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偽りの恋人  作者: 水月
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17

R15です

 それだけ言うと、浩司は将太を抱き上げてすたすたと中に入っていってしまった。蕗子はその大きな屋敷のドアをくぐる気にはなれず、しばらくその場に立ちすくんだ。

 開け放たれたドアの向こうで、浩司が振り返る。その苛立たしげな顔よりも将太の不安そうな顔に励まされて、蕗子は足を前に進めた。

 驚くほど広い玄関ホールに入る。周りを見まわす暇もなく、ずんずん先に進んでいく浩司に促されて、蕗子は足を速めた。

 応接室らしいオープンな部屋の前を通り抜けると、またドアがあった。そこを開けて初めて、日本家屋らしい空間になる。広い土間の奥が一段高くなり、スリッパがきちんとそろえて置いてあるのを見て、蕗子はホッとした。外国人のように靴のまま生活しているのかと思ったのだ。

 浩司が将太を降ろして靴を脱がせている間に、廊下の奥からパタパタと軽やかな足音が聞こえてきた。

「まあまあ坊ちゃま、お帰りなさいませ」

 小柄な女性が控えめに微笑みながらひざまずく。年のころは五、六十歳だろうか。小太りで愛想の良いその女性は、嬉しそうにスリッパを差し出した。

 浩司が苦笑しながら彼女を見る。

「坊ちゃまはよせといつも言ってるだろう」

「あらま、それは失礼しました」

 快活に言うと、彼女は将太に目を転じて瞳を輝かせた。

「まあ、この方が将太坊ちゃまですね?」

「ああ」

「それから、あちらが……?」

 問いかけるように蕗子を見る。蕗子は急に二人に注目されて、居心地が悪そうに身動きした。

「蕗子、紹介するよ。こちらは家政婦のキミさん。僕が生まれる前から住み込みで働いてくれている」

 言いながら蕗子に歩み寄り、強引に腰を抱き寄せる。

「キミさん、こちらは青海蕗子さん。誠の奥さんの妹で、もうすぐ僕の妻になる人だ」

 蕗子はぽかんと口を開けて浩司を見上げた。彼の口から平然と発せられた図々しい言いぐさに驚いて、抵抗することも否定することもできなかったのだ。

 が、立ち直りは早かった。すぐに我に返って、文句を言おうと口を開く。

「まあっ! 坊ちゃま、今、なんとおっしゃいました?」

 蕗子の抗議は、キミの熱狂的な声にかき消された。そんな蕗子を不遜にせせら笑いながら、浩司が愛想良く続ける。

「この女性と結婚する。そう言ったんだ」

「まあまあまあ、なんてことでしょう! 奥様、奥様!」

 キミが騒々しく廊下の奥に消えてしまうと、浩司はあんぐりと口を開けている蕗子をからかうように、その口の端にキスをした。

「ぽかんと開けていると、虫が入るぞ」

 いきなりのキスにも、ましてや寝耳に水の結婚宣言にも驚いて、蕗子は口をパクパクさせた。浩司が面白そうにそんな蕗子を見下ろしている。

「あ、あなた、一体何を考えてるの!」

「ほらほら、将太の前だぞ」

「将太に見られていようが何だろうが、構うものですか! さっきの言葉は撤回してちょうだい! 今すぐ!」

「いやだね」

「どうして!」

「なぜなら、僕達が本当に結婚するからだ」

「けっ……けっ……」

 興奮しすぎて言葉にできない蕗子をからかうように、浩司が助け舟を出す。

「結婚」

「結婚なんて、するわけないでしょう!」

「いや、する」

「し・ま・せ・ん!」

 一語一語区切るように言い放つ。だが浩司の表情は変わらなかった。矛先を将太に変え、無邪気さを装って問いかける。

「将太、僕と蕗子が新しいパパとママになるのはいやか?」

 浩司と蕗子のやり取りを目を丸くして見詰めていた将太は、パパとママという単語を聞いて、悲しげにうつむいた。

「しょうたのパパとママ、もう帰ってこないの? だから新しいパパとママがいるの?」

 その言葉に、浩司も蕗子もはっとした。

 将太はまだ両親を亡くしてから間がなかったのだということを、改めて思い知らされる。蕗子と二人の生活に慣れたように見えてはいたが、その実、心のどこかで両親が帰ってくるのを待っていたのだ。

