第56話 三花道士
水珠は昼の少し前に、目を覚ました。悪夢は見なかった。
もっとも、山羊頭は出てきて「役立たず」と罵られはしたが、一時期よりはうんとマシだ。
昼餉までの時間潰しに庭を散歩していたら、黒鉄君がいた。
池に架かる橋の上で、魚に餌をやっている。
家主でもなければ、使用人でもないのだから、彼も暇を持て余していたのだろう。
水珠は昨日のこともあって緊張しつつも、挨拶くらいしなくてはと橋のたもとに足を寄せた。
黒鉄君は、その気配に気づいたようで、ちらと目を遣ったが、変わらず餌を撒き続ける。
橋の中ほどまで渡って、水珠のほうから声をかけた。
「おはようございます、黒鉄君さま」
「おう。お前もやるか?」
迷っているうちに、器を押し付けられてしまった。
魚粉を固めたような、良いにおいのする茶色い粒を、見様見真似で一掴みし、ぱっと池に放つ。
途端、ジャバジャバッと魚の群れが水飛沫をあげた。
「……ふふ」
案外、やってみると癖になるものだった。
もう一掴みだけ放って、彼に器を返す。
「ありがとうございました」
「ああ。……昨日は悪かったな、ちと熱くなっちまった」
「いえ、そんな……わたしは、ほら、途中で青錫君さまに連れ出されましたし」
「そういや、そうだったな。あの後はなぁ、白銀君とそらもう取っ掴み合いの殴り合いでよぉ」
「えっ!?」
「冗談だ。こんなことで」
彼はまた餌を撒き、ふ、と息をつく。
「そう、こんなことなんだ、水珠。だから、昨日のことは忘れろ」
「え、でも……」
「残りはやる」
器を押し付け去ろうとする背に、水珠は問うた。
「友達だったって聞きました!」
けれど彼は振り返りも、足を止めることもなく「昔のことだ」と答えるのみだった。
あの後、実際に白銀君と、どのような話をしたのかはわからない。
だが、それが彼に、割り切りや諦めのような感情を抱かせたことに間違いはないだろう。
水珠はしゃがみこみ、力なさげに、餌をぱらぱら撒く。
時折、溜息も漏れてしまう。
「……結局、わたしは守られる側なんだ」
最後の一掴みを、魚たちが夢中で飲み込むのを見守ってから、立ち上がる。
軽く伸びをしたところで、橋のほうに来るふたりの影が目に入った。
「ここにいたんですのね、水珠」
「よう。師匠に魚の餌やり、押し付けられたか?」
「違いますよ、壮さん。黒鉄君さまです」
それから澄泥のほうに、なにか用事かと問えば、
「そりゃあ、昨日のことですわよ、もちろん。あの後、居残りでしたでしょう?」
「俺も気になってた。師匠たちは大したことじゃないって言いやがるけど」
「でも朝餉には出てこないし、さっき部屋を覗いたらいませんし」
とにかく間が悪かったらしい。
「ごめんごめん。えーっとね」
仙人たちから助力を乞われたことを話すと、ふたりは合点がいったようだ。
「そりゃあ、水珠にしか出来ねえことだわな」
「ですわね。そうですわ、お昼までもう少し時間あるでしょう? 軽く体を動かしませんこと?」
「ああ、じゃあ、俺が腕を見てやるよ」
参戦をまるで疑っていない様子に、水珠が曖昧な笑みを浮かべると、澄泥は怪訝な顔になった。
水珠は言った。
「ふたりは、行くんだね、やっぱり」
壮のほうは、やっぱり、という風に目を伏せる。
一方、澄泥のほうは眉を寄せ、目つきを鋭くした。
「仇を取らないんですの?」
水珠は静かに、ゆっくりと、視線を落とした。
そんなこと、考えたこともなかった。
また同じようなことになりたくない、それだけだった。
壮が「んん」と咳払いし、
「まあ、なんだ、無理もねえだろ。すぐには、さ。目の前で死なれちまったんだ」
「それは……そうかもしれませんわ。でも今は? それでも行く気にはなりませんの?」
水珠は俯いたまま、目を瞑り、また開いて、ふたりの足元を見つめながら問うた。
「ふたりは、怖くないの?」
「俺ぁ、武官だったからな。死ぬ覚悟なんざ、物心ついた頃にゃ出来ていたが」
「怖いですわよ、当たり前じゃないですの。壮さんはちょっと頭おかしい」
でも、と澄泥は凛とした声で、
「持つ者には責務が、ある。父の受け売りですけれど」
水珠は首を横に振った。
「違う、そうじゃなくって……もしも、わたしに、足を引っ張られたら」
ふたりは揃って「はあ?」と、驚きや怒りを滲ませる。
「ああ、いや、そういうことか」
と壮。
「でもな、水珠、そいつは違うぜ」
「そうですわよ。誰も、貴女のせいだなんて思っていませんわ」
そんなことは、もう何度も、師にだって白鼬にだって言われたことだ。
「わかってる、けど」
「もしも、だ。もしも水珠、お前が大仁の側だったら、見捨てたのか?」
水珠は、はっと顔を上げた。
「そんなこと!」
「じゃあ、それで死んじまったとして、大仁を恨んで化けて出るか? 大仁が足を引っ張った、そのせいでわたしは死んじゃったんだ、って」
しない。するわけがない。
それは、亡き大仁だって同じに違いない。
「わかってるんだよ、そんなことは! でも、わたしは、怖い! わたしのせいで、みんなが死んだらって思うと、怖くてたまらないの!」
「馬鹿言うんじゃねえですわよ。わたくしたちが、そんな簡単に死ぬわけないでしょう?」
「でも大仁くんは」
