第55話 誠実なる師
今日だけで色々あったものだ。
家出めいたものから始まり、妖怪に憑依された妹を助け出し、仙人たちの討つべき友、赤銅君から、宇宙誕生の話に至り、決戦の日について、まで。
大仁のことさえ、まだ落ち着いていない。
たった三日前のことだというのに、次から次へと、洪水のように押し寄せる出来事に、すっかり、翻弄されてしまった一日だった。
なんとなしに横になる。
白銀君の屋敷で与えられた部屋と、さして違いはないのだけれど、真新しい布団は少し、落ち着かない。
二度、三度と寝返りを打ちながら、水珠は考える。
一度は去ったここに、理由があったとは言え舞い戻ったが、次に向かうべきはどこだろう。
(……べき、か)
そういうことではないのかもしれない。
青錫君の、先の言葉を思い返す。
(自分の気持ちに従う……わたしの、したいことは)
両親の記憶を取り戻したい。また家族と暮らしたい。仲良く暮らしたい。
諦観の海の底に沈んではいても、それが一番に、思いつく。
その次には、やはり、師に恩返しすることだ。
となれば、決戦に臨むことは、なんら躊躇うものではない。
――大仁のことがなければ。
(花剣の力を、満足に引き出せないわたしなんかがいたところで、足手まとい)
もしもそのせいで友達や、師を死なせてしまうなんてことになってしまったら、一度だって償えやしないというのに。
そういう意味でも今は、崑崙に留まるのが良いのかもしれない。
自分のことで、彼らに余計な心配をさせてしまうなど、あってはならないことだ。
(なにかできること、ないかな……でも雑用は仙道助手がいるからな……)
そんなことを考えているうちに、水珠は眠ってしまった。
目が覚めたときには、部屋は真っ暗になっていた。
もうすっかり遅いものかと思いきや、仙道助手に訪ねれば、まだそれほどでもないようだ。
夕飯には少し遅く、寝るにはやや早いと言ったところ。
(……お腹、空いたな)
水珠は空きっ腹をさすり、仙道助手に支度を命じた。
その後について食堂に向かう途中で、師と会った。
「よく寝られましたか?」
「あ、はい」
答えてから、はたと気付く。
あの悪夢を見なかった。
それほど、ぐっすり眠れたということか。
今日は特に色々とあったせいもあるだろう。
一時、彼のことを忘れていたことを恥じ入ると共に、肉体と精神の疲労が確かに癒えていることを実感する。
空腹が痛いくらいなのも、そのためであろう。
「それはなによりです」
「えと、白銀君さまは……もしかして、何度かこちらへ?」
「一度だけです」
「お気遣いいただき、ありがとうございます」
そう言ってから改めて、水珠は跪き、首を垂れた。
「再び妹に救いの手を差し伸べてくださったこと、深く感謝申し上げます」
もしも澄泥が来てくれなかったら、妖虎と化した妹を捕獲するだけして、なにもできぬまま、いたずらに時ばかり浪費して、ようやく崑崙に戻って力を借りる決心がついたとしても、そのときには時すでに遅し、と。
妹の魂は完全に妖虎のものとなっていたかもしれない。
さすれば、ふたりで俗世を離れ、人の来ない森の奥深くで生きるはめになっていただろう。
なにもかもを投げ捨てた自分への罰としては、これ以上ないものではあるが、それでも雪梅を巻き込むことだけは、自分勝手の誹りを受けようとも、あってはならないもの。
「白銀君さまの大恩に報いることが、我が生涯の望みであることに一切の疑いはございません。わたしにできることなら、なんでも致す所存でございます。けれども、この身は酷く未熟で、果たして、なにができるのかもわからぬ始末……」
後半になるにつれて鼻声になっていくのを、彼の優しい声が止めた。
たいてい無感情に近い白銀君らしからぬそれが、弟子のためであることもまた、誰が疑うものであろう。
「どうか、面をあげてください。私のような者に、そんなことする必要はありませんよ」
白銀君は弟子と同じように、廊下に跪いた。
「恩など、ないにも等しいことではありませんか」
水珠は、その意味するところがわからず、目で問えば、
「初めに妹君を助けたときからして、そうです。助けるだけなら、もっと簡単だったのです。にもかかわらず、あえて迂遠な方法を取った。恩着せがましくも。そのために、貴女には辛い思いをさせてしまった。全ての事情を打ち明けた今、改めて、謝らせてください」
と、深く頭を下げる。
この日、二度目となる師の謝罪に、水珠は言葉が詰まるようだった。
「こんなことで貴女の心が晴れることはないとは、わかっています。だからこそ、本当に……申し訳ありません」
その誠実な心に触れればこそ報いなければと強く思い、また、それを果たせそうにない己を人として恥ずかしく思うのだ。
修行を疎かにしてきたつもりはないけれど、もっと、努力していたら、あるいは……。
だとしても、後悔先に立たずとは、このことだ。
「全ての責任は我々、五金君にあります。貴女ではないのです」
彼は顔を上げ、真っ直ぐな眼差しで、また言った。
それは昼間と同じ言葉ではあるけれど、今となっては少し、意味合いが違った。
そして懐より手拭いを取り出し、水珠の目元を優しく拭う。
「こんなことで貴女の心が晴れることはないとは、わかっています。だからこそ、本当に……申し訳ありません」
水珠は、その彼の手を握り締めて、
「それでも、わたしは……」
絞り出すように言葉を紡いだ。
「白銀君さまと出会えたことを、とても感謝しています。あなたのおかけで、妹を助けられた。あのときだけじゃない。今日も、なんですよ。たとえ、始まりはそうだったとしても……そのことに変わりはありません」
白銀君が、そっと目を伏せる。
「……お互い、そう簡単に割り切れぬものですね」
立ち上がった彼の手に引っ張られる形で、水珠も立った。
「そういえば、水珠、仙道助手は先に行ってしまいましたが」
「お夕飯を頂こうかと思いまして」
「それは……呼び止めてしまって、すみません。この数日、あまり食べてませんでしたしね。本当に、そういう気になってくれて、良かった」
「ご心配をおかけてして……」
分かれ道までの短い間、ふたりは並んで、廊下を行く。
「……白銀君さま、訊いても良いですか?」
「なんでしょう?」
「どうして、わたしだったんですか?」
彼は、いつもの調子で即答した。
「守りたいものがあるからです。それを助けたいと思うのは、当然でしょう」
「……わたしでも、白銀君さまをお助けできるでしょうか」
卑怯な問いだ。
水珠は、空っぽの胃がきゅうっと鳴るのを聞いた。
彼が、それには軽々に答えられないなんて、わかっている。
それでも、答えてくれたのなら、それは一押しになった。
踏み出せない一歩を歩き出すきっかけに、間違いなく、なったのだ。
だからこそ――彼は答えない。
「まだ、時間はありますから」
その師の優しさが、誠実さが、今は切なかった。
やっぱり期待されてはいないのか、と。
やっぱり、いてもいなくても同じなのか、と。
頭では、心配されているとわかっていても……。
「それでは、私はこちらですので」
「あ、はい。おやすみなさい、白銀君さま」
「ええ。また明日」




