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偽りの恋人  作者: 水月
19/26

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 昨夜の浩司の帰宅が家人の誰にとっても驚きであったことは、翌朝になって知らされた。蕗子が起き出した頃には既に彼は出かけていたのだが、朝食の給仕をしながら、キミが無遠慮にぶつぶつとこぼしていたのだ。

「まったく、坊ちゃまもこちらにお帰りになるならなるで、前もって連絡を下さらないと。私にだって準備というものがあるんですから」

 それに応えて、脇坂夫人が穏やかに微笑んでいる。彼女が朝食の席に着くこと自体が珍しいということも、後から聞かされた。

 その日は、使用人達に紹介されることに午前中の大半を費やす羽目になってしまった。

 脇坂家の使用人は、蕗子の想像以上の人数だった。といってもこの家に住みこんでいるのはキミとその夫で料理人の片岡だけで、あとは日中だけとか、週に一度とか、その程度だ。

 家政婦はキミのほかに通いの女性が二人いた。一人が朝から夕方まで、もう一人が昼から夜までのシフトらしい。夜までいるという家政婦が、昨夜脇坂夫人の世話をしていた女性だった。

 二人とも感じがよく、蕗子にも将太にも親しみを込めて接してくれた。

 部屋の掃除など、日常的な雑事はその二人がしているが、窓だけは週に一度業者がやってきて、大がかりな道具を使って掃除していくらしい。リビングルームの窓の大きさを考えると妥当な話だ。

 その窓の一部は、横開きの大きなドアになっており、そこから庭に面したテラスに出ることができた。

 今はがらんとしているが、浩司たちが幼かった頃はテラスにテーブルやパラソルが置かれていたこと、事故になることを恐れて庭にはプールは作らなかったことなど、微笑ましいエピソードがキミの口から次から次へと紡ぎだされる。それを聞くのはとても楽しかった。静かに相槌を打ちながら、蕗子は黙ってキミの話に耳を傾けた。

 森と見紛うばかりの広大な庭を世話している庭師は、意外にも若い夫婦だった。将太と同じ年頃の男の子もおり、ちょうどいい遊び相手になりそうだと喜んでいる。そんなに長い間いるつもりはないのにと考えて、蕗子は困惑した表情で彼らを見た。

 彼らは敷地内の、母屋から少し離れた場所にある小さな一戸建てに住んでいた。将太が元気になったら是非遊びに来てくれるようにと誘われたが、蕗子には即答することができなかった。

 津本も母屋の離れに住んでいるという。ボディーガードと言っていたのだから、当然だろう。知っている人がそばにいると聞いて、蕗子はなんとなく安心した。といっても、彼は常に浩司のそばにいて、ここに来るのは数えるほどらしいが。

 他にも、脇坂家は二十四時間体制で警備員を派遣する警備会社と契約していた。ここに来るときに見た電動の門や、家中に張り巡らされている警報装置のメンテナンスも、その会社が一手に引き受けているという。

 常駐の警備員は二名で、その時々の状況によって増えたり減ったりするらしい。警備員専用の詰め所もあり、そこにはセキュリティシステムセンターが装備されていた。

 紹介という名目で蕗子をあちこちに連れて回った後、キミはお茶にしましょうと言ってダイニングルームに案内してくれた。蕗子はキミに言われるまま広いテーブルの端にちょこんと腰掛け、お茶菓子を皿に並べたりお茶を入れたりしているキミの手つきをぼんやりと眺めた。

 キミの手は休むことなく動いているが、彼女の口も同様に休むことはなかった。

 料理はほとんど片岡が作っているが、昼食は通いの家政婦が交代で作っていること、津本は別として、使用人達の采配をふるっているのがキミであることなど、彼女の話題は尽きることがない。そのことに半ば感心しながらも、蕗子は他人事(ひとごと)のように適当に相槌を打ってお茶を濁していた。

