第50話 回天返日
水珠は屋根から降りる。村長と何人かが、家から出てきていた。
不安そうな彼らに向かって、花剣道士は笑みを浮かべて大嘘をのたまう。
「大丈夫! この揺れは、仙人さまたちが戦ってる証です! 戦いは拮抗しているようですが、いずれは、我が師たちが勝つでしょう!」
中へ戻るよう促した後、不意に、羽衣が金色の光を発した。
何事かと思っているうちに、それは水珠の意志とは無関係に揺らめき、地面になにか文字を刻む。
たった三文字だけ――青崖島、と。
それは遥か東の海に浮かぶ島であり、黄頂山などを含む五岳の一つでもある。
「し、心心、これは?」
「いえ、あたしはなにも……」
「だよね。でも、黄金君さまのことだから」
「ええ。きっと、なにかあります! それも今になって、発動するような仕込みですから」
「逆転する、なにかが。そう期待しても、良いよね?」
「はい! これで大したものじゃなかったら、鼻を噛み千切ってやりますよ!」
水珠は、長く、短く、息を吐く。
それから頬を両手で、ぴしゃん、と叩いた。
村長の家の戸を開けて、まずは雪梅を呼ぶ。
「おねえちゃん、どうしたの? なにかあった?」
妹の腰をそっと抱き寄せる。
そして皆に向かって、言った。
「わたしは、ここを離れなくてはならなくなりました」
ざわめく村人たちを、村長がなだめて、
「理由があるのだろう?」
「この世界を救うために。仙人さまは、手が空かないので、誰かが行かなくてはなりません」
「ならば、仕方ないな。後のことは私に任せなさい」
「お願いします。必ず……必ずや、この危機を止めてみせます」
妹がぎゅっと抱きついてくる。
「帰ってくるよね?」
「もちろん。なにもかも終わったら、なにか、おいしいものでも食べよう」
「……うん!」
最後に彼女の涙を指で拭い取って、水珠は腰の帯を締め直し、靴も履き直した。
「それじゃ、行ってくるね!」
東へ。空高く飛び上がり、一直線に目指す。
村にいるときはわからなかったが、想像以上に世界は様変わりしていた。
天と地を繋ぐ無数の柱は昨日も見たものだが、その太さは二回りも三回りも増しているようだった。
町や村のあったはずの場所に、それはあった。
仮に怪樹から免れても魑魅魍魎に襲われれば、やはり無事では済まない。
いずれにしても、見て見ぬふりをしなければならないのは、辛かった
黄頂山に近づくつもりはないが、その進路の都合上、南側を通ることになる。
遠目に見えてきたそれに、彼女は思わず立ち止まった。
山は、山でなくなっていた。手足の生えた、巨大な樹が生えている。
その大樹には、五色の光が人の形を取ったとしか言いようのない巨人と、山ほどに大きい人面の蛇が、組み付いているのか、取り込まれているのか、していた。
「心心、あれ、わかる?」
「いえ……まったく。巨人のほうは、もしかしたら、五色の麒麟なのかな、とは思いますが」
「え。あ、あー、色がね、うん。なるほど」
「すみません。突拍子もないことを言って」
「ちょっとね、驚いたけど。言われてみれば、わかるよ」
「蛇は……共工、ですかね。でも、あれって退治されてますし、やっぱり違うかも」
「その後、山になった話なかったっけ。授業でやった気する」
とりあえず、大樹を排除する意志がある点では、味方と言えなくもないだろう。
もっとも、どちらも動かないから、すでに、やられてしまったのかもしれないが。
一人と一匹は息を潜めるようにして再び東に向かい始めた。
途中、大地を大きく抉った跡を見た。
黄頂山の方へと、蛇行するような跡だった。
いくつかの血溜まりも、そこにはあった。
ある街道には、逃げ場所を求めて故郷を発った一団が、列を成していた。
彼らはことごとく、木に吊り下がっていた。地震のために小刻みに揺れていた。
年端のいかない幼子が、自ら首を括ることがあろうか。
そうせねばならない心境に至った、両親の絶望はどれほどだっただろう。
水珠は、一度、深呼吸をして、前を向いた。
「お嬢、もう少しですよ。ほら……海が見えてきました」
青崖島は、天元国の東海に浮かぶ有人島である。
断崖絶壁を擁し、亥州からは垂直三角形のように見える。
今や、樹の傘は地球全土にまで広がっている。
船に乗って果てしない逃避行に出て、その絶望を味わうよりは、生まれ育った地で一心不乱に天地神霊に祈りを捧げるほうが、心の上では救われるだろうか。
彼らにとって、天を行く水珠はまさしく、救いの女神に見えたに違いない。
