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しばらくすると将太も目を覚まし、三人はまた幼児用の乗り物に乗って楽しんだ。昼寝をした将太は午前中にもまして元気いっぱいで、二人の大人をへとへとにさせた。
浩司の顔からは先ほどの陰鬱な表情が消え去り、今は将太と同じように純粋に楽しんでいるとわかる。変わったのは、蕗子に対する態度だけだった。今までは控えめにしていた愛情表現をためらわなくなり、いつでもどこでも蕗子を離さないのだ。そして、そうされても照れたり恥ずかしがったりしない蕗子もまた、自分の変化を感じ取っていた。そのことを浩司が喜んでいることも。
一日中たっぷり楽しんで遊園地を後にする頃には、将太はまたうとうとし始めていた。
「困ったな。夕食がまだなのに」
運転席からバックミラー越しに将太の様子を見て、浩司がぼやく。蕗子は笑いながら彼の不安を退けた。
「大丈夫。遊びに行った日はたいがいこんなものだから。こういう時は、もう寝かせちゃうの。どうせ次の日はとびきり早起きするんだから、寝る前に無理に何か食べさせたりするより、朝からたっぷり食べさせることにしてるのよ」
それに、と蕗子は可笑しそうに笑った。
「お昼寝のあと、おやつだなんだって、結構食べてたでしょう。多分、お腹なんてすいてないわ」
浩司は納得したように頷き、それからは無言のドライブが続いた。
浩司がぴりぴりしていることに、蕗子はとうに気付いていた。それは遊園地を出て、駐車場に停めてあった車に乗ったときから続いている。その理由が、浩司の言う「込み入った話」だということは容易に想像がついた。何の話かは想像もつかないが、そのことで悩んでいるらしい浩司の思いつめた様子は、蕗子の胸をも痛めた。
浩司が車を停めたのは、県内でも一、二を争う高級ホテルの車寄せだった。車が止まる前からドアボーイがさっと走り寄って来る。浩司が屋根のある玄関前のスペースに車を停めると、ボーイがすかさず運転席のドアを開けた。
「お帰りなさいませ」
丁寧にお辞儀をしながら、ボーイが言う。浩司は当然のことのように頷き、車から降りて蕗子を助けおろした。そのあと、眠っている将太を抱き上げる。
全員が降りたことを確認すると、ボーイが開いているドアを閉め、運転席に乗りこんで駐車場へと移動させた。
その様子を呆然と見守っていたので、蕗子は浩司がホテルの中に入って行くのに気付かなかった。ふと気付くと、浩司はもうフロントで鍵を受け取っている。蕗子は慌てて浩司のそばに走り寄った。
その日は遊園地に行くというので浩司も蕗子もジーンズにシャツという格好だった。だが、そんな格好では肩身が狭いくらい、ホテルのロビーは正装した人達であふれかえっている。
蕗子が来たことに気付くと、浩司は不自然なくらい急いでフロントの人間に頷きかけ、よろしく頼む、と言い置いてエレベーターに向かった。
エレベーターが来るまでは蕗子も我慢していたのだが、エレベーターの中で三人きりになると、こらえきれずに疑問をぶつけた。
「ねえ、出張って言っていたわよね? ここにいる間、ずっとこのホテルに泊まってたの?」
浩司の表情が、用心深くなった。
「ああ」
短い返事を聞き終わらないうちに、蕗子が畳みかける。
「だって、このホテル高いのよ! ここに来る前、ガイドブックでホテルのことはいろいろ調べたの」
「蕗子」
「それに、スイートに泊まってるって言ってたわよね。どうして? なんだって一介の社員が……」
「蕗子!」
鋭い声で一喝されて、蕗子は言葉を飲み込んだ。
「その話はあとにしよう。とにかく将太をベッドに寝かせなければ」
