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偽りの恋人  作者: 水月
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 真夜中、ふと何かの気配を感じて、蕗子は目を覚ました。真っ暗な部屋に、薄明るい光が筋状にさしている。よくよく目を凝らしてみると、それは開いたドアの向こうから漏れてくる、フロアスタンドの光だとわかった。

 蕗子は大きなベッドから身を起こし、何も着ていないことに気付いて真っ赤になった。慌てて横にいるはずの浩司の姿を探す。だが、彼はどこにもいなかった。

 その時、押し殺したような浩司の声が聞こえてきた。誰かを叱りつけているような口調だ。他の人の声はしないので、多分電話で話しているのだろう。仕事の話だろうと、蕗子は再びベッドに横たわった。

 浩司はかなり怒っているようだ。蕗子達の眠りを妨げないように声を潜めているので話の内容までは聞き取れないが、荒々しい口調からそのことがはっきりとわかる。

 しばらくぼんやりとベッドに横たわって浩司の声を聞いていたが、やがて静かになった。蕗子はゆっくりと上半身を起こし、浩司が部屋に戻ってくるのを待った。

 フロアスタンドが消える。音もなくドアが開き、暗闇に慣れた目に、浩司が入ってくる姿が見えた。

「何かトラブルでも……?」

 蕗子の小さな声を聞いて、浩司がぎくりとしたように足を止めた。が、やがて彼は開けた時と同じように静かにドアを閉めた。

「起こしてしまったかい?」

 そう言いながら、ゆっくりとベッドに歩み寄ってくる。蕗子は彼をじっと見詰めた。

「目が覚めちゃったの」

 浩司がベッドサイドでバスローブを脱ぎ捨て、蕗子の隣に入ってくる。彼の温かい体にくるみこまれて、蕗子は安心したように目を閉じた。

「ごめんよ。静かに話していたつもりだったんだが」

 それを聞いて、蕗子はくすっと笑った。

「あんなに怒ってたのに?」

 それには答えず、浩司はしばらく考え込むように黙り込んだ。

「浩司さん?」

「うん?」

「何を怒ってたの?」

「ああ……。きみが心配するようなことじゃないさ。ただ……」

 また口をつぐんでしまった浩司を促すように、蕗子はつぶやいた。

「ただ……何?」

「明日、東京に戻らなくてはならなくなった」

 その言葉を聞いて、蕗子は体を強張らせた。

「戻る……?」

「ああ。本社でトラブルがあってね。僕が戻らないとどうしようもない状況らしい」

 つまり、それだけ要職にいるということだ。

 だが、今はそのことを追求するのはやめておこう。こうして話していても浩司はどこか上の空だ。もう心はビジネスの世界に飛んでいるのだろう。

 でも……。

「それって、もうここには戻らないってこと?」

 声を震わせながら蕗子が問うと、浩司は驚いたように蕗子の顔を見た。

「いや、そんなことはない。ああ、話し方が悪かったな。状況次第だが、一日か二日で戻って来られると思うよ」

「だって、明日は日曜日よ。会社はお休みじゃないの?」

「普通はね。今回は緊急事態だ。一刻も無駄にはできない」

「そう……」

 蕗子の口調から不安を感じ取ったのだろう、浩司はそっと彼女の頭を撫でた。

「どうした?」

 甘やかすように言う。その声にほっとして、蕗子は浩司の喉元に顔を埋めた。

「ううん。ただ、離れたくないだけ」

 言い終わるか終わらないかのうちに、蕗子は苦しいぐらいに抱きしめられていた。

「僕もだ。だが、どうしようもないんだよ。僕には責任というものがある。それをないがしろにはできない」

「うん、わかってる……」

「僕が東京に帰る時は、きみと将太も一緒だ」

 早く結婚しよう、と耳元に囁きかける浩司の声を心地よく聞きながら、蕗子は再びまどろんでいった。


◆ ◆ ◆


 翌早朝、まだ日も出ない真っ暗な時間に起こされて、蕗子は目を覚ますのに苦労した。だが、

「初めて体を重ねた翌朝に、相手が眠っている間に姿を消すような真似をしたくなかった」

 と言い訳をする浩司がかわいくて、笑いながら起き上がったのだ。

 部屋のドアまで見送りに出てきた蕗子に温かいキスをして、浩司は東京へ帰っていった。

 ゆっくりしていけばいい、なんならこの部屋に泊まってくれても、と浩司は言ってくれたのだが、なんだかそこまで甘えてはいけないような気がして、断ってしまった。その時に見せた浩司の困ったような、だがどこか安心したような表情を思い出して、蕗子は眉をひそめた。