 不意にキミの話し声がやんでしまったので、蕗子は顔を上げた。蕗子と視線が合うと、彼女はやけに嬉しそうな微笑みを浮かべた。

「奥様が倒れられてからずっとこの役目をお預かりしていましたけれど、これでやっと肩の荷がおりますわ。よろしくお願いしますね、蕗子様」

 突然話を振られたことに驚いて、蕗子は目を見開いた。

「あの、でも、私……」

 戸惑いがちに言いかけたが、キミの陽気な声に遮られる。

「あら、脅かしてしまったかしら。もちろん、すぐにというわけではありませんよ。浩司様と結婚なさってから、ゆっくりと慣れて下さればいいんです。手取り足取りお教え致しますから、何も不安に思うことはありませんよ」

「いえ、そうじゃなくて、私……」

「浩司様からお聞きしました。今まで、苦労なさったんですってね。ああ、それでちょっと不安になってらっしゃる? 心配ありませんよ。確かに脇坂家は桁違いの富豪ですけれども、奥様も、もちろん浩司様もとってもいい方です。引け目を感じることなどなにもないんですよ」

 家政婦にしてはずいぶんずけずけ言う人だ。蕗子は口をつぐんでまじまじと彼女を見た。

「あの坊ちゃまがねぇ……」

 しんみりとつぶやいて、キミは大きなため息をついた。

「大企業のトップの長男に生まれついたために、浩司様の人生は苦難の連続でした。お小さい頃から厳しく躾られて、やけに大人びたお子様でしてねぇ……。奥様も私も、何度旦那様に抗議したことか……」

 そこでふと我に返ったらしい。キミは涙ぐんだ目を指先で押さえて、蕗子に微笑みかけた。

「あらまあ、私としたことがこんな年寄りの()(ごと)をくどくどと……。ごめんなさいね。嬉しいんですよ、浩司様がやっと人生の伴侶を探し当てられて。ささ、おあがり下さい。私はちょっと仕事を済ませてきますので、昼食までのんびりして下さいね」

 キミが部屋から出て行ってしまうと、がらんとしたダイニングルームがやけに広く感じられた。実際広かったのだが、誰かと一緒にいるのと一人きりなのとでは、感じる広さが違う。

 なんとなく心細くなって、蕗子はテーブルの上に置かれた湯のみを手に取った。熱いお茶をすすりながら、ぼんやりと考える。

 キミは、浩司の結婚宣言を真に受けているようだ。脇坂夫人はきちんと事情を聞かされていたのに。あっちとこっちで対応が違うと、頭がこんがらがってしまう。

 それにしても、と蕗子はため息をついて考えを切り替えた。

 昨夜、夫人から話を聞いたときにも感じたことだが、彼の人生が苦難の連続だったなんて、想像もつかない。こんな大金持ちの家に生まれた上に頭が良くて、ルックスだっていい。誠だって彼のことを、文句のつけようがないエリートで、灯りに群がる蛾のように女性が寄ってくるような奴だといつも言っていた。

 蕗子はふるふると頭を振った。

 わからない。私は一体誰を愛したの?

 今の浩司はどこから見ても大企業のトップの顔をしている。彼の正体を知らなかった頃のように笑い転げたりしないし、つまらない冗談を飛ばすこともない。ましてや、満面に笑みをたたえることも……。やさしく蕗子を抱き寄せ、耳元で愛を囁いてくれた男性は、跡形もなく消えてしまったのだ。

 だが、素性を偽ったことはともかく、その他の点では浩司の言葉にも行動にも嘘はなかったと津本は断言した。それは、キミの話を聞いていてもよくわかる。彼は母親もキミもとても大事にしているようだったし、それを行動で表すことをためらいもしなかった。本当に思いやり深く、やさしい性格なのだ。好んで嘘をつくような人では決してない。

 では、彼はなぜ私を騙したままでいたの? 他人に思いこまされたような悪女じゃないってわかった時に、どうして本当のことを打ち明けてくれなかったの? そうしたらこんなにも苦しまなくてすんだのに。ここまで深入りしなくてすんだのに……。

 こらえきれずにこぼれた涙が、頬を濡らす。涙は後から後から流れ出て、蕗子の肩を嗚咽で震わせた。


◆ ◆ ◆


 その夜、蕗子は自分にあてがわれた部屋に早めに引き上げた。言い訳ではなく、本当に疲れ切ってしまったのだ。

 キミもその他の使用人達も、蕗子のことを浩司の婚約者として扱い、親しみを込めて接してくれる。そのことがかえって心苦しかった。きっぱりと否定したいのに、浩司の立場を考えるとそれもできない。そんな自分が嫌だった。