「簡単ではなかった、ってことでしょうが。とても残念な話ですけれど、でも仙人さまたちの話の後なら、いくらか納得もできますわよ。背後に邪仙がいて、樹はその所有物だったのですから」
「今度は、その邪仙と戦うんだよ!?」
「でも今度は、わたくしたちどころか、仙人さまたちもいる。なにを恐れることがありますの? なにもありませんわよ」
澄泥は呆れたように問い、そして諭すように続けた。
「自分の力を信じなくても良いですわ。でも、わたくしたちの力は信じなさいな」
「……信じてるよ。わたしなんていなくても、勝ってくれるって」
壮が迷いながら口を開いた。
「俺は、無理強いするつもりはねえ。けどな、水珠。お前は一度、俺を助けてくれたろう」
「……そうだっけ」
助けてもらったことは、よく覚えている。
水中で偽者の妹に襲われたときは、本当に、死ぬかと思った。
「俺が今、こうして花を咲かせていられるのは、お前のおかげなんだぜ。決して、足手まといなんてことはねえ。それだけは、本当だ」
そう言って彼は、水珠の肩を軽く叩いた。
優しくも、力強かった。
「わたくしは無理強いするつもり満々ですわ! 水珠、貴女なしで行って、わたくしが死んだときにゃあ、化けて出ますわよ! だって、そうでしょう? 貴女は確かに、頼りないときもありますわ。でも、この戦いには世界の運命が掛かっている。それって、雪梅ちゃんの運命と一緒ですわよ。それをね、貴女が放っておくなんて、そんなの、敗けるに決まってますわよ」
――だって妹のことになったときの水珠ほど、頼れる存在はいないのだから。
澄泥はそう言って、つい先日の出来事を振り返る。
「人虎のときに痛感しましたわ。てっきり暴走するかと思いきや、氷のように冷静でしたもの」
「……そんなことないよ。必死だった」
「でしょうね。それでも己を見失わなかった。わたくしが白銀君さまの推察を伝えるより早く憑依の可能性に辿り着き、わたくしが来たらすぐに花剣を貸すよう指示を飛ばしたじゃないの」
「おい、澄泥。妹の話は、流石に卑怯だろ」
「だから、わたくしは無理強いするって言いましたわ! 水珠がいたら心強いもの」
「当の本人に気持ちが入ってねえなら、俺は反対だよ。かえって危険だ」
「んもう! どっちの味方なんですの」
「どっちもに決まってんだろ。ほら、もう行くぞ。水珠、また昼飯のときにな」
澄泥は彼に腕を引っ張られながら、なおも言葉を尽くす。
「後悔しますわよ! 行かなかった後で、わたくしたちや、仙人さまの誰かが、欠けて帰ってきたら。必ず。行っていたら、と思いますわよ! 人ってきっとそんなものですわ。動いても動かなくても、己に不都合なことが起きれば、逆だったらと後悔するんですのよ」
そして橋のたもとで、こう問いかけた。
「決して先に悔いることなんて出来ない。なのに貴女は今、それをしようとしているんですわ。そういうの、なんて言うか知ってます!?」
水珠は、ふたりの姿が見えなくなってから、それに答えた。
「……大愚。よく知ってるよ」
◇
水珠が白銀君のもとを訪れたのは、決戦の前日だった。
「わたしも、お供させてください」
彼は、なにか書き物をしていたらしい。
その手を止めて振り返れば、わずかに眉が寄っていた。
「無理は良くありません」
「ちゃんと考えて、決めました」
この数日、ずっと考え続けて、いよいよ決心がついた。
恐れが拭えたわけではない。
もしもまた、自分の代わりに誰かが死んだら。
そう思うと涙が出てしまいそうだ。
ただ、友の言う通りだとも思うのだ。
壮がいて、澄泥がいて、白銀君らがいる。
そう思うと、心強い。
あのときも、そうだった。
大仁と独覚との戦いに臨んだときも。
あのとき自分がいることで、彼も同じ気持ちだったのだろうか。
今となっては聞く術はないが、少なくとも、澄泥と壮は、そうだと言ってくれた。
彼女たちの力になりたい。
白銀君に少しでも恩を返したい。
妹のいるこの世界を守る、一助になりたい。
自分の気持ちに従って、それでも踏み出せなかった一歩を、澄泥と壮が後押ししてくれた。
きっとこれを、人は、勇気と呼ぶのだ。
水珠は瞼を閉じる。
深く息を吸って、ゆっくり吐き出しながら、瞼を開く。
「友のために、あなたのために、そして、妹のために。どうか再び、花剣をお授けください」
師を真っ直ぐに見つめた。
ある夜のように。
彼は、懐から真っ白な杏の花を取り出して、じっと見つめる。
その手を、水珠は両手で包み込む。
「わたしはもう、へそがないだけの化け物じゃ、ありません」
花を握る彼の手から、にわかに力が抜けるのを感じた。
「水珠……。そうでしたね。貴女は、私の、誇らしき一番弟子です」
受け取ったそれを改めて、髪の結び目にくくりつける。
あんなにも縮こまっていた心が嘘のように、気合いが入るようだった。
あるべきものが帰ってきた。そんな風にも思う。
そうだ、これだって、苦楽を共にしてきた相棒なのだ。
「貴女の気が回復したのを喜ぶべきでしょうか、それとも、もう少し後だったならと嘆くべきでしょうか」
そう言う彼の口元に、微笑のあることを、弟子は弟子であるがゆえに、見逃さなかった。
水珠もまた、安堵して、笑みを零すのだった。




