんていうの?」
「わきさかしょうた」
人見知りなどまったくしない将太が、無邪気に答える。蕗子は諦めたように天を仰いだ。
「しょうたくんか。おじさんと一緒に、晩ご飯を食べに行かないか?」
「おいたん、ハンバーグちゅき?」
「ああ。好きだよ」
「ふうん。しょうたはね、ぐあたんがちゅき」
「ぐあたん?」
無言のままの蕗子に、助けを求めるような視線を投げる。蕗子は仕方なく通訳した。
「グラタンのこと」
「ああ、グラタンね。よし。じゃあ、グラタンのあるお店に行こう」
「でもね、ふきちゃんが、ぐあたんばっかい食べると、えーと、えーと……」
「病気になる、でしょ。お野菜を食べなくちゃ」
「やちゃい、きやい」
「嫌いでも食べなきゃだめ」
ぶー、と唇を尖らせて不満そうに黙り込んでしまった甥を眺めてから、蕗子は思い切って男の顔に視線を当てた。
男はしゃがんだまま、じっと将太に目を当てている。
「オーケー。グラタンと、野菜サラダ。それでいいだろう?」
「さらだー……。うー……」
「食べないと、大きくなれないぞ」
諭すような言葉を聞いて、蕗子は意外そうに男を見た。
見かけによらず、子供好きらしい。だが、本当にそうなのか、それとも他に何か目的があるのか……。
ついに根負けして、将太が頷く。男は満足そうな微笑みを浮かべると、さっと体を起こして蕗子に同意を求めるような表情を向けた。
蕗子は諦めのため息を押し殺して、渋々頷いた。
男が案内してくれたのは、ホテルからほど近くにあるレストランだった。ファミリーレストランほどくだけてはいないが、高級レストランというほどでもない。暗めの店内にはちらほらと子供の姿もあって、場違いな感じはしなかった。
約束通り、彼は将太には子供用のグラタンとサラダのセットを、自分のためには複雑な名前のついた肉料理を選んだ。
「きみはどうする?」
不意に鋭い視線を当てられて、蕗子はびくっとした。メニューから顔を上げて、しどろもどろになりながらタンシチューを頼む。
ウエイターが静かにやって来て、男の傍らに立った。彼はよどみなくメニューを読み上げ、他にもオードブルやスープを注文してメニューを閉じた。
「ワインは、好き?」
さりげなく聞かれて、蕗子はかぶりを振った。
「本当に? 遠慮してるんじゃないだろうね」
「いえ、本当に。私、あまり飲めないので」
「そう。じゃあ、一杯だけ、付き合ってくれないか」
それくらいなら、と蕗子は快く頷いた。
男が手を上げると、すぐにソムリエが来た。気軽な店だと思っていたので、ソムリエがいたことに驚いてしまう。蕗子には何がなんだかわからないワイン談義をしばらくし、味見をしてから、彼は銘柄を決めた。
グラスにワインが注がれ、彼はそれを持ち上げて乾杯の仕草をした。
「僕たちの出会いに」
蕗子も慌ててグラスを持ち上げる。だが、乾杯の仕草をする気にはなれなかった。わざとらしい気がしたし、彼との出会いを喜んでいいのかどうか確信が持てなかったからだ。
「さて」
ワインを味わってから、彼は切り出した。
「自己紹介がまだだったね。僕は……津本浩司。東京の電機関係の会社に勤めている。ここには、出張で来てるんだ」
出張で来ているのなら、長居をする心配はないだろう。蕗子は内心ほっとしたことを懸命に隠しながら微笑んだ。
「青海蕗子です」
蕗子の名前を聞いて、彼の眉がぴくんと上がる。
「おうみ……? たしか、この子の名前は……」
「ええ。姉の子なんです」
「じゃあ、お姉さんも一緒に? 言ってくれれば、誘ったのに」
津本の気遣わしげな表情から目をそらして、蕗子は軽く唇をかんだ。
「いえ、姉は……。一緒に来てませんから。将太と二人なんです」
その時、ウエイターがオードブルの皿を持ってやって来た。テーブルの上にそれを置いている間、会話は一時中断された。
叔母と甥だけの旅行とは妙な取り合わせだと思ったはずだが、津本はそれを態度にも表情にも表さなかった。皿に乗せられた数種類のオードブルを蕗子と将太に勧め、自分もつまむ。
食事中、津本は軽い会話を心がけているようだった。将太も話に引き込み、仕事上の面白いエピソードなどを披露してくれる。
彼はまた、聞き上手でもあった。まだはっきりとろれつの回らない将太の話も辛抱強く聞いてくれたし、なかなか打ち解けようとしない蕗子にも、なんとか話をさせようと水を向ける。彼のマナーは完璧だと、蕗子も認めざるを得なかった。
おいしい食事を堪能し、グラスワイン一杯でほろ酔い加減になっている蕗子に、津本はデザートを勧めた。そのために将太の料理も少な目にオーダーしてくれたらしい。将太が瞳をきらきらさせてワゴンに乗ったデザートを選んでいるのを見て、蕗子もつい手を伸ばしてしまった。
デザートも極上の味わいだった。蕗子と将太は顔を見あわせて、おいしいね、と微笑みあった。
そんな二人の様子をじっと眺めながら、津本は考え込むようにコーヒーを飲んでいた。
「ああ、お腹が一杯。おいしかったわ。ごちそうさまでした」
「ごちちょーちゃまでちた」