 心の中で悶々と悩みながらも、みんなの前では強張った笑みを浮かべる。そのことが想像以上に蕗子の体にダメージを与えていた。

 脇坂夫人だけが蕗子の困った立場をよく心得ていて、励ますような、そして申し訳なさそうな微笑みをずっと浮かべていた。それだけではなく、浩司にきちんとするよう言い聞かせるから、と小声で約束までしてくれた。蕗子は感謝するように微笑み、彼女に任せることにしてその場を辞したのだった。

 驚いたことに、浩司はその日も家に帰ってきていた。寝るまで退屈なので本でも借りようと部屋を出た途端、居間のソファに腰掛けている浩司の姿が目に飛び込んできたのだ。

 彼は一人ではなかった。蕗子に背を向けた形で浩司の向かい側のソファに座っている母親から、厳しい口調で何ごとか責められている。眉根を寄せて不満そうに母親を見返しながらも、彼は反論する素振りを見せなかった。

 蕗子は彼のほとほと困り果てたという表情を見て、ふと微笑んだ。やはりいくつになっても母親には頭が上がらないものなんだななどと、どうでもいいことを考える。

 視線を感じたのか、浩司がいきなり顔を上げた。逃げる暇もなく彼の視線に射すくめられて、蕗子の顔から微笑みが消える。その場に縫い付けられたように動けなくなってしまった体を、蕗子はどうすることもできなかった。

 浩司がほっとしたような表情になる。蕗子が声も出せないでいるうちに彼はさっと立ちあがり、あっという間に部屋を横切ると、階段を二段飛ばしに駆け上がって目の前まで来た。

 戸惑いがちに彼を見る視界の端に、脇坂夫人が驚いたように立ちあがって二人を見つめている姿が映った。

「もう休んだと聞いたから、会えないかと思った」

 どこかおどおどとした様子の蕗子に、浩司が静かな声で言う。彼は後ろに隠していた手をゆっくりと前に出し、まるで魔法のように一本の薔薇の花を差し出した。

 蕗子は何度も花と浩司の顔を見比べ、ごくりと唾を飲み込んでから一歩後退った。

 浩司の顔が曇り、花を持った手が下がる。彼の体の脇にだらりと垂れ下がったその手を、蕗子は珍しいものでも見るかのように見つめ続けた。

「あの……」

 自分の声があまりにもかすれていることにびっくりする。蕗子は慌てて咳払いをした。

「それ、私に……?」

 すると浩司は自嘲気味に唇を歪めた。

「ああ。昨日のお詫びに」

 蕗子はもう一度花と彼の顔を見比べた。

「……きれいね」

 それだけ言ってうつむいてしまった蕗子を、浩司は穴が開くほど見つめた。

「気に入ってくれた?」

 蕗子は彼の問いに頷き、ぎこちなく手を差し出した。その手にそっと、浩司が花を乗せる。

「花に、罪はないから」

 自分に言い聞かせるようにつぶやく蕗子の言葉を聞いて、浩司の顔が強張った。だが、うつむいたままの蕗子はそのことに気付かない。

 二人の間に重い沈黙が垂れ込めた。

 黙ったままの浩司と向かい合っていることが苦痛になってきて、蕗子はもう一歩後退った。ドアの影に隠れるようにして、小声でつぶやく。

「おやすみなさい」

「おやすみ」

 そう答えた浩司の声はもう平静で、心の動揺を表すヒントが蕗子に与えられることはなかった。蕗子はうつむいたまま、彼の目を見返すことなくドアを閉めた。


◆ ◆ ◆


 翌朝、蕗子は早い時間に階下に下りた。別に浩司に会いたいからではない、昨夜早く寝てしまったからだ、と自分に言い訳しながら。

 果たして、浩司はダイニングルームにいた。かいがいしく給仕をするキミから予定外の帰宅に関する小言を浴びせられながら、大人しく席に座っている。彼が苦笑を浮かべながらも従順に詫びている姿は、蕗子の微笑みを誘った。

 突然、浩司が蕗子の存在を察知したかのように振り向いた。まったく心の準備をしていなかったため、蕗子の心臓がどきんと大きく飛び跳ねる。彼の鋭い瞳に串刺しにされたようで、息もできなかった。

