表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
偽りの恋人  作者: 水月
14/26

14

 病院に駆け込んですぐ、浩司は受付で将太の所在を確かめた。応急処置も終わり、今は病室で眠っているという。受付の女性に短く礼を言うと、今やがくがくと震えている蕗子を抱えるようにして廊下を進んだ。

 病室に入ると、ベッドの傍らに座っていた女性が腰を上げた。どこかおどおどしたその女性は、将太のクラスを受け持つ担任の保母だと言う。

 ベッドの上に横たわっている将太の姿を見た途端、蕗子は浩司の手を振り解いてベッドに駆け寄った。

「将太!」

 蕗子の目から涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。彼女は将太の丸々とした小さな手を握り締めて、嗚咽に肩を震わせた。

 そんな蕗子を痛ましげに見守った後、浩司は保母に向き直った。彼女を叱りつけたいのを我慢して、冷静に口を開く。

「何があったんですか」

「ええ、あの……」

 保母は、浩司の冷徹な瞳に射すくめられて次の言葉が出てこないようだった。ただひたすらに頭を下げて、申し訳ありませんと繰り返すばかりだ。浩司は鋭いため息をつき、苛立たしげに謝罪の言葉を遮った。

「謝るのは後にしてもらおう。何が起こって将太がこうなったのか、正確な状況を知りたいんだ」

 恐れおののいた保母が勇気をふりしぼって口を開いた時、病室のドアが開いた。白い制服に身を包んだ、厳格そうな看護師が入ってくる。彼女は浩司と蕗子の姿を認めると、やっと来たのかと言うように頷いて見せた。

「将太くんの状態について、ドクターの方から説明致します。こちらへどうぞ」

 冷静な口調でてきぱきと言うと、彼女はさっさと踵を返してしまった。

 浩司は蕗子に問いかけるように眉を上げ、彼女が気丈にも泣き止んで立ちあがったのを見て頷いた。つんと顎を上げてこちらに向かってくる彼女の腰に腕を回す。すると、静かな、だが断固とした手つきでその腕を振り解かれた。浩司は苦笑を浮かべ、それ以上蕗子を刺激しないように彼女の後についていった。

 案内された部屋には男性の医師が一人椅子に座っていて、その奥には大きなボードが置いてあった。そのボードにはMRIで撮影された頭の断面図が何枚も貼ってある。それが将太のものであることは、聞かなくてもわかった。が、正常なのか異常があるのか、それを見ただけでは見当もつかない。浩司は医師に視線を転じた。

 二人に椅子を勧めながら、医師が口を開いた。

「脇坂将太くんのご両親ですね」

 医師が、当然のことのように言う。それに機敏に反応したのは蕗子だった。機敏過ぎるほどに。

「いいえ! 私は、将太の叔母です。この人は……伯父です」

 いかにも渋々というように、付け加える。まったく自分の方を見ようともしない蕗子の態度に、浩司は苛立ち始めていた。

 蕗子の剣幕に、医師は驚いたようだ。しばし無言のまま、二人を見比べている。医師に探るように見詰められて、浩司は頷き、蕗子の主張を肯定した。

 それでやっと納得したのか、医師も頷く。そんな彼の様子を、蕗子は苛立たしげに見詰めていた。

「えー、将太くんは後頭部を強く打ってここに運び込まれてきました。しばらく意識がなかったということですが、救急車の中で意識は取り戻したようです。ここに着いた時には、周りの状況をはっきりと認識していました。それで……」

 医師はデスクの上のカルテをごそごそと探り、それを二人に見せて先を続けた。

「ここですね」

 カルテに書きこまれた、簡単な頭部の図を指差す。

「ここに小さな裂傷があり、出血がありました。頭部を怪我すると小さな傷でも驚くような出血があるものですが、将太くんもそうだったようですね。付き添ってらっしゃった保母さんにはもうお会いに?」

 蕗子と浩司が頷くのを見て、続ける。

「彼女も最初はすごく取り乱してましてね。安心させるのに看護師が苦労したようです。傷口の方は二針縫っただけですので、まだ子供でもありますし、すぐに治るでしょう。ま、明日あたりコブが痛むでしょうが。……で、本題ですが、とりあえず、意識を失ったということでしたので、MRIで一通り検査しました」

