10
その夜、蕗子はなかなか寝つけなかった。
浩司の胸の中で泣きじゃくっていた女性が本当に自分だとは、到底信じられない。親にさえ、あんな風に甘えたことはなかったのに。
彼にしがみつき、キスをねだり、やさしい愛撫に身を委ねたことを思い出すと、あまりの恥ずかしさに身悶えしてしまうくらいだ。
浩司が自制してくれなかったら、あのまま一夜を共にしてしまっていたかもしれない。いや、きっとそうなっていた。
引きとめる蕗子を振り切るようにして帰って行った浩司の背中を思い出すと、今でも胸が締めつけられる。だが、彼の行動は正しかったのだ。
打ち捨てられたように感じるのは間違ってる。絶対に。
蕗子は布団の中で何度も寝返りを打ち、自己嫌悪のため息をついたり、脳裏にひらめく記憶の映像を打ち消すように足をばたばたさせたりして一夜を過ごした。
明け方になってやっとうとうとしたが、すぐに将太に起こされてしまった。
「ふきちゃん、おべんと!」
いつもは蕗子が起こすまで布団の中でぐずぐずしているのに、子供というのはどうして休みの日になると早起きするのだろう。蕗子はぶつぶつ言いながら布団から這い出した。
お弁当箱がないので、おにぎりの中におかずをつめこんで、一つ一つラップにくるむ。苦肉の策だったが、中身が何かわからないからびっくりおにぎりだ、と将太が喜んでいるのを見てほっとした。
津本が時間通りに来るのはわかっていたので、蕗子達は約束の時間の少し前にはアパートの部屋を出た。わざわざ二階まで呼びに来てもらうことはないと思ったのだ。
興奮して拙い言葉でしゃべりまくる将太の相手をしながら階段を降りる。ふと顔を上げて、蕗子は足を止めた。
アパートの前に、浩司の車が既に止まっていた。部屋から二人が出てきたことに気付いたのだろう、彼は車から出て、ドアを閉めているところだった。
彼の人懐こい笑顔を見て、蕗子はまぶしそうに目を細めた。どくりと心臓が大きく脈打ち、不規則な鼓動を響かせる。全身がかっと熱くなり、喉元からせり上がった熱いものが頭いっぱいに広がって、耳鳴りがした。
「あっ、おいたんだ! おいたん!」
叫びながら蕗子の手を振り解き、将太が危なっかしい足取りで外階段を降りていく。浩司は素早く階段の下まで走り寄り、将太を受け止めるように抱き上げた。
「おはよう、将太」
「おはよう!」
将太を地面に下ろしてから、浩司は階段の中ほどで固まっている蕗子を見上げた。
「おはよう」
つやのある、滑らかな声が蕗子を包み込む。蕗子は真っ赤になっているであろう自分の姿を想像して、更に赤くなった。
「お、おはようございます」
うつむきながら答え、浩司から目をそらしたまま階段を降りる。
そのまま浩司の前を通りすぎようとした蕗子の腕を、彼はしっかりと掴んだ。途端に、心臓がまた不規則に飛び跳ねる。
「蕗子……」
何か言いかけた浩司から蕗子を救ったのは、将太のはしゃいだ声だった。
「おいたん、くるま、くるま!」
彼の手に、ぐっと力がこもる。
が、次の瞬間には浩司の唇に苦笑が浮かんだ。蕗子から手を離し、将太に返事をしながら車のドアを開けてやる。蕗子はこっそり安堵のため息を吐いた。
遊園地に着くと、二人ははしゃぐ将太に引きずられるような形で中に入った。メリーゴーラウンドやコーヒーカップ、小さなゴーカートなど、将太は精力的に遊び回った。おかげで、気まずい雰囲気から一時的にせよ逃れることができた。
お昼になると、売店で敷物を買って芝生広場に広げ、三人はその上にのんびりと座った。
はしゃぎ続けていた将太はいつもよりたくさんのおにぎりをお腹に詰めこみ、美味しいを連発して大人達の笑いを誘った。こんなお弁当でごめんなさい、と蕗子が目をそらしたまま謝ると、将太の手前だろう、浩司はにこやかにかぶりを振った。
