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偽りの恋人  作者: 水月
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 今日も見つからなかった。

 青海(おうみ)蕗子(ふきこ)は、とぼとぼとホテルへの道を歩いていた。

 アルバイト探しを始めてからもう一週間ほど経つというのに、未だに見つからない。やはり、定住していないというのがネックなのだろうか。

 そんなことを考えながら歩いていたので、角を曲がった途端、出会い頭に誰かにぶつかってしまった。

「きゃっ」

「おっと」

 低い落ち着いた声が頭上で響き、弾き飛ばされた体が道路に倒れる前に、大きな手で両腕をつかまえられる。強い力で引き起こされて、蕗子は頭がくらくらした。

「申し訳ない。大丈夫ですか?」

 その気遣わしげな声に答えるために、蕗子は顔を上げた。大丈夫です、と言いかけた口が、そのままぽかんと開く。

 相手は、決して小さくはない蕗子が見上げるくらい背が高く、仕立ての良さそうなスーツを着ていた。髪は短めに切り揃えられ、無造作にかきあげられた前髪がいく筋か額に落ちかかっている。

 だが、何よりも蕗子の目を引き付けたのは、彼の精悍な顔立ちだった。決してハンサムとは言えないが、鋭い眼光を放っている黒々とした瞳とはっきりとした眉、頑固そうに引き結ばれた唇が、意志の強い男性である事を物語っている。彼の全身から漂う威圧感が、蕗子を圧倒した。