 その日は、見慣れない部屋で目覚めた将太が浩司の不在に気付いてからは、散々な一日になった。一日中、手がつけられないほど不機嫌な将太に、しまいには蕗子もさじを投げてしまったのだ。当然のことながら、将太の機嫌はますます悪い方にエスカレートして行く。わあわあ泣き喚く将太を叱りつけながら、泣きたいのはこっちだわと内心でこぼしている自分が情けなくて仕方がなかった。

 最悪の一日が終わって、泣き疲れて眠ってしまった将太を布団に入れた時、どれほどほっとしたことか。頼みの綱の浩司からは電話もなく、蕗子一人ではどうしようもなかったのだ。

 やはり、父親の存在が必要な年齢なのだと実感させられた。浩司という大人の男性の存在に慣れさせられてしまった今となっては、特に。

 そして今日は月曜日。将太をいつも通り保育園に預けて、蕗子は仕事をしていた。

 昨夜、なぜ浩司から電話の一つもなかったのかという恨みがましい気持ちがないと言えば嘘になる。だが、夜中の浩司の様子と、夜も明けきらないうちから出かけていったことを考え合わせると、仕事のトラブルに予想以上に手を取られていると考えるのが妥当だろう。

 携帯電話の番号が書かれた名刺はいつも大事に持ち歩いてはいるが、そんなことで忙しいであろう彼の手を煩わせるのは気がひけた。

 その時、蕗子の携帯電話が鳴った。相手の名前を見てどきんとする。待ち焦がれた、浩司からの電話だった。

 周りを見て誰もいないことを確かめてから、電話に出る。

「もしもし」

「蕗子?」

 浩司の声を聞いて、蕗子の胸に温かいものが広がった。喉が詰まったようになって、咄嗟には声が出ない。

「蕗子、いるのか?」

「は、はい。います」

 慌てて答えると、浩司は電話の向こうからほっとしたような低い声を響かせた。

「倉庫の中かい? 電波が悪いな。話しても大丈夫か?」

「え、ええ。今は私一人みたい」

「手短かに言うよ。今、そちらに向かっているところだ。車だから、そうだな……着くのは昼過ぎぐらいかな。夕方、仕事が終わる頃を見計らって車で迎えに行く。待っていてくれ」

「でも……」

「すまない、トンネルに入る。切れるかも……」

 ガガッという音がして、それきり通話は途絶えた。しばらく待ってみたが、再び電話がかかってくることはなかった。用件は伝えたのだから、よしとしたのだろう。蕗子としても、運転中にそう何度も電話をして欲しくはない。

 何よりも、もうすぐ浩司がここに帰ってくるということが、蕗子の心を浮き立たせていた。

 昨日の浩司の不在は辛かった。淋しかった。夕方まで待てば会えるとわかっているのに、そのことすらじれったく思えるほどに。

 しばらく考えた末、蕗子は思いきって午後から早退することにした。

 珍しく今日は所長の津本が休んでいるので、倉庫の主任に聞いてみる。すると、今日は特に仕事も混んでいないので大丈夫、という返事をもらえた。

 蕗子は満面に笑みをたたえて主任にお礼を言い、恋人でも会いに来るのかと冷やかされて真っ赤になった。

 時間は遅々として進まず、一二時という時間が永遠に来ないような錯覚に襲われる。蕗子が数分おきに時計を眺めていることに気付いた女性社員達に遠慮なくからかわれ、冷やかされながら午前中は過ぎていった。

 昼を告げるチャイムが鳴ると、蕗子は飛ぶように職場を出た。会社から浩司が泊まっているホテルまではバス停にして三つ分で、歩いてもたかが知れている。浩司からの電話を受けて気分を高揚させていた蕗子は、迷わず歩くことにした。

 ホテルのロビーに隠れていて、浩司が入ってきたら驚かせてやろう。その時の浩司の反応を想像して、にやにや笑いが押さえられない蕗子だった。

 ホテルに着き、広々としたロビーに入る。高い吹き抜けがあるロビーは、吹き抜け上部の大きな窓からさんさんと日が降り注ぎ、明るい日溜りをいくつも作っていた。蕗子はその光と豪華なロビーに見惚れながら前に進んだ。

 ふと顔を下げてフロントを見た蕗子の目に、見覚えのある顔が飛び込んできた。

 ……大谷?

