第53話 朝霞村妖虎事件後
生家の外で水珠はそわそわしていた。
澄泥に「大丈夫ですわよ」と三度言われても、一向に落ち着く様子はなかった。
彼女は数時間前まで、大仁を死なせてしまったことで居た堪れなくなり、崑崙を飛び出して故郷の里山で隠者になるつもりでいた。
だが生家の屋根を有翼虎が突き破るのを目の当たりにしては、それどころではなくなった。
その妖虎の爪で父は胸を、牙で母は肩を、傷つけられはしたものの命に別状はなかった。
両親いわく、雪梅が突然、有翼虎になった、と。
水珠はふたりの応急処置をして、すぐ妖虎を追った。
捕らえるのは容易かったが、どうしたものか。
悩んでいると、白銀君の指示を受けた澄泥が、駆け付けてくれたのだ。
彼女の花剣がなければ、妹に憑依した虎の対処は難しかったろう。
無事にそれを斬り払った水珠は、三指仙を呼んで両親と妹を診察してもらっているのだった。
三本の指で脈を診れば、当人の自覚なき病すら見通す名医である。
長い白髭を蓄えた医仙は、間もなく家から出てきた。
「ご両親のほうは傷を縫い、塗り薬を与えました。三日もすれば糸は消えるでしょう。七日間、しっかりと塗れば、痕も残りはしますまい」
胸を撫でおろす水珠。
「また、父君は腰が、母君は肝臓が良くありません。三年後には自覚症状も出るでしょうから、今のうちに薬を与えておきました。それから一つ、気になることが」
「なんでしょう?」
「ご両親には記憶の欠如、あるいは改変があるようです」
水珠は「あぁ」と相槌を打って、簡単に事情を説明した。
「そういうことでしたか。……ふむ。申し訳ない。今の私には手に負えぬようだ」
「いえいえ! それより妹、雪梅の容体は」
「まだ眠っておりますが、向こう十年は健康でしょう」
「良かったぁ! 三指仙さま、なにからなにまで……」
「では。私は一足先に戻らせてもらおう。君も体に気をつけるように」
「お忙しいところ、本当にありがとうございました!」
さて、と澄泥が申し訳なさそうな顔で言った。
「せめて一目会ったら、と言いたいところですけれど」
「ううん。まだ眠ってるみたいだし……また機会はあるよ、生きている限り」
三指仙を待つ間に、黄金君から通達があったのだ。
話すべきことがあるから帰還するように、と。
◇
それは、あまりにも荒唐無稽な話だった。
花剣道士の真の役割はともかく、師たちが追っているという男が書き残したものは、にわかには信じられない。
ゆえに白銀君も言うのだろう。
「考えても詮無いことです、水珠」
「そ、そうですね」
この身ばかりか、この世のあらゆるものに大いなる存在の意志が宿っており、幻肢の痛みに悶え苦しんで叫び声をあげ続けているだなんて、その声の聞こえない者にとっては、黒鉄君や壮の言うように、世迷言と断じて然るべき話だ。
ただ、神仙や魑魅魍魎といった人智を越えた存在がある以上、宇宙の大元に、その大いなる存在があったとしても、不思議ではない――いや、その存在あるがゆえに、今、人智を越えたものがあるという因果には、腹落ちするものではあった。
真実であるならば、だが。
「さて」
黄金君が口を開き
「貴様らには、奴の討伐に協力して欲しい」
壮が訝しむ。
「出くわすだけで良かったんじゃあ?」
「それは、もはや済んだと言えよう。水珠と、大仁のおかげで、な」
突然、自分の名前を出されて、水珠は思わずビクッと肩を弾ませた。
黄金君が、青錫君に目配せする。
「山羊樹人――というか、怪樹はやはり赤銅君の関与したものだった。ほぼ、間違いないわ。占いも、答えにまるでブレがないくらいだもの」
水珠は、おずおずと問うた。
「山羊樹人は……生きているんですか?」
あの後、倒さなかったのか、仙人ならば容易いはずだ、と。
そう責めるつもりはなかったのだが、眼帯の仙女は申し訳なさそうな顔をして、
「あのとき、康康ちゃんたちから、ざっくり聞かされて、まず思い浮かんだのが、彼の日記にあった異星の種のことだったわ。もしもそうなら、その逃げる先には彼がいるのではないか。ゆえに、わたしは追跡を程々に切り上げて、ここに帰還したの。彼が逃げに徹したら、わたし一人じゃ捕まえられないし、山羊樹人もいる……他にも仲間や手下を作ってるかも」
「そう、ですか。生きてるんだ」
「それでね、白銀君が花剣にかけた追跡術の途切れた場所と、わたしの占いを照らし合わせたところ、共に索冥府だった。加えて山羊樹人と赤銅君の関係性も、ほぼ確実。このことから、あの日までは、彼も索冥にいたと見られるわ」
「あの日までは、ですの?」
澄泥の言葉に黄金君が頷いた。
「僕様たちが索冥に乗り込んでみたときには、すでに奴の存在は消えていた。まあ、青錫君は特徴的だからな。眼帯が」
「……でも」
と水珠。
「あの山羊、言葉を喋れるかどうかはわかりませんよ」
白銀君が言った。
「記憶を覗く術や、人ならざる者と意思疎通する術などもありますから」
「ただの犬とか猫とかにすれば良いのに」
今度は壮が問う。
「それじゃあ、討伐ってのは、いつになるんです? 百年後ですか?」
「四日後だ。黄頂山で決着をつける」
「隠遁してねえじゃないすか」
「そうだ。最初は雲隠れしたものだと思ったし、事実、現在の居場所はわからぬまま」
けれど――と、青錫君が後を継ぐ。
「四日後には黄頂山にいる。これは、わたしの占いに現れ、何度やっても違う答えが出ないわ。これまで何度も、彼の居場所を占ってきたけれど、こうも確かなのは、本当にはじめてよ。いよいよとなったら、未来視を使うつもりでいたんだけどねぇ。必要なくなっちゃった」
「とは言え、貴様らには赤銅君と戦ってもらうわけではない。露払いだ」
山羊樹人や、他にもいるかもしれない仲間や手下の対処。
それを求められていることは、その一言で理解できた。
「だが、強制するつもりはない。しばらく考えろ」
最後に彼はそう言って、ひとまず、この場はお開きとなった。




