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偽りの恋人  作者: 水月
18/26

18

 まだ体調が良くないせいか、将太は夕食の時間までぐっすり眠り込んだ。蕗子も自分にあてがわれた部屋で少し休むようにキミに勧められ、そうすることにした。

 眠るつもりはなかったのに、やはり昨日からの疲れがたまっていたのだろう。蕗子もいつのまにか眠り込んでしまっていた。夕食の時間になって、様子を見に来たキミに起こされる始末だ。蕗子は慌てて飛び起き、家政婦の笑いを誘った。

 夕食の席には、浩司の母親も姿を見せた。浩司はいつも、週日はこの家には帰ってこないらしい。会社の近くにマンションを持っており、普段はそこで生活しているという。

 その話を聞いて心ならずもがっかりしてしまい、蕗子は唇をきつく噛み締めた。

 夕食は素晴らしかった。キミの他に料理人もいるらしく、それがキミの夫であることを後で知らされた。

 将太が新しい家族に馴染むまでに、時間はかからなかった。最初は祖母に質問されるたびに蕗子を振り向いて不安そうにしていたのが、慣れてくるにしたがって口数が多くなっていく。料理がおいしかったことも将太をリラックスさせる一因となったようだ。

 ご飯を食べ終わると、将太は家の中を探検したいと言い出した。案内役はキミだ。蕗子も将太が慣れるまではとついて行ったが、すぐにお役ごめんになった。

 蕗子は暇を持て余してぶらぶらと居間まで歩いていき、真っ暗闇な窓の向こうをぼんやりと眺めた。

「この家は気に入っていただけたのかしら」

 突然背後から話しかけられて、蕗子は飛びあがった。恐る恐る声のした方を振り向く。見知らぬ女性に支えられてゆっくりとソファに腰を下ろしながら、浩司の母親が微笑みかけていた。

 蕗子はごくりと唾を飲み込んで、おずおずと微笑み返した。

「はい、とても」

 簡単に答える。それ以上何を言えばいいのかわからなかったのだ。

 だが、浩司の母は気にする風でもなく、穏やかに微笑んだままだった。

「それは良かったわ。昼間はごめんなさいね、いきなり眠ってしまって。昨夜、息子から将太を連れてくると聞かされてからあまり眠れなくて。将太の顔を見て安心したら気が緩んだのね」

 そう言う彼女の申し訳なさそうな顔は、どうみても演技とは思えなかった。今までに知り得た情報から描いていた冷酷な脇坂一族のイメージががらがらと崩れ落ちるのを感じて、蕗子は困った表情を浮かべた。

「こちらにいらっしゃらない?」

 気さくに話しかけながら、浩司の母がぽんぽんと自分の隣のクッションを叩く。その場の雰囲気を壊すことなく断る言葉が見つからなかったので、蕗子はためらいながらも彼女の言葉に従った。

「まず、謝らせてちょうだい」

 いきなりそう言われて、蕗子は戸惑った顔を彼女に向けた。

「浩司から何もかも聞きました。あなたを買収しようとしたことも、あなたを騙して結婚の約束をしたことも」

 蕗子の顔から血の気が引き、強張った表情になるのを、彼女は痛ましげに見つめていた。膝の上で固く握り締めている蕗子の手に、そっと冷たい手を添える。蕗子はその感触にぎくりとして、目の前に迫った青白い顔に視線を当てた。

「ごめんなさいね。何もかも、私のためにしてくれたことなの」

 そう言ってから、蕗子の手を軽く叩いて少し離れ、億劫そうにソファに背を預ける。たったそれだけの動作すら、今の彼女にとっては命を削るぐらいエネルギーがいることらしい。

「誠が事故に遭ったと知ったときは、それはもうショックでした。私、動転してしまって……こんなことになったのはあなたのせいだと主人を責めたの。誠が死んだことを誰かのせいにしたかったのね。泣いて泣いて半狂乱になって……。そうしたら、翌日、主人が亡くなってしまった」