それは有無を言わさぬ命令だった。浩司の温かい人柄に慣れていただけに、その冷酷で傲慢な口調は、蕗子に軽いショックを与えた。
スイートルームは、予想にたがわぬ豪華さだった。天井にまで届きそうな大きなドア、そこを開けると玄関ホールのようなスペースが続き、その奥には三十畳はあろうかというような居間があった。
天井からはきらびやかなシャンデリアが吊り下げられ、壁には上品な絵画がさりげなく配置されている。部屋の一角には、テレビやステレオ、パソコンやファックスまでが完備されていた。ソファやカーテンはアーリーアメリカン調のファブリックで統一され、上品過ぎない、リラックスできる空間を演出している。
この部屋が醸し出す独特の雰囲気は、明らかに蕗子の世界とは異質だった。
「服はこのままでいいのか?」
どこか強張った声で浩司が問いかける。蕗子は慌てて開いているドアの方に向かった。
そのドアの向こうは、ベッドが置かれた寝室だった。だがそれは居間といっても通るくらい広く、大きなドレッサーやクローゼットまで備え付けられて、至れり尽せりだ。
ドアのところで戸惑っている蕗子を、浩司が振り返る。彼は将太をベッドカバーの上に置いたところだった。
「あ、あの、パジャマの方が……。でも、持って来てないから」
「届けさせるよ」
言うなり、彼はさっさと居間のほうに姿を消した。蕗子はおずおずと部屋の中に入り、とりあえずベッドカバーと掛け布団をめくって、その中に将太をくるみこんだ。
浩司が電話でフロントと話している声が聞こえる。彼の落ち着いたよどみない声を聞いていると、蕗子の中から不安が少し消えた。そっと部屋を出て、受話器を持っている浩司に歩み寄る。
気配に気付いた浩司が振り返り、蕗子の姿を認めた。ほっとしたようなやさしい微笑みを浮かべて手を差し伸べる。その微笑みが、残っていた不安も吹き飛ばした。蕗子はにっこり微笑んで浩司に寄り添った。力強く腰を掴む手も、彼の胸で打つ心臓の音も、すべてが信じられた。
「ああ、それでいい。頼むよ」
そう話を締めくくると、彼は受話器を置いた。蕗子の頬にキスを置いてから、微笑む。
「すぐにパジャマが来る」
それを聞いて、蕗子はくすっと笑った。
「まるでパジャマが勝手に飛んでくるような言い方をして」
浩司は、蕗子の言い方に屈託がないことを敏感に察知した。安堵のため息をひそやかについて、冗談を飛ばす。
「あれっ、知らなかったのか? このホテルでは、頼んだ物は空を飛んでくるんだぞ」
「まさか! もうっ、浩司さんったら!」
二人で声をそろえて笑ってから、浩司はこつんと額と額を合わせた。
「疑問がたくさんあることはわかってる。だが、少し待ってくれ。きみに話す前に、自分の中で整理しなければならないんだ。とりあえず夕食を先にとろう。将太を置いて行けないから、ルームサービスを取るよ。二人ともシャワーを浴びて寛いでから。いいかい?」
頷きかけて、蕗子は困ったように浩司を見た。
「私、着替えがない」
すると浩司はにやりと笑った。その顔がいつものようにいたずらっぽいことが、蕗子を安心させた。
「もちろん、わかってるさ。一緒に服を買いに行こう」
蕗子に異存があるはずはなく、二人はしばらくしてボーイが持ってきた子供用のパジャマを将太に着せると、意気揚々とホテルを出た。
だが、浩司が連れて行ってくれたのは高級ブティックで、そうなると蕗子もためらわないわけにはいかなくなった。何しろ、ただのスカートやブラウスが何万、いや、下手をすると十万以上するのだ。蕗子がいつも買っているものとは、桁が違う。ワンピースやスーツとなると、値札を見るのも怖いくらいだ。