 浩司の視線の先にいる蕗子の姿に気付いて、キミが嬉しそうな声を上げた。

「まあ、蕗子様! おはようございます、お早いんですのね」

 そこで彼女はしたり顔になって二人を見比べた。

「あらあらまあまあ。そういうことでしたか。それで毎晩こちらに帰ってらっしゃるのね。私としたことが、なんて鈍いこと。それはそうですわよね、少しでも一緒にいたいと思うのが恋人というものですもの。これ以上お小言なんかでお二人の時間を無駄にはしませんよ。蕗子様、あとはお願いしますね」

「えっ、あっ、キミさん、ちょっと待っ……」

 蕗子があたふたと引き止めるのも聞かず、キミはさっさと退室してしまった。

 後に残されたのは、気まずい沈黙。

 蕗子はしばらく呆然とキミが消えたドアを見つめていたが、やがて渋々視線を浩司に向けた。使用人達の誤解を今日こそは解いてもらわなければと決意して。

 だがそれも、食い入るように自分を見つめる彼の瞳を見るまでだった。

 彼のそのまなざしは、蕗子にとって馴染みがありすぎた。蕗子を求めているとはっきりわかる、熱いまなざし。彼に抱かれているときに何度も目にした、何もかも焼き尽くすような激情を宿した瞳。

 蕗子の体がかっと熱くなり、下腹部がきりきりと疼いた。彼を憎んでいるはずなのに、体が彼を求めてしまう。そのことが蕗子の心を手ひどく傷つけた。

 彼から目を離せない呪縛は、控えめな咳払いによって断ち切られた。蕗子ははっとしてそちらを振り向き、この部屋にいるのが二人だけではないことを発見して目を見開いた。

 テーブルを挟んだ浩司の向かい側に、津本が座っているではないか!

 彼の前のテーブルには、浩司と同じく食べかけの朝食が乗っている。蕗子がここに入ったときからずっとそこにいたのは明白だ。

 津本の姿すら目に入らなかったということに思い至ると、蕗子は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。津本が浮かべているにやにや笑いも、羞恥心を煽りこそすれ、消すための役にはたたなかった。

「では、浩司様、私は先に車の方に……」

「まだ食べかけじゃないか」

 浩司が憮然とした様子でそう言うと、立ち上がりかけていた津本はいたずらっぽい笑みを浮かべた。

「お邪魔でしょうから」

「お邪魔なのは私の方ですから」

 いきなり蕗子が声を上げたことに驚いて、男性二人は揃って振り返った。

「今朝は早く目が覚めちゃって。早すぎたみたい。どうぞ、お食事を続けてください。私は後でいいんです」

 わざとらしいくらいに明るい調子で口早にそう告げると、蕗子はさっと踵を返した。

 もしかしたら浩司に会えるかもしれない。心のどこかでそう思っていたことを、改めて思い知らされたような気分だ。と同時に、そんな自分に嫌気がさす。あんなに手ひどく裏切られて懲りたはずなのに、まるで飼い主に見捨てられた子犬のように彼の姿を求めていたなんて。

「待ってくれ」

 いきなり後ろから腕を掴まれて、蕗子は飛びあがった。振り向く暇もなく、強引に後ろに向きなおされる。そこには、浩司の切羽詰まったような顔があった。

「なぜ逃げるんだ」

「逃げてなんて……」

「いや、自分でもわかっているはずだ。僕と一緒にいるのが耐えられないのか? だからいつもさっさと姿を消すのか?」

 いつも? いつもって……いつ?

 質問の意味がわからなくて蕗子が黙っていると、浩司はゆっくりと腕を離した。

 彼に掴まれていた跡が熱い。顔も真っ赤になっているだろうと思うと、恥ずかしくてうつむくしかなかった。

 そのまま黙り込んでいる蕗子をしばらく見つめた後、浩司は諦めのため息をついた。

「すまない。きみを追い詰めるつもりじゃなかった。僕はもう出かけるから、朝食をとりなさい」

 それだけ言って踵を返した浩司の足が大股に離れていくのを、蕗子はうつむいたまま眼の端でずっと追い続けた。

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