 その気持ちは痛いほどに良くわかる。それ故に、はらりと涙を流す未亡人にかける言葉など、この世にはないように思われた。蕗子は無言のまま、そっとハンカチを差し出した。

 彼女は感謝の笑みを浮かべながらそれを受け取り、静かに涙を拭いた。

「それで、今度は自分のせいだと思ったの。私が責めたからだと。浩司はそれはもう言葉をつくして私を慰めてくれたわ。私のせいじゃない、誰のせいでもないんだ、と。でも、その時の私はそれでは納得できなかった。償いに何かをしなければならないと思いつめていたの。それで、将太を引き取ろうと思いついたのよ」

 脇坂夫人はそこでまっすぐに蕗子の瞳を見据えた。

「あなたのことなど、何も考えていなかった。ただ自分の罪悪感を薄めるためにこんなことをしてしまって……。本当にごめんなさい。あなたを苦しめるつもりはなかったの」

 蕗子はうつむいてかぶりを振った。

「いいえ。それは私の方にも言えることです。誠義兄さんと姉の断片的な話を繋ぎ合わせただけで、あなた方をまるで鬼のように思っていました。もし浩司さんが最初から素性を明らかにしていたら、話も聞かなかったと思います」

 夫人が感謝の笑みを浮かべる。

「そんな風に言ってくれなくてもいいのよ。本当に悪かったのは私達の方ですもの。私も、まさか浩司があなたと結婚してまで将太を手に入れたいと思い詰めるとは、思ってもいなかったの」

 将太を手に入れるため!

 蕗子の頭が、まるでハンマーで殴られたかのように傾いだ。

 だが、冷静に考えるとそれ以外には理由はないと思われた。なんとしてでも結婚すると宣言したあの言葉、あの態度……。

 彼は弱りきっている母親を救いたいがために、会社が大変な状況であるにもかかわらず私達に会いに来た。私が強欲でなく、将太にとっていい叔母だと知った途端、津本さんを呼び出した。私を見張るために。

 そう、彼は親権を得るために私の弱点をつかもうとしていたんだもの。その弱点をつかめないと知った彼に残された道はたったひとつ。それが、結婚だったんだ……。

 蕗子が蒼白な面持ちで黙り込んでいることにも気付かず、夫人は話し続けた。

「浩司は、結婚してから五年目にやっと授かった子だったの。主人は跡取ができたとそれは喜んだものよ。ただ、期待が大きすぎたのね……。主人はあの子に普通の子供の楽しみは与えず、常に厳しく躾たわ。あまりにも厳しすぎて、目を覆うくらい。そんな浩司が不憫で不憫で……。主人にも、何度頼み込んだことか。もっとやさしく接してやってちょうだい、ってね。でも、駄目だった。浩司は幼い頃からずっと、父親の影と闘ってきたの。自分らしく生きるためには、自分自身の力で道を切り開くしかなかった。父親の支配から逃れる必要があったのね……」

 彼女の目が遠くを見詰めるように狭められる。

「大きくなると、主人に逆らうようにアメリカに留学したわ。大反対だった主人は一切援助はしなかった。あの子は奨学金とアルバイトだけで向こうの生活をやり遂げたの。私が帰ってきて欲しいと何度懇願しても、誠がいるからいいでしょうと言うだけで、帰ってこようとはしなかった。やっと帰ってきたのは、誠がとんでもない不良少年になって、騒動を起こし始めた時だったわ。浩司のことがあったから、主人も私も誠を猫かわいがりしてしまったのね。気がついた時には、誠は手のつけられないわがまま息子になっていたの。もう私達にはどうしようもなかった。主人も年老いて誠を押さえつける力がなかったし。そんな時、浩司が帰ってきてくれて……。あの子は長い時間をかけて、辛抱強く誠の生活を正してくれたわ。誠はそのことを不満に思っているようだったけれど、それでも兄を慕っていた。それを浩司も知っていたから、どんなことになっても誠を見捨てることはなかったの」

