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偽りの恋人  作者: 水月
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 夜になって将太が眠ってしまうと、蕗子は簡易ベッドにぐったりと横たわった。その目は自然に、ベッドの横に置かれたごみ箱に吸い寄せられる。中には、ついさっき腹立ち紛れに細かく破り捨てた浩司の名刺と、津本が買ってきてくれたお弁当が入っていた。

 蕗子はぎゅっと目を閉じて、そのごみ箱を視界から締め出した。

 将太の前では気を張って、いつも通りの自分を懸命に演じてきたが、もうその必要はない。泣こうがわめこうが、いや、憎い男を罵倒しようが、蕗子の自由だ。

 だが、なぜか涙は出てこなかった。度重なるショックに涙が凍りついているのか、それとも我慢しすぎて枯れてしまったのか……。

 その上、浩司も来ない。あの厚顔無恥な顔を見たら、あれも言ってやろう、これも言ってやろうとありとあらゆる罵倒を用意しておいたのに、肩透かしを食わされた気分だ。

 脱力したような体を何とか起こし、寝る前にお手洗いに行っておこうと立ち上がる。ぼんやりとしたままドアを開けた蕗子は、前に立った男に危うくぶつかるところだった。

 小さな悲鳴を上げて立ち止まる。はずみで後ろにふらついた体を、目の前の男の逞しい腕が支えてくれた。

「す、すみません……」

 青い顔を上げた蕗子の目に映ったのは、忘れもしない、どこか人を食ったような津本の顔だった。

 蕗子は素早く彼の腕を振り払った。

「大丈夫ですか?」

 腕を振り払われたことなどなんとも思っていないように、津本が冷静な口調で訊く。蕗子はよろよろと後退った。

「もうとっくに帰ったと思っていたのに。こんなところで、何をしてるんですか?」

 津本の目をしっかりと見据えて、詰問するように言う。

 浩司が帰ってからしばらくして、津本は病院に一泊するのに必要なものを届けてくれた。歯ブラシやパジャマなどの着替え、そういった細々したものを。女物の下着まで入っているのを見て、後で赤面したのだが。

 昼食がまだだろうからと、お弁当まで買ってくれていた。が、その時の蕗子はまだ感情的になっていて、彼の目の前でそれをごみ箱に捨てることを躊躇しなかったのだ。いや、残虐な喜びを味わっていたと言ってもいい。津本はちらっと悲しそうに微笑んだだけで、何も言わなかった。

 必要以上に恭しくお辞儀をしてから病室を出ていく津本の後ろ姿を見ながら、さすがに後味の悪い思いをしたものだ。津本が出て行ってからしばらく、そのごみ箱を何度眺めたことだろう。もったいなくて。申し訳なくて。お弁当を作った人にも、津本にも。

 その津本が今、目の前にいる。あのまま帰ったとばかり思っていたのに!

 津本は穏やかに微笑んだ。

「あなた方の護衛とでも申しましょうか」

「護衛? 私達の? そんなの、必要ないのに」

 驚いている蕗子を可笑しそうに眺めながら、津本は口を開いた。

「いや、必要ですよ。脇坂本家の身内なんですから」

 その言葉に、蕗子の体が強張る。

「……確かに、そうですね。私は関係ありませんけど」

「どちらかと言うと、甥ごさんより婚約者の方を心配してらっしゃいましたがね」

 婚約者?