果たして、その思いに応えることはできるだろうか。
山の麓の森に降りる。
すると羽衣はまた勝手に揺らめいて、進むべき方向を示してくれた。
その通りに行くと、やがて開けた空間に出た。
まず目に飛び込んできたのは、へし折れた木々だった。
それはところどころ、焦げ跡がある。
また、周囲の地面には血痕が多々、散っている。
明らかに激しい戦闘が行われた痕跡だった。
それも、ついさっきのことだ。
白鼬が「あれは!」と言って懐から飛び降りた。
後を追えば、見覚えのある青い花が茂みに乗っていた。
「お嬢、これが、ここにあるってことは」
「誰かが山羊樹人を倒したんだ。そして」
水珠は、地面にぽっかり空いた洞穴に目を遣った。
羽衣の指し示す先は、これだ。
光を灯す術を発動させ、ひとりがようやく通れる程度の狭い穴を、腰を少し屈めながら、進んでいく。
あの山羊樹人もきっと、青い花に導かれて、この島にやってきたのだろう。
それを討った――と思われる――者もまた、そうに違いなかった。
ふたりのうち、どちらか。
あるいは、両方だ。
だからこそ水珠の顔は曇った。
導くように地面には、血が引き摺られてのだ。
それも、まだ乾ききっていないうえに、夥しいと言って良い量だ。
(これじゃ……たぶん……)
明かりの先に、ふと、影が現れる。
それは地面に倒れ込んでいた。
水珠は飲んだ息を、静かに、吐いて、近づいていく。
どうやら腹に風穴を開けられたらしい。
治療の必要は、もう、なかった。
彼はそれでも世界の希望のために、ここまで這って来たのだ。
水珠は両手を合わせて、一度だけ、涙を流した。
「お疲れさま、壮くん」
行き止まりには『金貝入室』と刻まれていた。
水珠は羽衣を、白き花の姿に戻す。
その黄金君の宝貝を文字の上にかざしてみた瞬間、景色が変わった。
暗い洞窟から、明るい部屋に転移させられたのだ。
そこは床も壁も天井も大理石で、中央に金色の球体を乗せた台座だけがあった。
その台座には『回天返日』と刻まれている。
「心心こ、わかる?」
肩の相棒は戸惑いと興奮混じりに答えた。
「た、たしか、時間を巻き戻す術ですよ!」
「あぁ、そういう感じね」
「反応薄っ!」
「だってねぇ」
世界がここまで切羽詰まった、未曽有の窮地に陥って初めて、存在を知らされたくらいだ。
あの怪樹を一撃で屠るか、世界を修復するか、そういう軽々には使えない宝貝だとは予想していた。
思ったよりは強大だが、ひっくり返る程のものではない。
「それじゃ、巻き戻そうか」
台座の上に、わずかに浮かんで佇む球体に触れた途端、その隣に少年が現れた。
白鼬がちっちゃな目をまんまるにする。
「黄金君さま!? 生きていらしたんですか!?」
「待って、心心。向こうが透けて見える。幽霊だよ」
彼は肩をすくめて、そのどちらも否定した。
「この僕様は、宝貝の説明役として現れるように設定された、残留思念だ」
「じゃあ、外の様子とかは」
「本体との共有は月に一度。今月はまだだが……水珠、貴様が来たということは赤銅君の奴が遂にやらかした、ということだろう。そして本体がいないということは、最悪の事態だ」
白鼬が鼻息荒く、
「そうですよ! 世界はもう、終わりです! でも、この宝貝があたしの知っている通りなら、どうにかなりますよね? これは時を巻き戻すんですよね!?」
「その通り。これは時を巻き戻し、歴史を改変する術――回天返日を宝貝で再現できるようにしたものである。我が師の、そのまた師が生み出した傑作だ」
だが、と彼は眉をひそめた。
「傑作にも程があった。なにせ回天返日は、天帝の命で十人以上の神仙が行うもの。それを、これは簡単に再現できてしまうのだからな」
白鼬が首を傾げる。それのなにが悪いのか、と。
「凄いことじゃないですか!」
「そうだね」
と水珠。
「あまりにも簡単に時を戻せてしまう。天に逆らう、凄い宝貝だよ」
「あっ」
黄金君が頷いた。
「ゆえに、宝貝は破壊され、設計図も破棄され、開発者は、その才を買われて天界に上がった。上がらされたと言うべきか。監視下に置きたい、というのが本意に違いないからな」
「……あれ?」
白鼬は余計に首を傾げた。
「じゃあ、この宝貝は?」
「破棄せよと命じられて、その通りにするようなら開発もしないさ。日記に偽装した設計図を我が師に残していた。僕様でなければ、その暗号は解けなかっただろうがな」
「流石ですね、黄金君さま! その無法っぷりのおかげで世界が救えます!」