 将太が泣いて両親を恋しがるたび、蕗子は二人はもう帰ってこないのだと言い聞かせていた。自分に何度もそう言い聞かせていたように。だが、子供の心というのは、そんな単純なものではない……。

 浩司の腕がするりと蕗子の腰から離れた。蕗子がはっとする間もなく、将太のそばにひざまずく。

「可哀相だが、そうだ。将太のパパとママは、もう帰ってこないんだよ。もう会えない、遠いところに行ってしまったんだ」

 将太の顔がくしゃくしゃになり、涙がポロポロとこぼれ落ちた。

「ぼくが悪い子だったの? だからいなくなっちゃったの?」

「そんな……」

 言いかける蕗子を制して、浩司は将太の両手をしっかりと握った。

「そうじゃない。パパもママも、もっとずっと将太と一緒にいたかったと思うよ。だが、そうできなくなってしまったんだ。それは将太のせいでも、誰のせいでもないんだよ。人間は誰でもいつかは死ぬものだ。僕も、蕗子も、将太だって」

「蕗ちゃんも? 僕も?」

 怯えたように繰り返す将太の目を、浩司はしっかりと見据えた。

「そうだ。誰でも。ただ、それが早いか遅いかの違いはある。将太のパパとママはとっても早く死んでしまった。将太を残して逝くのはすごく辛かったと思うよ。でも、きっとどこかで将太を見守っていてくれる。今も、将太が泣いているのを見て悲しく思っているかもしれないな」

 すると将太は顔を上げてまわりをきょろきょろと見回した。浩司は微笑み、将太の肩をぽんぽんと叩いた。

「生きている人の目には見えないんだ。でも、きっと将太のことを見ているよ。そのことだけは忘れないで」

 将太が小さな拳で涙を拭うのを、蕗子は黙ったまま見守った。

「うん。わかった」

 三歳の子供にどこまで理解できたかはわからない。だが、今この瞬間、この二人の間に確かな絆が結ばれたことはわかった。蕗子はそのことに嫉妬している自分に気付き、二人のうちのどちらに嫉妬しているのかと考えて混乱した。

「……将太? 将太なのね……」

 弱々しい声が聞こえてきたかと思うと、浩司が弾かれたように立ちあがった。

「お母さん!」

 その言葉に驚いて、蕗子は廊下の奥から現れた、キミに支えられてやっと立っている風情の女性を見詰めた。

 津本から寝こんでいるとは聞いていたが、まさかこんなに華奢ではかなげな女性だとは思いもしなかった。

 長い髪は一つにまとめられてはいるが寝乱れて、しかもつやがない。張りのない肌は青白く、口の横の深い皺が、実際の年齢よりも彼女の外見を老けさせていた。

「駄目じゃないですか、寝てなくちゃ」

 靴を脱いだ浩司が、素早く駆け寄って母親を支える。

「寝てなんていられませんよ。たった一人の孫にやっと会えるというのに」

 浩司の母親は、息子に助けられながらゆっくりとひざまずいた。戸惑った顔をしている将太の頬を両手で包み込む。将太が驚いたように頭を引くと、彼女のこけた頬に涙が流れた。

「ごめんなさいね、今まで放っておいて。こんなに早くあなたのパパが死んでしまうとわかっていたら、なんとしてでもおじいちゃまを説得したのに……」

 そのまま両手をついて嗚咽を漏らす女性を、蕗子は痛ましげに見守った。

 この人は、末息子も、そして夫までをも相次いで亡くしてしまったのだ。両親と姉を亡くした私には、その苦しみは良くわかる。昔は美しかったであろう人がこんなにまでやつれているのを見ても、どれほど苦しんだかは明白だ。