二人の満足そうな声を聞いて、津本がふっと微笑む。
「気に入ってくれて、良かった。そんなにおいしそうに食べてくれると、誘った甲斐があるというものだよ」
津本が片手を上げると、またもやウエイターが素早くやって来て、彼からクレジットカードを受け取って奥に消えた。蕗子が戸惑っているうちに清算は終わり、三人はレストランから出た。
「あの……さっきの食事代ですけど……」
ホテルに向かって歩きながら蕗子がためらいがちにそう言うと、彼は問いかけるように振り返った。
「私達の分は払いますから」
それを聞いた津本の表情が、劇的に変わる。むっとしたように眉根を寄せた彼は、厳しい声でその申し出を断った。
「誘った僕が支払うのが当然だ。そんな心配は無用だよ」
その口調からして、どうやら津本の自尊心を傷付けてしまったらしいと蕗子は察した。今日出会ったばかりの男性にご馳走してもらうのは気が引けたが、これ以上言っても無駄だろう。蕗子は渋々頷き、食事の礼を言うにとどめた。
そんな蕗子を見て津本は表情をゆるめた。
「いや、こちらこそ楽しかった。出張中はいつも一人なものだから。また誘ってもいいかな? ここにはいつまで?」
ちょっとためらってから、蕗子は正直なところを答えた。
「わからないんです。ちょっと……込み入った事情があって」
津本は蕗子の緊張した面持ちをしばらく見詰め、わかった、というように頷いた。
「他人には話したくないことらしいね。それなら詮索はしないよ」
そう言うと、スーツのポケットから名刺入れを取り出して一枚引き抜き、その裏にペンでなにやら書き始めた。書き終わったそれを受け取りながら、蕗子は手書きの文字に目を走らせた。
「僕の携帯電話の番号だ。もしもホテルから移ることがあれば、連絡して欲しい。何時でも構わないから。いいね」
蕗子は津本と名刺とを見比べてから、途方に暮れたように問いかけた。
「なぜ? どうしてここまで……」
すると、津本は驚いたように眉を上げた。
「もう一度言わなければならないのかな? きみに惹かれているからだよ。このまま別れてしまいたくはない。それが、そんなに意外なことなのか?」
「意外どころか……びっくり仰天ってところかしら」
ぼそっとつぶやいたのだが、津本には聞こえたらしい。可笑しそうに唇をひくつかせている。
「きみのその口の達者なところもどうやら気に入っているらしい。次に会うときにはもう少し警戒心を解いて、話をしてもらいたいものだ。なんなら、ぺらぺら喋って僕をうんざりさせてくれてもいいよ」
津本のおどけた口調に笑いを誘われて、蕗子はぷっと吹き出した。
「うんざりさせるぐらい喋ったら、あなたから解放されそうだわ」
蕗子が笑いながら言うと、津本はにやりと不敵な笑みを唇に浮かべた。
「それは保証できないな。もっとつきまとうかもしれない」
「あら。あなた、ストーカー?」
「いや。今のところは」
「じゃあ、いつかそうなるかもしれないって事?」
「いつ誰がどうなるかなんて、一体誰にわかる?」
蕗子はくすくす笑いながら、話を打ち切るように手を振った。ホテルの前に着いたのだ。
「もう、ここで。今日は本当にありがとうございました」
蕗子が言うと、津本は残念そうに微笑んだ。
「いや。僕の方こそ。こちらにはあと一週間ほどいる予定なんだ。また連絡する。何号室に泊ってるんだい?」
一瞬躊躇したものの、蕗子は素直に部屋番号を津本に教えた。彼がワキサカコーポレーションと関わりがあるとは思えなかったし、また会いたいと蕗子自身も思ったからだ。それを聞くと、津本は蕗子達がホテルの中に入るのを見届けてから満足そうに片手を上げて、颯爽とした足取りで帰って行った。
部屋に入ると、蕗子は閉めたドアにもたれかかって目を閉じた。高鳴る胸を押さえ、落ち着け、と必死で自分に言い聞かせる。
ふと目を開けると、将太が眠そうに目をこすってベッドの上によじ登っていた。
「将太、お風呂に入らなきゃ」
慌てて将太の肩を揺さ振る。
「うん……。しょうた、おねむ」
「お風呂でガオレンジャーの歌、歌おうよ」
「……いや。おねむ」
半べそになりながら主張する将太の様子を見て、お風呂に入れることを諦める。しようがないので、蕗子は将太をパジャマに着替えさせた。寝る前にトイレに行かせてから、念の為にパンツ型のおむつをはかせる。おむつが取れてしばらく経つが、たまにおねしょをするのだ。
ベッドに入れると、たちまち将太は寝息をたて始めた。蕗子は大きなため息を一つつき、将太の寝顔を眺めながら、ベッドの端に腰掛けた。ゆっくり、静かに将太の頭を撫でる。そうしながら、蕗子は二人の人生を根底から覆した日のことを思い返し始めた……。
公開当時、三歳児はこんなつたないしゃべり方をしない、というご意見をいただきましたが、その頃たまたま三歳の男の子のお母さんと仲が良く、男の子とも一緒にいたので(だからこそ三歳男児の設定にしました)、その子のしゃべり方を参考にして書きました。
子供の成長には個人差があるので、こういう子もいるかもね、ぐらいに思っていただけると幸いです。