 それきり、夫人は口をつぐんでしまった。話し疲れてしまったのかと心配して蕗子が見ると、彼女は潤んだ瞳で蕗子をじっと見詰めていた。

「浩司を許してやってね。誠のために日本に帰ってきてからというもの、あの子は父親の跡を継ぐ準備と、誠の面倒を見ることに疲れ果ててしまったの。アメリカでは自由を謳歌していたでしょうに、日本に帰ってきた途端、義務でがんじがらめになってしまった。会社では地位を狙う重役達と五分に渡り合い、家に帰れば帰ったで誠が起こした騒ぎの後始末に追われ……。あの頃の浩司の睡眠時間は、三時間か、それとももっと短かったかもしれないわ」

 辛そうに話す夫人の様子は、見るに忍びないものがあった。蕗子はぎゅっと両手を握り締めて、彼女の話にうっかり同調してしまわないよう自分を戒めた。

「誠が結婚すると言って突然家を出て行ってしまってからも、浩司は仕事の引継ぎで身動きが取れない状態だったの。誠は誠で意地になってしまって、こちらの言うことにも耳を貸してくれないし……。そうしてやっと落ちつきかけた頃に、誠は……あの子は死んでしまった。浩司と主人との関係もうまくいき始めて、そろそろ誠と和解する頃合いだと思っていた矢先だったのよ。それなのに……」

 夫人が漏らす嗚咽を、蕗子は懸命に聞くまいとした。

 夫人は蕗子から借りたハンカチで再び涙を拭い、気丈にも微笑んだ。

「ごめんなさいね。私は弱虫で、すぐに泣いてしまうの。でも、浩司は決して弱音を吐いたりはしなかった。主人の葬儀も、そのあと起こった社内の争い事も、冷静に機敏に対処してくれたわ。おかげで、会長の死という重大事の直後に値下がりした株価も、今では元通り、いいえ、それ以上の値で推移しているわ」

 そこで彼女は弱々しいため息をついた。

「でもね、表面には出さなかったけれど、あの時期は浩司もかなり参っていたと思うの。私も、助けるどころか足を引っ張ることしかできなかったし。だから……なんとしても将太を引き取りたかったのは、浩司の方だったのかもしれないわね」

 か細い声でそう言うと、夫人は今度こそ疲れたというように目を閉じてしまった。

「あの……大丈夫ですか?」

 心配そうに蕗子が問うと、彼女は目を開けて微笑んだ。

「ちょっと疲れてしまったみたい。申し訳ないけれど、先に休ませていただくわね」

 するとそばに控えていた女性がさっと歩み寄り、浩司の母をそっと支えて立たせた。蕗子も立ちあがって、二人を心配そうに見守る。

 夫人が、ふと思いついたというように振り向いて微笑んだ。

「あなた、やさしい方ね。良かったわ、将太の叔母様があなたのような方で」

 その言葉にふさわしい返事を思いつかなかったので、蕗子は口の中でなにやらもごもごと言いながらうつむいた。

 そんな蕗子をしばらくじっと見詰めてから、夫人はおやすみなさいとつぶやいて自室に戻っていった。


◆ ◆ ◆


 その夜、蕗子はぼんやりとベッドに座っていた。

 蕗子の部屋は、将太の部屋と浴室続きになっていた。それも浩司の指図だと言う。今や敵対していると言っても過言ではない相手に対する彼の心配りは、蕗子を混乱させた。

 部屋の中には、アパートに置いてきたものすべてが揃っていた。少しだけ買い揃えた食器やコーヒーメーカーは、小さなダンボールにきちんと荷造りされている。

 大きなクローゼットには服が掛けられ、下着などもきちんと引出しに入れてあった。クローゼットも引出しも見たこともないくらい巨大で、蕗子のワードローブではがらんとした感じは否めなかったが。

 浩司が雇った看護師の遠田(おんだ)は蕗子より少し年上の女性で、子供の扱いに慣れていた。将太が馴染むまでには多少時間がかかるだろうが、安心して任せられそうだ。

 将太も今は大人しくベッドに入り、ぐっすりと眠っている。遠田が付き添ってくれているので、蕗子はこうしてのんびりとベッドに入れるというわけだ。

 そのことも浩司の配慮のおかげだと思うと、なんとなく落ちつかない。昼間は手ひどく蕗子をやり込めたくせに、その態度に反して彼はそこここで蕗子への思いやりをにじませていた。