 蕗子は涙をこらえて前に進み出た。浩司の視線を痛いほどに感じながら、将太の肩に触れる。

「将太、この人はあなたのおばあさまよ」

 すると将太は目を丸くした。

「ぼく、おばあちゃんはいないよ」

「ええ、青海のおばあちゃんはね。でも、脇坂のおばあちゃんはこの人なの。将太のパパの、お母さんなのよ」

「パパの、お母さん?」

 難しい顔で黙り込んでしまった将太を、蕗子は軽く抱きしめた。

「おばあさまは重い病気で、将太に会いに来られなかったの。だから、浩司伯父さまが連れて来てくださったのよ」

 将太は無邪気な瞳で浩司を見上げた。

「おいたん?」

 浩司は感謝の微笑みを蕗子に向けた後、将太に頷いて見せた。

「ああ。僕は本当に将太の伯父さんなんだ」

 わけがわからないという表情の将太に、蕗子が助け舟を出す。

「伯父様はね、将太のパパのお兄さんなの。蕗ちゃんは将太のママの妹でしょう。同じように、パパにも兄弟がいたのよ」

「じゃあ、ほんとにしょうたのおいたんなの?」

「そうよ。伯父さまと、おばあさま。二人とも、将太の家族よ」

 家族と聞いて、将太の顔が輝いた。

「じゃあ、これから一緒に住む?」

 その答えに窮した蕗子を牽制するように、浩司が答えた。

「ああ、もちろんだとも。みんなで一緒に」

 やったー、と喜ぶ将太を、蕗子は複雑な思いで見守った。はしゃぐ将太を諌めてから、部屋に連れていくようにキミに命じている浩司の声を、ぼんやりと聞き流しながら。

 将太がキミに連れられて大人しく奥に行ってしまうと、浩司は母親を助け起こした。彼女の青白い頬に、微かだが血の気が戻っている。息子の手を借りながら、彼女はじっと蕗子を見詰めた。

「ありがとう、本当に。ふきこさん、だったわね? さあ、どうぞ上がって。ベッドに戻ったら、息子はあなたにお返ししますから」

 最後はいたずらっぽい口調だった。

「いえ、あの、私は……」

 思わず否定の言葉を口にしかけた蕗子を視線で黙らせて、浩司はゆっくりと母親の部屋に向かった。浩司に促されて、蕗子も二人の後ろに続く。

 たったあれだけのことで浩司の母は疲れきってしまったらしい。ベッドに横たえると、間もなく寝息をたて始めた。二人は静かに部屋を辞し、廊下に出た。

「一体どういうことなの? 私、あなたと結婚なんかしないわよ!」

 小声で抗議する蕗子をちらりと見下ろしてから、浩司は階段に向かった。

「何とか言ったらどうなの?」

 言いながら、蕗子は仕方なく彼の後について行った。

 広い階段を上がると、吹き抜けになったリビングルームをぐるりと囲むように作られた廊下を進む。蕗子はその見晴らしに驚いて、言葉をなくしてしまった。

 玄関の反対側を望む広いリビングルームの壁は、全面が大きな窓ガラスになっていた。日差しがさんさんと降り注ぎ、裏庭の奥に見える森の木々のざわめきがここまで聞こえるようだ。

 浩司がドアをノックする音を聞いて、蕗子は我に返った。慌てて浩司の後について、その部屋に入る。

 中に入って、またびっくりした。

 その部屋は、子供なら誰もが憧れるような部屋だった。

 大きな部屋の端にベッドが置かれ、プレイマットが敷かれた中央部分は、存分に遊べるように充分なスペースがとられている。壁には大きなクローゼットと埋め込み式の書棚、その下には木製の大きな引出しがいくつも並べられ、中にはところせましとおもちゃが入っている。

 テレビやパソコン、テレビゲームまでがきちんと棚に収まっていた。三歳の子供には遊び尽くせないだろうというくらいの充実ぶりだ。

 屋根の形に傾斜した天井には、丸い天窓までついていた。この家の立地条件から考えると、夜ともなれば満天の星空が望めるのだろう。

 蕗子の姿に気付くと、見たこともないパジャマを着てベッドに座っていた将太ははしゃいだ声を出した。

「蕗ちゃん、すごいでしょう! これ、ぼくの部屋なんだよ! おもちゃも、みいんなぼくのだって!」

 将太の喜びようを見てしまっては、それに水をさすような真似をすることなど、蕗子にはどうしてもできなかった。無理やり微笑みを口元に浮かべ、良かったわね、とおざなりにつぶやく。そんな蕗子を、浩司は壁にもたれて冷ややかに眺めていた。