だが、蕗子のためらいを良く理解してはいるが、それでも僕のために着て欲しいと浩司に頼まれると、嫌とは言えなくなってしまった。蕗子は値札に書かれた数字には目をつぶり、浩司に勧められるまま、気に入ったデザインの服を手にとった。
数は少ないがそこでは服に合わせた下着も販売しており、抵抗する気力のうせた蕗子は、店員に勧められるままに下着の購入を決めた。
ホテルに戻って将太の様子を確かめると、二人は別々にシャワーを浴びた。驚いたことに、各寝室毎に浴室があるのだ。蕗子の部屋の浴室は、少し広いくらいで普通のホテル仕様だったが、主寝室になっている浩司の部屋の浴室は、きっとこんなものではないのだろう。聞くのも恐ろしいので聞いていないが……。
温かいシャワーを頭から浴びながら、蕗子はとりとめもないことを考えていた。考えるなというほうが無理だろう。浩司の生活は、蕗子が考えていたものとは明らかに異質だったのだ。そう、住んでいる世界が違う。亡くなった姉と、結婚する前の誠のように。
シャワーで汗と埃を洗い流し、ふかふかのバスタオルで体をふいて、買ってもらったばかりの服を着る。その服は高価なだけあって、着心地も見た目も文句のつけようがなかった。カジュアルな中にも上品さを感じさせ、尚且つ女らしい曲線を際立たせている。
蕗子が寝室を出て居間に入ると、先に来て待っていた浩司が振り向いた。いささか緊張気味に強張っていた顔が、蕗子の恥ずかしそうな様子を見て和む。
「良く似合っているよ。きれいだ」
蕗子は、その言葉を額面通りに受け取った。照れ笑いをしてから、素直にありがとうと言う。蕗子が冗談で紛らわしたりせず、自分の言葉を真面目に受け取ってくれたと知った浩司は、安心したように微笑んだ。
「きみの好きそうなものを頼んでおいたよ」
と言いながら、テーブルに並んだ料理を指差す。二週間近く一緒に夕食をとっているので、二人とも、互いの嗜好はなんとなくわかり始めていた。蕗子はテーブルに近寄り、その上に置かれた料理を見て嬉しそうに微笑んだ。
「おいしそうね」
二人はダイニングテーブルに向かい合って座り、食事を始めた。
食事中は、軽い話題を選んだ。時々浩司が思いつめたように蕗子の顔を見詰めたりすることがあっても、蕗子は極力それに気付かないふりを装った。
「きみは本当に美味しそうに食べるね」
食事も終わりに近づいた頃、浩司が半ば感心したように、半ばからかうように切り出した。蕗子は思いきり舌を出して反撃した。
「どうせ食い意地が張ってますよーだ」
浩司が可笑しそうに笑う。
「そういう意味じゃない。そういうところが好きだと言ってるんだ」
さらりと言われて、蕗子は顔を赤らめた。
「ほら、そのすぐに赤くなるところも。可愛くて好きだな」
ますます赤くなる蕗子をからかうように、浩司が笑い声を上げる。
「もうっ。からかわないで」
真っ赤になって抗議する蕗子を、浩司は微笑みながら眺めていた。
「からかってなんかいないよ。本当に好きだから、しょうがない」
蕗子は呆れたように天を仰ぎ、浩司を無視して食べることに没頭した方がいいと判断した。
「将太をとても大事にしているところも、いいな」
無視、無視。
「はかなげでいて、実は芯が強いところとか」
蕗子の態度にもかまわず、浩司は言い募る。
「強情なところも、実は気に入ってる。潮時はわきまえて欲しいがね。おかげで最初は苦労させられた」
蕗子は最後の一口を食べ終わり、すましてナプキンで口を拭った。
「それから?」
つんとして促すと、浩司は妙に真剣な顔になった。
「それから……」
蕗子が自分の方を見るまで黙ったまま待つ。根負けした蕗子が渋々顔を向けると、彼は口を開いた。
「……結婚してくれないか」