「どこか打ったのかな。間に合ったと思ったんだが」

 心配そうに、彼がつぶやく。その声で我に返って、蕗子は数回瞬きした。

「す、すみません。大丈夫です。どこも打ってません」

 しどろもどろになりながら答える。そして、真っ赤になった顔を隠すようにうつむいて、ついてもいないホコリを払うふりをして服を叩いた。

 男はさっと手を離し、蕗子の様子をどこか冷ややかに眺めている。だが、蕗子が申し訳なさそうに顔を上げると、その表情はかき消えた。

「すまなかったね。急いでいたもので」

 にっこり微笑んでそう言われただけで、蕗子の心臓が跳ね上がった。

「い、いえ。私の方こそ、前をちゃんと見ていなかったんです」

「大丈夫だね? どこも痛いところはない?」

「ええ、ありません。急いでらっしゃるのに、申し訳ありませんでした。じゃ……」

 蕗子が早口で言って立ち去りかけると、男は引き止めるように手を上げた。

「まだ顔色が悪いよ。送っていこう。家はこの近く?」

 男の言葉にうろたえて、蕗子は唇をかんだ。

「いえ、本当に大丈夫ですから」

 慌てて答える。実際には、心臓は喉から飛び出しそうなほどどきどきしていたし、両手は傍目にもわかるほど震えていたけれど。

 でも、ぶつかった事がショックだったからではないわ。

 蕗子は渋々そのことを認めた。ぶつかって来た相手が見たこともないほど魅力的だったからだ、と。

「震えてるじゃないか。タクシーを拾おう。ちょっと待って」

「いえ! あのう……本当に、大丈夫です。それに、すぐそこですから」

 すぐそこと聞いて、彼は片方の眉を上げた。その雄弁な仕草に、蕗子の胸がきゅんと締め付けられる。

 馬鹿ね、ティーンエイジャーでもあるまいし。こんな些細なことでいちいち大騒ぎするなんておかしいわよ。

 蕗子は自分の大げさな反応をごまかすように咳払いをした。

「私、この先のホテルに泊ってるんです。ですから……」

「なんていうホテル?」

 有無を言わさぬ口調に、蕗子の口からすらすらとホテルの名前が出る。それを聞いて、男が頷いた。

「じゃあ、そこまで送っていこう」

 何かを言いかけた蕗子の機先を制して、鋭く言う。

「いちいち逆らわないでくれ。時間がもったいない」

 その言葉にも、これ見よがしに腕時計を見る仕草にもかちんと来た。恋に浮かれたティーンエイジャー気分が、ざあっと音を立てて引いていく。

 蕗子は精一杯背筋を伸ばして相手の目をぐっと見返した。

「もったいないなら、私を送ったりして大事な時間を無駄にしなければいいんだわ。私は本当に大丈夫ですから。どうもお手間をおかけしました!」

 乱暴な口調でそう言い捨て、くるりときびすを返す。

 なんて頭に来る人かしら。あんな人を一瞬でも魅力的だと思った自分に腹が立つ。まあ……滅多に見ないくらいカリスマ性のある人ではあったけど。

「見かけによらず、短気なんだな」

 面白がるような声が間近でして初めて、男が後ろから追いかけてきたことに気付く。蕗子はきっ、と彼を睨んだ。

「もう私に構わないで」

 鋭く言い放ったが、彼の反応は想像とは違っていた。にやっと笑い、参ったというように両手を小さく挙げたのだ。

「ごめん、ごめん。あんな言い方をして悪かったよ。頼むから、送らせてくれないか」

 そうまで言われて断るのも、大人げない。蕗子はちょっと唇を噛みしめて考えこんでから、諦めたように小さく頷いた。

 ホテルまでの道のりは短く、しばらく無言で歩いていると、建物が見えて来た。

「ここへは旅行で?」

 気軽な声で彼が問いかける。蕗子はちょっとためらった末に、頷いた。

「ふうん。一人で?」

 この問いを聞いて、蕗子の頭の中で警鐘が鳴り響いた。

 おかしい。なぜこんなに根掘り葉掘り聞いてくるの?

 蕗子が胡散臭げな視線を投げたことに気付いたのか、男はひょいと肩をすくめた。

「旅行中に一人で歩いているということは、一人旅かなと思っただけだ」

 しばらく、信用してもいいものかどうか慎重に考えてから、蕗子はぶっきらぼうに答えた。

「一人じゃありません」

 突然用心深くなってしまった蕗子の様子を見定めるように、彼の目が狭まる。

 その時ホテルの前の階段について、蕗子はほっとしたように微笑んだ。

「どうもありがとうございました。もう大丈夫ですから」

「きみ、名前は?」

 すたすたと階段を上がっていく蕗子の背中に、男が問いかけた。蕗子は驚いたように振り返り、男の真意を探るようにじっと見詰めた。

「なぜ名前なんか?」

「ぶつかったのも何かの縁だ。良かったら今夜、一緒に食事でもしないか?」

 驚いている蕗子に、畳みかけるように続ける。

「勿論、友達も一緒に」

「どうして?」

 まさか問い返されるとは思ってもいなかったらしい。男はしばらく驚いたように黙り込んだ。彼の周りには、誘われたら二つ返事でついていくような女性しかいないのかもしれない。彼の外観から推し量ると、さもありなんとは思うけれど。

「男が女を誘う、普通の理由で。きみだって、自分が美人だということを知ってるだろう?」

 彼の答えを聞いて、蕗子は目を見開いた。

 二十四年間生きてきたが、美人だなどと言われたのは初めてだ。毎日鏡を見てはいるが、自分でも美人だと思ったことはない。

 何か目的があってそんな見え透いた嘘をついているのだろうか? 一時的にせよ、難を逃れてここに移って来たからしばらくは安全だと思っていたが、もしや……?

 蕗子の反応を見て、彼は意外そうに眉を上げた。

「おやおや。きみの周りには唐変木しかいないらしい」

 彼の言葉は、蕗子の心に固く張り巡らされたガードをかいくぐって、彼女のプライドをくすぐった。

 ふっと緩みかけた気持ちを、慌てて引き締める。

 いけない、いけない。このままでは、彼の口車に乗せられてしまいそう。

 そう思った蕗子は、ぴしゃりと断りの言葉を吐き出した。

「お断りします」

「どうして?」

「どうしてって……。知り合ったばかりだし……」

「誰だって最初は知り合ったばかりじゃないか」

「そうね。でも、こんなにすぐに誘われたりはしません」

「僕は時間を無駄にしない主義なんだ」

「あら。今、こんなくだらない論争をしてるのは無駄な時間じゃないとでも?」

「ああ。打てば響くようなきみの答えを聞くのは楽しいからね」

 まったく。ああ言えばこう言う。なんて人かしら。

「とにかく、あなたと私はたまたま道でぶつかっただけなんですから。知り合いとも言えないし、これから知り合いになるとも思えません。連れが待ってますから、失礼します」

「その連れって、男性?」

 ああ、そうか。初めからそう言えば良かったんだわ。

 蕗子は得意そうに微笑み、上機嫌で答えた。

「そうなんです。私が帰るのをやきもきして待ってますから、これで失礼します」

 背後の沈黙に、してやったりと思いながら階段を上がる。ホテルのドアの前まで来た時、意外にも楽しそうな声が背中に投げられた。

「障害が大きければ大きいほど燃える性質(たち)なんだ。覚えておいてくれ」

 驚いたように振り向き、目を丸くしている蕗子の表情を満足そうに眺めた後、彼は片手を上げて、もと来た道を引き返して行った。

 足早に去っていく男の後ろ姿を、蕗子はしばし呆然と眺めていた。

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