「すまないが、僕はもう行かなければならない」

 冷ややかな表情にふさわしい、冷ややかな声だ。蕗子は彼と目を合わさないまま、頷いた。

「えーっ、行っちゃうの?」

 残念そうな将太の素直な反応に、浩司の唇がほころんだ。

「悪いな。まだ仕事が残っているんだよ。今日は長い間車に乗っていたから、将太ももう休まなきゃな。でないと、また病院に逆戻りだぞ」

「ぼく、ちゃんと寝る!」

 素早く言うと、将太は布団にもぐりこんだ。そんな将太を満足そうに見てから、浩司は頷いた。

「いい子だ。じゃあ、ちゃんと大人しくしてるんだぞ」

 将太の行ってらっしゃいの声を背に、浩司は部屋を出た。蕗子も後から部屋を出てくることに気付いて、大きなため息を一つついてから蕗子に向き直る。

 蕗子は不機嫌さを隠そうともしない表情で浩司を振り仰ぎ、文句を言おうと口を開いた。

 だが、振り向いた彼の疲れきったような表情を見た途端に、何も言えなくなってしまう。大丈夫? という言葉が口をついて出そうになって、蕗子は慌てて唇をぎゅっと噛みしめた。

 蕗子の心配そうな顔を見た途端、浩司の中で何かが弾けたようだった。彼は乱暴な仕草で蕗子を抱き寄せると、彼女の頭を支えてしっかりと唇を合わせた。

 余裕のない、切羽詰ったキスだった。蕗子の唇をこじ開け、舌先を口の奥深く侵入させる。蕗子の舌を難なく見つけると、彼はそれを自分の舌に絡ませて、強く吸った。

 片手で頭を支えたまま、もう一方の手でヒップを掴んで自分の体に押しつける。浩司の欲望の証を感じると、蕗子の体の中心が灼熱の炎に包み込まれた。

 その格好のまま、どん、と背中を壁に押しつけられた。壁と浩司の体に挟まれて、体内の疼きが急速に大きくなっていく。いつのまにか蕗子は、両手を浩司の肩に投げかけて、彼に負けないくらい情熱的なキスを返していた。

 彼がぐいぐいと腰を押しつけてくる。頭を支えていた手は、今では胸元を探っていた。服の上からでもわかるほどに尖った頂を、彼の指先に弄ばれる。蕗子は夢中で彼のキスに応え、彼の愛撫に身を捩って喘ぎ声を漏らした。

「許してくれるのか」

 苦しげな浩司の囁きを耳元に感じた途端、蕗子は我に返った。強い力で胸のふくらみをもみしだいている手を強引に引き剥がし、ヒップを掴む腕から必死で逃れる。

「蕗子……」

 と言いかけた浩司の頬を、蕗子は思いきりひっぱたいた。

 浩司の頭がのけぞる。

「恥知らず!」

 蕗子が叫ぶように言うと、浩司はのろのろと体を離した。暗い瞳で蕗子を見詰め、皮肉な笑みに唇を歪める。

「きみも応えてたぜ」

 気持ち良かったんだろう、と続ける浩司の屈辱的な言葉を、蕗子は再び平手打ちで止めようとした。

 が、今度はしっかりと腕を掴まれてしまう。必死で抵抗する蕗子に顔を寄せて、浩司ははっきりとした低い声で語りかけた。

「感じなかったふりをするのはよせよ。体の相性が抜群なことは、もう実証済みじゃないか。恥ずかしがることはないさ。結婚を決めるのに、一番重要なことだろう?」

「結婚なんてしないわ! あなたみたいな破廉恥な人とは!」

 すると、浩司は乱暴に蕗子の体を押しやってせせら笑った。

「破廉恥だって? これはまた、若いくせにずいぶん古臭い言葉を使うもんだ。その破廉恥な男にたった今体をすりよせて喘いでいたのは誰だ? 大きな口を叩く前にそこのところを良く考えることだな」

 嘲笑うような余裕の笑みを浮かべて、彼は片手を軽く上げた。そのまま階段を降りて玄関に向かう憎い男の背中を、蕗子は悔し涙を浮かべながら見送った。

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