 彼の母親から聞いた話も、蕗子の中の憎しみを増長させる手助けにはならなかった。正体を知らなかった頃の彼の思いやりとやさしさばかりが思い出されて、苦しげな呻きが喉から洩れる。たまらなくなって、蕗子は両手で顔を覆った。

 その時、突然ドアがノックされた。蕗子はびくっと体を震わせ、身を守るように掛け布団を胸元に引き寄せた。

「はい」

 思った以上にか細い声が出る。蕗子は咳払いをして、今度はもう少し大きな声で返事をした。大丈夫、ここは家の中なんだから、夜とはいえ変な人が訪ねてくるはずがない、と自分に言い聞かせながら。

「はい。誰?」

 しばらくの沈黙の後、思いがけない人の声が聞こえてきた。

「僕だ」

 浩司さん!

 ドアの向こうにいるのが彼だと悟った瞬間、蕗子の体が凍りついた。

「……開けてもいいかな」

「いいえ、駄目!」

 下がりかけていたドアの細長い取っ手が、ぴたりと止まる。やがてそれはゆっくりと、元の位置に戻った。蕗子は、自分でも気付かないままに詰めていた息を、そろそろと吐き出した。

「では、このままここで話をしてもいいかい」

 ドアの向こうから、浩司のくぐもった声が聞こえてくる。それにもいいえと答えかけて、蕗子は思いとどまった。どんな話にしろ、早く聞いてしまった方がすっきりする。

「どうぞ」

 それは、期待以上につんとすました声になった。それを感じ取ったのだろう、彼はしばらく口をつぐんでいた。が、やがてぶっきらぼうな声が聞こえてきた。

「昼間はすまなかった」

 蕗子が驚いて返事もできないうちに、彼は続けた。

「あんなことをする権利も、言う権利も僕にはなかった。すまない。許して欲しい」

 彼は蕗子の返事を待つように言葉を切ったが、蕗子には何を言えばいいのか見当もつかなかった。

「これからはあんなことは起こらないと約束する。だから、もうしばらくこの家にいてくれないか。ここにいる間は、きみにも将太にも快適に暮らしてもらえるよう、努力する」

 それでも蕗子が返事をしないので、浩司は苛立った声を出した。

「聞いてるのか?」

 蕗子は何度も唾を飲み込んでから、答えた。

「え、ええ。聞いてるわ」

「それで……?」

 蕗子はもう一度ごくりと唾を飲み込んだ。

「ええ。あの……謝罪を受け入れます」

 扉の向こうがしんと静まり返った。蕗子は固唾を飲んでドアを見守ったが、取っ手が再び動くことはなかった。

「では、この家にいてくれるんだね」

 その問いにはためらわずにはいられない。だが蕗子はぎゅっと目をつぶり、ためらいを押し流すように、強いてはっきりと答えた。

「はい。います」

「……ありがとう」

 静かにそう言うと、彼はおやすみ、とつぶやいて部屋から遠ざかっていった。彼の足音でそうと知って、蕗子は全身から力を抜いた。よほど緊張していたのだろう、冷や汗が流れている。蕗子は疲れたようにベッドに横たわった。

 彼はどうしてこの家に帰ってきたのだろう?

 ふと、蕗子はそう思った。週末しか帰ってこないと聞いていたのに。

 時計を見ると、もう十一時すぎだ。こんな時間に無理をして帰ってくるぐらいなら、会社の近くのマンションに泊まったほうが楽なのに。

 だが、それ以上突き詰めて考えるのが怖くなって、蕗子は掛け布団にもぐりこんだ。

 きっと何か帰ってこなければならない用事があったのよ。私には関係ないわ。どうせまた使用人に運転させて帰ってきたに違いないもの。彼が寝不足になろうが過労で倒れようが、かまうもんですか。

 だが、蕗子が眠りについたのは、それからだいぶ時間が経ってからだった。

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