 ワキサカ・コーポレーションの専属弁護士だとふんぞり返っていた、あの大谷がいる。

 蕗子は彼に気付かれる前にと、慌てて大きな柱の影に隠れた。

 そこから少しだけ顔を出して、もう一度じっくりと彼の顔を見る。

 間違いない。あの顔を忘れるはずがない。前に会った時よりも幾分顔色が悪く、疲れて見えるが確かに大谷弁護士だった。

 彼はどこか苛々した様子で、人待ち顔でフロントの横にたたずんでいる。何度も腕時計で時間を確かめ、神経質に髪の毛を撫でつけているところを見ると、かなりの時間をここで過ごしていたらしい。

 こんなところで何してるのかしら。もしかして……私を探しに? ここにいることがばれたのかしら? でも、そうだとしたらさっき私が入ってきた時にすぐにわかったはずだわ。それに、こんな立派なホテルに泊まる余裕がないことぐらい、知っているはず……。

「社長!」

 突然、大谷が叫んだ。

 蕗子はびくっとして身を隠し、走り出した大谷に見つからないように、息を潜めた。

「社長、もう一度だけ私の話を聞いてください!」

 社長……。ということは、ワキサカ・コーポレーションの社長がここにいるっていうこと!?

「大谷」

 驚いたような男性の声。その声を聞いて、蕗子は体を強張らせた。

「事実をごまかしていたことはお詫びします。ですから、もう一度、チャンスを……」

 大谷弁護士の必死の訴えを、冷静な声が遮る。

「くどいぞ。公衆の面前で笑いものになりたいのか? 処分については、昨日説明した通りだ。それ以上でも、それ以下でもない」

「それじゃああんまりじゃないですか! 父の代から脇坂家に仕えてきたこの大谷を、たった一度の失敗でお切りになるのですか!」

「大谷さん」

「津本は黙っていろ!」

 大谷が血相を変えて発した津本という名前を聞いて、蕗子は恐る恐る顔を出した。

 確かにそこには津本がいた。体調を崩して休んでいるはずの、津本彰吾が。

 大谷を取り押さえようとする津本を、隣にいる男が片手を上げて制した。

「わかった。見世物になるのは好まんが、どうしてもと言うなら仕方がない。大谷、確かにきみのお父上は偉大な人物だった。僕の父を支え、父と共にワキサカをさえも支えてくれた。そのお父上の偉業を認めて、きみの素行の悪さにも、ワキサカという虎の威を借りた傍若無人な振る舞いにもある程度目をつぶってきたつもりだ。仕事には熱心だったし、無能というわけでもなかったからな」

 男はそこでため息をついた。

「だが、今度という今度は目をつぶるわけにはいかない。きみはたった一度の失敗と軽々しく言うが、そのたった一度の失敗でも、内容によってはワキサカの全社を揺るがす大事件に発展することもあり得るんだ。今回はたまたま僕の家族にのみ関わる事件だったから傷も浅かったが、これ以上きみを雇っておくわけにはいかない。僕の肩には、脇坂本家だけではなく、何百万人という社員たちの生活もかかっている。たった一人のミスのために全員の生活を脅かすようなことは断じてできないんだ。冷静に考えてみろ。そうすれば、僕の言った意味がわかるはずだ」

「社長……私……私はただ……脇坂家に良かれと……」

「善良な女性の生活を脅かすことがか! 僕たちに誤った人物像を植え付けることがか! ここまで言ってもまだわからないなら、救いようがないな」

 津本、と男がつぶやくように言うと、後ろに控えていた津本彰吾が素早く大谷を背後から羽交い締めにした。そのまま、引きずるようにホテルの入口に向かう。

「くそーっ、覚えてろよ、脇坂! 俺を首にしたことをきっと後悔させてやる! 後悔させてやるからな!」

 背後で叫んでいる大谷には構わず、男はフロントに歩み寄った。

「騒がせてすまなかったね」

 静かな声で言いながら、キーを受け取っている。フロントの男性は微笑んでお辞儀をした。

「とんでもございません。お帰りなさいませ、脇坂様」

 そこでやっと蕗子は勇気を出して、柱の影から姿を現した。

 まだ半信半疑のまま、男の背中につぶやくように問いかける。

「脇坂……社長……?」

 蕗子が必死の思いで念じていたこととは裏腹に、振り向いた男の顔は、あんなにも恋焦がれた愛しい人のそれだった。

 振り向いた浩司の顔から、さっと血の気が引く。

「蕗子……」

 離れた場所で黙って向かい合ったまま、二人は見詰め合った。

 先に動いたのは浩司だった。蕗子の方に手を伸ばしながら、一歩踏み出す。

「なぜここに……」

 ショックで動けなくなっていた体が、その声で呪縛を解かれた。蕗子はわなわなと震える手を握り締め、つかつかと浩司の前に歩み寄ると、彼の頬を思いきり平手打ちした。

 一瞬、ロビーが静まり返る。

 浩司は蕗子が手を振り上げた後も、一瞬たりとも視線を外さなかった。よけようと思えばそうできたはずなのに、よけなかった。黙って蕗子に叩かれ、ゆっくりと顔を上げて無表情に蕗子を見下ろしている。