「それで……?」

 浩司がじれったそうに促す。

「これを見る限りでは特に異常はなく、小さな外傷のみです。ですが、頭の場合はすぐには安心できません。容態が急変するということがなきにしもあらずですから。ひとまず今夜は入院していただきましょう。一晩様子を見て変化がなければ明日には退院許可を出しますが、油断は禁物です。少なくとも一週間、できれば二週間ぐらいは監視が必要ですね。保育園は休ませて、家で大人しくしていること。つきっきりになる必要はありませんが、症状の変化にすぐに気付くぐらいにはそばにいてあげることも必要です」

 医師の説明を聞きながら蕗子の顔から血の気がひいていくのを、浩司は痛ましい思いで見詰めていた。

 保育園に預けず、誰かがそばにいなければならないということは、しばらくは働けないということだ。蕗子の経済事情が決して楽ではないことを知っている浩司には、蕗子の気持ちが痛いほどよくわかった。

「何かご質問は?」

「将太は……将太は眠ってましたけど、あれは意識がないというわけではないんですね?」

 震える声で蕗子が問う。彼女の肩も同じように震えていて、強く抱きしめて安心させてやりたいという衝動が浩司を責め苛んだ。

「大丈夫です。興奮状態だったので、ごく軽い睡眠剤を飲ませただけですから。すぐに目を覚ましますよ」

「あの……今夜は病室に泊まっても?」

「そうですね。まだ小さいですから、身内の方がいらっしゃらないと不安でしょう。隣に簡易ベッドを用意させましょう。それと、今将太くんが入っているのは個室ですが、そのままでよろしいですか?」

 その質問には、蕗子よりも先に浩司が答えた。

「そのままで結構です」

 じろりと蕗子が睨みつけてくる。その目に宿った憎しみの炎を、浩司は静かに正視した。根負けして目をそらしたのは、蕗子の方だった。

「わかりました。では、何かありましたらナースコールして下さい」

 言いながら医師が立ちあがり、浩司と蕗子も立ちあがった。

「ありがとうございました、先生」

 最後にそう言ってから、浩司は部屋のドアを開けた。先に通れというように、開けたまま蕗子を待つ。蕗子はつんと頭を上げてドアを通り抜けた。

 蕗子が廊下の先の方まで歩いていくのを見届けてから、浩司は医師を振り向いた。

「明日は僕が清算しますから、彼女には支払わせないで下さい」

 すると、医師は戸惑ったように浩司を見た。

「とおっしゃいますと?」

「言葉通りの意味です。朝一番に来るようにしますから、よろしくお願いします」

 事情がわからないながらも医師が頷くのを確認してから、浩司も部屋を出た。

 足早に廊下を進みながら、背後から津本が歩み寄ってくるのを感じ取る。ちらっと振り向いて彼の顔にもの言いたげな表情が浮かんでいることを見て取ると、浩司は顔をしかめた。