「いや、美味いよ」
その声が硬いことに気付いたのは、蕗子だけだろう。将太は旺盛な食欲を見せながら、満足そうに二人の大人を見比べていたのだから。
疲れが出たのか、将太はいつもより早く眠り込んでしまった。食べている途中なのに、突然うとうとし始めたのだ。
珍しくもないことなので蕗子は手早く将太の手から食べかけのおにぎりを取り上げた。ちょっと揺さぶって起こし、口の中に入っているものをお茶で流しこませてから、ことりと眠りに落ちた将太を敷物に横たわらせてやる。その間、浩司は驚いたように将太を見詰めていた。
「いつも、こんな風に突然眠るのかい?」
「そうでもないのよ。遊びすぎて疲れた時なんかはこんな感じだけど」
そう言いながら、蕗子は未だに浩司の顔を見ることができない自分を持て余していた。朝はにこやかだった浩司が、時間が経つにつれて険しい表情になっていくことに気付いてからは、特に。将太という緩衝材が無くなった今、浩司の苛立ちはすぐにも爆発するだろうと思われた。
「昨夜、きみはついに僕を信用してくれたと思った」
ぼそりと、浩司がつぶやく。蕗子は恐る恐る顔を上げた。
「だが、そうではなかったようだな。後悔してるんだろう?」
今日初めてまともに見た浩司の顔は、苛立ちや怒りではなく、深い悲しみに彩られていた。そのことにショックを受けて、蕗子は咄嗟に言葉が出なかった。
ふいっと、浩司が顔を背ける。彼の苦悩を目の当たりにして、麻痺していた蕗子の言語中枢が働き始めた。
「こ、後悔なんかしてないわ」
「じゃあ、その態度は何だ。目も合わせてくれないじゃないか!」
「それは……その……恥ずかしかったから……」
その言葉は、浩司の意表をついたようだった。開きかけた口を閉じ、じっと蕗子を凝視している。
「恥ずかしかった……? 打ち明け話をしたことがか?」
蕗子はほんのりと頬を染めて、少しうつむいた。
「ううん。あの……泣いたこととか」
そのあとのこととか、と消え入るような声でつぶやく蕗子を、浩司は拍子抜けしたように見詰めていた。
やがて浩司の手が伸びてきて、蕗子の二の腕を力強く掴んだ。そのまま、二人の間で寝ている将太を踏み潰さないように気を付けながら引き寄せる。はじめは抵抗する素振りを見せた蕗子も、諦めたように浩司にされるままになった。
「なぜ恥ずかしいんだ」
「なぜって……あんな風に泣いたことなんてなかったし……」
「僕は嬉しかった」
蕗子の耳元に息を吹きかけるように、浩司が囁く。その温かい感触に、蕗子は身震いした。
「やっときみの心を掴むことができたようで、嬉しかったよ」
私の心を掴む……。
浩司の言葉を心の中で反芻しながら、蕗子はそうだったのか、とやっと得心がいった。
昨夜浩司にすがりついて泣いたのも、キスして欲しい、もっと愛撫して欲しいと願ったのも、浩司に自分の心をがっちりと掴まれていたからなのだ。そう、彼の愛にしっかりと絡め取られてしまっていたからだ、と。
自覚こそしていなかったが、体は正直に反応した。浩司の笑顔を見ただけで心臓が破裂しそうなくらいの衝撃を受け、彼に少し触れられただけで全身が熱くなったのだから。
その反応をどう呼べばいいのか、今までさっぱりわからなくて混乱していた。そして、恥ずかしいのだと結論付けていた。だが、そうではない。そうではなくて……。
「私、恋してるんだわ」
呆然とつぶやいた蕗子の言葉を聞いて、浩司が体を強張らせる。
そのことに気付いた蕗子もまた、自分が心の中ではなく、口に出してそう言ったことに驚いた。
「……誰に?」
慎重に、また、蕗子の心を探るように浩司が訊いた。その不安そうな表情を見て、蕗子のためらいは吹き飛んでしまった。