 蕗子の心臓が派手に飛び跳ねる。だが、そんな自分の反応を軽蔑するように、彼女は乱暴に頭を振った。

「私は彼の婚約者なんかじゃないわ! もう放っといて! 私達をそっとしておいて!」

 すると津本は哀れむような笑みを浮かべた。

「申し訳ありませんが、そういうわけにはいかないんです。浩司様に命令されたので」

 浩司様……。

 そういえば、初めてこの人に会った時、年上のくせに彼をさんづけしていることに驚いたっけ。彼はこの人の名前を呼び捨てにしていたのに……。

「正確には、あなたはどういう立場の人なんですか? あの工場の所長なんかじゃないんでしょう?」

 胡散臭げに蕗子が問うと、津本は肩をすくめた。

「ええ、まあ。正確な肩書きもありますが、脇坂本家の私設秘書兼ボディーガードとでも言っておきましょうか」

 病室の前で話している二人を、看護師や患者の家族などが通りかかってはじろじろと眺めていく。蕗子は大きなため息をついた。

「詳しい話を聞きたいわ。中に入っていただけませんか?」

「お安いご用ですよ」

 病室に入ると、蕗子は彼に簡素な椅子を勧めた。自分はスリッパを脱いで簡易ベッドの上に上がり、壁にもたれて両膝を腕で抱え込む。

「話を聞く前に言っておきますけど、私に敬語を使うのはやめてください。そんなことをされるいわれはないわ」

「そんなわけにはいきませんよ。あなたは浩司様の婚約者ですから」

 蕗子は苛立たしげな声を上げた。

「だから、婚約なんかしてないって言ってるのに」

「私は雇い主の言葉を信じるだけです」

 この男に何を言っても無駄だ。

 蕗子はため息をついた。

 暖簾に腕押し、ぬかに釘とはこのことだわ。

「もう、そのことはいいです。明日、本人にはっきりさせますから。それじゃあ、あなたの名前は? 以前に聞いた名前は、本名ですか?」

「本名ですよ」

「彼とあなたが遠縁だって言うのは?」

 津本はぴくりと眉を上げた。

「よく憶えてらっしゃいますね」

「だって、遠縁といっても色々あるし……。疑問に思って、訊いたんです。正確にはどんな関係になるのかって」

 すると津本は納得したように頷いた。

「お互いの曽祖父が兄弟だったという話でしょう。それも本当です」

 蕗子は皮肉な笑いに口元を歪めた。

「じゃあ、嘘の中にも真実はあったということね」

「いや、そうじゃない」

 強い口調で津本が言う。その声にはっとする何かを感じて、蕗子は彼をじっと見詰めた。

「真実の中に、一粒の嘘があった。それが今回の騒動の全容ですよ」

 真実の中に、一粒の嘘……。

「でも、その嘘こそが一番罪の深いものだったわ。違う?」

「そうでしょうね。確かに、浩司様は最初からあなたを騙すつもりだった」

 その言葉を聞いても、なぜか怒りは込み上げてこなかった。ただ、静かな悲しみに胸をふさがれただけだ。

「なかなか許せることではないかもしれません。ただ、浩司様には浩司様の事情があったのです」

 さて、この先を自分の口から打ち明けるべきか、否か。

 津本は口をつぐんでしばらく迷ったが、浩司の性格を考えて打ち明けることにした。

 あの頑固な雇い主は、決して言い訳などしないだろう。ましてや、他人のミスを言い訳に自分の行動を正当化するという芸当など、できるわけがない。

 頭の中で素早くそう結論付けると、津本は口を開いた。

「最初からお話しましょう。でないと、理解していただけないでしょうから」

 一瞬、蕗子が話を聞くのを拒否するのではと思った。それほどに蕗子の顔には強い嫌悪の表情が浮かんでいたのだ。だが、彼女はそれをこらえて頷いた。津本は彼女の公正さを尊敬し、安心したように微笑んだ。

「話は、大旦那様が亡くなられた前日にさかのぼります。私は仕事で遠方にいたので詳しいことは知らないのですが、誠様ご夫妻が事故に遭われたというニュースをテレビで見て、まず奥様がお倒れになったそうです。大旦那様は慌ててホームドクターを呼ばれ、奥様の方は事無きを得ました。その後すぐに大旦那様は、誠様の事故のことを詳しく調べるよう部下に命令されました。誠様が亡くなられたことをお聞きになられたのは、翌朝です。その途端、今度は旦那様がお倒れになって……。心筋梗塞で、ほとんど即死だったそうです」

 姉夫婦の事故のことがニュースで流れていたとは、知らなかった。その時にはもう蕗子も将太も、遺体安置室で二人の遺体に対面していたのだから。いや、翌朝というならもうすでに葬儀の手配でてんやわんやになっていたかもしれない。

「旦那様が亡くなられると、奥様は心労のあまり寝こまれてしまいました。そこへ相続権をめぐる親族の争いまで起こり、浩司様は寝る間も惜しんで働かなければならない状況に追いこまれました。私もすぐに出先から飛んで帰ってお手伝いをしましたが、その混乱が収まるまでには数ヶ月を要しました。やっと落ちついた時初めて、将太様のことに時間が割けるようになった。そういうことです」

