第49話 終焉
得も言われぬ悪寒に、水珠は飛び起きた。
「うぅん……おねえちゃん?」
雪梅を起こしてしまったことにも、気を払っていられない。
あまりにも大きな力を持ったなにかが、そこかしこに現れたとしか思えなかった。
妖怪でも、神仏でもない。禍々しさも、神々しさも感じない。
ただ、その強大な存在感だけで内臓が縮み上がるようだった。
白鼬が籠の中から顔を出す。
「お嬢! なんか……なんか、毛が逆立ってしょうがないですよ!」
外から悲鳴が聞こえた。
水珠は花剣を羽衣に変じて家を飛び出した。
「――な、なにこれ!?」
空一面が深い緑色に覆われている。
見渡す限り、四方八方、彼方まで、どこまでも。
おぞましき光景に立ち尽くしていると、白鼬と雪梅も家から出てきた。
「うわっ!? おねえちゃん、なにこれ!?」
「ま、まだ、わからない。けど、雪梅のことは守るからね!」
「お嬢! 今、黄金君さまから連絡が!」
「なんて!?」
「あ、足手まといだから、黄頂山には来るな。己の為すべきことを為せ、と。道士全員に」
水珠は拳を握り締める。彼の指示は、実に的確だと思う。
世界の危機を前に、力量不足がどうとか、恩とか罪とか、呑気なことを言ってはいられない。
おのおのが、為すべきことを為すしかない――その通りだ。
(わたしの為すべきことは……)
「おねえちゃん!」
指差すほうを見上げれば、太い枝が葉をさざめかせながら、村に降りてくるところだった。
水珠はすかさず飛翔する。
(白銀君さまの結界が守ってくれている! けど、どれくらい持つ!?)
わからぬ以上、揺蕩う槍でひとまず斬り払っておくに越したことはないだろう。
「よし、でかくなったって、たいして硬くはなってない」
見渡せば、至るところに枝は降りてこようとしていた。
そうなった場所で、なにが起きているかまでは窺い知れないが、良いことのはずはない。
「ん、あれは?」
西から白い光が、地に降る枝を断ち切るようにしながら飛んでくる。
それは奇しくも水珠の傍を通った。
白銀色に輝く毛と鱗に覆われた、馬に似た姿をしていた。
しかし、馬ではない。体はもっと大きいし、顔は龍のようで、その額からは一角が生えている。それは背筋に生える立派なたてがみを靡かせながら空を駆けていった。
きっと東は、黄頂山を目指しているに違いない。
水珠が地上に降り立つと、雪梅は目を輝かせて問うた。
「い、今の見た!? なにあれ!? おねえちゃん、知ってる!?」
「索冥だよ。初めて見た。ね、心心」
「はい。白い麒麟は、西方を司る護国の聖獣です。畏れ多くて毛が抜けるかと思いましたよ!」
雪梅は「腰じゃないんだねえ」と言って、それから笑みを見せた。
「それじゃあ、大丈夫だよね?」
白鼬が力強く頷く。
「そうですよ! 五匹の聖獣がきっと」
水珠も頷いてはみせたが、不安のほうがまだ勝る。
(護国の聖獣は金沙の侵略の折には姿を見せていない。花剣道士と同様に、人の身では抗えぬ脅威に対してのみ現れてくれる、ということなんだろうけど……問題はそれじゃなくって)
今回の脅威たる怪樹が脅かしているのは、この国だけではない。
そのことが水珠は引っ掛かっていた。
(世界どころか、宇宙にまで及ばんとしている脅威を、護国の聖獣で退けられるものなの?)
そうであれば良い。あるいは、もっと強大な聖獣でも出現してくれれば、良い。
この際、邪な存在であっても、今より悪いことにはならないのではないかとさえ思う。
だが、大怪樹が、なんであっても、とうてい敵わぬほどの力を有しているのなら……。
(わたしの為すべきことって、なに!?)
水珠は、また天を仰いだ。
黒々とした幹が結界を突き破らんとしている。
(澄泥ちゃんや、壮さんは今、なにをしている? やっぱり戦ってる? 無辜の民のために)
不意に手を握られ、驚いた。
雪梅だった。不安な顔で、窺うようにしていた。
「大丈夫、なんだよね?」
気付けば村人たちの多くが外に出てきており、同じように見つめてきていた。
水珠は「うん」と頷き、今度こそ、しっかりと微笑む。
「白銀君さまが守ってくれる。わたしも、いる」
為すべきことがあるとしたら、それはたった一つだと、今わかった。
そのときまで、妹を、そして彼らを、勇気づけ、励まし続けることだ。
世界が終わるか、助かるか、そのどちらかのときが来るまで。
水珠は、ふわりと浮かび上がって、村中に聞こえるように術を喉に掛け、声を張り上げた。
「みんな! 今に我が師、白銀君が事態を治めてくれる! それからさっき、白い一角の馬が東に飛んでいくのを見た人もいるよね? あれは神獣、吉兆だから安心して!」
結界を突く枝を、一つ二つと斬り結び、
「みんな、村長の家と、その周りの家に避難しよう! 慌てないで、我が師の結界は頑丈だ!」
一旦降りて、白鼬を懐に招き入れると、妹をまず村長の家まで導いた。
それから村中を飛び回り、とにかく今は人々ができるだけ一まとめになるように促す。もしも結界が破られたときには、そのほうが守りやすい。
その最中、村の外れのほうから女性の悲鳴が聞こえた。
白鼬が鼻をひくつかせて言うには、妖怪が現れた、と。
急行すれば、確かに、結界の外側に四本腕の猿めいた異形の群れがいた。