 そのまま、足を止める。

「何か言いたそうだな」

 津本はひょいと肩をすくめ、何食わぬ顔をしてみせた。

「いや、別になんでもありませんよ」

 浩司は振り返り、年上の男を睨みつけた。

「正直に言えよ。僕のことを馬鹿だと思ってるんだろう」

 津本は答えない。無表情のまま、もう一度肩をすくめただけだ。

 浩司は重いため息をつき、肩を落とした。

「そうだ。僕は馬鹿だ。大馬鹿だよ。早く打ち明けなければと思いながら、蕗子に嫌われるのを恐れていつまでもずるずると引き延ばしてしまった。そのツケがこれだ」

 津本は雇い主の顔を面白そうに見た。

「そうですね」

「それみたことかと言わないのか?」

 むっとしたように浩司が言う。津本はにやりと笑うにとどめておいた。

「再三ご注進申し上げたのにとかなんとか言ったらどうだ」

 更に挑発するように浩司が言い募っても、彼はそれには乗らなかった。軽く肩をすくめて、余裕の笑みで浩司を見る。浩司は鋭いため息を吐き出してから、再び歩き出した。

「何事もなければ、将太は明日退院する。蕗子もここに泊まるだろう。部屋の前で様子を見ていてくれ」

 きびきびと命令を飛ばす浩司は、もうビジネスマンの顔をしていた。

 彼の心のうちを思いやると、哀れみにも似た感情がこみ上げてくる。津本は全身を強張らせて突っ張っている浩司の背中を、物悲しげに見詰めた。

 病室の前まで来ると、浩司はためらわずに横開きのドアを開けた。その音に、中にいた女性二人が振り返る。

「あ、そ、それでは私はこれで」

 保母が慌てたように言い、浩司の視線を避けて部屋を出て行く。彼女の姿が消えた途端、病室は異様な静けさに包まれた。

「それで、どうしてこんな怪我をしたんだって?」

 気軽さを装って、訊く。

 蕗子は体を強張らせ、一瞬口をぎゅっと引き結んだ。

 だが、浩司も同じように将太のことを心配していることに思い至ったのだろう、渋々ながら説明し始めた。

「どうやら、お友達と喧嘩してたらしいの。今日は一日中不機嫌だったって、保母さんが言ってたわ。その不機嫌のとばっちりを受けて、お友達が怒っちゃって。園庭で小突き合いが始まったんですって。そうしてるうちにブランコの方に押されて……危ないと思った時には、もう動いてるブランコに当たっていたって。あの保母さん、すごく責任を感じてて……」

 話しながら気持ちが高ぶってきたのか、蕗子の声が震える。浩司はそっと歩み寄って、彼女の手を取った。

 だが、すぐに振り払われる。これ以上動揺させるわけにはいかないと考えて、浩司は素直に引き下がった。

 蕗子は握り締めた右手を口に押し当て、目に涙を一杯ためながら窓に歩み寄った。浩司に背を向けたまま、続ける。

「……彼女のせいなんかじゃないの。私が悪かったの。この子、昨日からずっと不機嫌で……。私の手には負えなかった。今朝だって全然言うことを聞いてくれなかったし。私も苛々して、なだめもしないで怒鳴り散らしてばっかり。保育園に預けてせいせいしたって思って……。だから、将太が不機嫌だったのは私のせいなの。私がもっとちゃんと将太の相手をしてやっていれば……」

 それ以上言葉にできずに声を押し殺して泣いている蕗子の背中を、黙って見ていることなどできなかった。浩司は大股に彼女に近づくと、背後から守るように抱きしめた。

 蕗子が驚いたような声を上げて抵抗する。だが、その腕をしっかりと捕まえて、ただじっと抱きしめていた。蕗子の涙が枯れるまで。彼女が落ち着きを取り戻すまで。

 蕗子の嗚咽が静まり、震えていた体がリラックスしてきたのを感じ取ると、浩司はそっと彼女の頬にキスを置いた。

 蕗子の体がびくりと震え、狂ったように体を捩って抵抗しだす。不承不承浩司が手を離すと、彼女は汚らわしいとでも言いたげに浩司のキスの跡を服の袖で拭った。

 浩司が顔を強張らせるのを見て、蕗子の顔に溜飲が下がったというような表情が浮かぶ。思い切りキスをしてその表情を消し去ってやりたいという衝動を、浩司は歯を食いしばって我慢しなければならなかった。