 確かに、姉夫婦が死んでからずいぶん時間が経ってから言ってくるものだ、とは思っていた。ただ、無関心だから気付くのが遅かったのだと決め付けていたのだが。

「その頃、私は社内で横領していた者を追い詰めるための資料を集めていました。単なる横領ではなく、それが大旦那様の弟、つまり浩司様の叔父上の乗っ取りの一環であることはわかっていたのですが、その証拠がなかった。小物を追い出すだけでは何の解決にもなりませんからね。隠密にことを進める必要があったので、私一人が動いていました。その間、浩司様は表立って何かをすることはできなかった。だから、目くらましのためにも将太様のことを何とかする必要があったのです」

 そこで津本は、彼らしくもなく苛立ち混じりのため息をついた。

「私が手一杯だったので、浩司様は弁護士の大谷氏に将太様の調査を命じられました。彼はもともと親の七光りでその仕事に就いたにすぎない人物で、能力的にはともかく、人間的にはかなり問題があった。なまじ能力が劣っているわけでもなかったので、切るに切れない人物だったんです」

「そうよ。とっても無礼な人だったわ」

 蕗子がぼそりとつぶやくと、津本は同情するように頷いた。

「彼は、あなたやあなたの家族のことを最初から見下していたのでしょう。色眼鏡で見ていた。だから、でたらめの報告書を提出しても平気だったんだと思いますよ」

「でたらめの?」

 蕗子の驚いたような言葉を、津本は頷いて肯定した。

「彼は、あなたは小切手を受け取ったが将太様は渡さないと言っている、と電話してきたのです」

「嘘よ、そんなの! 小切手は……」

 興奮する蕗子をなだめるように両手を上げて、続ける。

「もちろん、今はわかっています。どうやら、なんとしてでも将太様を連れ帰って、手柄をたてたかったらしいですよ。自分が浩司様に疎まれていることがわかっていたのでしょう。あなたの気が変わるまで小切手を持っていて、将太様を無事手に入れてから渡すつもりだったということです」

 そういえば、小切手の話をした時、彼は顔を強張らせていたっけ……。あれは初めて彼を心の底から信頼して、親権問題の話をした日のこと……。

「その話を聞いて、浩司様はあなたのことを、強欲で将太の幸せも考えない身勝手な女だとお考えになった。更に大谷氏は、あなたには同棲しているも同然の隣人がいて、将太様がいるにもかかわらず、何度も家に泊まらせていた、と」

「同棲……。そ、それって、亮ちゃんのこと?」

 弱々しい声で聞くと、津本は問いかけるように頷いた。

「加納亮さんのことなら、そうです。私も調べましたが、彼との関係はどうしてもわかりませんでした」

 その声に疑問の響きを感じて、蕗子はごくりと唾を飲み込んだ。

「だって、亮ちゃんは……」

 と言いかけて、唇を噛む。いくら自分の嫌疑を晴らすためとはいえ、他人の秘密を勝手に暴露していいはずがない。蕗子は津本から目をそらして頷いた。

「確かに、亮ちゃんは何度もうちに泊まりました。でも、それは単なる友人としてで……」

 その時、雷に打たれたようにある考えが蕗子の頭にひらめいた。

「半分同棲しているような女だって、彼もそう思っていたの?」

 激しい勢いで訊く。

 津本は重々しく頷いた。

「強欲で身勝手で、ふしだら。それが大谷氏の描いた青海蕗子像です」

 だから、私がバージンだと知ってあんなに驚いたんだ!

 恋人がいるのに、自分になびいてくる馬鹿な女だと思ってたんだ!

「ですが、浩司様もいつまでもそんな風に思われてはいませんでしたよ」

 蕗子が何を想像しているのかわかるような気がして、津本は急いで続けた。

「最初は、そう思っていたかもしれません。素性を隠してあなたに近付き、誘惑して親権訴訟で勝てるだけの材料を集めようとしていたのですから。でも、あなたに接しているうちに、大谷氏が描いた女性像とは違う、本当のあなたを理解し始めたのです。素直で、でも用心深くて、世慣れていないあなたを。それは、将太様をどれほど大事にしているかということを思い知らされるにつれて、大きな疑問となって浩司様を苦しめました」

 呆然とした蕗子に、念を押すように言う。

「そこで、浩司様は大谷氏を詰問することに決めたのです。ついでに、大詰めを迎えていた横領の件も決着をつけようと」

「……それで、決着は、ついたの?」

「ええ。実行犯は経理部長でしたが、そこから浩司様の叔父上である専務一派も引きずり出すことができました。何もかも暴露して専務に認めさせ、三行半を突きつけるのに丸一日かかりましたがね。その後すぐに大谷氏の家まで行って解雇通告をしたり、追い出した専務一派の穴埋めの構想を練ったりで、ほとんど眠れませんでしたよ。どうしても翌日にはここに帰りたいと浩司様がごねられましてね……」

 からかうように蕗子を見る。だが、蕗子は津本の話を頭の中で整理するのに精一杯で、そんな彼の様子に気付く余裕などなかった。

「それって……昨日のこと?」

 そんなに忙しかったのだとしたら、電話がかかってこなかったのも無理はない!