四十はいるか。たとえ入っては来ずとも、これでは腰を抜かしてしまっても無理はない。
彼女のことは、その夫に任せて水珠は妖怪たちを火の玉で威嚇する。
すると彼らは、ここは諦めたのか、山に引っ込んでいった。
(世界が終わるかもしれないんだもんね、妖怪だって普通ではいられないか)
とは言え、もしも結界がなかったらと思うと、背筋の凍る思いだ。
この辺りに力の強大なものはいないだろうが、数で攻められたらわからない。
「枝だけでなく、妖怪からも結界を守らないと……!」
水珠は、とにかく飛び続けた。
村の隅から隅まで警戒の目を走らせ、時折、侵入を試みる人ならざるものあれば、退かせるか、斬り伏せるかした。
太陽は見えず、薄暗さがずっと続く。
どれだけの時間が経ったのかは、腹の虫のみが教えてくれる。
食料は、村人の中から力自慢何人かで、各家から回収してもらった。
その頃になると、どういうわけか枝葉が結界を脅かす回数はうんと減り、妖怪も、近辺のものは機を窺っているのか、それとも、いずこへと逃げ出したのか、ともかく現れなくなってきた。
空は相変わらずだが、そうした状況を村人たちに伝えると、だいぶ笑顔を見られた。
それ以上の好転はないまま、薄闇は濃くなっていった。
白鼬が自ら術でもって体を光らせる。温かな灯りだった。
仙人たちはどうなったのだろう。連絡はずっとない。今も戦っているのだろうか。
それとも、青錫君のように、離反してしまったのだろうか。
あるいは、もう死んだのか。仙人は不老不死と言われるが、それは寿命がなくなっただけに過ぎず、殺せるものだ。
(流石に疲れたな。精神的にも。頭が暗くなってる。寝れるうちに寝よう)
水珠は村長の家の屋根の上で座ったまま眠る。
白鼬には、いつもの籠を持って来た。
彼女も疲れたのだろう。すぐに寝息を立て始めた。
しかし、少しでも害意を感じれば目を覚ますことだろう。
眠りは極めて浅いものだった。
ゆえに家の戸が開いても反応した。
さっと舞い降りてみれば、それは雪梅だった。
「眠れない?」
「うん……。おねえちゃんは、ずっと起きてるんでしょ? だから、あたしも」
そう言いつつも、すでに目元はとろんとしている。
「ずっとじゃないよ。ちょっとは寝てる」
「そうなの? ごめん。起こしちゃった?」
「今は、起きてたところだから。雪梅、こういうときこそ寝ないと」
水珠が頭を撫でてやると、彼女はその動きに合わせてふらふらっと揺れた。
「おやすみ、雪梅」
そういえば、今日はまだ、これを言っていなかった。
この異常事態だ、たった一つでも、いつも通りの部分を求めていたのかもしれない。
雪梅は「おやすみ、おねえちゃん」と、ふにゃふにゃした笑みを浮かべ、家に戻っていった。
その晩は、結局、これといった問題は起きなかった。
おかげで水珠は、思ったよりも睡眠に時間を回すことができた。
目覚めは突然だった。
朝日が顔を照らす直前に、大地が意識を揺らした。
とても、かすかな揺れだ。
森から鳥や、虫、羽ある妖怪が一斉に飛び立つ。
地震と思ったが、それは大きくなるでもなければ、止まるでもない。
十秒、三十秒、一分と時が過ぎると、家の中からはいよいよ不安の声が漏れ聞こえてくる。
水珠は屋根の上から言った。
「みんな、落ち着いて! 結界は大丈夫だから」
その目は、朝日に細められながら、森をじっと見ていた。
なにか違和感がある。この揺れと同じく、かすかな違和感。
その正体に気付いたのは、白鼬だった。
「お、お嬢! 動いてます! 木が、動いてます!」
「あっ!」
水珠は飛翔し、辺りを見回した。
森だけではない、山も、家も動いている。
本当に少しずつだが確かに、東に向かって動いている。
いや、それは正確ではない。
木も山も倒れたり崩れたりするわけでもなく、そのままの姿で、横滑りするように動いているのだ。
ならば、真に動いているのは、大地のほうだろう。
それが怪樹の仕業だということは、疑うまでもない。
「一つに、する気なんだ」
森羅万象に宿るという、大いなる意識を集約し、正しく産み直すつもりなのだ。
途方もない想像を、水珠は今、実感していた。
「お、お嬢! どうします!? どうしたら、って、あたし如きが言うことではないですけど!」
「落ち着いて、心心。落ち着こうよ。わたしたちが取り乱したら、みんなも、駄目になる」
せめて最期のときは、穏やかに過ごしてもらいたい。こうなっては、とても難しいことではあるが、己の為すべきことは、それしかない。
なにより、雪梅に、絶望の中で死んで欲しくはなかった。
「お嬢……」
「ごめんね、心心。最期は家族のもとで過ごしたかったでしょ」
彼女は小さな瞳を潤ませ、首を横に振る。
「なに言ってるんですか。お嬢といられて幸せものですよ」
「そう? なら、良かった」
「それにね、お嬢。まだ悲観することありませんよ! 天帝さまだっているんですし!」
「……うん、そうだね」
白鼬も本気で思ってはいないだろう。
それができるなら、とっくに、しているはずだ。
(この世の誰が、大いなる叫びとやらを聞くか、わからない。その悶え苦しむ声に心を寄せてしまうか、わからない。ならば天界も、それこそ天帝さまも。……だから今も、揺れは続いている)
希望は、もはや潰えたのだ。