「気が済んだか?」

「嘘つき!」

 蕗子の叫び声を聞いて、浩司の顔が強張る。

「嘘つき、嘘つき、嘘つき!」

「聞いてくれ。これにはわけが……」

 伸ばしてきた浩司の両手を振り払って、蕗子は涙に濡れた顔を上げた。涙でかすんで見えない男の顔を、睨みつける。

「一生、あなたを許さない」

 低く、抑えた声でそれだけ言うと、蕗子はきびすを返して走り出した。途中で二人のやり取りをじっと見守っていたらしい津本とすれ違ったが、彼は申し訳なさそうに首を傾げただけで、止めようとはしなかった。

 ホテルを出て、どこに行くあてもないままがむしゃらに走りつづける。

 怒りを持続するのは難しかった。怒りよりも、むしろ裏切られた悲しみの方が深かったからだ。

 彼と出会ったのは、偶然などではなかった。すべて綿密に練り上げられた計画だったのだ。それも、将太を取り上げるための。

 そのことが悲しかった。浩司の言葉も行動も何もかも、嘘で塗り固められていたことが辛かった。愛の言葉を囁きながら、陰で笑っていたのだと想像することが身を切られるように苦しかった。

「蕗子!」

 浩司が追いついてきて、蕗子の手首をしっかりと掴んだ。そのまま抱きしめようとする彼に、必死で抵抗する。浩司はそんな蕗子の両腕を強い力で押さえつけた。

「聞いてくれ! 騙したことは悪かった、だが……」

「聞かない! いいわけなんて聞きたくない! もう私のことは放っといて!」

「放っておけるわけがないだろう! 愛してるんだ!」

「嘘つき! もう騙されない!」

 その時、まるでタイミングを図ったかのように蕗子の携帯電話が鳴り出した。

 蕗子がそれに気を取られていることに気付いて、浩司は毒づいた。

「そんなもの、放っておけ!」

 蕗子は浩司の腕を振り払って涙をごしごし拭き、ポケットから携帯電話を取り出した。浩司を睨みつけながら、強い口調で言う。

「そんなわけにはいかないわ。将太のことかもしれないじゃないの」

 じれったそうな呻き声を上げて、浩司が空を仰ぐ。蕗子は震える手でボタンを押して電話を繋いだ。

「もしもし」

 案の定、電話の相手は将太を預けている保育園の園長だった。途端に心配になって、蕗子は声を震わせた。

「はい、私です。あの、将太に何か……?」

「こんなことになってしまって、本当に申し訳ありません。将太くんが頭を打って意識不明になってしまって……」

「将太が? そ、それで、将太は?」

「すぐに救急車を呼んで、病院に運び込まれました。担任の保母が一人ついて行っています」

 へなへなと地面に座り込んでしまった蕗子の手から携帯電話を奪い取って、浩司が代わりに園長を詰問し始めた。

「将太に何かあったんですか? ……意識不明? それで、今は? では、病院はどこです? ええ。ええ、わかります。とにかく、今から病院に向かいますから。何かわかればまた連絡します。はい。では」

 携帯電話を自分のスーツのポケットにしまいこむと、浩司は呆然としている蕗子を抱きかかえるようにして立たせた。

「しっかりしろ! まだひどい怪我だとわかったわけじゃない」

 叱りつけるように、また励ますように強い口調で言い聞かせる。

 蕗子は真っ青な顔の中で目だけを大きく見開いて、浩司の強張った顔を見上げた。焦点が合わないままに、わずかに抵抗するような素振りを見せる。

「そんなことは後回しだ。将太の様子を確かめてから、いくらでも相手をしてやる。津本!」

「はい、浩司様」

 どこからともなく津本が現れて、恭しく頭を下げた。

「車を回してくれ。病院に向かう」

 浩司が病院の名前を告げると、津本は頷いた。さっと走り去り、あっという間に車を運転して戻ってくる。浩司に後部座席に押し込められながら、蕗子はぶるぶる震えていた。

当時は保育士さんではなく、保母さん・保父さんという名称でした。

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