「今夜はここに泊まるんだろう?」

「ええ。止めても無駄よ」

 顎を上げて生意気な口調で言う蕗子を、浩司は無表情に眺めた。

「止めはしないさ。何か持ってくるものがあるだろうと思っただけだ」

「もしあるとしても、あなたになんか頼まないわ!」

 浩司は苦笑して、そうだろうな、とつぶやいた。

「……けんかしてるの?」

 弱々しい声が、言い争いに終止符を打った。二人ははっとして振り返り、ベッドの上の将太が目を開いていることに気付いた。

 浩司は、将太を安心させるように穏やかに微笑んだ。

「いや、喧嘩なんかしてないよ。具合はどうだい?」

「ぐあい?」

 浩司が将太に話しかけている間に、蕗子は涙を拭って平気そうな顔を取り繕うのに必死になっている。そんな彼女の姿を視界の隅に捉えながら、浩司は続けた。

「どこか痛いとか、苦しいとか。大丈夫かな?」

「うん……。頭がね、痛い」

 浩司はベッドの脇にかがみこみ、将太と目線を合わせた。

「そうか。大きなコブができてるからなあ。じゃあ、頭を打ったことは覚えてる? 友達と喧嘩したことは?」

 それを聞いた途端、将太の顔に困ったような表情が浮かぶ。将太は浩司から目をそらし、うつむくように顔を下げた。

「ぼく、悪い子だったの」

 浩司は安心させるように、将太の背中をぽんぽんと叩いた。

「そのようだな」

「おいたん、怒ってる?」

 恐る恐る問いかける将太に、浩司は微笑みかけた。

「いや、怒ってないよ。将太が大怪我しなくて良かった」

 次に将太は、やっと表情を落ちつかせてベッドの横に立った蕗子に目を転じた。

「ごめんなさい……」

 どこかびくびくしながら謝る将太を見て、蕗子の目尻から再び涙がこぼれ落ちる。彼女は素早くそれを拭いながら、懸命に微笑んだ。

「ほんと、将太は悪い子だったわね。でも、自分が悪かったってちゃんとわかってるんだよね。だから、喧嘩したたっくんにも、ちゃんと謝れるよね?」

「うん。あやまる」

 真面目な顔をして頷く将太を見て、蕗子は泣き笑いのような顔になった。ベッドの横にかがみこみ、覆い被さるように将太を抱きしめる。

「えらい。将太はえらいな。……だから、蕗ちゃんも謝らなくちゃ。昨日、ううん、今朝も将太を怒ってばかりでごめんね。許してくれる?」

「うん。いいよ」

 子供らしい率直さで、将太が言う。蕗子は顔を上げて微笑むと、ありがとう、とつぶやきながらもう一度将太を抱きしめた。そんな二人を、浩司は諦めにも似た表情で眺めていた。

 将太が目を覚ましてしまった今となっては、大人同士の話をするのは望めないだろう。

 憂鬱な思いでそう悟り、内心ため息をつく。

 それに、緊張とショックの連続で、蕗子が心身ともに疲れ果てているのは火を見るより明らかだ。誤解と怒りを解きたいのは山々だが、仕方がない。今日のところはこれで引き上げよう。

「泊まるのに必要なものは、津本に用意させるよ」

 浩司がそう言うと、蕗子は反抗的な顔を上げた。浩司は険しく目を細め、彼女に反論する隙を与えずに続けた。

「僕は仕事に戻るが、明日の朝にはきみ達を迎えに来る。そのつもりで」

 将太の前で言い争いたいのか、という脅しを目に浮かべて強い口調で言うと、蕗子は渋々といった様子で頷いた。どうやら言いたい事は伝わったらしい。

 とりあえずはそのことに満足するしかないな。

 体の奥にふつふつとたぎる、怒りや絶望がない交ぜになった感情を必死で抑制しながら、自分に言い聞かせる。

「じゃあな、将太。大人しくして、お医者さんや蕗子の言う事をよく聞くんだぞ」

 浩司がやさしくそう言うと、将太は無邪気に信頼しきった瞳を彼に向けた。

 蕗子もこんな目で見てくれていたのに。

 心の片隅にそんな思いが湧き上がって、浩司の胸を締めつける。

「また来る?」

「ああ。でも、夜は将太が眠ってからしか来られないかもしれない。いい子にしていたら明日の朝、会えるよ」

「ぼく、いい子にしてる」

「そうか! よし、じゃあ明日会おう」

 将太の頬をやさしく撫でてから、浩司は手を振った。蕗子が慌てて後を追ってくることを知りながら、平然とした風を装ってドアを開ける。ちらりと振り返って蕗子が部屋から出たことを見届けると、彼はすぐにドアを閉めた。

「文句を言いたそうな顔だな」

 ため息と共に、言う。蕗子は頬を高潮させて目を吊り上げた。

「当たり前よ! もう私達に構わないで。散々騙して馬鹿にして、その上まだ踏みつけにしたいの?」

 蕗子の感情的な言葉に挑発されないよう、浩司は奥歯をぐっと噛み締めた。

「騙したことは認める。だが、決して馬鹿にしたりはしなかった。踏みつけにするつもりもない。ただ、話を聞いて欲しいだけだ」

「それこそ馬鹿にしてるじゃない! ここまでこけにされて私が黙って話を聞くとでも思ってるの? ふざけないで!」

「いや、きみは聞くさ。今まで逃げ回ってきた、親権の話だからな!」

 浩司が鋭い声で言い放つと、一瞬あたりがしんと静まり返った。浩司は内心で自分の失言に呻き声を上げ、訂正しようと口を開きかけた。が、蕗子のショックを受けて真っ青になった顔を見ると、言葉が凍りついてしまった。

「……わかりました。お話はきちんと伺います」

 真っ青な顔の中で目だけをぎらぎらとさせて、蕗子が静かな声で言う。浩司は動揺していることを悟られたくなくて、必要以上に冷たい表情で頷いた。

 ドアの横で待機していた津本に顔を向け、短く命令する。

「津本、後のことは頼んだぞ」

「御意」

 からかうように津本が言う。いつもなら時代劇めいたその言葉に不愉快な思いをさせられるのだが、今回ばかりはその余裕がなかった。浩司はぶっきらぼうに頷くと、大股にその場から歩み去った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