「あなたに! 他に誰がいるって言うの?」
朗らかに宣言し、呆然としている浩司にキスをする。
最初彼は、蕗子の突然の心境の変化についていけないというように無反応だった。が、蕗子の言葉が胸に染み込むにつれて、喜びを露わにしていく。
半信半疑でキスに応えていた浩司の唇が、徐々にリードを取り戻し始めた。しまいには、どちらがどちらにキスしているのかわからなくなる程に。二人は熱く舌を絡ませ、互いの髪の毛に指を差し入れて相手の頭を強く押しつけながら、激しいキスに酔った。
そこが遊園地の芝生広場のど真ん中で、周りには好奇に満ちた観衆がいるにもかかわらず、二人はキスを続けた。そしてそれが終わった時にも、蕗子が人目を気にして浩司から離れることはなかった。
そのことが嬉しくて、浩司は蕗子を抱きしめたまま何度も、こめかみや頭、頬などに軽いキスを落とした。
「いつから僕に恋していた?」
甘やかすような声で浩司が訊く。蕗子はくすくす笑った。
「わかんない。いつのまにか、忍び寄ってたの」
「もっと早く気付いて欲しかったな」
「ごめんなさい」
蕗子が素直に謝ると、浩司は喉の奥で笑い声をたてた。
「許してあげよう」
浩司はそっと蕗子の顎に指を当て、顔を上げさせた。彼の目に、顔に、その仕草に溢れる愛情を見て、蕗子の目が潤む。彼もまた、蕗子の表情から紛れもない深い愛情を見出していた。
「愛してる。何が起こっても、この言葉だけは忘れないでくれ。僕が心からきみを愛しているということを。自分の命よりもきみを大事に思っているということを」
思いがけず真剣な口調で言われて、蕗子は戸惑ったように浩司を見た。彼の顔は微かに青ざめ、その手は少し震えている。蕗子は安心させるように微笑んだ。
「絶対に忘れないわ。浩司さんにも、忘れさせないから」
茶化すように言うと、浩司はかろうじて微笑みに見えるという程度に唇の端を曲げた。
まだ不安そうな浩司を見て、蕗子は今までの自分がどれほど彼の心を踏みにじってきたのかを実感した。
「本当に好きよ。信じて」
すると、浩司は虚ろな、震える笑い声を上げた。
「信じようとしてるさ」
「愛してるわ」
恥ずかしかったが、思いきって言う。
その言葉の効果は絶大だった。蕗子の期待以上に。
浩司の目が見開かれ、一瞬、機能がすべて止まってしまったかに見えた体が微かに震え出す。彼は腕の中の華奢な体をしっかりと抱きしめたまま、再び蕗子の唇を奪った。
溺れる者が何かにすがるようなキスだった。そのことに一抹の不安を感じながらも、蕗子は浩司を信頼してすべてを委ねた。
ゆっくりと、浩司の唇が離れていく。蕗子は震える瞼をそっと開いた。じっと見つめてくる浩司の瞳。そこには、何かを訴えかけるような、切羽詰まった表情が浮かんでいた。
何かがおかしい。これは、愛を告白された男性の反応じゃない。押し隠していた不安が、急速に蕗子の中で膨らんでいった。
「どうしたの?」
しばらく、浩司は答えなかった。が、やがて決意したように口を開く。
「今夜は、ホテルに泊まってくれないか」
ホテルと聞いて、蕗子の顔が真っ赤に染まる。
蕗子の反応を見て、浩司はやさしく微笑んだ。
「いや、きみが考えているようなことじゃない。話したいことがあるんだ。僕が泊まっている部屋はスイートだから、余分な寝室はある。そこに泊まってもらえないだろうか」
「話なら別に今でも……」
言いかけた蕗子の言葉を遮って、浩司は顎を引き締めた。
「いや、込み入った話なんだ。ひょっとすると、きみの話より更に複雑かもしれない。誰にも邪魔されない場所で話したい」
何の話か見当もつかなかったが、浩司がそう言うのならと蕗子は頷いた。そのことにほっとした浩司の顔が、やけに印象的だった……。