「そうです。その前の夜中に、浩司様と電話で話していたのは私だったんです。話し声で目が覚めたらしいですね?」

 さりげなく問われて、蕗子は顔を赤らめた。

 津本はどこまで知っているのかと思う。だが、あの時間に一緒にいることを知っているくらいだから、ある程度のことは知っているのだろう。

「あなたに声をかけられて、浩司様は死ぬほど驚いたそうですよ。話を聞かれたかと思って」

 雇い主のことを面白そうに話す津本は、確かにそこらの腰ぎんちゃくのような部下とは違っていた。

「あなたの純粋な本当の姿を知った時、浩司様はかなり荒れましたよ。あなたには見せなかったでしょうが。電話口で私に向かって怒鳴り散らし、自分のしたことを後悔して嘆いてました。あんな浩司様は初めてでしたね」

 くすくす笑う津本の顔を見ながら、この人は私がバージンだったことも知っているのではと蕗子は疑った。

 不意に、津本は笑うのをやめて真剣なまなざしを蕗子に向けた。

「今日ここに帰ってきた時、浩司様はあなたに本当のことを打ち明けるつもりでした。そのことだけは信じてください。それと、浩司様の嘘は、自分の素性を偽ったことだけです。その他の言葉は、すべて真実でしょう」

 一瞬の間を置いて、静かに続ける。

「私に言えるのはここまでです」

 それだけ言うと、津本は立ち上がった。蕗子は彼の穏やかな顔を見上げ、その表情に誠実さを見て取った。

「ねえ、最後にひとつだけ」

 背を向けかけていた津本が振り返る。

「どうして彼は偽名をあなたと同じにしたの? ややこしいのに」

 すると、津本は唇をほころばせた。

「偽名に慣れている時間はなかったんです。その名前を聞いた瞬間に振り返れる、それほど馴染んでいる名前は、私の名前しかなかったそうですよ。それに、最初は、私がこちらに来る予定はなかったんです。他の問題に手を取られていましたのでね」

「じゃあ、どうしてここに来たの?」

「呼ばれたからです」

「だから、それはどうして?」

 津本は謎めいた微笑みを蕗子に向けた。

「大谷氏が報告してきたあなたと、実際のあなたが違いすぎたからです。事態を打開するため、そしてどうしても働きたがっているあなたを監視するために、私が必要だったということです」

「監視?」

「言い方は悪いが、そういうことですね。あなたに他の男性を近づけたくなかったんでしょう」

「じゃあやっぱりあの会社は浩……彼の会社なのね?」

 浩司が世話をしてくれた、アルバイト先の会社のことだ。津本は肩をすくめた。

「厳密には、浩司様の、ということではありませんが。下請けと言うよりは、傘下と言ったほうがいいでしょうね」

「アパートのことは?」

 すると津本は苦笑いを唇に浮かべた。

「あれには苦労させられました。周辺の不動産会社すべてに手を打って、あなたに貸さないようにしなければなりませんでしたから。アルバイトもしかりです。手っ取り早くあなたに近付くためには、恩を売るのが一番だろうと考えたので。ただ問題は、あなたがワキサカの臭いを嗅ぎ付けないように、一見正当に見える理由を考えつかなければならなかったことです。手抜かりがないように、手配は私に一任されました。もう一つの仕事で手一杯の私に、ですよ。まったく、殺す気かと思いましたね」

 とか言いながら、津本の口調は楽しげだ。蕗子は唖然とした。

 おかしいおかしいとは思っていたが、まさか本当にそこまでしていたとは。改めて、ワキサカの力に身震いする思いだ。

 更に言い募ろうとする蕗子を両手を上げて止め、津本は首を軽く横に振った。

「もう本当にここまでです。あとはご自分でお考えなさい」

 それだけ言うと、彼は病室を出た。

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